自民一極集中が政治腐敗の根源

2006-11-14 05:20:20 | Weblog

 前福島県知事佐藤栄佐久は1988年9月に福島県知事選当選から、実弟の県政に関わる汚職事件の道義的責任を取って今年2006年9月27日に辞職し、10月に入って本人も関係していた容疑で逮捕されたが、5期連続当選の長期に亘った末の破局である。表面的に見れば、長期権力は腐敗するの譬えを見事に実践した形となるのだが、実際はそうはいかないところに難しい問題がある。

 先月の10月28日土曜日だと思ったが、テレビで民主党議員が多選禁止を制度化すべきだと主張していたのに対して、自民党の桝添要一が、民意で選ばれるのであって、法律で禁止となると、民意無視になる。誰を選ぶのかは民意が決めることで、民意にも責任がある。地方へ行くと10年とか15年とか町長をやっていて、あの人でなければダメだというケースもあるのだから、一律的に法律で禁止することには反対だ、といったことを喋って法制化反対・民意重視論をぶち上げていた。

一方「連続5期を務めた前の福島県知事が逮捕されるなど、一人の知事が何度も選挙で選ばれることへの批判が強まっていることについて、自民党・中川幹事長は1日(11月)、来週にも党で一定の結論を出す考えを示した。
 自民党では、知事の任期を3期までに法律で制限することや、4期以上を目指す候補には党の推薦を出さないなどの案が出ている」と11月2日(06年)の日テレ24時間テレビが伝えていた。

 桝添の言う「民意」とはどのようなものだろうか。辞書で調べてみると、「国民の意思。人民の意志」(『大辞林』三省堂)と出ている。国や社会の形成は政治家によって主導される。だが、その政治家を政治家足らしめるのは国民の選挙を通してである。いわば桝添が言うように「民意」が政治家を決定する。となると、基本的には国や社会の姿は民意をスタートラインとして民意の選択を受けた政治家が官僚や学者・知識人といった協力者を得て民意を形にしていくと言える。政治家という仲介者が存在するものの、国や社会を形成するそもそもの原動力は民意であろう。民意に反する国の形・社会の形であったなら、そのような形を取った責任のある政治家を次の選挙で落選させる民意の働かせによって排斥すればいい。

 政治家は党派の政策に従って行動する。あるいは影響を受けて行動する。党派とは政策利害を同じくする政治家同士が形成する集団であり、その成員たる個々の政治家は集団の制約を受けるからである。政治家を政治家足らしめるのが民意であるなら、党派の選択を俯瞰することによって、逆に民意の方向を知ることができる。

 この原理を自民党296議席・公明党31議席(与党合計327議席)・民主党113議席(前回減64議席)といった与党圧勝の絶対安定多数の形で表された昨年05年の9月11日総選挙に当てはめて民意を解くと、是非は別として、この選挙結果は小泉構造改革に対する国民の信任の形で表された民意であろう。民意は自民党政権の小泉構造改革に絶対的信頼を寄せた。そのことは小泉内閣の支持率の推移によっても証明されている。

 最初に挙げた佐藤栄佐久前福島県知事の場合の選挙に関する民意はそもそもは自民党参議院議員からの転出ということで、自民党という党派の選択から出発して、5選という同一人物の当選の積み重ねの形で表されたものだろう。当然最大公約数の民意は県知事にふさわしいと見て5期県政を託したということだろうが、例え無所属を名乗っていたとしても、基本は自民党という党派への信頼が民意選択の土台を成していたに違いない。

 対して託された側は、「90年代初めの時期までは、仙台市を拠点とするゼネコン東北支店の談合組織に対し、同県(福島県)発注工事の受注業者を指名する、前知事自身の意向が伝えられ」(『佐藤前知事、93年まで「天の声」 汚職事件機に中止』/06.10.25.08:14.asahi.com)ていたが、「93年に特捜部がゼネコン汚職を摘発し、当時の仙台市長や宮城県知事などを次々と逮捕」され、「この事件をきっかけに、福島県では前知事による『天の声』が出されることがなくなった。代わりに、実弟の前社長が、ゼネコンの受注調整に介入し、発言力を強めていったという」(同記事)から、1988年に初当選して1期目終了の1992年前後から談合に関わる『天の声』を発していたことになる。それとも当選早々からだろうか。

 以上の経緯は前知事は長期政権とまで行かない初当選から早い段階で民意を裏切っていたことを証明している。長期権力は腐敗するの譬えを民意が選挙に生かしていたとしても、前知事の腐敗を途中で断ち切ることはできただろうが、腐敗の発生そのものは防げなかった。

 佐藤栄佐久が県知事選に初立候補した時点で有権者に人物を見る目がなかったというわけではない。その前の経歴は地元の福島県出身、東大卒で日本商工会議所副会頭を務め、1983年参議院に当選、参議院議員からの転進で知事選に立候補しているのである。どこから見ても非の打ち所はない立派な経歴の持ち主に見える。自民党の要職にある国会議員も選挙応援に駆けつけただろう。その上民意が知るよしもない暗い場所で政・官の犯罪はこっそりと隠れて行われる。佐藤栄佐久を取り巻く政治家・役人はその人となりを直接的に知ることができても、有権者はマスコミの報道で初めて実際の人柄を知る。人柄など人前ではいくらでも装えるからだ。だからこそ、民意は党派を選択の基準とする。人物で決めるなどという基準は、余程身近に接した人間でなければできない芸当だろう。長年結婚生活を続けていながら、夫が毎晩遅くまで残業していると思っていたのが、コインロッカーに預けてある女性の衣装を着て夜な夜なハーフレディの店に出入りしていたといった隠れた面に長年気づかないでいるといったこともあるくらいである。

 長期政権でなくても腐敗するとなると、すべての政治家を疑ってかかることを習慣としなければならない。日本人性善説ならぬ、政治家性悪説でかかったほうが、無難ということになる。その〝無難〟を形にするとしたら、4年ごとに他の候補者にクビをすげ替えていくということだろう。任期終了ごとに常に政権交代を心掛ける以外に少なくとも4年以上の政治腐敗は防ぐ方法がないということになる。

 だが、例えそのような基準で以てクビのすげ替えを行ったとしても、民意は党派を基準とする選択を行わざるを得ないに違いない。前科がなければ、その人物の犯罪性を知ることができないからだし、基準は党派が掲げる政策だろうからである。

 党派選択を国政で見てみると、少なくとも国政に於いては大きな政治転換点に遭遇するたびに変化を選択した場合の生活を脅かす恐れから生活保守主義の穴熊と化して、民意は自民党政権維持という常に無難な道を取る党派選択できた。

 では国政を離れて地方政治に於いてはどのような党派選択が行われているのだろうか。選択状況を俯瞰することによって、逆に民意の方向を探ることができる。

 中央集権国家の日本に於いては、いわば地方が中央に対して独立していない、独立とは反対の従属している社会に於いては、国政に於ける戦後以来の自民党一党支配状態を受け継いで自民党国会議員の数に対応して地方に向かう程に逆ピラミッドの人数を取るのが当然の姿であろう。そのような形を取らないとしたら、中央集権国家と言えなくなるし、小泉自民党が三位一体改革と称して地方の中央からの独立を掲げたそもそもの意味まで失う。

 ということは民意自体が中央集権的であることを証明している。日本人が上が下を従わせ、下が上に従う権威主義を行動様式としていることからの民意が選択した中央集権制ということだろう。

 総務省調査による平成16年12月31日現在在職する者に関わる各々の立候補の届出時の県知事の所属党派を見てみると、全員がどの政党にも属さない無所属となっている。佐藤栄佐久前福島県知事も無所属の立候補であった。

 実際にどの政党にも属さない存在であったなら、日本という全体社会と各地方社会は政治的に何らつながりのない二重構造の政治社会ということになり、中央集権制を裏切る政治体制となる。本来は自民党に所属していたか、自民党の推薦を受けて立候補・当選した保守系が多数を占める無所属であろう。そうであることによって国政の自民党支配による中央集権制は整合性を保つことが可能となる。

 このことは民主党以下の野党の地方に於ける人材不足から選択せざるを得ない相乗りの場合は自民党を名乗らないで貰った方が都合がよいことと、立候補者にしても広く県民の支持を受けたという形を取るために自民党の名前を隠した方が都合がいい双方の利害の一致が無所属を名乗るといった傾向を生じせしめている理由の一つでもあるに違いない。佐藤栄佐久前知事の汚職辞任を受けた出直し選挙でも当選した佐藤氏は無所属立候補であるが、実質的には民主党の支援を受けた党派候補である。「民主、社民両党からの推薦を受けたが、『県民党』を強調し、『党派色を薄める』という戦略をとった」(06.11.13.「朝日」夕刊『党派色薄め「脱よどみ」 福島県知事選))と広く県民の支持を受ける形を取っているが、有権者は佐藤前知事の汚職に対する自民党をも含めた懲罰から、対立する民主党という党派を選択した選挙結果であるはずである。

 一方県議会議員の所属党派を同じ総務省調査で見てみると、自民党が最も多い1,403人(49.8%)、次いで無所属の699人(24.8%)、民主党の227人(8.1%)、公明党の203人(7.2%)、日本共産党の127人(4.5%)、社会民主党の74人(2.6%)となっている。

 但し、中央の勢力分布と比較対照して中央集権制の力学を当てはめた場合、ここでの無所属もその圧倒的多数は保守系と見なければならない。民主党以下の野党としたら、地方に於ける自己の勢力を誇示するためには少しでも多くそれぞれの政党名を名乗る必要があるだろうから、無所属を名乗る場合は例外といった事情があっての無所属であろう。

 同じ調査による市区町村長の党派は無所属が2,936人(99.9%)と圧倒的に多く、党派に所属しているのはたったの3人(自由民主党2人、諸派1人)のみである。明らかに自民党隠しが一般化していると言える。

 次いで党派別市区町村議会議員数を挙げてみると、次のようになっている。

 ①無所属43,473人(80.3%)
 ②日本共産党3,865人(7.1%)
 ③公明党3,161人(5.8%)
 ④自由民主党2,018人(3.7%)
 ⑤民主党749人(1.4%)
 ⑥社民党559人(1.0%)

 2位以下が10%以内にとどまっているのに対して、1位の無所属議員が80.3%という高い確率を占めている。これは県知事や市区町村長の所属党派分布に対応する趨勢であろう。

 県議会議員のみ自民党所属が第1位を占めるのは、これはあくまでも推測だが、一つには県会議員を国会議員へのステップと考えているからではないだろうか。地元選出の自民党国会議員の系列に入り、その庇護を受けて上へのチャンスを窺うには自民党に所属し、自民党を名乗った方が都合がいいだろうからである。

 二つ目は地元で勢力を張るには同じ地元選出の自民党国会議員の影響力を利用する都合上、(悪く言えば虎の威を借りる都合上)同じ自民党に所属し、自民党を名乗る必要が生じるからであろう。

 一方党派別市区町村議会議員数に於ける無所属80.3%の独占は市区町村議員止まりを人生の目標としている政治家が多数を占める結果ではないだろうか。しかし隠れ自民党でありながら無所属という曖昧化は殊更な敬語の多用で自己を装うのと同じレベルの奇麗事に思えて仕方がない。

 地方に於けるこのような自民党支配は政治家を政治家足らしめるのは選挙を通した民意の結果でもあるものだから、民意が選択した自民党長期支配であり、民意がそのような支配状況を許していることを示している。と言うことは、民意が国政に於けるのと同様に地方に於いても自民党長期支配の現状維持を望んでいるとも言える。この全体性は権威主義の力学を受けた中央集権制の当然の構図としてあるものだろ。

 このように民意を通して国政に於ける自民党一党独裁と同じく地方に於いても隠れ自民党たる無所属を含めて自民党一党独裁状態となっているとすると、自民党が「知事の任期を3期までに法律で制限することや、4期以上を目指す候補には党の推薦を出さない」を例え党の決定事項としたとしても、地方に占める無所属の隠れ自民党の意志が中央の「推薦を出さない」意志に反して「4期以上を目指す候補」を支持したなら、中央の「推薦を出さない」は単なる形式で終わる。形式で終わらせないためには自民党が党推薦として別の候補を立てることをしなければならないだろう。多選知事が自民党中央に反旗を翻して地元の県会議員以下の系列議員と結んで立候補を目論んだ場合、9・11総選挙のように刺客の形で別の候補を立てない以上、多選は阻止できまい。

 今までのケースから言ったなら、民意が働いて多選を覆すのは今回の福島県知事選(06.11.12)のように前知事が汚職を働いて、そのことへの拒絶反応から対立する党派への選択へと民意が働いたといった場合が殆どであろう。だが、この手の多選反対の民意は汚職その他の犯罪といった敵失に対する懲罰を主とした事後選択であって、他党派への自律的・主体的に行った予防的な事前選択ではない。

 ただ確実に言えることは、民意が地方に亘って自民党支配を選択していたとしても、それが敵失を条件とした事後選択の場合は自民党支配の選択を覆す民意を取ることもあり得るという事実である。その事実を敵失をきっかけとするのではなく、予防的な事前選択で示すことができるようになったとき、民意は自民党長期支配の現状維持を離れて、政治の発展を望む方向(中央集権からの離脱をも意味する)に自律的・主体性的に行動できるようになるのではないだろうか。

 自民党支配の現状維持を離れることが政治の発展を望む方向だとするのは、自民党支配という戦後から現在に亘る長期性が長期政権は腐敗するという一面的真理を体現しているからに他ならない。地方政治家の跡を絶たない口利き・談合、視察と称した観光旅行、役人に頼った政策立案・議会答弁、そのような政治家の姿勢が官僚・役人を管理・監督する立場にあるにも関わらず、その能力を欠如させるに至っているそもそもの原因であり、それが地方役人の、中央官僚の腐敗にも対応しているカラ出張・カラ手当・カラ給与、あるいは裏ガネを原資とした飲み食い・私腹行為、さらにコスト意識の欠如・非能率・予算のムダ遣い、天下り等々の跡を絶たない腐敗を生み出している素因でもあろう。

 このような腐敗状況は全国的な自民長期支配の一側面であることは誰も否定できまい。殆どの地方が財政赤字を抱えていることが、腐敗が全国的規模であることを証明し、自民支配が全国に亘っていることと美しいばかりに見事に合致する。

 民意は自民党という党派を全国に亘って選択することによって、政治家・官僚・役人の腐敗の全国的な生み出しをも手助けしているとも言える。政治家を政治家足らしめているのは民意だからである。

 構造改革と称して地方の独立を果たしたとしても、民意自体が地方の長期に亘る自民党支配の打破を選択しなければ、腐敗状況はさして変わらないだろう


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