テロ等準備罪:元警察庁長官国松孝次が言うように民主主義の掟も民主主義の警察も監視社会防止要件とならず

2017-05-07 12:26:52 | 政治

 朝日新聞が事務方としてオウム事件捜査指揮中にピストル狙撃を受けた当時警察庁長官だった国松孝次(79歳)に「テロ等準備罪」(組織犯罪処罰法改正案)についてインタビューしている。

 「Wikipedia」で当時を振返ってみる。

 1995年3月20日 地下鉄サリン事件発生
       3月22日 オウム真理教関連施設への一斉強制捜査
      3月30日 警察庁長官狙撃事件

 狙撃1時間後にテレビ朝日に教団への捜査中止要求の脅迫電話。
 手術中に心臓が3度も止まり危篤状態にまで陥ったが、2カ月半後に公務復帰

 奇跡的に助かったということか。

 記事を全文引用してみる。

 《オウム事件「共謀罪あってもお手上げ」法案賛成の国松氏》asahi.com/2017年5月4日17時07分)   

 政府が「テロ対策」の呼び声のもと成立を目指す「共謀罪」法案によって、テロ犯罪を防ぐことができるのか。全国の警察トップとしてオウム事件などの捜査を指揮したほか、自身も狙撃事件というテロの対象になった国松孝次・元警察庁長官(79)に聞いた。
 記者「政府が『テロ等準備罪』と説明している、共謀罪の趣旨を盛り込んだ組織的犯罪処罰法の改正は必要か」

 国松孝次「共謀罪でもテロ等準備罪でも、どちらの呼び方でもいいよ。21世紀の警察は組織犯罪との闘い。組織犯罪に限っては、手遅れになる前に共謀段階で捕らえなければいけない。私は共謀罪は必要な法律だと思う」

 記者「政府は『テロ等準備罪と共謀罪は別。共謀だけでなく「準備行為」がないと処罰しない』と説明する」

 国松孝次「私は、国際組織犯罪防止条約はマフィア対策だとずっと聞いていたから、『テロ対策』と急に言われて『へえ』と思った。『準備行為が必要』というのも、『へえ』だね」

 共謀するという行為を罰するわけだから、やっぱり共謀罪だ。共謀した段階で捜査が介入することが大切。他国と歩調を合わせて共謀段階を取り締まるというのが筋だと思う。

 ただ、テロ集団も組織犯罪には変わりないわけだし、五輪前でテロについて関心が高まる中で、政府のやり方が『けしからん』というほどでもない」

 記者「赤軍派やオウム事件の捜査を指揮し、テロと相対してきた」

 国松孝次「警視庁本富士署の署長だった1969(昭和44)年、庁舎が赤軍派に襲撃される事件があった。襲撃前に別の場所で幹部らが謀議をしていたのはつかんでいたから、当時共謀罪があれば『御用』にできた。

 一方で、オウム事件や自分が狙撃された事件は、共謀罪があってもお手上げですな。『警察は情報を持っていなかったではないか』と言われればその通り。分からなかった」

 記者「だとすると、共謀罪ができても情報収集体制が整っていないとテロを防げないのでは」

 国松孝次「情報収集が大事なのはおっしゃる通り。同時並行でやるべきですな。法律をつくっても手段がなければどうしようもない。警察に手段を与えないで『取り締まれ』と言っても、できないでしょう。通信傍受や司法取引など、証拠集めのための色々な捜査手段の整備、充実をやるべきだ」

 記者「『一般市民』には関係ない法律になるか」

 国松孝次「捜査当局による乱用を懸念する声があるが、どんな法律でも解釈の仕方によっては常に乱用の恐れがある。この法律ができることと乱用の恐れは関係がない。社会と警察の間にきちんとした緊張関係があり、監視の目がしっかり作用していれば乱用は起こらないはずだ。それが民主主義社会の掟ではないか。

 『組織犯罪だけでなく個人犯罪にまで広げるのはおかしい』という意見は分かる。どうしてもおかしい犯罪は、国会審議で外せばいい。民主主義の警察が、内心の自由を侵害するような適用をするわけがないと思う。「組織的犯罪集団」という条件があれば、その中に正当な労働組合などは入らないだろう」

 記者「共謀罪が出来たら、捜査当局にとって使い勝手はいいのか」

 国松孝次「作り方によりますな。『乱用の恐れがある』と色々条件を付けていちいち適用範囲を絞れば、『全然動かない法律は要らない』となる。ある程度フリーハンドで、捜査に委ねてもらわないといかん。共謀段階で組織犯罪について手がつけられる『武器』を与えてほしい。そうすれば、組織犯罪と相対できるようになるはずだ。(聞き手・後藤遼太)     ◇

 〈くにまつ・たかじ〉 1937年生まれ。警察庁長官だった95年、自宅マンション前で何者かに狙撃され重傷を負う。99~2002年、駐スイス大使。一般財団法人「未来を創る財団」会長。銃撃事件の際の主治医のすすめでドクターヘリ普及の活動も続けている」

■取材後記

 「共謀罪の先に『盗聴』や『密告奨励』など捜査手法の拡大がある」と反対派は懸念する。警察元トップが、法案に実効性を持たせるために必要とあげたのはまさに「通信傍受」と「司法取引」だった。

 捜査当局の乱用を防ぐため社会の監視が重要と国松氏は言う。だが、特定秘密保護法が成立するなど情報への壁は高まる一方だ。政府が「テロ等準備罪と共謀罪は別」と強調する中、終始「共謀罪」と言い切ったのも印象的だ。捜査手法の拡大といい、政府の建前と捜査現場の本音はかけ離れているということなのか。

 国松孝次は先ず「21世紀の警察は組織犯罪との闘い」と言っているが、刑法犯の70%以上を窃盗犯が占める。但し「Wikipedia」に次のような記述がある。

 〈組織犯罪とは、

 企業や役所など、一定の団体となる組織において、その構成員の全てもしくは大部分が一体となって行う犯罪のこと。特に企業における組織犯罪を企業犯罪と呼ぶことがある。

 2名以上で犯罪を遂行することを目的とした組織(犯罪組織、犯罪集団など)によって行われる犯罪のこと。もしくはその形態を指す。〉

 そして警察庁の「第5章 組織犯罪対策の推進」なる題名のサイトに、〈(4) 来日外国人犯罪者の組織化

 平成15年中の来日外国人の刑法犯の検挙件数に占める共犯事件の割合は61.7%と、日本人(17.7%)の約3.5倍となっており、来日外国人犯罪者の組織化が引き続き進展している状況がうかがえる。〉――  

 と言うことは、2名以上が共犯となって空き巣に入っても、自転車を盗んでも、自動車を盗んでも、そのような窃盗犯罪も「組織犯罪」ということになる。刑法犯の70%以上を占める窃盗犯の大半が2人以上の共犯であった場合は確かに「21世紀の警察は組織犯罪との闘い」と言うことができる。

 但し卑しくも「テロ等準備罪」という名前をつけている。テロもしくはテロと同等の凶悪な暴力的組織犯罪の取締りを目的とした法案であって、2人以上の共犯で行う確率が高くても、刑法犯の70%以上を占める窃盗犯の取締りを目的とした法案ではないはずである。

 テロ等の組織犯罪の取締り・捜査が極めて困難を要するという意味で言うなら(窃盗犯にしてもネット上に検挙率は30%以下、その中の乗り物盗の検挙率は10%以下との記述があるから、同じく取締りも捜査も困難ということになるが)、「組組織犯罪との闘いは21世紀の警察を以てしても難しい」と言うべきだろう。

 要するに警察は「テロ等準備罪」で言っている組織犯罪取締リ専用の組織ではないということである。あるいはそのような組織犯罪にだけ手を回して貰っては困るということである。

 国松孝次は「共謀した段階で捜査が介入することが大切」だと言い、介入可能とするために「通信傍受や司法取引など、証拠集めのための色々な捜査手段の整備、充実」――いわば情報収集体制整備の必要性を挙げ、それを可能とするのが「テロ等準備罪」だとしている。

 そして二つの事例を挙げて、「テロ等準備罪」は犯罪実行の合意と合意に基づいた準備行為を行った段階で処罰の対象とすることを可能とする法案だから、当然と言えば当然のことだが、情報収集が決定権を握っている趣旨の発言をする。

 一つは国松孝次が署長だった警視庁本富士署に対する1969(昭和44)年の赤軍派の襲撃事件。「襲撃前に別の場所で幹部らが謀議をしていたのはつかんでいたから、当時共謀罪があれば『御用』にできた」と言っている。

 赤軍派による本富士署は1969年9月30日の午後7時頃の火炎瓶投擲事件である。

 「Wikipedia」で調べてみると、赤軍派が組織を立ち上げたのは1969年9月2日で、翌日の〈9月3日、関東学院大学金沢キャンパスに集結。9月4日に葛飾公会堂で初の決起大会を開いた。9月5日の日比谷野外音楽堂で開催された、全国全共闘結成集会に「蜂起貫徹、戦争勝利」のときの声とともに公然と大衆の前に姿を現し、「秋の前段階蜂起」、「世界革命戦争」、「世界赤軍建設と革命戦争」などを主張した。〉とあって、1969年9月30日の本富士署赤軍派襲撃よりも1カ月近く前のことである。

 当時は既に過激な学生運動が盛んだった時代で警察は学生運動に目を光らせなければならない状況にあり、学生たちは大学キャンパスや公共の施設等で革命に関わるシュプレヒコールを上げていただけではなく、赤軍派が『大阪戦争」と称して計画した大阪市警察警察部管内各警察署や交番襲撃を警察は事前に察知して1969年9月13日・17日・20日に家宅捜索を行ったものの、9月22日、桃山学院大学と大阪市立大学を拠点として出撃、阿倍野警察署管内の金塚派出所・旭町一丁目派出所・阪南北派出所に火炎瓶を投げつけ炎上させ、対して警察は赤軍派の50人近くを逮捕している。

 大阪戦争に失敗した赤軍派はその後東京の各警察署や交番を火炎瓶で襲撃する東京戦争を計画、当然、「襲撃前に別の場所で幹部らが謀議をしていたのはつかんでいたから、当時共謀罪があれば『御用』にできた」ことになる。

 因みに火炎瓶の使用、製造、所持する行為を処罰する「火炎瓶の使用等の処罰に関する法律」は1969年9月30日の赤軍派本富士署襲撃から6カ月後の1972年(昭和47年)4月24日の成立となっている。

 火炎瓶を使用する前の所持の段階でも取締まることはできなかったから、取締まるには「共謀罪」が必要だった。

 但しあくまでも犯罪実行の合意と合意に基づいた準備行為への完璧な情報収集(国松孝次が言うところの“謀議の把握”)が処罰の必要十分条件となることに変わりはない。

 次にオウム事件と自身に対する狙撃事件を例示して、「警察は情報を持っていなかった」ために「共謀罪があってもお手上げですな」との表現で、やはり情報収集が「テロ等準備罪」での取締り・捜査及び処罰の決定要件となると発言している。

 対して記者が「共謀罪ができても情報収集体制が整っていないとテロを防げないのでは」と当然のことを尋ねている。

 それに答えて国松孝次は情報把握・情報処理・情報管理等の組織的統一体としての情報収集体制に於ける情報把握の方法として「通信傍受や司法取引」等を挙げて、情報収集が決定要件となることに同意している。

 既遂の前段階の未遂の段階での処罰なのだから、情報収集が決定要件となることは極くごく当然のことだが、この場合の情報収集は監視のみが可能とする。

 別な言い方をすると、監視なくしてこの場合の情報収集は成り立たない。その典型例の一つが「通信傍受」ということであろう。

 記者は「通信傍受」という情報収集(=監視)の「一般市民」に対する影響に危惧を示す。

 対して国松孝次は「捜査当局による乱用を懸念する声があるが、どんな法律でも解釈の仕方によっては常に乱用の恐れがある」と答えている。

 確かに法律を厳密に解釈せずに、あるいは裁判所の判例に則った解釈に従わずに勝手に拡大解釈した場合、「乱用の恐れ」が生じる。

 だが、そういった「乱用の恐れ」以上に既遂の前段階の未遂の段階での捜査・取締り・処罰を可能とする法律であることの性質上、いわば犯罪実行の合意と合意に基づいた準備行為を未遂の段階で把握しなければならない責任を負うことになって、その反動として既遂にまでいくことを恐れて、情報収集という名の監視に走りがちとなる危険性が向かわせかねない「乱用の恐れ」を国松孝次が言う「乱用の恐れ」以上に気をつけなければならないはずだ。

 いずれにしても国松孝次は「社会と警察の間にきちんとした緊張関係があり、監視の目がしっかり作用していれば乱用は起こらないはずだ。それが民主主義社会の掟ではないか」と、「乱用の恐れ」は生じないことを確約し、さらに「民主主義の警察が、内心の自由を侵害するような適用をするわけがないと思う」と一般市民に対する“内心の自由の侵害”は起きることはないと請け合っている。

 だがである、警察官が警察官としての任務に常に忠実であるなら、取調べ対象の女性に近づいたり、情を通じたり、あるいは取調べ対象ではないアカの他人の女性を盗撮したり、強姦したり、強盗のために他人に家に侵入したり等々の犯罪を犯すことはないし、過剰捜査に走ったりすることも誤認逮捕することもない。

 誰もが承知しているように現実はその逆であって、警察官が警察官としての任務に常に忠実であるとは限らない以上、常に「監視の目がしっかり作用」する保証はどこにもない。

 また、「監視の目がしっかり作用していれば乱用は起こらないはずだ。それが民主主義社会の掟ではないか」と言っていることは民主主義なるものを絶対視している発想からの発言であって、民主主義が掟通りの原理・原則で常に機能する絶対性が保証されていたなら、民主主義に於ける平等の理念に反して人種や性別に基づく社会的な差別や性的少数者に対する差別も、イジメ等の抑圧をマスコミ情報を通して目にすることはない。

 当然、「民主主義の警察」であっても、「内心の自由を侵害」しない保証はどこにもない。取調室の自白の強要などは内心の自由侵害の典型例であろう。

 「民主主義社会の掟」にしても、「民主主義の警察」にしても、情報収集(=監視)の乱用を食い止める絶対的な道具立てと位置づけることができない以上、「共謀段階で組織犯罪について手がつけられる『武器』」――情報収集(=監視)は既遂にまでいく最悪の事態を避けるために未遂の段階での摘発を必然とさせなければならない責任上、情報収集という名の監視だけが突出する危険性を常に付き纏わせることになる。

 このことと国松孝次が「『組織的犯罪集団』という条件があれば、その中に正当な労働組合などは入らないだろう」と言っていることを併せると、労働組合が「組織的犯罪集団」か否かは完璧な監視(=情報招集)が判断可能とすることになるのだから、自ずと対象選ばずの監視に向かうことになって、監視社会とならない保証もどこにもないことになる。

 つまるところ国松孝次はインタビューで気づかないままに監視社会とならない保証はどこにもないことを口にしたに過ぎない。


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