柳田法相、「法を犯して話すことはできない」を楯に事実を隠すこともできる

2010-11-22 10:25:36 | Weblog

 柳田法相が今月11月14日(2010年)、地元広島市で開催の大臣就任任祝賀会で、多分上々機嫌の気分全開状態にあったのかも知れない、そこでの発言が国会軽視に当たると辞任要求、本人は拒否、菅首相も辞任必要なしと擁護の姿勢。自民党は今日22日(2010年11月)、参議院に法相に対する問責決議案を提出する姿勢でいる。

 但し柳田法相は問責決議案が可決されても辞任しないと言明。

 (この記事を校正しているとき、テレビで柳田法相が辞任を決意、これから記者会見を開く予定と伝えていた。)

 問題となった発言箇所。

 《法相の14日の広島市発言要旨》47NEWS/2010/11/17 16:36 【共同通信】)

 柳田法相「法相はいいですね。(国会答弁では)二つ覚えておけばいいんですから。『個別の事案についてはお答えを差し控えます』。これはいい文句ですよ。これがいいんです。分からなかったらこれを言う。だいぶ(この答弁で)切り抜けてまいりましたけど、実際の話、しゃべれない。あとは『法と証拠に基づいて適切にやっております』。まあ何回使ったことか。使うたびに野党からは攻められる。「政治家としての答えじゃないじゃないか」とさんざん怒られている。ただ法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話です。『法を守って私は答弁しています』と言ったら『そんな答弁はけしからん。政治家だからもっとしゃべれ』と言われる。そうは言ってもしゃべれないものはしゃべれない」

 「これはいい文句ですよ。これがいいんです。分からなかったらこれを言う」、「まあ何回使ったことか」とは大分ふざけた話だ。

 野党から攻められても、「そうは言ってもしゃべれないものはしゃべれない」は野党を小馬鹿にした上での開き直りであろう。

 言ってよい冗談と言って悪い冗談がある。もし職務に真摯に取り組んでいたなら、こういった発言は飛び出さなかったに違いない。

 但し柳田法相は、「ただ法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話です」、「しゃべれないものはしゃべれない」と自己の答弁態度を堂々と自己擁護している。

 だが、この「ただ法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話です」は、「個別の事案についてはお答えを差し控えます」「法と証拠に基づいて適切にやっております」のふざけた、不謹慎極まりない発言をしたあとの、そのような発言を受け継ぎ、発した「ただ法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話です」である。

 いわば不謹慎でふざけた意識を連続させていた中での発言――茶化した発言と看做さざるを得ず、「二つ覚えておけばいいんです」としたふざけた発言を法に従った正当な答弁だと茶化して正当化する魂胆からの「法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話です」だとしなければ、前後の脈絡に整合性を与えることはできないはずである。

 逆説するなら、茶化しの正当化を楯とした「個別の事案についてはお答えを差し控えます」「法と証拠に基づいて適切にやっております」の茶化しであり、その点で、当然のこととして一体性を備えていた一連の発言ということであろう。

 次のようにも言える。 「法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話です」だとからかいながら偽った。

 柳田法相の国会答弁で問題となっていたのは尖閣事件の中国人船長処分保留のままの釈放への政治介入の有無に関する答弁であった。勿論、政治介入なしが菅内閣一致の姿勢であり、一致した答弁であった。

 だが、このことに関した自身の一連の国会答弁から得た教訓を柳田法相は、「法相はいいですね。(国会答弁では)二つ覚えておけばいいんですから」云々と、その程度だとした。

 いわばその程度の答弁で野党の質問を片付けてきた。植木等の「サラリーマンは気楽なもんだよ」の『スーダラ節』ではないが、「法務大臣は気楽なもんだよ」といわば歌った。その正当化に「法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話です」を持ってきたということであろう。

 もし真摯な気持で「法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話です」という姿勢を持ち、その姿勢を前提として答弁に臨んでいたなら、決して「二つ覚えておけばいい」といった軽々しい態度を示すことできなかったろう。

 例え茶化しであっても、ではなぜ、「個別の事案についてはお答えを差し控えます」「法と証拠に基づいて適切にやっております」の正当化の口実に「法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話です」を持ち出したのだろうか。

 この「法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話です」を唯一正当性ある発言とすることができるのは、中国人船長処分保留のままの釈放関わる野党質問への答弁についてのみである。

 それを茶化しに使ったということは正当性と正当化の狭間で何らかの事実を隠しているからであろう。政治介入があったのではないかとする野党の疑いの上に立った執拗な追及に対して疑いと事実の危ういバランスを保ちつつ事実を隠しおおす答弁を果たし得ていて、「法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話です」とつい茶化す気になった。

 真摯な態度で常に答弁に当たっていたなら、「二つ覚えておけばいい」といった軽々しい態度を取ることできなかったの同じく、中国人船長処分保留のままの釈放に何ら事実を隠していなかったなら、「法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話です」と茶化しに使うことはできなかっただろう。

 いわば国会答弁で事実を隠してきた成功体験が大臣就任祝賀会の席で、アルコールを嗜んでいたなら、酔いも手伝った気分全開の気の緩みから、「法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話です」と茶化すこととなった。

 この証拠の一つを国会答弁から見ることができる。既に新聞記事となっているが、10月14日(2010年)の参議院予算委員会。質問者は自民党の山本一太議員。

 山本一太「検察が、この中国人船長の釈放を、決めた理由、その判断の基準は何なんでしょうか」

 柳田「エー、少々お時間を貰いまして、詳しくお話をさせてもらいたいと思います。エー、私が釈放を決める前に(議場内からどよめきが起きる)、あー、すみません、すみません(と手を振る)。エー、(笑いながら)刑事、検事当局が(委員長「ご静粛にお願いします」)検事当局が釈放を決める前にも、折々に色んな報道を、エー、聞いておりました。その上で釈放に当たって、エー、釈放に当たって、そのときにも刑事局長から説明を受けました。・・・・」

 中国人船長の釈放に関して政治介入は一切なかったが事実なら、あるいはそこに政治介入があったとする事実を一切隠していなかったなら、柳田法相にとっては自身が釈放を決めるという事実にしても存在しなかったことになるのだから、存在しなかった事実に忠実に即した発言が出て然るべきであるが、事実とは正反対の言葉を口にした。
 
 このことを単なる言い間違いで片付けていいものだろうか。この1ヵ月後の大臣就任祝賀会でのふざけた、軽率極まりない茶化し発言である。前者の事実を反映させた後者の事実であるべきであり、例え後者が冗談であっても、冗談の中に前者の事実は事実として反射するはずだから、後者の茶化しの事実と相互反映した前者の「私が釈放を決める前に」の発言であり、急いで取り消すことで事実を隠しおおすことができた成功体験の大いなる一つと見るべきだろう。

 「法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話です」を正当化理由の楯として、いくらでも事実を隠すことができるということである。


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