高市早苗・安倍晋三の歴史修正主義を剥ぐと、佐渡金山は強制連行・強制労働“鉱夫残酷物語” の世界遺産登録を目指すことになる

2022-02-28 05:57:34 | 政治
 (以下各引用文献の漢数字は算用数字に変換。文飾は当方。丸括弧内「※」は当方注釈。)

 2022年1月20日付「NHKニュース」記事が、〈新潟県などが世界文化遺産への登録を目指している「金山」について、自民党の安倍元総理大臣は韓国が反発していることを踏まえ「論戦を避ける形で登録を申請しないのは間違っている」と述べた〉と報じていた。佐渡金山がこの登録を目指していることを初めて知ったが、安倍晋三のこの発言だけで韓国が2015年にユネスコ世界文化遺産登録を受けた日本の「明治日本の産業革命遺産」を構成した製鉄・製鋼、造船、石炭産業等々のいくつかの施設のうち、何個所かで植民地時代に朝鮮人に対する強制労働があったと主張、登録に反対したことと類似の事柄だと気づく。

 派閥の会合での発言だそうで、案の定、上記「遺産」に触れている。

 安倍晋三「安倍政権時代に『明治日本の産業革命遺産』を登録した際、当時も反対運動が国際的に展開されたが、しっかりと反論しながら、最終的にはある種の合意に至った。今度の件は岸田総理大臣や政府が決定することだが、ただ論戦を避ける形で登録を申請しないというのは間違っている。しっかりとファクトベースで反論していくことが大切で、その中で判断してもらいたい」
 
 「ファクトベース」とは「事実に基づいた思考法」とかで、いわば「事実を土台として主張なり、議論なりを構築する」ということであって、歴史的事実で対抗すれば、日本側の主張・議論の正当性は証明されるということなのだろうが、安倍晋三の歴史的事実の多くは独善的な歴史修正主義で成り立っているから、始末に負えない。その歴史修正主義に高市早苗もつるんでいるから、当然の場面にお目にかかることになった。

 2022年1月24日衆院予算委

 高市早苗「先ずは政調会長として地方公共団体から伺っていることをお伝え致します。1月7日に新潟県知事、佐渡市長を始めとする新潟県の皆様が政調会長室にお越しになり、佐渡の金山に関するご懸念を伺いました。昨年12月28日、文化庁文化審議会の世界文化遺産部会により今年度推薦ができたと思われる世界文化遺産の候補として佐渡金山が選定される旨が答申されました。前提として顕著な普遍的な価値が認められうるなど選定理由が記載されていますが、ところが文化庁は同時に文化審議会による選定について推薦の決定ではなく、これを受け、今後政府が総合的な検討を行っていきますと報道発表しています。

 1月5日の官房長官記者会見で総合的な検討予定の具体的にどういうことを検討されるのかという記者の質問に対して官房長官、総合的な様々な状況、懸案事項、条件等を考えてと答えておられました。文化審議会の答申が出た12月28日に韓国外交部報道官が『韓国人強制使役被害の現場である佐渡鉱山の世界遺登録を推進することについて非常に嘆かわしく思い、これを撤回することを求める』と論評しました。

 佐渡の金山は17世紀に於ける世界最大の金産地です。海外の鉱山で機械化が進む中、鎖国下だった江戸時代の日本では伝統的手工業による生産技術とそれに適した生産体制による大規模で今まで高品質の金生産を実現しておりました。で、江戸時代はこの独自性を以って発展した貴重な産業遺産であります。これは戦時中と全く関係はありません。

 本件は文部科学省と外務省の協賛事項だと伺いましたので、外務大臣にお尋ね致しますが、佐渡の金山のユネスコへの推薦について韓国外交部報道官の論評や3月に大統領選挙を控える韓国への外交的配慮も官房長官は仰った。懸案事項に該当するでしょうか」

 林芳正「文化審議会からの答申を受けまして、佐渡の金山の世界遺産登録を実現する上で何が最も効果的かという観点から政府内で総合的な検討を行っております。韓国への外交的配慮といったものは全くないということでございます。なお佐渡金山に関する韓国側の独自の主張については日本側としては全く受け入れられず、韓国側に強く申し入れを行ったそうでございます。

 また、韓国国内に於いて事実に反する報道が多数なされていることは極めて遺憾であり、引き続き我が国の立場を国際社会に説明してまいりたいと思っております」

 高市早苗「早々に抗議を行って頂いたということで、外務省に申し上げます。仮に年度の申請を見送った場合、日韓併合条約によって同じ日本人として戦時中、日本人と共に働き、国民徴用令に基づいて旅費や賃金を受け取っていた朝鮮半島出身者について誤ったメッセージを国際社会に発信することになりかねないと考えます。また1965年の日韓国交正常化の際に締結された日韓請求権協定に明らかに違反して、日本製鉄や三菱重工業に対する慰謝料請求権を認めた2018年韓国大法院判決や昨年9月と12月に日本企業の差押え資産に関して裁判所による特別現金化命令が出たということについても日本政府の反論や抗義に対して国際社会の理解が得られにくくなるのではないかと懸念しております。

 我が国はユネスコに対して主要国として貢献してきました。ユネスコの世界遺産諸事業も当初から支援してきた関係国の一つです。日本政府は江戸時代の貴重な産業遺産を誇りを持ってユネスコに推薦をし、来年6月までの決定まで1年4カ月の期間を活用して、審議決定を行うユネスコ世界遺産委員会の委員国に対して江戸時代の伝統的手工業については韓国は当事者ではあり得ないということを積極的に説明すべきです。

 もしもそれもできないと諦めているのであれば、国家の名誉に関わる事態でございます。日本政府としてユネスコ世界遺産委員会に推薦するためには閣議了解が必要で、推薦期限の2月1日に決まっています。1年に1件しか推薦できない貴重な機会ですから、必ず今年度に推薦を行うべきだと考えますが、外務大臣のご見解を伺います」

 林芳正「政府と致しましては佐渡の金山に関する文化庁の文化審議会の答申を受け、佐渡の金山の文化遺産としての価値、今、ご指摘があったばかりでございますが、これに鑑み、是非登録を実現したいと考えておりまして、現在文科省及び外務省に於いて総合的な検討を行っておるところでございます。政府と致しましては登録の実現に向けて必要な諸準備を進める中で様々な事項考慮しているわけでございますが、考慮予想と致しまして先ず、他国から疑義が予定される場合に佐渡金山に関わる歴史や技術関係については証拠を挙げて反論を行うために十分な準備が整っているか検討しているところでございます。

 また我が国はユネスコ改革を主導し、昨年の4月には世界の記憶(※旧世界記憶遺産)について関係国間で見解の相違のある案件は関係国家の対話で解決するまでは登録を進めないこととするための異議申立制度を導入するなどして参りました。政府としては佐渡金山の登録に向けて何が最も効果的かという観点から以上の所見を含め、総合的に検討を進めたいと考えております」

 高市早苗「今、外務大臣が仰った世界の記憶に関するルールでございますが、これは世界文化遺産のルールとは別のものでございます。江戸時代の金山について韓国が当事者であり得ないと、これは明確でございます。仮に今年度推薦しないとすると、来年度以降、佐渡の金山の推薦はさらに困難になると思います。世界遺産への一覧表への記載候補への審議決定を行うユネスコ世界遺産委員会は締約国のうち21カ国で構成され、日本も昨年11月から2025年秋までは委員国です。世界遺産委員会では委員国にのみ意思表示の権利があり、現在韓国は委員国ではございません。世界遺産委員会の決定は世界遺産条約第13条第8項に基づき、3分2の以上の多数により議決、つまり委員国14カ国の賛成で認められます。日本政府が今年2月1日までに推薦した場合、結果は兎も角、世界遺産委員会に於ける審議決定は来年の夏、6月でございます。

 しかし来年2023年秋に任期終了となる委員国が9カ国ありまして、来年秋から2027年秋までの任期の委員国に韓国が立候補する可能性が高いと外務省から伺っております。来年の推薦、そして再来年の審議決定となると、委員国として韓国が反対するという最悪の状況を招きます。その後の2027年の秋から2031年の秋までの任期には中国が委員国に立候補する可能性が高いことから、来年から8年に亘って韓国と中国による歴史戦に持ち込まれると容易に想像されます。

 新潟県知事は結果に関わらず国際舞台で日本の主張を堂々と行って欲しいと仰っております。1年間、佐渡の金山の推薦を延期した場合、来年の文化庁文化審議会では他の遺産が選定される可能性もあり、20年間以上も情熱を持って来られた新潟県の方々があまりにも気の毒でございます。仮に今年度の推薦が見送られるようなことになった場合、来年度まで確実に佐渡の金山を世界遺産一覧表に記載できるような環境をつくれる自信と戦略をお持ちなのか、外務大臣に伺います」

 林芳正「先程申し上げましたようにまだ今年度の推薦しないということを決めたということではございません。今、先程申し上げたように総合的な検討しておるところでございます。従って、我々としては今、この申し上げたようにこの検討を進めながら、どうやったら、この登録が実現できるか、そういうことを考えながらですね、十分な準備を進めた上でということを検討させて頂きたいと考えているところでございます」

 高市早苗「先ず実現への可能性ということを一番大臣、考えておられると言うことは先程ご答弁を頂きました。まあ、2月1日に日本から推薦を出して決定までに1年4カ月あります。まあ、十分な準備を平行して進めながら、是非とも今年度の推薦を頂ますように心からお願いを申し上げます。

 さて、朝鮮半島から内地に移入して働いておられた方々については菅内閣時の2021年4月27日に旧国家総動員法第4条の規定に基づく国民徴用令により徴用された朝鮮半島からの労働者の移入についてはこれら法令により実施されたものであることが明確になるよう、『強制連行、また連行ではなく、徴用を用いることが適切である』。強制労働に関する条約は緊急の場合、即ち戦争の場合に於いて強要される労働を包含しないものとされていることから、徴用による労務者については同条約上の強制労働には該当しないという日本政府の考え方が閣議決定されています。

 岸田内閣に於いても今右変更することなく、この閣議決定を踏襲されますでしょうか。岸田総理に伺います」

 岸田文雄「ご指摘の令和3年4月27日に閣議決定された答弁書に示された政府の立場、岸田内閣に於いても変わっておりません」

 ここで高市早苗は歴史戦にかかる摩擦対象は本来は外務省の仕事だが、安倍内閣時は安倍晋三の指示で内閣官房副長官補室による国際社会に向けた歴史広報が始まり、菅義偉も引き継いでいる、事実関係に踏み込んだ体系的歴史認識の国際広報を急速強化することが日本の名誉と国益を守る上で必要だが、岸田内閣でもこの方法を受け継いでいるのかと問い、岸田文雄は自身の内閣も受け継ぎ、歴史問題にしっかり取組んでいきたいと答え、官房長官松野博一も同様の答弁をする。

 高市早苗「私は戦争が繰り返され、列強各国が植民地支配を行っていた不幸な時代に自らの国籍を変更しなくてはならんかった方々が民族としての誇りを傷つけられたこと、また日本人として共に戦争を戦わねければならなかったことについては深く思いを致さなければならないと考えております。

 とかく当時の国際法や国内法や国際情勢を勘案せずに現在の価値観だけで歴史を裁き続けるならば、多くの国々が謝罪や賠償を続けなくてはならなくなり、未来を開く外交関係というものは成り立ちません。岸田総理は史上最長の外務大臣として活躍してこられました。国家の名誉を守りつつ、国益を最大化するというのはとても困難な仕事ではございますが、岸田内閣として毅然とした外交をお願い申し上げます」(以上)

 歴史修正主義満載の高市早苗の発言となっている。この発言から4日後の1月28日夜、岸田文雄は首相官邸のぶら下がり取材で「佐渡島金山」のユネスコ推薦を正式表明、4日後の2月1日にネスコへの推薦を閣議了解、推薦書を提出した。一部のマスコミはそれまで推薦に慎重だった岸田内閣を安倍晋三や高市早苗等の自民党右派の圧力によって動かざるを得なくなったといったことを報じたが、少なくとも上記高市早苗の歴史修正主義満載の言葉巧みなゴリ押しが推薦に強く影響したはずだ。

 高市発言の正体が歴史修正主義満載であることを暴いていかなければならないが、その一環として先ず最初に菅内閣時2021年4月27日に閣議決定したという1930年のILO「強制労働に関する条約(第29号)」(以下「強制労働条約」)が強制労働は「戦争の場合に於いて強要される労働を包含しない」としていることと「旧国家総動員法第4条の規定に基づく国民徴用令により徴用された朝鮮半島からの労働者の移入」は「強制連行、また連行」に当たらず、あくまでも「徴用」であり、いわば強制労働を意味していないとしていることを取り上げてみるが、菅内閣時の閣議決定とは岸田文雄が答弁しているように質問趣意書を受けた答弁書を指す。「河野談話」が従軍慰安婦の募集に官憲の関与を認めているのに対してそれを否定する答弁書の閣議決定を安倍晋三が行なったことに代表されるように一般的となっている歴史認識を自らの歴史認識に修正するために保守派の首相による答弁書の閣議決定はよく用いられる手となっている。

 日本維新の会馬場伸幸が朝鮮半島出身者の徴用は国民徴用令に基づいているものだから、「強制連行」や「連行」との誤った用語を用いるべきではない、「徴用」を用いるべきであるということと、彼らが強制労働させられたとの見解があることの政府の考えを問う「質問主意書」を2021年4月16日に菅内閣に提出、菅内閣は同年4月27日の「答弁書」で最初の質問に対して、〈旧国家総動員法(昭和13年法律第55号)第4条の規定に基づく国民徴用令(昭和14年勅令第451号)により徴用された朝鮮半島からの労働者の移入については、これらの法令により実施されたものであることが明確になるよう、「強制連行」又は「連行」ではなく「徴用」を用いることが適切であると考えている。〉、次の質問に〈強制労働ニ関スル条約(昭和7年条約第10号)第2条において、「強制労働」については、「本条約ニ於テ「強制労働」ト称スルハ或者ガ処罰ノ脅威ノ下ニ強要セラレ且右ノ者ガ自ラ任意ニ申出デタルニ非ザル一切ノ労務ヲ謂フ」と規定されており、また、「緊急ノ場合即チ戦争ノ場合・・・ニ於テ強要セラルル労務」を包含しないものとされていることから、いずれにせよ、御指摘のような「募集」、「官斡旋」及び「徴用」による労務については、いずれも同条約上の「強制労働」には該当しないものと考えており、これらを「強制労働」と表現することは、適切ではないと考えている。〉とご都合主義よろしく答弁している。

 要するに高市は江戸時代の佐渡金山は「戦時中と全く関係ない」と言いつつ、菅内閣の閣議決定を利用、自らの歴史修正主義に則って国民徴用令に基づいた戦時中の朝鮮人徴用の強制労働を否定してみせた。

 このことの正当性はあとで検証することにして、「強制労働条約」を楯とした戦争の場合は例外規定としていることの正当性を先に検証してみる。答弁書では「強制労働条約」は「昭和7年条約第10号」となっているが、日本国内での順番付なのか、実際は「第29号」となっていて、1930年(昭和5年)6月28 日採択、日本の批准は1932年11月21日。

 「強制労働条約(第29号)」(部分抜粋)

 第2条第1項 本条約ニ於テ「強制労働」ト称スルハ或者ガ処罰ノ脅威ノ下ニ強要セラレ且右ノ者ガ自ラ任意ニ申出デタルニ非ザル一切ノ労務ヲ謂フ
    第2項 尤モ本条約ニ於テ「強制労働」ト称スルハ左記ヲ包含セザルベシ

 (a) 純然タル軍事的性質ノ作業ニ対シ強制兵役法ニ依リ強要セラルル労務
 (b) (略)
 (c) (略) 
 (d) 緊急ノ場合即チ戦争ノ場合又ハ火災、洪水、飢饉、地震、猛烈ナル流行病若ハ家畜流行病、獣類、虫類若ハ植物ノ害物ノ侵入ノ如キ災厄ノ若ハ其ノ虞アル場合及一般ニ住民ノ全部又ハ一部ノ生存又ハ幸福ヲ危殆ナラシムル一切ノ事情ニ於テ強要セラルル労務
 (e) (略) 

 最初にこの条約が締結された時代背景をネットで調べつつざっと眺めてみることにする。この当時の日本は日清戦争(明治27年7月25日~明治28年4月17日)に勝利し、下関条約(明治28年)を経て台湾の割譲を受け領有、植民地とし、1904年(明治37年)の日露戦争勝利でロシアから中国遼東半島の租借権を引き継ぎ、半植民地化し、さらに中国を支配し植民地とする野望のもと領土内に軍隊を進め、1905年(明治38年)には韓国に対して「日韓協商条約」を締結させ、保護国とし、さらに一歩進んで1910年(明治43年)に併合(日韓併合)、植民地とし、第1次世界大戦(1914年・大正3年7月28日~大正7年11月11日)の戦勝国となって、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を国際連盟から委任統治領として受任、植民地経営に乗り出し、他の戦勝国アメリカ、イギリス、フランス、イタリアを加えた世界五大国の一角を占めるに至っていた。

 そして軍事進出を進めていた中国では日露戦争後に譲渡を受けた南満州鉄道の線路を日本の関東軍自らが爆破(柳条湖事件・昭和6年9月18日)、中国軍による犯行と言いがかりをつけて中国軍に対して武力攻撃を開始(満州事変)、中国の東北部満州一体を占領し、1932年(昭和7年)3月1日に満州国建国宣言を行い、のちに中国の清朝最後の皇帝溥儀を執政に据えて傀儡政権を樹立、2年後の1934年(昭和9年)に溥儀を満州国皇帝の地位に変えて、帝政を政治体制とする植民地を整えるに至った。

 要するに日本が米英仏伊と共に世界五大国の一角を占めていたということは他の国とは規模は劣るものの、軍事力を背景に植民地経営国家として十分に仲間入りを果たしていたからこそ可能となった列強の一員であった。安倍晋三は2013年の自著『新しい国へ』の中で、「昭和17、8年の新聞には『断固戦うべし』という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化する中、マスコミを含め、民意の多くは軍部を支持していたのではないか」と主張、日本の戦争を正当化しているが、遠いアフリカはさておいて、近いアジアの植民地の既得権化は欧米列強に負けじと手を広げていたのだから、安倍晋三のこの手の発言は歴史修正主義で成り立たせているに過ぎない。

 「強制労働条約」が締結された1930年には列強海軍の補助艦保有量の制限を主な目的としたロンドン海軍軍縮会議が開催され、日本は米英仏伊と共に五大列強として参加している。こういった世界情勢のもと、「強制労働条約」は締結された。いわば世界的に世界五大列強の意向が優勢な状況にあり、そのような意向が反映されたことは「強制労働」を「或者ガ処罰ノ脅威ノ下ニ強要セラレ且右ノ者ガ自ラ任意ニ申出デタルニ非ザル一切ノ労務ヲ謂フ」と定義づけながら、戦争ノ場合は例外規定としたことに現れている。五大列強、あるいはそれに準ずる列強が植民地獲得と植民地維持のために被植民地と戦争を行い、あるいは今後行う可能性と被植民地国民を強制労働に駆り立てていた、あるいは今後駆り立てる必要可能性から戦争に関係する上記免除規定は列強こそが最大の受益国家となり、一番の好都合を被ることになるが、逆に一番の不都合を被るのは被植民地国民なのは断るまでもないが、「第29号」条約のこういった利害構造は当時の列強に有利に働く契約となっていたことからも列強の意向を窺うことができる。

 つまりその分全体的な正当性を欠くことになり、このことを無視して高市早苗が1930年の条約を持ち出して、日本の戦争当時の強制労働を強制労働ではなかったと否定すること自体が歴史修正主義そのものだが、国際労働機関(ILO)は列強に有利に働く利害構造を反省、戦争等々の枠を設けずに全ての種類の強制労働を禁止し、どのような利用も不可とする「強制労働廃止条約(第105号)」を 1957年(昭和32年)に採択、2020年6月現在批准国は175カ国、日本はG8加盟国中唯一の未批准国の名誉を担っている。さらにこの「第105号」の「締結のための関係法律の整備に関する法律案」を議員立法により2021年 5月31日に衆議院提出、その後参議院送付、同年6月3日に参議院本会議に於いても可決・成立。議員立法だからか、自民党政府は「第105号」の批准に向けた動きを見せていない。勘繰るならば、批准してしまった場合、「戦争当時の強制労働は許されていた」とする主張の全面的な正当性が窮屈になる恐れが生じ、歴史修正的な臭いを漂わせる恐れが出かねないからだろう。

 では、高市早苗の発言「強制労働条約は緊急の場合、即ち戦争の場合に於いて強要される労働を包含しないものとされていることから、徴用による労務者については同条約上の強制労働には該当しないという日本政府の考え方が閣議決定されています」の歴史認識上の正当性、歴史修正でも何でもないのかを探ってみる。

 第2条第1項の「或者ガ処罰ノ脅威ノ下ニ強要セラレ」る、あるいは「自ラ任意ニ申出デタルニ非ザル一切ノ労務」とは本人の意向、人権を一切無視しているゆえに、"奴隷的使役"そのものを指していて、その禁止を謳っていることになる。

 そして戦争に関わるメインの例外規定、〈(a)純然タル軍事的性質ノ作業ニ対シ強制兵役法ニ依リ強要セラルル労務〉としている条件付けは「強制兵役法」に則った「純然タル軍事的性質ノ作業」に関しての"奴隷的使役"は強制労働に当たらずの規定となる。このことを裏返すと、「強制兵役法」に則っていたとしても、「純然タル軍事的性質ノ作業」以外の労務への強制労働は条約上の例外とすることはできないし、「純然タル軍事的性質ノ作業」であったとしても、「強制兵役法」に則らない強制労働も、"奴隷的使役"外だとすることはできないことになる。

 そして「(d)」の「緊急ノ場合即チ戦争ノ場合」その他の場合は全てを例外としているわけではなく、していたら、強制労働に対する白紙委任となる、「一般ニ住民ノ全部又ハ一部ノ生存又ハ幸福ヲ危殆ナラシムル一切ノ事情ニ於テ強要セラルル労務」を限定としている。一例を挙げるなら、空からか陸上からか激しい敵襲を受けて多くの建物が崩壊、住民が建物に閉じ込められるか、下敷きになっていると想定される場合の緊急を要するガレキ撤去、人命救助のために生存住民に課す強制労働か、他の例として敵軍がある地域に迫っていて、多くの住民の生命が危険に曝されることが予想され、その防御のために住民の退避壕造りか味方軍の塹壕造りを住民にも命じる場合の強制労働といったところだろう。

 当然、ある国が戦争状態にあるからと言って、「純然タル軍事的性質」の有無に関わらず、「強制兵役法」に則っとらない労務と「(d)」の限定外の労務に強制的に駆り立てた"奴隷的使役"までが強制労働にあらずとしているわけではない。高市早苗がこのように読み取ることができないとするなら、想像力を著しく欠いてるために頭に血が回らない状態にあるからだろう。

 日本が様々な名目で朝鮮人を日本植民地下の韓国内各地や日本内地に軍の労務者や軍属として送り込んだ当時の日本の「強制兵役法」に当たる法令は1873年(明治6年)陸軍省発布の「徴兵令」を改正、1927年(昭和2年)施行、敗戦時廃止の「兵役法」であるが、「兵役法」は徴兵の年齢的、身体的等の各条件、兵役の義務、その年限、その免除のケース、退役等を規定しているのみで、どこにも「純然タル軍事的性質ノ作業」に該当する強制労働を規定した条文は見当たらない。戦争遂行目的から国の経済や国民生活等全てに亘って動員・統制可能とする権限を国に付与した国家総動員法に関しても、その第4条「政府ハ戰時ニ際シ國家總動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝國臣民ヲ徵用シテ總動員業務ニ從事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ」の規定に応じて国民の労働力の強制的な徴発を定めた国民徴用令に関しても、朝鮮人の軍関係への徴用の場合は強制労働を可能とするとの文言はどこにもない。勿論、「純然タル軍事的性質ノ作業」の場合はといった類いの特定条件を付けた文言も見当たらない。

 戦争中のタイ-ビルマ間に突貫敷設された、連合国軍捕虜と現地人労働者その他1万人以上が過酷な労働や栄養失調、コレラ、マラリアで死亡した泰緬鉄道(死の鉄道)は日本軍の物資輸送目的の「純然タル軍事的性質ノ作業」ではあるが、戦後、日本軍関係者がBC級戦犯として「捕虜虐待」などの戦争犯罪に問われ、死刑や禁固10年等の宣告を受けたのは上記「強制労働条約」が強制労働を正当と裏付ける根拠となる「強制兵役法」に当たる日本の「兵役法」が強制労働に関わるどのような規定も設けていないからだろう。設けていたなら、高市早苗のように「同条約上の強制労働には該当しない」と言って、裁判を免れることができたはずだ。

 日本の陸海軍が関係する「純然タル軍事的性質ノ作業」での強制労働であっても、その正当性を裏付ける根拠法が存在しないということなら、国家総動員法の第4条に基づく国民徴用令によって1942年1月から始まった日本人だけではない、韓国内の朝鮮人の日本企業への徴用による強制労働は「純然タル軍事的性質ノ作業」であるなしに関わらず、「強制労働条約」を以ってしても、例外規定とすることはできないことは明らかな事実としなければならない。

 さらに「強制労働条約」が「第21条」で「強制労働ハ鉱山ニ於ケル地下労働ノ為使用セラルルコトヲ得ズ」としているが、このことの例外規定を設けていない関係から、条文通りの制約となり、鉱夫が陸海軍の徴用を受け、その鉱物発掘が大砲や戦闘機等々の製造に供する目的の「純然タル軍事的性質ノ作業」だと口実づけたとしても、許されない強制労働であり、ましてや民間の労務動員による鉱山強制労働は一切禁止となる。果たして佐渡金山で強制労働を押し付けられていなかっただろうか。

 高市早苗は佐渡金山の歴史を江戸時代のみに限って、江戸時代以降の、特に朝鮮人に対する徴用が始まった戦中の佐渡金山の歴史を避けているが、「江戸時代の伝統的手工業については韓国は当事者ではあり得ない」は事実そのものであろうが、佐渡金山としての歴史は現在までひと続きであり、例え時代ごとに評価を区分することになったとしても、戦争中の歴史を排除することは歴史がひと続きであること、その一貫性を損なうことになり、誰にもそうする資格はないのだから、歴史に対する謙虚な姿勢とは正反対の思い上がりとなる。戦争中の歴史を加えることに不都合の臭い、歴史修正の臭いを感じる。

 技術という点だけを取るとしても、「江戸時代の伝統的手工業」だとしている掘削技術と戦争中の掘削技術が異なっていたとしても、一般的には後者は前者の発展型、もしくは継続型であって、やはりひと続きの歴史を成していると同時に技術は技術だけの問題ではないことに留意しなければならない。技術を用いて目的の仕事を進めるのはその時代その時代の人間であり、使う人間と使われる技術が一体となって、技術に応じた人間の使い方の価値が評価を受け、人間の使い方に応じた技術の価値が評価を受けることになる。この過程がなければ、技術は技術としての意味を失う。例えば昭和の時代にも素晴らしい車があったと言うとき、その車を多くの人間が運転することによって手に入れることができた共通した価値観で成り立つことになった評価であって、使う人間抜きの技術は意味を持たない。

 だが、高市早苗は人間抜きに技術のみを語ろうとしている。例え江戸時代であったとしても、優れた伝統的手工業のもとに強制労働を強要されていたり、低賃金労働を当たり前とされていたりしたら、その技術は技術開発者の一般的な意図を外れて、強制労働や低賃金労働に存在意義を与えられていることになり、褒められる技術とは言えなくなる。高市早苗の言う佐渡金山に於ける「江戸時代の伝統的手工業」が鉱夫たちにどのような存在意義を与えていたのかを見なければならない。高市早苗が技術だけを見て、世界遺産登録を願うのは前のブログで言及したように国家に向ける目を十二分に持っているが、国民という存在に向ける目を疎かにしているからだろう。

 「佐渡金山」(Wikipedia)

 「江戸時代」(文飾は当方)

〈慶長6年(1601年)徳川家康の所領となる。同年、北山(ほくさん)(金北山)で金脈が発見されて以来、江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。特に17世紀前半に多く産出された。

江戸時代における最盛期は江戸時代初期の元和から寛永年間にかけてであり、金が1年間に400 kg以上算出されたと推定され、銀は1年間に1万貫(37.5 トン)幕府に納められたとの記録がある。当時としては世界最大級の金山であり、産銀についても日本有数のものであり江戸幕府による慶長金銀の材料を供給する重要な鉱山であった。なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営し、大量の金銀を産出した佐渡鉱山の中心であった。産出し製錬された筋金(すじきん/すじがね)および灰吹銀は幕府に上納され、これを金座および銀座が預かり貨幣に鋳造した。また特に銀は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出され、佐渡産出の灰吹銀はセダ銀とも呼ばれた。

しかし江戸中期以降佐渡鉱山は衰退していった。1690年には佐渡奉行を兼任していた荻原重秀が計15万両の資金を鉱山に投入する積極策を取って復興を図り、その結果一時的に増産に転じたが、結局その後は衰微の一途を辿り、以降江戸時代中に往年の繁栄が戻ることはなかった。

江戸時代後期の1770年頃からは江戸や大阪などの無宿人(浮浪者)が強制連行されてきて過酷な労働を強いられたが、これは見せしめの意味合いが強かったと言われる。無宿人は主に水替人足の補充に充てられたが、これは海抜下に坑道を伸ばしたため、大量の湧き水で開発がままならなくなっていたためである。

水替人足の労働は極めて過酷で、「佐渡の金山この世の地獄、登る梯子はみな剣」と謳われた。江戸の無宿者はこの佐渡御用を何より恐れたといわれる。水替人足の収容する小屋は銀山間の山奥の谷間にあり、外界との交通は遮断され、逃走を防いでいた。小屋場では差配人や小屋頭などが監督を行い、その残忍さは牢獄以上で、期限はなく死ぬまで重労働が課せられた。

 無宿人と言えども、戸籍を持たない浮浪者であって、犯罪者ではない。それを捕まえて、佐渡金山に強制連行し、過酷な強制労働を課した。

 序に佐渡金山の「水替人足」について同じ「Wikipedia」から見てみる。

 〈当初、水替人足は募集により行われており通常の町方や農民の者が中心であった。また、各国から石高に応じて在方から強制的に割り当てられてくる農民も存在した。極めて重労働であるため、それに見合った高い賃金が支払われており、周辺の町村は非常に潤ったとされる。

 しかしながら、坑道が掘り進められるとともに労働環境の過酷さも増し、また水替人足もより大人数が必要となったが、それに見合った応募者数が得られず、採鉱に支障が生じ始めたため、安永6年(1777年)から、組織的に無宿者が佐渡金山へ水替人足として送られることとなり、翌年から使役が始まった。

 天明の大飢饉など、折からの政情不安により発生した無宿者が大量に江戸周辺に流入し、様々な凶悪な罪を犯すようになった。その予防対策として懲罰としての意味合いや、将軍のお膝元である江戸の浄化のため、犯罪者の予備軍になりえる無宿者を捕らえて佐渡島の佐渡金山に送り、彼らを人足として使役しようとしたのである。

 発案者は勘定奉行の石谷清昌(元佐渡奉行)。佐渡奉行は治安が悪化するといって反対したが、半ば強引に押し切る形で無宿者が佐渡島に送られることになり、毎年数十人が送られた。総数では、開始された1778年から幕末まで、1874人が送られたとの記録がある。

 当地の佐渡では遠島の刑を受けた流人(いわゆる「島流し」)と区別するため(佐渡への遠島は元禄13年(1700年)に廃止されている)、水替人足は「島送り」と呼ばれた。

 当初は無宿者のみを佐渡に送ったが、天明8年(1788年)には敲(むち・鞭打ち刑)や入墨の刑に処されたが身元保証人がいない者、さらに文化2年(1805年)には人足寄場での行いが悪い者や追放刑を受けても改悛する姿勢が見えない者まで送られるようになった。

 犯罪者の更生という目的もあった(作業に応じて小遣銭が支給され、改悛した者は釈放された。佃島(石川島)の人足寄場とおなじく、囚徒に一種の職を与えたから、改悟すれば些少の貯蓄を得て年を経て郷里に帰ることを許された)が、水替過酷な重労働であり、3年以上は生存できないとまでいわれるほど酷使された。そのため逃亡する者が後を絶たず、犯罪者の隔離施設としても、矯正施設としても十分な役割を果たすことが出来なかった。

 島においてさらに犯罪のあったときは鉱穴に禁錮されたが、これは敷内追込といい、また島から逃亡した者は死罪であった。〉――

 島からの逃亡者は死罪とされていたが、それでも「逃亡する者が後を絶た」なかった。無宿人は犯罪者の予備軍となる恐れがあったとしても、犯罪者ではない。のちに刑を終えた者までが連行され、強制労働に従事させられた。いわば江戸時代の佐渡金山は高市早苗が言う「伝統的手工業」なる技術のみでは片付けることのできない“鉱夫残酷物語”の舞台となっていた。あるいは「伝統的手工業」なる技術の陰で“鉱夫残酷物語”が演じられていた。日本独自のものだからとその技術のみを取り上げて、世界文化遺産への登録を目指す感覚は果たして正常だと言い切れるだろうか。歴史はその時代の人間が創るのであって、技術単独ではない。

 戦時中の佐渡金山に「募集」、「官斡旋」、「徴用」と言った名目で送られてきた朝鮮人鉱夫たちがどのような人間扱いを受けていたのか、高市早苗は江戸時代と「戦時中と全く関係はありません」と言っているが、歴史がひと続きであることと、江戸時代を学び、明治・大正と受け継いで、昭和を10年余も進んだ日本人がしていたことだから、どれ程のことを学んだのかを確かめないわけにはいかない。

 大日本帝国が韓国を明治43年に植民地としたことは韓国という国と韓国民に対して大日本帝国と日本国民を優越的地位に立たせことを意味する。端的に言うと、その優越性を権力・威力に変えて、相手の意思を無視する強圧的な態度を性格とすることとなった。強圧的とは友好的を一切欠いた状態を指す。保護国時代から韓国の土地・農地を奪い、1910年代の韓国併合後の「土地調査事業」によって土地・農地の収奪をさらに進め、最終的に小作人化した多くの朝鮮農民からの小作料で利益を得る地主制を定着させた。大正年間には千町歩以上の農地を所有していた日本人地主が30人近く存在したと言う(「旧植民地・朝鮮における日本人大地主階級の変貌過程(上)」)。20町歩が東京ドームの約4個分に相当すると言うから、日本人地主の30人近くが東京ドーム200個分の巨大な農地を抱えていた。それ以下の面積の農地を手に入れていた日本人も多くいたはずである。

 このような朝鮮人小作人からの搾取の構造は日本人の朝鮮人に対する強圧的な態度の罷り通りなくして存在し得ない。日本の朝鮮支配の最高機関である朝鮮総督府が朝鮮人に行なった強圧的な政策の代表格は被植民地国民である朝鮮人を天皇の民に変える皇民化政策の一環として1939年(昭和14年)11月公布、翌1940年(昭和15年)2月施行の朝鮮民事令改正によって強制した「創氏改名」(コトバンク)を挙げることができる。

 〈「創氏改名」は、日本風の氏をつくる「創氏」と、名前を変える「改名」に分けられ、創氏は強制、改名は任意であった。ただし、姓名が消されたり変更されたりしたわけではなく、戸籍には「氏名」と「本貫(ほんがん=本籍地)・姓」の両方が記載されていたが、これ以降、「氏名」が朝鮮人の公的な名前となり、それまでの「姓名」は通称として扱われることとなった。〉――

 1940年(昭和15年)8月までと期限を区切って改名を求め、〈改名しない者には公的機関に採用しない、食糧配給から除外するなどの圧力をかけたために、期限内に全戸数の80%が届け出た。『内鮮一体』を提唱する南次郎朝鮮総督の政策の一つ。〉(『日本史広辞典』(三省堂)

 最も効果的な圧力は「食糧配給から除外する」であったろう。戦国時代で言うところの兵糧攻めに相当する。このように強圧的・一方的に朝鮮民族として代々受け継いできた姓名を日常的に使うことから取り上げ、日本式の名字を名乗ることを強要した。

 当然、日本人の朝鮮人に対するこのような優越的地位からの強圧的・一方的態度は内地に向けた朝鮮人労務動員にも反映されないことはない。「戦時期日本へ労務動員された朝鮮人鉱夫(石炭、金属)の賃金と民族間の格差」(李宇衍・イ・ウヨン落星台経済研究所 : 研究委員/九州大学学術情報リポジトリ)は日本人、朝鮮人共に能力に応じた同一の賃金体系が適用されていて、経験年数による熟練度の差を受けた仕事量の違いによる賃金格差しかなかったと様々なデータを駆使して説明している。最初の頃は朝鮮人の経験年数が少ないことから、能率給に差が出ていたが、戦争が進むにつれて日本人鉱夫が徴兵で戦争に取られ、朝鮮人鉱夫の経験年数が相対的に上がって、日本人鉱夫よりも賃金を多く受け取る朝鮮人も出てきたとしている。

 但し著者は日本人と朝鮮人の間に賃金格差の事実が存在しないことの事情を次のように解説している。〈国家総動員という総力戦の状況で何より重要なことは増産であった。これのためには労務者に誘因を提供しなければならず、戦時下の貨幣の増刷と戦時産業に対する支援により企業は豊富な資金を持っている状況で金銭的な理由で生産能率と関係なく朝鮮人を差別する理由はなかったはずである、これは(※差別は)戦時体制を運営するにあたってむしろ否定的な影響を与えるからである。〉

 国家は戦争を勝利に導くために、実際には悪足掻きに過ぎなかったが、紙幣を大量に印刷し、戦時産業に武器生産の資源となる鉱物の産出の尻を叩くために資金を豊富に与えた。戦時産業側にしても国家の至上命令に応えなければならないから、下手に逃亡されたりストライキを起こされたりしたら、国の覚えが悪くなって、どのような介入を受けるか分からないから、賃金に差など付けてはいられなかった。できることは、能率給にすることで掘削の尻を叩くことぐらいだった。

 このことを裏返すと、非常時ではなかったら、人種間の賃金格差は存在していたという仮説は成り立つ。日本が金本位制に加わっていた頃は貿易の際の為替決済時に金を必要とすることから、佐渡金山の金は需要が高まったものの、日米開戦の際は欧米各国から輸出入禁止の措置を受けて金の貿易決済は必要なくなり、多くの金山が閉鎖措置を受けたものの佐渡金山は武器生産資源や他の工業資源としての銅も大量に算出していたために銅山として引き続いて掘削が続けられて、多くの朝鮮人が動員されたと言う。

 上記同著者は朝鮮人に対する強制連行があったかどうかの解説は行なっていない。朝鮮人労務動員の形式と内容を「韓国徴用工裁判とは何か」(竹内廉人)から見てみるが、大日本帝国が韓国を植民地化することによって日本国家と日本国民が朝鮮人に対して備えた優越的地位が仕向けることになる強圧的・一方的態度が労務動員にも発揮されていたことが分かる。

 先ず労務動員の形式と各時期について。〈労務動員は1939年からは「募集」、1942年からは「官斡旋」。1944年からは「徴用」の形でおこなわれました。日本政府は動員のために警察署内に協和会を設立して朝鮮人を監視し、動員数にあわせて警察官を増員しました。1944年には軍需会社を指定し、それにより、動員されていた朝鮮人も軍需徴用しました。

 軍務動員では、1938年から志願兵、1944年からは徴兵によって朝鮮人を動員しました。また、軍の労務のために工員、傭人、軍夫など、軍属としても動員しました。軍や事業所関係で「慰安婦」として動員された朝鮮人もいました。〉――

 「協和会」の「協和」とは「心を合わせ仲よくすること」を言うが、植民地支配者側が被支配者に対して支配と被支配の関係について「協和」の精神でいこうを謳い文句としていることになるのだから、被支配者側の朝鮮人からしたら、見え透いたおためごかし(表面は人のためにするように見せかけて、実は自分の利益を図ること。「goo辞書」)に過ぎなかっただろう。

 次に各動員の実態について。

 〈2 募集による動員

 1937年からの中国への全面戦争により、総力戦態勢がとられ、1938年4月には国家総動員法が、1939年7月には国民徴用令が公布されました。動員に先立ち、同年(※1939年)6月には中央協和会が設立され、各地に協和会がつくられていきました。(※1939年)7月、労務動員計画が閣議決定され、「朝鮮人労務者内地移住ニ関スル件」が出されました。それにより、募集の名による朝鮮人の労務動員がはじまったのです。

 朝鮮総督府警務局保安課が作成した『高等外事月報』の第2号(1939年8月)には、募集による動員方針を示す「朝鮮人労働者内地移住ニ関スル方針」、「朝鮮人労働者募集要綱」(内地側)、「朝鮮人労働者募集並取扱要綱」(朝鮮総督府側)などが収録されています。この計画によって、(※1939年)9月から朝鮮現地での募集がはじまりました。募集といっても動員計画によるものです。企業は地方長官(※明治憲法下における府県知事・東京都長官・北海道長官の総称「コトバンク」)経由で政府・厚生省に動員希望数を出し、厚生省の承認を得た後に、総督府から朝鮮人を募集する道と郡(※日本統治時代の朝鮮の行政区画。「Wikipedia」)の指定をうけ、現地の官憲と協力して募集していったのです。

 慶尚北道(キョンサンプクド)には開拓労務協会、慶尚南道(キョンサンナムド)には内鮮協会などの官制組織があり、募集企業は寄付金を出して、動員を委ねています。指定された郡で面(行政区分)の職員や警察の協力により、企業による集団募集がなされたのです。それは強権的な朝鮮総督府の警察機構を利用した、国策による強制的な集団動員でした。10月に入り、募集された朝鮮人は北海道や福岡の炭鉱などに連行されました。〉――

 募集動員の方針自体が「朝鮮総督府警務局保安課」(※朝鮮総督府に置かれた朝鮮における警察事務管掌「Wikipedia」)の作成という一点のみで、国策を背景とした官憲関与を証拠立てていて、「募集」という名称のみは穏やかな人集めに見えるが、植民地に於ける支配者側の官憲関与であり、そこに強圧的な力が働く余地を十分に備えていたことになって、強制連行にいつ姿を変えてもおかしくない要素を抱えていたと見ることができる。

 〈官斡旋の動員は1942年2月の「朝鮮人労務者活用ニ関スル方策」の閣議決定によってはじめられました。朝鮮総督府は「朝鮮人内地移入斡旋要綱」を策定し、総督府の下に置かれた朝鮮労務協会を利用しました。日本政府による承認を得た企業に、朝鮮総督府へと朝鮮人労務者斡旋申請書を提出させ、郡単位で人々を駆りあつめ、隊組織を編成し、軍事的な集団訓練をおこなったうえで動員したのです。また政府は同年(※1942年)2月、「移入労務者訓練及取扱要綱」を作成しました。これは労務動員された朝鮮人を職場で管理し、統制するためのものでした。

  (中略)

 増加する朝鮮人の動員に対応し、同年(※1942年)5月には、山口県の下関で石炭統制会、鉱山統制会、鉄鋼統制会、土木工業協会などが朝鮮人労務者輸送協議会をもち(下関会議)、動員の申し込みを総督府の労務課にすることや、東亜旅行社が輸送を担当することなどを決めます。また、現場から逃走する朝鮮人が多いため、同年(※1942年)8月には、「移入朝鮮人労務者逃走防止対策要綱」が示され、逃走防止のための会合がもたれました。〉――

 1942年8月に「移入朝鮮人労務者逃走防止対策要綱」を作成しなければならないこと自体が官(=朝鮮総督府)で斡旋した朝鮮人労務動員でありながら、強制労働を許していた状況を窺うことができる。1939年から「募集」が始まり、「官斡旋」が始まったのは1942年の3月からとなっていて、その2カ月後に「逃走防止対策要綱」を作成した。「募集」から「官斡旋」へと動員(人集め)の形式を変えたこと自体が前者の満足できない成果に対して後者の方法で満足できる成果を得るべく方向転換したことを窺わせて、当然、そこに強制性の加味を見ることになる。日本への労務動員に心理的に忌避感を抱えている者をそれを無視して連行したとしても、忌避感は鎮めることはできず、却って募らせることになり、一切を断ち切りたくなったとき、逃亡という衝動を芽生えさせ、断ち切りたいという思いの強さに応じて実行する者が出てくる。先に挙げた李宇衍(イ・ウヨン)氏の文章中に、〈朝鮮人は契約期間が2年であり、契約期間満了後に期間を延長する者はとても少なく、満了以前に逃走したものがとても多かった。〉の一文がある。

 満了まで我慢した者が満了に応じて期間延長を求められたとしても、「いえ、帰国します」と断ることができる体制にあったなら、満了以前に逃走する者など出てこない。期間延長によって人数を確保することも動員のうちに入る。継続動員ということかもしれない。人集めの段階から強制性を窺わせ、それが重労働であるなしに関係なしに使役の段階でも強制性を纏わせていた疑いが出てくる。

 〈4 徴用による動員

 労務動員では、官斡旋による動員の実施から2年を迎えようとするなか、1943年12月に軍需会社法が施行されました。それにより1994年1月、日本製鉄、三菱重工業、中島飛行機など主要な重化学工場が、1944年4月には、三井鉱山や三菱鉱業をはじめ、主要な炭鉱が軍需会社に指定されました。軍需会社に指定されると、そこで働く人々は徴用扱いとされました。これを軍需徴用、または現員徴用といいます。募集や官斡旋で動員され、現場に残っていた朝鮮人も徴用扱いとされました。軍需徴用されると、知事から徴用告知書が渡されました。

 官斡旋による動員者は2年契約のものが多く、1944年の4月以降、帰国を求める朝鮮人が増え、争議も起きました。それに対して政府は、4月に「移入朝鮮人労務者ノ契約期間延長ノ件」を出して、定着を強要しました。朝鮮現地では官斡旋による動員が続けられますが、動員への抵抗により、割り当てられた人数を確保できないことが多くなります。

 この頃、植民地の行政事務を内務省管理局が管轄していましたが、内務省は朝鮮に担当者を派遣し、状況を報告させています。内務省管理局から朝鮮に派遣された小暮泰用による復命書(報告書)は1944年7月に記されていますが、官斡旋での朝鮮現地での動員を「人質的略奪」、「拉致」と記しています。甘言で騙して連れてくる、これを欺罔(※欺き)よる連行といいますが、それができなくなると暴力的な拉致がなされたのです。現地の動員担当者はより強力な動員態勢を求め、徴用の発動による動員を願うようになりました。

 このようななかで、1944年8月、「半島人労務者ノ移入ニ関スル件」が閣議決定され、9月からは徴用による労務動員がおこなわれたのです。徴用は、政府・厚生省が地方長官経由で各企業に割当数の認可を伝え、企業は徴用申請書を政府・軍需省経由で朝鮮総督府に提出し、総督府の下で道知事が徴用を発令するという形ですすめられました。朝鮮総督府の鉱工局に勤労動員課がおかれ、動員業務をおこなうようになりました。11月、中央協和会は中央興生会に改組されました。

 1945年1月には、軍需充足会社令が公布されました。それにより、土建業や港湾・運輸業の労働者も徴用扱いになっていきます。

 (※1945年)6月、朝鮮総督府は「徴用忌避防遏(※ぼうあつ・ふせぎとめること)取締指導要綱」を作成しています。現地では徴用忌避の動きが強かったのですが、この要綱では徴用忌避があった場合、その家族、親戚、愛国班(日本における隣組)から代わりに人を送出することを求めています。このように6月に至るまで、現地では割当数を満たすために執拗な動員がすすめられました。日本への動員は6月で終わります。〉――

 国から軍需指定された工場や鉱山で働いていた日本人、朝鮮人等が1944年4月以降、突然、「お前は国の徴用を受け」たと告知される。この一点を以ってしても、国側の強圧的な態度が仕向ける強制性が見えてくる。労務動員を受ける韓国現地の民情等を視察した小暮泰用の1944年の「復命書」を取り上げ、労務動員を「暴力的な拉致」との表現でその強制性を指摘しているが、この「復命書」については原文のまま取り上げているPDF記事を参考にして後で取り上げてみる。

 朝鮮総督府が1945年6月に「徴用忌避防遏取締指導要綱」を作成、〈徴用忌避があった場合、その家族、親戚、愛国班(日本における隣組)から代わりに人を送出することを求めています。〉云々は国が勝手に法律や規則を作ってそれぞれの取り決めに個人の行動を規制し、その規制に応じないからと言って当人の行動に関係しない近接者に身代わりを求める遣り口で、この有無を言わせない強制的な手口は一種の連座制であって、江戸時代の封建主義にまで遡る。当時の大日本帝国国家が植民地国民に対しても、自国民に対してもどれ程に横暴であったかを如実に物語っている。その横暴に多くの朝鮮人や少なくない日本人が犠牲となった。犠牲の発端は欧米列強の植民地獲得レースの尻馬に乗って、自らも植民地獲得レースに参加したことから始まっている。

 労務動員自体が本人の意思に反して強権的かつ強制的に行われたなら、強制連行となり、動員先の労働が肉体的に耐えられる範囲のものであっても、本人の意思に反して課している労働であることに変わりはなく、強制労働となる。高市早苗は菅内閣の答弁書閣議決定を用いて対朝鮮人動員を「国民徴用令に基づく徴用だ」と言い、強制連行ではないとしているが、法令上に限ったことで、実態は強制連行は広く行われていた。

 そもそもの「募集」形式の労務動員の段階から朝鮮総督府と総督府一部局の朝鮮総督府警務局指揮下の最末端地方警察署警察官と駐在所巡査が関わっていた一事を以って強圧的な強制性を窺わなければならないが、それが「官斡旋」と名を変えて「官」の関与を強めた経緯からは強制性を強化したことの答しか出てこないが、「<論説>足尾銅山・朝鮮人強制連行と戦後処理」(古庄正)に「官斡旋」方式の労務動員で強制連行扱いを受けた一朝鮮人の証言が紹介されている。

 要約すると、1921年生れ、22歳になるのか、鄭雲模さんが1942年2月のある日突然面事務所に呼び出された。面事務所には足尾銅山通洞坑の斉藤坑夫長(後に足尾銅山副所長となる)と朝鮮人労務担当員がいた。斉藤は鄭さんに「お国のためだから栃木県足尾銅山に行って3年間働いてこい」と言った。父親を亡くし,年老いた母の面倒をみなければならなかった鄭さんは,これを断った。そのため,彼は「国のため,天皇のためということがわからないのか」と言われ,朝鮮人労務担当員に殴る蹴るの暴行を受けた。朝鮮人労務担当員には斉藤坑夫長からその場で札束が渡された。翌朝6時頃,鄭さんは母を連れて逃亡を企てたがすでに遅く、家の前にはトラックが止まり,3~4人の者が家を囲み監視していた。結局,鄭さんはそのままトラックに乗せられ清州に連行された。そこには100~150名の朝鮮人の若者が狩り集められていた。鄭さんたちは草色の作業服を支給され,着替えるよう命じられた。作業服は南京袋のような生地でごわごわしていて、大変目立つ色だから、逃亡防止のためだと思われた。全員がその晩のうちに特別列車で釜山まで送られた。車中では小用を足すところまでも厳重に監視され、下関に着いてからは監視はさらに強まり、1943年3月に足尾銅山に連行された。

 本人が断ったにも関わらず、暴行を加えて、連行した。全て本人の意思に反していることだから、それが国民徴用令に基づいていたとしても強制連行となり、命じた労働は例え賃金格差がなかったとしても、強制労働そのものとなる。

 上記場面には官憲と名称させた人物は登場していないが、斉藤坑夫長にしても、朝鮮人労務担当員にしても、こういった暴力的な動員に関して警察が承知していて眼をつぶることを当然視していなければ、動員を断っただけの人間に対して殴る蹴るの暴行を働くことはできなかったろうし、斉藤坑夫長はその暴力を脇で眺めていることもできなかったろう。その上斉藤坑夫長が「国のため,天皇のためということがわからないのか」と口にしていたのだから、「全ては国のため,天皇のためなんだ」と内心では朝鮮人労務担当員の暴行と強制連行を正当化していたはずだ。

 そしてこのような暴力的な強制連行が単なる一例でないことを竹内廉人氏が紹介していた文書、「小暮泰用より管理局長竹内徳治宛『復命書』」(外村太研究室)から覗いてみる。小暮泰用は内務省の嘱託として朝鮮民情の動向並びに地方行政状況調査のために朝鮮へ出張、敗戦約1年前の昭和19年(1939年)7月31日にその報告書を内務省管理局長竹内徳治宛に提出。生活環境も日本国内と同様に相当に悪化していたであろう。併合韓国内でも徴兵と徴用によって労働力不足と生産活動の低下。日本の米不足に対応させる朝鮮米の日本移入と韓国自体の米不足、配給の遅滞、物価高騰等々を生み(『復命書』文章中に次のような一節がある。〈一般に朝鮮の地方農村には勤労過重なる場合が多く極端になれば三食とも草根木皮の粥腹である為め体錬の時間にすら貧血率倒する頑是ない子供が勇々しく(※ゆゆしく・いさましく)も鍬や鎌を手にし文字通り身を粉にして勤労に従事しつつあるのを目睹し一掬の涙なきを得ない実情である〉)、大本営の連戦連勝の発表にも関わらず戦争勝利に対する懐疑が日本国内と同様に多くの朝鮮人の心に渦巻くことになっていたはずで、にも関わらず、大日本帝国政府も朝鮮総督府も韓国からの労務動員に躍起になっていた。当然、強圧的な強制性が全体的に強まっていったことは容易に想像できることで、当文書がそれを証明することになる。

 「四、第一線行政の実情」「ロ」の記述。

 〈(食糧供出に於ける殴打、家宅捜索、呼出拷問労務供出に於ける不意打的人質的拉致等)乃至稀には傷害致死事件等の発生を見る如き不祥事件すらある

 斯くて供出は時に掠奪牲を帯び志願報国は強制となり寄附は徴収なる場合が多いと謂ふ〉

 「供出」とは一定の価格で政府に売り渡させることを言う。目的の供出量に達しなかったためにだろう、殴打したり、家宅捜索したり、呼出拷問したりして、少数の例外はあるだろうが、殆どが有り余っているわけではない食糧を無理矢理供出させる。そしてこういったことができるのは日本の現地警察に雇われた朝鮮人巡査である。そして不意打的に人質的拉致同然に労務供出、つまり労務動員させる。結果、行き過ぎて傷害致死事件等が発生する。こうした横暴ができるのも植民地支配国家として優に優る軍事力と警察力で朝鮮人を人質に取っていたも同然だったからである。 

 「内地移住労務者送出家庭の実情」について、〈従来朝鮮に於ける労務資源は一般に豊富低廉と云はれて来たが支那事変が始つて以来朝鮮の大陸前進兵站基地としての重要性が非常に高まり各種の重要産業が急激に勃與し朝鮮自体に対する労務事情も急激に変り従って内地向の労務供出の需給調整に相当困難を生じて来たのである〉

 〈然し戦争に勝つ為には斯の如き多少困難な事情にあっても国家の至上命令に依って無理にでも内地へ送り出さなければならない今日である、然らば無理を押して内地へ送出された朝鮮人労務者の残留家庭の実情は果して如何であらうか、一言を以て之れを言ふならば実に惨憺目に余るものがあると云っても過言ではない

 蓋し朝鮮人労務者の内地送出の実情に当っての人質的掠奪的拉致等が朝鮮民情に及ぼず悪影響もさること乍ら送出即ち彼等の家計収入の停止を意味する場合が極めて多い様である、其の詳細なる統計は明かでないが最近の一例を挙げて其の間の実情を考察するに次の様である

 大邱府の斡旋に係る山口県下沖宇部炭鉱労務者967人に就て認査して見ると一人平均月76円26銭の内稼働先の諸支出月平均62円58銭を控除し残額13円68銭が毎月一人当りの純収入にして謂はば之れが家族の生活費用に充てらるべきものである

 斯の如く一人当りの月収入は極めて僅少にして何人も現下の如き物価高の時に之にて残留家族が生活出来るとは考へられない事実であり、更に次の様なことに依って一層激化されるのである

(イ)、右の純収入の中から若干労務者自身の私的支出があること
(ロ)、内地に於ける稼先地元の貯蓄目標達成と逃亡防止策としての貯金の半強制的実施及払出の事実上の禁止等があって到底右金額の送金は不可能であること
(ハ)、平均額が右の通りであって個別的には多寡の凹凸があり中には病気等の為赤字収入の者もあること、而も収入の多い者と雖も其れは問題にならない程の極めて僅少な送金額であること

以上の如くにして彼等としては此の労務送出は家計収入の停止となるのであり况(※いわんや)作業中不具廃疾となりて帰還せる場合に於ては其の家庭にとっては更に一家の破滅ともなるのである〉

 〈私が今回旅行中慶北義城邑中里洞金本奎東(23才)なるものが昭和18年7月1日北海道へ官の斡旋に依り渡航した家庭を直接訪問して調査したるに、最初官の斡旋の時は北海道松前郡大沼村荒谷瀬崎組に於て本俸95円、手当を加へ合計月収130円となる見込みとの契約にて北海道より迎へに来た内地人労務管理人に引率され渡航したる後既に1年近くになっても送金もなければ音信もない家に残された今年63才の老母1人が病気と生活難に因り殆んど頻死の状態に陥って居る実情を目撃した、斯の如き実情は此の義城のみならず西鮮、北鮮地方に極めて多く、之等送出家庭に於ける残留家族の援護は緊急を要すべき問題と思はれる〉――

 満身創痍の日本の経済を回すためだけのために朝鮮人を日本に強制的に徴用して、徴用された朝鮮人の家庭が瀕死の状態に陥ろうと顧みなかった。賃金の半強制的貯蓄と払出の事実上の禁止は逃亡防止策と同時に企業の回転資金転用を目的としていたはずだ。例え帰国時に全額支払ったとしても、雇用中は低賃金で雇っていた計算になる。しかも1965年締結「日韓請求権協定」の際の交渉では韓国側から被徴用韓国人未収金を当時のレートで2億3700万円(Wikipedia)も請求されていたのだから、賃金が支払われなかった朝鮮人被徴用は相当数にのぼっていたことになる。

 〈「 (ハ)、動員の実情」

徴用は別として其の他如何なる方式に依るも出動は全く拉致同様な状態である

其れは若し事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種の方策を講じて人質的掠奪拉致の事例が多くなるのである、何故に事前に知らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼等を精神的に惹付ける何物もなかったことから生ずるものと思はれる、内鮮を通じて労務管理の拙悪極まることは往々にして彼等の身心を破壊することのみならず残留家族の生活困難乃至破滅が屢々あったからである〉――

 以上のように韓国からの「募集」、「官斡旋」、「徴用」による対朝鮮人労務動員は情け容赦のない強圧的な強制連行を実態としていた。そしてこのことを可能にしていた要因は、繰り返しになるが、日本が植民地支配国家であり、植民地被支配国家韓国とその国民である朝鮮人を軍事力と警察力で人質に取っていたも同然の関係を築いていたからであるが、高市早苗はこういった両者関係と労務動員の実態を頭に置かずに、「日韓併合条約によって同じ日本人として戦時中、日本人と共に働き」と認識し、「国民徴用令に基づいて旅費や賃金を受け取って朝鮮半島から内地に移入して働いておられた方々」、「旧国家総動員法第4条の規定に基づく国民徴用令により徴用された朝鮮半島からの労働者の移入についてはこれら法令により実施されたものである」と、日本の対韓国植民地経営と朝鮮人支配を友好・平和な関係と片付けることのできる歴史認識は大日本帝国国家を正当化したい気持ちからだろうが、お目出度い頭をした歴史修正主義以外のなにものでない。

 佐渡金山鉱夫の非人間的な強制連行・強制労働は江戸時代の日本人鉱夫から戦前の労務動員された朝鮮人鉱夫までひと続きの歴史であり、前者は幕府によって、後者は大日本帝国によって歴史とされるに至った。この消し難い歴史を高市早苗や安倍晋三等の歴史修正主義者たちはご都合主義から直視せずに美しい内容に仕立て、ユネスコ世界遺産登録を目指す。

 歴史を反省して、反省のための負の遺産として登録を目指すなら理解もできるが、そうでなければ、対象が江戸時代限定であったとしても、その実態は非人間的な強制連行・強制労働の“鉱夫残酷物語”の世界遺産登録を目指すことに他ならない。


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