亀井静香の夫婦別姓反対と外国人受入れポイント制からは活力ある社会は生まれない

2010-02-08 08:25:06 | Weblog

        ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

 亀井金融担当相が昨7日の日曜日に広島市で講演し、「選択的夫婦別姓」と「外国人参政権」の2法案に反対する考え表明したと「FNN」記事――《亀井金融担当相、「選択的夫婦別姓」と「外国人参政権」の2法案に反対する考え表明》(10/02/07 18:03)が伝えている。古臭い考えに取り憑かれた石頭の持主と前々から分かっていたことで、講演で言わなくても反対なのは既成事実として受け止め可能は話となっている。

 亀井静香「(夫婦別姓の導入で)家の表札が、アパートみたいに名前が違う。こういうことが、あるべき姿なんでしょうかねぇ。国民新党は、2つ(選択的夫婦別姓・外国人参政権)とも反対です。2つともこれ、絶対成立をいたしません。法案として国会に提出できないからだ。わたしが『ノー』と言ったら」――

 夫婦別姓を選択した場合は「家の表札が、アパートみたいに名前が違う」ことになるだろうが、「アパートみたいに名前が違う」ことによってその表札が夫婦別姓の家であることを表していたとしても、あくまでもその“違い”は夫婦別姓に反対の第三者から見た場合の表札の問題であって、中に住む夫婦の価値観に影響しない“違い”であろう。

 なぜなら表札はあくまでも夫婦別姓を反映する象徴でしかなく、表札の反映としてある夫婦別姓ではないからだ。反対と賛成、それぞれの価値観は何よりも自身が担っている「あるべき姿」(=信念)としてあるものであろう。

 いわば「家の表札」を挙げた反対論は合理的とは言えない。夫婦別姓賛成の者から言わせたら、「法律で許されることになったら、名前の違う表札を百個つけたっていい」ということもあるに違いない。

 石頭だから、亀井は表札の問題を以ってして自身の価値観と異なるからと、夫婦の価値観を律しようとしている。

 時代の変化に応じて加減が生じるだろうが、結婚するすべての夫婦が別姓を選択するわけではないだろう。社会を乱すわけではない別個の価値観を許すだけの心の余裕が亀井静香にはないらしい。

 夫婦別姓の動きは創氏改名のように政治権力の強制から生まれたわけではない。戦後社会の中で社会的な男女平等の思想の移り変わりと共に自然発生的に生じてきたはずである。女性は男性に従うべきとする男尊女卑の価値観が色濃く横行した戦前とそれをなおも色濃く引きずった戦後ニ十年前後までは考えられもしなかった価値観であったはずだ。

 今度は創氏改名と同じように社会的な価値観の変化に逆らって政治権力によって同姓へと強制しようとしている。

 価値観はそれぞれに自由であるべきだ。石頭は石頭なりの価値観に従えばいい。他人に押し付けるべきではない。それを自由であるべき他の価値観まで石頭の価値観で縛ろうとする。

 社会が変化し、その変化に応じて個人の意識が変化し、当然それぞれの価値観や文化が変化しているにも関わらず、女は男に従うべきだといった男が今以て存在するように過去の価値観に囚われる、あるいは過去の文化に囚われる場所からは社会的に活力あるエネルギーは生まれない。

 過去の価値観、過去の文化に囚われるとはそれが優れている唯一のものとする思い込みがあるからだが、優れている唯一のものとする思い込みに陥った価値観や文化からは、そういった価値観や文化に踏みとどまろうとする力が主として働くため、思考や行動に関わる創造的なエネルギーが生まれにくくなり、逆に活力あるエネルギーの停滞を誘う。

 創造的なエネルギーは別の価値観や文化を生む力となるから、過去の価値観、過去の文化を優れている唯一のものとする思い込みと衝突することとなり、一つの価値観や文化に踏みとどまろうとする力にとっての否定要素として立ちはだかることになるからだ。

 このような経緯からすると、当然のことだが、先進諸国に於いて日本の女性の社会参加が少ないことが先進諸国と比較して社会のエネルギーを殺いでいるということになる。

 一例を挙げると、企業の上層で働いていた、あるいは看護師として大きな病院で活躍していた女性が結婚して何年か育児に専念して職場に戻ろうとしたとき、日本の社会は閉鎖的であることから、元の地位に戻れずにパートの単純労働を強いられるといったケースがよくある例として見られるが、そういった事例は確実に社会のエネルギーを殺いでいるはずだ。

 それぞれが持つ能力と価値観、文化を十全に発揮してこそ、エネルギーに満ちた活力ある社会が生まれる。

 あるいは男性としての価値観、文化とそれぞれの男性個人としての価値観、文化のみが活動する社会と、そういった男性性と女性としての価値観、文化とそれぞれの女性個人としての価値観、文化とが混在した社会とではどちらが社会的・文化的に創造的なエネルギーを生じせしめるか一目瞭然であるはずである。

 夫婦別姓の子どもが夫婦どちらかの姓を選択することになって、そのことによって学校でいじめられるとしたら、亀井静香の石頭を引き継いだようなそういったいじめる子どもは夫婦同姓という一つの価値観、文化を絶対として上に位置づける権威主義に囚われた狭い考えの持主となることを学校は教え諭さなければならない。「亀井静香みたいな石頭になりたいの、あんた」と。

 男尊女卑の権威主義を今以て引きずっている者は夫婦別姓は女性が男に従う存在であることから離れて対等以上の独立した存在になるように思えて、そのような妻の独立性への忌避感から反対する意識が働いているのではないだろうか。

 一つの価値観、文化を優れた唯一のものだとする他の価値観・文化の封じ込めが社会的・文化的に創造的なエネルギーの停滞を招く例は「外国人受入れポイント制」にも見ることができる。

 全文参考引用――
 
 《外国人受け入れにポイント制、専門技術者ら優遇 法務省》asahi.com/2010年1月20日3時16分)

 法務省は19日、新たな出入国管理政策として、専門知識や技術を持つ外国人に資格や年収に応じた点数をつけ、高得点者を入国や永住許可で優遇する「ポイント制」を導入する方針を固めた。将来の人口減を見据え、研究者や医師といった専門家の受け入れを進めて経済成長力を維持するのが目的だ。

 一方で、最近の景気悪化で失業や生活苦が問題になっている出稼ぎ目的の日系人については、入国要件を厳しくする方向で制度を改める。

 法相の私的懇談会「第5次出入国管理政策懇談会」(座長=木村孟・文部科学省顧問)が19日、千葉景子法相に報告書を提出。これを受け、同省が出入国管理法や政令の見直しの検討に入った。早ければ来年の通常国会に入管法改正案を提出する。

 外国人のポイント制は英国、カナダ、オーストラリアなどが導入している。日本が対象として想定しているのは研究者や医師のほか、弁護士、技術者、企業経営者など。学歴や資格、職歴、年収などに応じて点数をつけ、一定水準を超えた人を「高度人材」と認定。在留期間を通常より長く認めたり、原則として滞在10年で認める永住許可を5年で認めるなどの優遇措置を与える。

 日系人の入国、在留許可にあたっては、就職先が確保されているなどの「独立して生計を営む能力」を要件とする方向。また、将来的には検定試験などを整備した上で「一定の日本語能力」も課す方針だ。日系人の入国は1990年の入管法改正で急増し、現在はブラジル人とペルー人を合わせて約36万人が滞在している。(延与光貞)

 要するに「高度人材」と名称づけて主としてエリートのみを選択しようとする国の意志の働きをここに見ることができる。外国籍の人間に対するこのエリート選択意志、いわばエリート以外の者に対する忌避意志は自らの民族性をエリートと位置づけていることから生じている選択であり、忌避であろう。

 なぜなら日本の上層社会への順応を求めている以上、外国から受け入れたエリート性に日本側が自らを染めようとする意志の働いた選択ではなく、自らに染めようとする意志の働いた選択となるからだ。

 逆の場合の例として、ある企業がトップに優秀な人材を外部から招くのはそのトップが持つ能力、価値観や文化に現在の企業風土を染めようとする意志からではなく、逆にトップが持つ能力、価値観や文化を今ある企業風土に染めようとする意志からの招聘であることを挙げることができる。ここに生じる関係は外部招聘のトップをエリートに置き、企業を下に置く力関係であろう。

 ポイント制を構造とした日本の外国人受入れ意志を言い換えるなら、彼ら外国人エリートが持つ職業的技術を除いた価値観や文化を限りなく殺いで、日本の価値観や文化に限りなく染めようとする受入れだと言える。
 
 このような日本の文化、価値観に染めようとする日本の価値観、文化を上に置いた順応化は、そこに外国の価値観、文化との混在を許さない力が当然のように働き、社会的・文化的な創造的エネルギーの発生を抑制する要因として働くことになる。

 少なくとも日本の価値観、文化に従順な外国人ばかりを選択し、一般労働者をなるべ忌避することは一般労働者が持つ多種多様、雑多なサブカルチャーの直接的な流入を阻止する力として働き、結果としてつくり上げることになる価値観、文化の非混在が社会的に創造的なエネルギーを生み、日本の社会を活力ある社会とすることから、それを阻害する要件となることは間違いないからだ。

 このことは黒人音楽がどれ程アメリカ社会に活力を与えたかを考えれば、簡単に理解できる。

 日本が戦後の混乱から立ち上がって高度成長に向けて社会に活力あるエネルギーを漲らせたのは単にいい生活を手に入れようとする意志の働きだけではなく、アメリカの価値観、文化という目標があり、それを手に入れつつ日本文化との混在を生じせしめたことが社会的・文化的な創造的エネルギーを日本の社会にもたらしたからであろう。

 アメリカの映画やテレビ番組、アメリカの音楽、アメリカの車文化、ジーンズといったアメリカファッション、その他外国のファッション――これらなくして日本のかつての社会は活気づくことはなかったはずである。

 低成長時代に入って、日本の文化だ、伝統だ、日本の価値だと、それらを優越的位置に置いた活力あるエネルギーを社会から殺ぐことになる内向きの力が日本を覆いつつある。


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