3月25日「ビートたけしTVタックル」出演金子毅体罰教師の認識能力

2013-02-27 12:45:12 | Weblog

 3月25日(2013年)放送あさひテレビ「ビートたけしTVタックル」に出演の体罰教師公立中学校教師金子毅の発言から、主としてその体罰に関わる認識を見、ついでに他の出演者の発言からも見てみる。

 体罰教師と決めつけたのは、『体罰教師』の自著があるということと、発言自体が体罰容認となっているから、体罰教師なのだろう。

 出演者の一人である、安倍内閣の教育再生実行会議を下村文科相と共に担当する文部科科学大臣政務官義家弘介の今年1月15日、大阪市教委を訪問後の発言。

 義家「部活動内・特別活動内での(体罰の)定義を具体的に考えて、先ず線引きをしなければならないと思っている」

 要するに許される体罰と許されない体罰の線引きを言っている。懲戒のための体罰なら許すべきだとする衝動を抱えているのだろう。

 阿川佐和子司会「これはどういうことですか」

 義家「これはですね、(桜宮の体罰自殺事件)非常に私は重く受け止めたのですが、今の体罰議論が出た中で、部活動指導している教師たちが、もう何が何だかやっていられないっていう声が凄く上がっているんですね

 例えば、野球のある監督はキャッチャーっていうのは先ず球を恐がらないというところからやんなきゃいけない。だから、何度も何度も初心者の頃は球が身体に当ってアザもできると、それを繰返さないと試合の中で後ろに反れてしまうと。

 じゃあ、それを練習が体罰だって言われるなら、キャッチャーを育てられない。元々学校教育法上は殴ったり、長期間苦痛を与えたりっていうのは禁止しているわけですが、それ以外の指導に於いて、こういうものは許されないんだと、指導の指針、ガイドラインといものを示さないと、逆に教師が萎縮してしまって、教師がまともな指導ができないという逆の状況が生まれている」

 要するに義家は体罰に当たるか否かの指針、ガイドラインを示さなければならない一例としてキャッチャーの捕球技術の訓練を持ち出した。

 いくらなんでもこの例を許すことによって、懲戒の体罰は許すべきだとすることはできないはずだ。

 持ち出すについては監督自身が体罰に当たるだろうかとい疑念を持っていたからということになる。そして指針を示して貰わなければ、安心してキャッチャーの捕球技術の訓練もできないとうわけである。

 義家も監督も、共々その認識能力には高いものがある。

 キャッチャーの捕球技術訓練では監督なりが近い距離からキャーッチャーの手元でワンバウンドになるボールを真正面は勿論、座ってミットを構えている位置から飛びつかなければ捕球できないような位置に右に左にと思い切り投げて、顔を背けずにうまく捕球できるまでやらせる練習がある。

 だが、身体に当たってアザができるとしたら、指導方法が悪いからだろう。一番怖いのは目の前でバウンドして顔に向かってくる真正面のワンバウンドだが、捕球の姿勢をぴょんと跳ねるようにしてそのまま左右に移動させて補給する位置のワンバウンドも同じく顔に向かってくることになるから、怖いが、怖さに耐えてボールから目を逸らさない、あるいは目がボールから逃げないというのが鉄則で、目を逸らさなかったり、目が逃げなかっりすることさえできれば、例え落球しても、ミットをボールに向かって差し出すことができ、ボールはほぼミットに当たるから、顔や体に当たることもないし、右手はボールがミットに収まったり、当たったりしてから、その瞬間にボールをこぼさないように押え込む後追いの形になるから、ボールが右手に当たって突き指をしたり、手の甲にあたってアザをこしらえるなどといったことは、余程慌ててさえいなければ、滅多にない。

 大体がキャッチャーがポジションと決まっていたなら、そういった鉄則は弁えているはずで、あとは上達できるかどうかの問題が残るのみだろうから、それを過酷な肉体的捕球訓練を一定の長時間課すということなら、他に合理的な練習方法を知らないからではないのか。

 あるいは捕球技術訓練のみならず耐久力をつける訓練でもあると言うなら、それが有効か無効かは別問題となる。以前一度ブログに取り上げたアメリカの女子アスリートの言葉を再び持ち出す。「日本の選手は若い頃から練習が過ぎて、選手生命を短くしてしまう」

 過剰な体力の消耗・酷使に対する戒めであろう。科学的・合理的な体力の使い方が必要となる。

 監督がこういった自覚を持って捕球訓練なり耐久力訓練なりを行なっていたなら、そういった「練習が体罰だって言われるなら、キャッチャーを育てられない」などと言うこと自体、その認識能力が疑われることになる。

 阿川佐和子「(桜宮の)この事件が起こってから、今の義家さんの意見とか、どういうふうに受け止めてますか」

 いよいよ体罰教師金子毅の登場である。白髪交じりの茶髪である。

 金子毅「例えば雪山で遭難したときに、例えばテレビのドラマなんかで、(手で思い切り平手打ちするジェスチャー)コラッー(と大きな声を出して)、起きろと叩くじゃないですか。

 ただこれが、先生と生徒だった場合、生徒がもし遭難して眠りそうだったら、コラー、起きろっと、こう来たときに(右手を叩く構えで大きく上に上げる)、これ、タイ、体罰(どっちか考える様子を顔に見せながら、振り上げた右手を左手で掴んで降ろす、周りの出演者が笑う。)・・・・?

 こういうことになるんですよ、これぐらい体罰って言葉に萎縮してるんですよ。体罰はいかんから、一切やるなと言う。やらないという、ここに定まっちゃっている感じがする」――

 生徒と教師が雪山で遭難して、生徒が疲れ、眠てしまいそうになる。教師が生徒の意識覚醒のために頬を殴って目を覚まそうとする。

 目的は死なせてしまわないための生徒の意識覚醒であって、何か失敗したり、怠ったりしたことに対する懲戒を目的とした身体的強制力の行使ではない。、

 このことを以って体罰なのか体罰ではないのかの判断の迷う例とし、教師が萎縮する例として持ち出す体罰教師金子の想像力は素晴らしい。

 これで学校教師でございますと通っていて、テレビに出て発言するというのは驚きである。

 阿川佐和子司会(苦笑いして)「遭難するっていうシチュエーションは・・・・・」

 金子毅「ただ、ホントに体罰という言葉が先に一人歩きしていて、で、余計なことはしない方がいいっていうことに落ち着いているっていうことが現状にあります」

 金子本人だけではなく、話に出した野球部の監督の認識力の程度が疑われる上に教師の多くが体罰問題に真正面から向き合わずに、事勿れな態度に落ち着いていると言うことなら、学校教師なる存在そのものの資質、使命感を考えなけれがならない。

 江川達也(漫画家)「例えばマラソン十周でも体罰っていう人がいますね」
 
 それが何か失敗したことに対する懲戒のための強制的な肉体的使役なら、役に立たない体罰であろう。失敗したことに対してなぜ失敗したのか、どうしたら失敗せずに済むか等々を教えることによって技術を学んでいくが、技術の学習とは無縁の場所の単なる肉体の酷使に過ぎない。

 だが、江川達也はそんな認識もなく、表面的な把握でマラソン十周を把えている。

 大竹まこと「曽野綾子さんて言う人が書いているんだけど、殴って良くなるなら、殴るだろうと。殴っても良くならないんだと。それが証拠にね、小説書いてきたヤツにね、殴ってその小説が良くなったわけないわけで」

 江川達也「小説家っていうのは体力使うわけないじゃないですか」

 この認識能力も素晴らしい。例え体力を使う部活部員に対する体罰であっても、体罰は部活動に於ける能力の何らかの機能不全に対する懲罰として行われるもので、その能力に体力が含まれるとしても、体力の機能不全が対象の体罰であって、体力そのものを対象としているわけではない。

 当然、体力を使わない能力であってもその能力が顧問の期待に外れる何らかの機能不全を起こした場合の体罰も存在することになる。

 もし江川達也が言っているように体罰が体力を使う者のみを対象としているなら、生活指導の場での体罰は存在しないことになる。

 果たしてこの男はテレビに出る資格があるのだろうか。

 大竹まこと「それは例えばの例だけど。先ほど才能が体罰で花開くようなことを言ったけど、それはちょっと違うじゃないか」 

 江川達也「運動系は結構開くんじゃないですか。叩くじゃないですか。すると気合が入って、能力が上がるって言われていますからね」

 叩かれて、それをキッカケとしてただ単に力を入れてプレーするようになるから、当座の動きは良くなるが、あくまでも叩かれたことを動機づけとした他者強制のプレーであって、そこには常に求められている科学的・合理的な運動理論を動機づけとして、自分から動くという主体的なプレーに対する部活顧問の期待は存在しないことになる。

 いわば監督自身が科学的・合理的な運動理論を動機づけとした自分から動くという主体的なプレーを期待していないから、体罰によって動かすことになり、生徒の方はいつまで経っても科学的・合理的な運動理論を動機づけとした自分から動くという主体的なプレーを身につけないことになる。

 結果、体罰の悪循環が続くことになる。体罰に依存した指導が延々と続くことになる。

 叩く他者強制ではないが、司会の阿川佐和子が次に罵声を使った他者強制の象徴的な例を挙げる。

 阿川佐和子「私、アトランタオリンピックに取材に行ったときに、ある女子・・・、何とか何とかボールの競技(名前を出したら差し障るということで、伏せたのだろう)、があった。競技前の練習を各国チームが時間を区切って何時から何時まではドイツと。何時から何時までフランスみたいなことやって、そこに日本のチームもやってきたんですけどね、他の国は選手同士が自分たちでバアーッとやっている。だけど、日本のチームだけ、『それ、捕れないのか、走れっ』、えっ、男の監督が怒鳴って、(若い女の声を出して)ハイ、ハイ、ってやって、日本てどうしてこんなんなの、っていうか――」
 
 要するに外国のチームは選手たちが自主的・主体的に練習していた。日本のチームは自主的・主体的な練習ではなく、監督の怒鳴り声に従った、他者強制の練習を行なっていた。

 日本人の行動様式である権威主義自体が上が下を従わせ、下が上に従う他者強制の構造を取っている。この構造を受け継いで、暗記教育にしても、教師による他者強制の構造に則ることになる。ここには自分から学ぶという自主性・主体性の力学は存在しない。

 そのような自主性・主体性の学びは個々の生徒に任されている。親に教えられるか、自分で知らずに学ぶかいずれかだろう。

 安倍晋三を始め、保守政治家の多くは家庭教育が教育の基本だというが、日本の暗記教育が自分から学ぶという自主性・主体性のプロセスを省いていて、自主性・主体性を知らないままの状態で社会に送り出し、親となる再生産を延々と繰返しているのである。

 当然、家庭が自主性・主体性を学ばせる教育の基本的礎を担うことができるはずはない。暗記教育をやめて、考える教育に変えて初めて、考える人間を社会に送り出すことができ、家庭がそのような教育を担う出発点となり得る。

 陰山大阪府教育委員会委員長「体罰って言うものをある程度可というものをやると、やはりね、本当にやっちゃう先生が出てくるんですよ」

 金子毅「そういうものがあって、問題なのは確かなんです」

 陰山大阪府教育委員会委員長「だから、僕ら、大阪府の教育委員会やってますが、一つの大きな仕事が先生方を懲戒処分にしているんだけど(手で首を切るジェスチャー)、これはね、徹底して体罰の問題を私たちが教育委員になってから、最初からやてきたんですよ」

 言っていることは学校の教師管理・指導能力、自分たち教育委員会の学校管理・指導能力が無力だということに過ぎない。体罰を行ったり、不祥事を起こしたりする教師を探し出して懲罰を与えるのは、力を入れさえすれば、より容易な方法であろう。だが、前以て管理・指導をしっかりして、不適格教員を出さないことはより難しく、偏に学校や教育委員会の管理・指導能力にかかっている。

 だが、的確に管理・指導能力を機能させることができず、やっていることは不適格教員を探し出すことに力を入れているということである。

 いわば陰山は自分たちの無能を言ったに過ぎない。

 橋下徹が大阪府知事のときに陰山を大阪府教育委員の委員に招き、その後教育委員会委員長となったことは以前ブログに書いた。橋下はテレビ出演で有名になった。陰山も百ます計算とか、テレビで取り上げられて有名となった。だから優秀と評価して委員に招いたとしたなら、陰山の認識能力がこの程度なのも理解できる。

 金子毅「そこが問題なんですよ。ちょっとした体罰でも、懲戒問題にしている」

 陰山大阪府教育委員会委員長「ちょっと(した体罰)じゃない」

 金子毅「例えばね、その問題が、体罰問題が出てきてから、あの桜宮高校は暴力ですよ。飛んでもない話ですが、その後、例えば甲子園に行ったことがある、ある公立の高校の話ですがね、その高校の先生がミーティングをしている間に生徒がトランプをやった。

 これで体罰、平手打ちを一回やった。ということで、非常に大問題になった。新聞に出て、その先生は指導できなくなりましたよ。こんな下らないことだけが、新聞に取り上げられて、体罰の事件だとして、問題にされるってことに、非常に異常な問題だと――」

 以後、保護者の問題に映る。

 金子の認識能力は、先程陰山が言ったことが自分たちの管理・指導能力の問題だと気づかなかったように、野球部監督の生徒に対する管理・指導の問題だと把えるだけの目を持つことができず、単なる懲戒に過ぎないのに体罰にされた問題として取り上げているのみである。

 「その高校の先生がミーティングをしている間に生徒がトランプをやった」と言っている。

 何とも大胆不敵な行為である。と言うよりもミーティングをしている最中に生徒にトランプ遊びをされる監督の管理・指導能力の問題であるはずだ。

 部員が50人とかそれ以上だと、ミーティングは教室か、背中の間仕切りの壁が折り畳み開閉式になっていて二つの教室を一つにできるような教室が必要になる。

 椅子に座ってミーティングを行うことになり、前の部員の背中に隠れて隣の生徒と机に札を広げて堂々とトランプができないことはない。そういった状況下で偶然見つけて、何をふざけてんだとばかりに体罰を振るったということも考えることができる。

 だとしても、ミーティングはグラウンドでの実際の練習に劣らない、チームプレーの在り様や個々の技術に関わる重要な知識・情報共有の場である。当然、顧問の話す言葉や部員が顧問の質問に答える言葉に聞き耳を立てていなければならない。それをトランプをしていたということは顧問がミーティングを重要な知識・情報共有の場、知識・情報共有の大事な機会にまで高める技術に関わる知識・情報を持っていないことが考えられる。

 そういうことであれば、当然監督の管理・指導の質の問題となる。

 例えば元日本代表サッカーチームの監督オシムはサッカーに関わるその発言が深い技術論となっていただけではなく、独特の味わ深い含蓄ある精神論にもなっていて、マスコミは試合や練習の感想を述べるオシムの記者会見があった当日、当日で間に合わなければ翌日、必ずそのオシム発言を“オシム語録”の一つとして伝え、多くの人が興味を持って接した。

 彼がミーティングをやれば、選手はきっと目をオシムに注視させ、聞き耳をたてて一言も聞き漏らすまいと、その意味を読み取ろうとしたはずだ。

 各選手がその技術論・精神論を実際のプレーで表現するには努力と時間を要しただろうが、知識・情報を共有しようとする意志は高いものがあったはずだ。

 だが、件の野球部はミーテ-ングの最中にトランプをしていた。問題が部員にあるよりも知識・情報の共有の場・共有の機会とし得ない監督の方に問題があるようにしか見えない。

 要するにその日の試合や練習で見い出した問題点を指摘して意見を言い、生徒にも意見を求める類いのミーティングではなく、ここはああしろ、あの場面はああしろ、こうしろといった動きを伝えるだけで、あるべき技術まで伝えて指導する能力がなかったから、生徒の方も聞き飽きたこととしてトランプで退屈な時間を潰したと言うことではないのか。

 よくある例だが、監督が何か用事があって、先にミーティングを指示していて、後から顔を出したら、言われたことをちゃんとしていなくて、トランプをしていたという場合を考えてみる。

 生徒に主体性がないことになるが、やはり監督が主体性を育てるだけの管理・指導能力の問題となる。

 暗記教育のように教師が教えることを生徒が受け止め、暗記していく受け身の形の教育に慣らされていて、その構造どおりに監督がそこに存在して、あれこれ言わなければ自分たちでミーティングを成り立たせることができなければ、つまり監督が、ああしろ、こうしろと動きを伝えることで初めてミーティングが成り立つ他者強制の構造となっていたとしたら、監督が用事を済ませて顔を出すまでの不在の状況で何もできないとしても不思議はないし、トランプをしていてもある意味当然と言うことができる。

 要するに部員は監督が不在でも自分たちでその日の練習での問題点を見い出して、あるべきプレーの姿、技術の押さえどころ等を相互に議論し、結論を有効な知識・情報として共有していく場とも機会ともすることができない状況にあった。

 その原因は偏に自分たちでは何もできない、監督が指示して初めてできるという他者強制の裏返しとなる主体性の不在であろう。

 主体性の不在は日常普段の授業で飼い主が犬に時間通りに餌を与え、犬が与えられた餌を腹の中に収めるように教師がテストの点を上げるだけの知識を生徒に与え、生徒はその知識を頭の中に入れて暗記する主体性を省いた従属的な日本の教育構造も問題だが、監督自体が何ら育てることができていない結果の部員の主体性の不在であろう。

 監督が怒鳴ったり体罰で部員を動かすのは自分で考えて主体的に動くのとは似ても似つかない、その正反対の怒鳴り声や体罰に従属させているだけのことで、逆に主体性を頭から抑える他者強制の構造を取ることになる。

 例え体罰や罵声でいい成績を上げたとしても、部員個々の主体性とは無縁の場所にある成績であることに変りはない。

 やはり監督の管理・指導能力の問題に行き着く。

 だが、この点を把えて発言する出演者は一人としていなかった。体罰か懲戒か、その線引きに拘っていた。それが教師を萎縮から解放する最善の方策だとばかりに。


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