偉大な隠れ国家主義者安倍の時代錯誤な精神

2006-03-22 05:38:45 | Weblog

 「戦後60年、成果と足りないものは何か」と民主党の笹木竜三議員が2月20日の衆院予算委員会で安部官房長官、谷垣財務相、与謝野金融担当相の3政治家に問いかけたと、朝日朝刊(06・2・21)に出ていた。
  
 「安倍氏は『損得を至上の価値としている若者が増えている』ことが反省点だと指摘。家族を愛することや、生まれ育った国のために働くことを『損得を超える価値』の例に挙げ、それを教えてこなかったところに政治家として忸怩たるものがある」と語った」(同記事)とのこと。
  
 ――「損得を超える価値」を「教えてこなかったところに政治家として忸怩たるものがある」。

 安倍は教育者ではなく、政権与党の有力議員である。次期総理大臣とも目されている。いわば国家権力を担う者の一人として、国家の立場から、そう言ったのである。
  
 その立場からの発言に政治家・安倍の基本的精神がものの見事に現れている。国の言うことがすべて正しいとは限らないことを考慮せずに、国家が正しいとする価値観に個人を従わせ、縛ろうとする国家主義の立場に立つ精神である。

 ただ、現在の日本は国家を絶対とすることができない。政治家・安倍は、そうしたい願望を自らの血、自らの主義・主張の中に抱えていると言うことだろう。今さら言うまでもないが、安倍は偉大な隠れ国家主義者なのだ。

 国家主義精神が彼の全身の血に脈々と波打っている。国家主義が許された戦前体質の人間なのである。だから、「家族を愛することや、生まれ育った国のために働くことを『損得を超える価値』」とするなどといった、普通の精神の人間だったなら、必ずしも絶対とすることはできない価値対象を単純・単細胞に絶対とすることができるのである。

 戦前の「生まれ育った国」は絶対だったのか。戦前、国が言っていたことは、殆どが間違っていたのではなかったか。そのような「国のために働」いたことが、どれ程に役立ったというのか。国民の殆どが手痛い目に遭ったのではなかったか。

 愚かしい幻影に過ぎなかった歴史を顧みず、政治家・安倍は、現在もなお「国」を絶対としている。「国」の言うことは正しいとしている。余程時代錯誤な人間でなければできない芸当であろう。このような政治家が信用できるだろうか。できるとしたら、幸せ者だ。

 靖国神社に祀った戦没者を「国のために殉じた」とすることができるのも、〝国〟の価値と〝殉じる〟価値を等価に置いている言葉の配置から窺えるように、国を絶対としているからこそ言える認識であろう。

 国を絶対とするには、国の内容も戦争の中味も問題としない、問題としてはならない。国が絶対であるから、その国に〝殉じる〟国民の行為をも絶対正義とする正当化が可能となる。そこから、日本の戦争は侵略戦争ではなかったという公式を導き出すことができる。戦前の正義を、現在も正義としている。

 当然、教育基本法にも、「愛国心」教育の規定を設けたいわけである。今ある国をより絶対としたいがために、隠れ国家主義者としては国を愛せ、「生まれ育った国のために働」けと言いたい衝動を抑えることができないでいるのだろう。

 「家族」にしても、どうしても愛せない国があるように、同じように愛せない家族というものもある。それぞれに個人に関わる問題であることを無視して、「損得を超える価値」だと国の立場から関わり、従わせようしている。

 「損得を至上の価値としている若者が増えている」にしても、頭の悪い的外れな言いがかりに過ぎない。

 人間は本質的には利害の生きものだから、本来的には「損得」を基準に行動する。その「損得」が社会的基準からはみ出しているということを言っているのだろうが、はみ出しているとしたら、、若者だけではない。

 若者も大人も同じ社会の中で生きている。若者だけ、大人とは関係なしに別個の社会に生きているわけではない。先人である大人がつくり上げた社会の空気を養分として、その影響を受け、生き、育ち、活動している。若者が「損得を至上の価値としている」なら、大人がそうだから、そのことに染まった価値観としてあるに過ぎない。

 いわば大人の精神を受け継いで若者の今があるのであって、若者に先に現れて、若者世界だけにとどまっている精神など存在しない。若者特有の精神・文化と見えるものは、大人から受け継いで、変異したもの、あるいは変異させたものに過ぎない。アメリカの文化を受けついで、日本人の精神を濾過して、日本的に変異したり、変異させたりするのと同列構図にある。

 政治家の族益優先、汚職、官僚の省益優先、汚職、天下り、建設・その他の談合、企業の産地偽装、表示偽装、粉飾決算、脱税、インサイダー取引、不正入札、その他その他――そのような「損得を至上の価値」としていることから起きている若者たちの「損得を至上の価値」なのである。若者は大人の姿を正直かつ忠実に受け継いでいるに過ぎない。

 如何なる国の人間であろうと、如何なる民族の人間であろうと、同じ人間の範囲内の生きものとして生き、存在している。それと同じように、日本の若者は同じ日本人の範囲内の生きものとして生き、存在している。そこから外れることは決してできない。そのことに考え至らないような政治家が次期総裁候補として、最も国民に人気がある。日本人の人間を見る目がないとしか、解釈しようがない。
「市民ひとりひとり」

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