安倍晋三の参拝理由「尊崇の念と不戦の誓い」は戦前と戦後の国家の連続性と日本民族優越主義の隠し絵

2013-12-30 09:32:19 | Weblog



 安倍晋三の靖国神社参拝に関して今まで書いてきたこととかなり重なる部分があるが、参拝を「戦没者に尊崇の念を示し、不戦を誓うための参拝」だと正当化していることの意味と、なぜ安倍晋三をしてそう言わせているのかの理由のみに絞って書いてみたいと思う。

 12月26日に軍国主義者・国家主義者安倍晋三は第2次安倍政権発足1年を期して靖国神社を参拝し、参拝後、神社内で記者団に参拝の説明をしている。

 安倍晋三「本日靖国神社に参拝を致しました。日本のために尊い命を犠牲にされたご英霊に対し、尊崇の念を表し、そしてみ霊安らかなれと手を合わせて、参りました。
    ・・・・・・・・・・
 全ての戦争に於いて命を落とされた人々のために手を合わせ、ご冥福をお祈りをし、そして二度と再び戦争の惨禍によって人々の苦しむことの無い時代を創るとの決意を込めて不戦の誓いを致しました」――

 そして同日首相官邸HPに、《安倍内閣総理大臣の談話~恒久平和への誓い~》を載せている。

 安倍晋三談話「本日、靖国神社に参拝し、国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとご冥福をお祈りしました。
    ・・・・・・・・・・
 日本は、二度と戦争を起こしてはならない。私は、過去への痛切な反省の上に立って、そう考えています。戦争犠牲者の方々の御霊を前に、今後とも不戦の誓いを堅持していく決意を、新たにしてまいりました」――

 だが、参拝が中韓はもとより、アメリカからも批判を受け、さらに欧米各国のマスコミが批判記事を載せるに及んで、菅官房長官は安倍晋三の参拝は「戦没者に尊崇の念を示し、不戦を誓うための参拝だった」ことを政府側見解として説明し、理解を求めていく態度を取っている。

 参拝同日12月26日午後の会見。

 菅官房長官「首相の(参拝の)趣旨は、国のために戦い、尊い命を犠牲にした方に尊崇の念を示し、不戦を誓い、平和の国を誓う。そういう趣旨を関係諸国に理解いただけるように、首相の談話を英文で海外にも発信した」(ロイター)――

 戦前の「万世一系の天皇之を統治する」大日本帝国という全体主義国家・国家主義国家が起こした戦争に対して、そのような国家のために戦い、尊い命を犠牲にした将兵たちという天皇と国家を主体とし、国民が天皇と国家に従属した国家と国民の関係の中で演じられた天皇奉仕・国家奉仕は敗戦を期してGHQによって断絶させられ、戦後日本国憲法によって国民主権となり、大日本帝国を統治していた天皇は主権の存する日本国民の総意に基いて日本国及び日本国民統合の象徴とされ、新しい、だが欧米では当たり前の国民を主体とした国民と国家の関係を築くこととなった。

 いわば「国のために戦い、尊い命を犠牲にした」という国民の国家奉仕に見る国家主体・国民従属の国家と国民の関係は戦前の日本国家という空間で演じられた国家と国民との間の関係性であった。

 当然、靖国神社を参拝して、「国のために戦い、尊い命を犠牲にした」と讃える国家と国民との関係性は靖国神社が戦後の民主国家日本という空間に所属していることに反して戦前の日本国家という空間に於ける国家と国民との関係性の称賛と顕彰に他ならないことになる。

 いわば右翼の軍国主義者安倍晋三やその他同じ穴のムジナたちが靖国神社を参拝して、「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとご冥福」を祈るのは鎮魂の意味を持たせているものの、そのような鎮魂の姿を借りた戦前日本国家称揚の儀式でしかなく、この儀式は戦後の日本国家に戦前の日本国家を連続させていることによって可能となる。

 だから安倍晋三とその一派は戦前日本の戦争を侵略戦争と認めるわけにはいかない。認めた場合、戦前の国家と国民との関係性を戦後の日本に持ち込むことはできなくなるからだ。

 靖国神社で戦前の日本国家に於ける国家と国民との関係性を再現しているのである。

 このような戦前から戦後へと向けた国家と国民との在り様の連続性への欲求は戦前の大日本帝国という国家を他の国に、特に西欧の国家に優越せる特別の国家と見做していることによって成り立ち可能となる。

 戦前の多くの国民を捉えていた日本民族優越主義である。

 もし戦前の軍国主義が吹き荒れた一時代を日本に於ける負の歴史だと否定的に把えていたなら、「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して」、「尊崇の念を表」すとする戦前と戦後の国家と国民との関係性の連続性にしても否定の対象となって、戦前の日本国家を優越せる特別の国家と見做す、いわば日本民族優越主義も成り立つはずもなく、戦前と戦後を断ち切って、時代を厳密に区分けしていたはずである。

 だが、どのような区分けも行わずに戦前と戦後に連続性を持たせている。この連続性の暗流をなしている思想が戦前の日本国家を他の国に優越せる特別の国家と見做す日本民族優越主義であって、その戦前から戦後への持ち越しを靖国神社で追悼の形で表現しているということなのだろう。

 戦後の靖国神社に於ける鎮魂と戦前日本国家称揚の儀式は日本民族優越主義を裏付けとしているということである。

 いわば「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方に尊崇の念を示」すとは 戦前の「万世一系の天皇之を統治する」大日本帝国という全体主義国家・国家主義国家を一般的な「国」に置き換えて、隠し絵のようにその姿を見せない役目を持たせた装置であって、そのことによって言葉に正当性を与え、さらに実体としてあった国の姿を隠し絵とすることで戦前と戦後に連続性を与えている日本民族優越主義の思想をも隠し絵とする効用が、そこには働いている。

 戦前の日本国家の国家主体・国民従属の国家と国民の関係と戦前から引き継いでいる日本民族優越主義を隠し絵とした、実際の姿は鎮魂の姿を借りた戦前日本国家称揚の儀式となっている以上、「不戦の誓い」のための参拝だとするのは前者を正当化するための奇麗事に堕することになる。

 我々は安倍晋三が戦後の現在に至っても熱烈な天皇主義者であることを忘れてはならない。天皇を国民主権であるはずの戦後日本国家の中心、あるいは頂点に置いているということである。

 この天皇の位置づけも戦前の日本国家と戦後の日本国家の連続性の象徴的証明以外の何ものでもない。


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