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《12月27日沖縄県知事辺野古沖埋立申請承認について 小沢一郎代表談話発表》
小泉内閣時代の自民党幹事長代理だった国家主義者・軍国主義者安倍晋三が2005年5月2日、ワシントンのシンクタンク「ブルッキングス研究所」で、「小泉首相の次の首相も靖国神社に参拝するべきだ。国のために戦った方に尊敬の念を表することはリーダーの責務だ」と中韓、その他に対して靖国神社突撃の宣戦布告をしながら、自分が首相になるや宣戦布告に反して有言不実行の自滅を演じ、2012年9月の自民党総裁選や2013年2月7日の衆院予算委等で、「私の基本的な考え方として、国のために命を捧げた英霊に対して国のリーダーが尊崇の念を表する、これは当然のことだろうと思いますし、各国のリーダーが行っていることだろう、こう思っています。その中で、前回の第一次安倍内閣に於いて参拝できなかったことは、私自身は痛恨の極みだった、このように思っております」と身を切る悔しい思いをゲロしながら、二度目の首相になって有言実行すべき最も相応しい敗戦日8月15日に宣戦布告通りの突撃を果たすことができなかった自身の決意に対して周辺や世間が口先だけ、優柔不断と小馬鹿にしていないか関係妄想に取り憑かれ、参拝しないことがトラウマ的強迫観念となって、そこからの解放と自身の有言実行力を示すだけのために外国の反応も考えずに突撃敢行したような安倍晋三の靖国参拝ではなかったのではないだろうか。
この参拝が別の形の安倍晋三の自滅につながらない保証はない。
この安倍晋三の突撃参拝に対して橋下徹日本維新の会共同代表が発言している。
安倍参拝と同日の12月26日記者会見。
橋下徹「このタイミングでの参拝しかない。日本のために命を落とした英霊に敬意を表するのは当たり前の話だ。東アジアの中で日本、中国、韓国の安定は、非常に重要だが、参拝を配慮することで、関係が正常化する状況ではない。今の状況では、靖国神社参拝は、外交上、配慮する領域の問題ではなくなったのではないか。外交上の配慮だけで、参拝の見送りをやめようと判断したのは、非常に合理的だ」(NHK NEWS WEB)
橋下徹が言うように確かに「参拝を配慮することで、関係が正常化する状況ではない」が、悪化している関係をなお一層悪化する方向に追いやることになることは前以て計算できていたことで、果たしてそのことを計算していた上での参拝なのかが問題となる。
だとしても、橋下徹が安倍晋三と同じ靖国参拝史観に立っていることがこの発言で十分に理解できる。一般的に流布している言葉で言うと、「お国のために戦って尊い命を犠牲にした英霊に尊崇の念を表す」という靖国参拝史観である。
戦前は「お国のために」の前に「天皇陛下のために」がついていたが、戦後なぜか「天皇陛下のために」がどこかへ行ってしまった。多分、戦前の日本が天皇主義国家であったことを隠すためではないだろうか。
橋本徹は安倍晋三と同じ靖国参拝史観に立っていることを示しながら、翌日12月27日午前の記者会見では安倍晋三と同じ自らの靖国参拝史観を自ら裏切る矛盾を露呈させている。
橋下徹「首相が戦争の評価について自分の考え方をはっきり述べないので誤解が生まれている。先の大戦は『侵略だった』とはっきり言ったらいい。
日本の国家運営の責任者としては、先の大戦の評価については曖昧にしてはいけない。東京裁判を受け入れると表明したうえで、英霊に尊崇の念を表するのは理解してほしい、と言えばすっきりするのではないか」(asahi.com)――
橋下徹は「お国のために戦って尊い命を犠牲にした英霊に尊崇の念を表す」という靖国参拝史観が侵略戦争否定の上に成り立っていることに気づくだけの脳ミソを備えていないらしい。
戦前の日本の戦争を侵略戦争と認めたなら、安倍晋三たちが歴史認識としている靖国参拝史観は成り立たなくなる。
戦前の日本国家では天皇を父とし国民を赤子(せきし)と称して子と見做す一つの家に国家を譬えていた。いわば国民は天皇を父として国家と国民は相呼応し合う関係を築いていた。
国民は天皇を頂点に置いた日本の国家主義国家・全体主義国家としての国家の在り様を認めて、そのような天皇と国家に忠節を尽くす究極の形として天皇と国が引き起こした戦争に参加し、天皇と日本国家に命を捧げた。命を捧げる忠節の見返りが靖国に英霊として祀られることであり、そのことを唯一の希望としてその戦争を戦った。
このような国家と国民が相呼応し合う関係は靖国参拝史観にそっくりと引き継がれた。「お国のために戦って尊い命を犠牲にした」という関係であり、そのような戦争犠牲者に対して「尊崇の念を表す」国家の関係である。
当然、天皇陛下のため、お国のために戦った戦争を侵略戦争だったとした場合、靖国参拝史観に引き継がれている天皇と国家に対する国民の相呼応し合う関係は肯定的関係から否定的関係へと暗転させることになる。
戦前の天皇と日本国家は否定的存在と見做すことになり、天皇と国家に対する国民の忠節にしても侵略戦争に加担した否定的在り様であったと価値づけられる。
侵略戦争であったとすることによって今までの存在性が全て否定化されたとき、当然、戦争犠牲将兵は 「英霊」と呼ぶにふさわしくなくなり、「尊崇の念」の対象足り得なくなる。
肯定化することのできる自存自衛の戦争といった“お国のための戦争”であり、そのような戦争に対する国民の忠節として「尊い命を犠牲にした」という肯定的価値づけが成されて始めて、戦前の国家と国民の相呼応する関係を「お国のために戦って尊い命を犠牲にした英霊に尊崇の念を表す」という形式で戦後の世界にまで持ち込んで正当化が可能となって、その象徴的且つ濃密的な表現の場が靖国神社であって、そのような相呼応する国家と国民の関係を靖国神社を場として戦後の日本でも回顧し讃える歴史認識が靖国参拝史観という形を取っている。
当然、昨日のブログでも書いたように安倍晋三とその一派は戦前の日本国家肯定の上に戦後の日本国家を築いていくことになる。改正した教育基本法に既にその兆しが現れているし、改正した場合の日本国憲法にも現れることになるはずだ。
安倍晋三が侵略戦争だとは認めない理由がここにある。戦前の天皇の在り様も日本国家の在り様も国民の在り様も全て肯定しているからである。
だから、天皇に関しては「皇室の存在は日本の伝統と文化そのもの」、日本は天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきた」と言うことができ、戦前日本の戦争に関しては、「特に侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと思うわけでございますし、それは国と国との関係において、どちら側から見るかということにおいて違うわけでございます」とその侵略性を否定することができ、国民に関しては、「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」と国家への命を犠牲にする奉仕を求めることができる。
にも関わらず、橋本徹は安倍晋三と同様の自らの靖国参拝史観に矛盾して戦前の日本国家の戦争を「侵略戦争だった」と認めよと言って、靖国参拝史観の意味内容を理解していない脳ミソ振りを発揮している。
トンチキな頭としか言い様がない。