柳沢発言/小池百合子の自己都合

2007-02-09 10:25:10 | Weblog

 責任を取るべきは自民党政治である

 07年2月5日の『朝日』朝刊『「イスラム国よりも遅れている」小池百合子氏が不快感』

 小池百合子首相補佐官(国家安全保障問題担当)は4日の民放テレビ番組で、柳沢厚生労働相の『女性は産む機械』発言について、『柳沢さんだけじゃなくて、イスラムの国よりも日本における男性の女性に対する見方は遅れているんじゃないか』と語り、不快感を示した。
 小池氏は中東へ留学体験があり、イスラム社会に詳しいことで知られている。辞任の必要性について『ないんじゃないですか』と否定したが、『男性にそのたぐいの人はいっぱいいます』と述べ、日本女性の人権状況に疑問を投げかけた」

 私自身は「中東へ留学体験」もなく、「イスラム社会に詳し」くないことで「知られている」人間だが、「女性に対する見方」は「イスラムの国」も「日本における男性」もどっちもどっち、五十歩百歩で、あるいはおっとこどっこいのいい勝負で、甲乙つけがたいのではないか。

 04年5月(日付は記入忘れ)の『朝日』記事『女性の権利、サダム以下』に次のような趣旨のことが書いてある。

 米英占領体制下のイラク統治評議会が03年12月29日に出した婚姻や離婚、相続など女性の地位にかかわる民法の諸規定を『イスラム法(シャリア)で置き換える』との内容の通達が発効した場合、「男性が2人以上の妻を娶る場合、これまで最初の夫人の承諾が必要だったのが不要になる。▽女性側からの求めによる離婚が難しくなるなど、イラクの法体系は大きくイスラム教原則に基づいたものに変えることにな」って、女性に不利になるとのこと。

 これに対してイラク女性連盟のメンバーを含む数百人の女性がバクダッドで抗議デモを展開し、イラク占領者であり、敵であるはずのブッシュ米大統領に通達を無効とするよう要請する内容のものなのだろう、書簡まで送った。このような騒動に対して統治評議会は「『手続きに欠陥があり、決定自体が無効』との見解を表明した」という。

 イラク女性連盟の事務局長のサラミ・フセイン女史の言葉「サダムは女性を弾圧したが、イラン・イラク戦争や湾岸戦争で男性の働き手が減り、一定程度の女性の社会進出は認められた。私たちが勝ち取った成果が台無しになりかねない」(同記事)

 「通達」が完全撤回されたとしても、「通達」で示すことになった女性に関わる〝認識〟(女性の意思よりも男性の意思を優先するという、あるいは無視するという差別認識)を政治権力者が体現していたという事実、これからも体現し続け、隠し持つことになるという事実自体は消すことはできない。認識は認識として残るからである。

 政治権力に位置している人間の差別的女性観という点で、イラクの統治評議会と「美しい国」日本の柳沢厚生労働相は対応しあっていると言える。

 小池百合子の「イスラムの国よりも――遅れているんじゃないか」は「柳沢厚生労働相の『女性は産む機械』発言」をキッカケとした感想であり、「日本における男性」の中に当然のこととして柳沢厚労相をも含めた発言だろうから、上記対応性(=どっちもどっち)を否定する矛盾が生じる。

 イスラム社会でよく例示される女性差別として、女性の貞操(日本では死語となりつつある言葉ではないだろうか)に関わる男性側からの不当な過度の要求が挙げられる。性的暴行被害者が暴行された事実を証明されないと、日本でも戦後は廃止されている姦通罪で訴えられたり、夫以外の男との実際の姦通でも、男は無罪になったり、軽い罪で済んだりするのに対して、女性は厳しく罰せられる法的な差別と同時に道徳上の男女差別を受けたり、あるいは離婚女性でも、再婚しない状態での性交渉は姦通と見なされて、それを知った第三者から訴えられ、裁判にかけられて女性がより厳しい刑罰を受けるという差別。当然、姦通女として人前で蔑まれ、様々な侮蔑行為を受けることになるのだろう。

 つまり、〝姦通〟とは男女二人の共同行為であるはずだが、それが不倫なら、共犯行為と言えるが、女性の行為がより重い邪な罪悪だとする制限を加えている。女性側にのみより多くの制限を加えることも男女差別というはずである。

 美しくない国日本の首相・安倍晋三が掲げている「戦後レジームからの脱却」とは、日本が誇って戦前まで制度としてきた、江戸時代は不義密通はお家の恥と切り捨て御免を決まり文句としてきた姦通罪を、戦後アメリカ民主主義によって廃止の憂き目を見たからとその復権をも「脱却」の目玉の一つにしているのだろうか。

 大体がイスラム社会での顔を目以外隠すスカーフの女性のみの着用は、男の側からの女性側への要求事項の一つとしてある慣習だろうから、男女差別を意味するものだろう。男女平等を言うなら、男もスカーフを着用して、目以外を隠すべきである。

 フランスで公立校でのイスラム教徒のスカーフやユダヤ教徒のキッパといわれる帽子等の着用を禁止する「宗教シンボル禁止法」が04年9月に施行され、それを拒んだイスラム系の女子中学生40人が退学処分を受けた(05.1.12.『朝日』朝刊『スカーフ守り退学40人 仏の宗教シンボル禁止法』)ということだが、逆に西欧社会は男女平等社会だから、西欧社会で生活する以上、イスラム男性もスカーフをつけるべきだとした方が効果があるのではないか。女性は慣習だからと慣れていたとしても、イスラムの男たちはスカーフが如何に不便であるか、頑なな固定観念が強いている因習に過ぎないかを知って、少なくとも男の側から着用を強制することはなくなるのではないだろうか。

 再度言うことだが、当たり前のこととして差別は認識自体に含まれていて、その発令を受けて行為の形を取る。認識自体が既に差別意志に侵されていることを前提として成り立つ。小池百合子が言う「女性に対する見方」がイスラムの認識そのものとして前以て植え込まれているということであり、行為の形で現れなくても、認識は認識として残るのだから、男女差別は一般的と言える。

 こう見てくると、イラクと日本の政治権力に位置する人間の女性差別の対応性が双方の一般男性にも及んでいることを疑って、「男性の女性に対する見方」はどっちもどっちと取った方が無難ではないだろうか。まあ、「中東へ留学体験」もなく、「イスラム社会に詳し」くないことで「知られている」人間の言うことだから、当てにもならないが。

 小池百合子としては、女性の立場として柳沢発言を容認できない、「不快感を示」さざるを得ない立場にいる。擁護したら、日本の多くの女性を敵に回し、自民党の支持率だけではなく、首相補佐官(国家安全保障問題担当)を拝命している関係からも内閣支持率に悪影響を受けることになるだろう。当然今夏の参院選の形勢に不利な状況をつくり出しかねない。

 いわば自民党や内閣にも影響を及ぼす自己の立場を守る自己都合の発言として、「イスラムの国よりも」お粗末だと「不快感を示した」に過ぎないのだろう。

 自己都合の発言でなければ、「辞任の必要性について『ないんじゃないですか』と否定」は矛盾する物言いとなる。国会議員であり、内閣を形成する厚生労働省の大臣である柳沢なる公職にある人間と一般人を相対化し、同等に扱うことことは許されるはずもないにも関わらず、「男性にそのたぐいの人はいっぱいいます」と罪の平均化を行い、それを免罪理由に辞任しないことを許している。人殺しは他にもたくさんいますと言って許すのと同じだろう。

 逆に「イスラムの国よりも日本における男性の女性に対する見方は遅れている」代表者として、柳沢厚労相を辞任の血祭りに上げるべきではないか。「美しい国」経済大国日本の厚生労働大臣である。代表者になる資格は十分過ぎるほどある。血祭りに上げてこそ、言ってることに整合性と正当性を与えることができる。

 公明党の女性議員にしても、小池百合子以外の自民党の女性議員にしても、柳沢発言に対して不快感を示したり、容認できない態度を取っているのは与党という立場、女性の立場という自己都合からの形式的なシグナルに過ぎないのは、誰一人辞任まで求めない姿勢から窺える。批判的な姿勢を強く示すことで世論――特に女性世論を納得させようということなのだろう。「私も怒ってるんですよ、許せませんよね。みなさんの気持ちがよーく理解できます」と相手の立場に立つことで怒りを和らげる。
 
 国会で質問されたからだろう、閣僚まで同じ自己都合を演じなければならない対応を迫られている。

 尾身財務相「柳沢大臣の発言は全体として不適切なものがある、――と考えております」
 麻生外務相「私もその内容につきまして不適切、適切さを欠いていたということははっきりしていると思っています」(07.2.9.TBS「みのもんたの朝ズバッ」)

 二人とも「適切」な発言とは言えない立場上の発言、自己都合の発言なのは、単に「不適切」と片付けるだけで、それ以上のものではないとしていることに現れている。

 勿論民主党にしても社民党にしても柳沢厚労相を辞任に追い込み、その任命権責任を安倍首相に問うことで、安倍内閣自体を追い詰め、夏の参院選を有利に運ぼうとする党利党略の意思無きにしも非ずだが、しかし柳沢大臣自体の資質の問題追及では、野党に正当性がある。あるからこそ、与党は防戦一方なのであり、柳沢厚労相は謝罪一辺倒の低姿勢を見せなければならないのだろう。

 それでも国民の多くは国会は議論する場であり、差し迫った問題となっている少子化問題を議論すべきだとして、自民党に対しても民主党に対しても厳しい態度を示しているが、「日本が人口減少社会になっていくのは実は30年前に分かっていた。残念ながら30年間、我々の社会は有効な手段を準備できなかった」(05.12.22.『朝日』朝刊『人口減産めぬ現実』)と小泉内閣で総務相を務めた竹中平蔵自身が言っているのである。

 「30年」間も「有効な手段を準備できなかった」、無為無策だったのは「我々の社会」ではなく、自民党政治なのである。民主主義の多数決の原理を利点として、無為無策を続けてきた。この場に及んで国会は議論の場です、審議する場所ですと少子化問題を熱心に討論したとしても、「30年前」から差し迫っていた少子化問題の、これが万能薬ですと言えるような解決策など、有能なマジシャンが見せる鮮やかなマジックみたいに一朝一夕の間に自民党の多数決が目の前に出せるはずはない。

 「有効な手段を準備できな」いまま「30年」も経過しないうちに国民は無為無策の自民党政治に責任を取らせるべきだったのである。取らせもせずに、少子化問題は差し迫った問題である、国会の場で審議せよと言うこと自体、矛盾している。認識不足この上ない。国民は矛盾していることに気づくべきだろう。


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