外国人観光客誘致策と難民政策の矛盾

2007-02-27 10:39:09 | Weblog

 安倍首相と伊吹文科相の美しくない人権感覚

 昨日2月26日(07年)の朝日新聞夕刊に『国交省、観光客1000万人計画』と題する記事が載っていた。副題は『外国人増へ道しるべ策』。「東京都中央区の日本橋地区。携帯ゲーム機『ニンテンドーDS』の画面に表れる地図上の場面を押すと、英語と日本語の音声や文字で日本銀行貨幣博物館や日本橋の記念碑などの名所・旧跡や店舗、伝統工芸などが紹介される。
 国交省が今年度、全国25カ所で実証実験を行っている『まちめぐりナビプロジェクト』の一つ。携帯端末を使って観光客や来日外国人により多くの情報を提供しようという試みで、地元のNPO法人『東京中央ネット』の提案が採択され、約1千万円の支援を受けた。(後略)」という内容である。

 観光収支が経常的に出超であるだけではなく、先進国の中で特に訪れる外国人観光客が少ないことからの試みであろうが、記事に「国交省は2010年に、来日外国人旅行者を年間1千万人に増やす『ビジットジャパンキャンペーン』の取り組む。昨年は推計730万人と初めて700万人を上回ったが、同省幹部は『上積みするには、旅行者のリピーターを増やし、一人歩きできる環境の整備が必要だ』と話す。」
 
 『平成18(2006)年版 観光白書』によると、平成16(2004)年外国人旅行者受入数の国際ランキング」では日本が「世界で第30位」の注釈付きで約610万人に対して、フランスは日本の10倍以上の世界第1位の約7500万、アメリカ約4600万人、イギリス約2700万人、カナダ約1900万人となっている。日本は「昨年は推計730万人」になっているとは言え、『世界における国際観光の状況』と題した記事には「世界観光機関(UNWTO)によると、平成16年において各国が受け入れた外国人旅行者の総数は7億6,328万人(前年比10.7%増)、各国の旅行収入の総計は6,227億ドル(前年比18.8%増)といずれも大幅増となり、過去最高を記録した。」とあるから、他の国も増加していることから推計して比率はそうたいして変わらないのではないだろうか。

 『訪日外国人旅行者の国籍(平成17年)』によると、韓国からの1747171人、構成比26.0%、次いで台湾の1274612人、構成比18.9%、アメリカの822033人、構成比12.2%、中国の652820人、構成比9.7%、香港の298810人の構成比4.4%。すべて前年比を100%超となっているが、イギリス、フランス、イタリアは前年比で100%を超えているものの構成比は3.3%、1.6%、イタリアに至っては0.7%に過ぎない。

 アジアの経済発展国に依存した外国人観光客の姿が浮かび上がってくるが、特に今回の日本の景気回復の主要因が中国特需の恩恵を受けた回復であって、韓国、台湾にしても同じ状況にあったろうから、「昨年は推計730万人」は中国特需に依存した動向と言える。中国様々である。

 それでも「世界で第30位」という赤字観光収支に経済大国のメンツにかけて、モノづくりの技術だけではないぞというところを見せるべく様々な外国人観光客の誘致にチエを絞っているのだろうが、日本にその資格はあるのだろうか。

 外国人難民や就労外国人を快く受け入れようとしないで、外国人観光客は積極的に誘致しようというのでは整合性を欠き、虫が良すぎはしないか。永住者はお断り、一時滞在者は歓迎ということなのだから、その相矛盾する態度から言って、〝お断り〟こそがホンネ部分で、〝歓迎〟は見せかけの親近表現に過ぎない。難民を含めた外国人永住者を積極的に受け入れることによって、外国人観光客歓迎は初めてその合理性を獲得することができる。

 永住者お断りは日本の難民認定数が明瞭に証明している。2005(平成17)年の難民申請者数384人に対して、認定者は46人の約12%に過ぎない。何となく恩着せがましいく、潔い認可とは思えない「人道配慮による在留」の97人を含めても143人で、38%に過ぎない。大体が世界有数の経済大国でありながら、申請数がたったの384人というのは、評判が悪くて止むを得ない用事がるとき以外は寄りつく人間のいない金持の家といったところだろう。経済大国という金持であるにも関わらず、難民という寄る辺なき人間たちに評判がよくないという逆説は如何ともし難い。

 日本に於けるこの矛盾構造を自覚する神経も持たず、一時滞在者の誘致には努力を惜しまない「観光客1000万人計画」を堂々と打ち出すのだから、虫がよ過ぎるを通り越して、面の皮が厚いと言われても仕方がないのではないか。

 永住者はお断り、一時滞在者は歓迎なる矛盾病理は伊吹文科相も巣食わせている。2月26日(07年)の朝日朝刊に「日本は同質的な国」と発言した文科相の記事が載っている。

 「伊吹文部科学省は25日、長崎県長与市で開かれた自民党長与支部大会で、『大和民族が日本の国を統治してきたことは歴史的に間違いない事実。きわめて同質的な国』と発言した。」と出ている。「悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた。」と述べたとも記事は書いている。

 これは「大和民族」・「日本人」に限定した極めて肯定的な価値づけを行った言葉で、そのような価値観の上に立って「同質的な国」としたのは同質性への希求が言わせた言葉であろう。同質性への希求は「大和民族」以外の民族、「日本人」以外の外国人を異質とし、そのような異質性への排除を背中合わせに持つことによって可能となる欲求である。日本は「同質的な国」ではあったが、今後は外国人を積極的に受け入れなければならないという文脈で述べたわけではない。このような意識が難民認定数に象徴される外国人排除に体現化されている。

 上記記事は伊吹文科相が改正教育基本法の「前文に『公共の精神を尊び』という文言が加わったことについては、『日本がこれまで個人の立場を重視しすぎたため』と説明。人権をバターに例えて『栄養がある大切な食べ物だが、食べ過ぎれば日本社会は「人権メタボリック症候群」になる』と述べた。」と出ているが、外国人排除に見るとおりに最初から栄養不良の貧相な日本の人権感覚・人権欠如社会なのである、とてもとても「メタボリック症候群」に罹るどころの話ではないだろう。先ずはまともな人権が摂取できる「栄養がある大切な食べ物」を口にしなければならない。

 果して日本の「統治」に関して伊吹文科相が言っていることは「歴史的に間違いない事実」なのだろうか。古代氏族の物部氏も蘇我氏も朝鮮半島系の人間だとする歴史考証もある。それが歴史的に事実だとすると、「悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた。」は疑わしくなる。『日本史広辞典』(山川出版社)によると、蘇我稲目は自分の娘を欽明天皇の妃とし、用明・推古・崇峻の3天皇を生ませ、稲目の子馬子は用明天皇没後、欽明天皇の子の穴穂部皇子を攻め滅ぼし、崇峻天皇を殺して推古天皇を擁立し、聖徳太子を皇太子とする天皇家の人事をほしいままにし、馬子の子の入鹿は自らの住まいを上の宮門(みかど)、もう一人の子である蝦夷は自宅を谷の宮門と称して、天皇以上の権勢を張っている。

 例え伊吹文科相の言っていることが「歴史的に間違いない事実」だとしても、一筋縄ではいかない日本の国の「統治」なのである。

 また「統治」の制度にしても、文書での命令・伝達、あるいは文書に記録する文字にしても、中国の統治制度(律令制)及び中国の漢字の模倣から入っているのであって、日本独自の制度・文字・思想から出発しているわけではない。元々日本人は文字を持たない民族であったのは周知の歴史的事実となっている。中国の孔子とその弟子の言行録の論語は「日本へは応神天皇の時代に伝来したといわれ、早くから学問の中心とされた」(『大辞林』三省堂)という経緯にしても、日本人の行動を律しただろうから、単純には「悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた。」とは言えないだろう。中国という外国の制度・文化・思想を借りることで、日本の「統治」は成り立っていたのである。当然日本の歴史も伝統も文化も同じ形式を取って成り立ってきた。

 「大和民族」のみ・「日本人」のみの「同質性」を希求し、日本人が日本を「ずっと治めて」いくことを望む異質性の排除は単に外国人観光客誘致に関わる整合性の欠如の問題にととまらず、安倍内閣が掲げ、自らも内閣の一員として協同しなければならない民主主義や自由・人権といった同じ価値観を共有する国々との協力という外交上の謳い文句をも裏切る論理矛盾を犯す行為であろう。

 安倍首相にしても「同じ価値観の共有」を自分の都合だけで言っていることだから、伊吹文科相の発言を「問題ない」とすることができる。「そんなに相手を皆殺しにすることもなく、まあまあ仲良くやってきたということなんじゃないか」(asahi.com/2007年02月26日17時34分)と弁護したということだが、殺さないことだけが人権事項ではない。

 歴史としてきた権力の農民搾取、江戸幕府と明治維新政府の明治6年まで続いたキリシタン弾圧、戦争中の共産党弾圧、強制連行・従軍慰安婦問題等は「まあまあ仲良くやってきた」というお目出度い認識に反する日本の歴史風景・人権風景であろう。

 「『人権メタボリック症候群』との発言についても『全体を読んでみれば問題ない。権利には義務がつきもの。義務には規律が大切とおっしゃっている』と述べた。」(同記事)ということだが、権利・義務の関係式のみで「人権」を把えて、それだけで済ますことのできる美しくもない認識性は如何ともし難い。

 伊吹文科相は小学校5年生以上の英語必修化問題を、「まず美しい日本語が書けないのに、外国の言葉をやってもダメだ」と否定的な考えを示したが、伊吹自身が「美しい日本語」をどれ程に書いたとしても話したとしても、美しい人権感覚をバックボーンとしていない「美しい日本語」は表面を美しく装う欺瞞と化す。


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