自分から考える教育のスタートを「朗読劇」に置く
11月16日の当ブログ記事≪橋本知事体罰容認発言/体罰は有効な教育足り得るのか≫で橋下府知事が府民討論会で「言っても聞かない子には手が出ても仕方がない。どこまで認めるかは地域や家庭とのコンセンサス(合意)次第だ」と体罰を教室秩序維持の手段とすることを欲しているかのような発言をしたことに対して、私は記事の最後に<体罰の方向に進むのではなく、例え困難なことではあっても、より多くの生徒の知識欲を満たす方向に進むべく努力すべきなのは確かなことだと言えるのではないだろうか。>と主張した。
その具体的な方法まで述べなかったが、かねてから教師が伝える知識を単になぞって頭に暗記させる生徒の従属性を柱とした知識授受の教育ではなく、生徒に自分の方から自発的に学ぶ姿勢を持たせる生徒自身の能動性に期待する形式の教育への転換の必要性を言い、私自身のHP『市民ひとりひとり』に第9弾「提案します『中学校構造改革』」として02年2月10日にアップロードし、さらに「第128弾」として06年10月2日に『中学校構造改革(提案)』と題名を変えてアップロードし直したが、改めて再度ここで纏めてみて上記ブログでは述べなかった「具体的な方法」としたいと思う。
それは中学校を非義務教育化し、「一教科選択性」のいわば“専門学校化”すると言うものだが、勿論、私自身はそう信じていはいても、これが有用な主張であるかどうかは分からない。そのことは断っておかなければならない。
大体のところは『中学校構造改革(提案)』で書き尽くしているが、その「7.授業改革」の出だしで次のように書いた。
<基本はあくまでも自己責任性を原理とする。自ら学びたい教科を学ばせ、学びたい者だけを受け入れる学校社会とすることによって自己責任性は確立可能となる。
基本的には、「自ら学ぶ」形式の一教科選択性を採る。但し他教科への中途転籍を許すこととする。
自己選択による一教科を「自ら学ぶ」方式で無限な深度に向けて探究させる。いわば井戸を地球の中心に向けて可能な限り掘り下げていくように一つのことを究めさせることで、そこから全般的な教養や常識への反転照射を行わしめ、それと同時に、想像力(創造力)や思想・哲学といったより高い段階への到達を策す構造とする。
さらに譬えて言えば、月への到達を徹底研究しながら、宇宙全体を知る教科教育の構造を取る。一教科を究めていく過程で「自ら学ぶ」姿勢を自分の血肉(スタイル)としたとき、それは未知の事柄に関しても条件反射され、一般教養や社会性・社会的常識の獲得にもつながる一教科を超えた幅広い知識へのパスポートとすることが可能となるからである。
但し価値観の多様化時代に合わせた子どもの多様な価値観に応えるために、入学は無試験とした上で、従来の教科の種類に限定せず、ありとあらゆる可能性(生存機会)の試行錯誤に対応する教科の採用を行い、すべての生徒に自らが選択する可能性(生存機会)に対してチャレンジの機会を与えるものとする。ここが肝心である。
例えばマンガを読んだり描いたりするのが好きな生徒のために、マンガ科を設けたり、土いじりの好きな生徒が望んだなら、陶芸科を用意する。
中学校の非義務教育化と同時に学区制を廃止することで、希望者少数の科目は例え遠隔地となろうとも、通学可能な範囲内で一つの中学校に集めることで一つの纏まったクラスに編成し、協同して勉強に取り組ませることが可能となる。例え通学に時間がかかろうとも、 好きな勉強に打ち込めることと差し引きしたなら、どれほどの苦痛となるだろうか。好きなアイドル歌手の公演にはるか地方から電車や飛行機を乗り継いで駆けつける追っかけファンにとっては、それがどれほどに距離と時間がかかろうとも苦痛ではなく、逆に悦びであるに違いないのと同じである。
それでも頭数が少ないときは、学年を超えたクラス編成とすればいい。早い時期からの異年齢による形式的ではない集団生活は社会に出てから役立つはずである。教室が不足なら、一つの教室を衝立で区切ればいい。自分で選んだ教科に同じ教科を選んだ仲間と協同して、一人一人が自分から取り組むのである。私語の暇もないはずだし、衝立を通して聞こえる他のクラスの声も気にならないはずである。>・・・・・・・
一方で大学進学を目指す生徒には「進学科」を設けて、それを自己選択させることを提言した。
以上は最初に指摘したように中学校を非義務教育化すると同時に一種の“専門学校化”する(専門の教科を学ばせる)という方法論を主として述べたものだが、要するにテレビゲームでも何でもいい、生徒に自身が学びたい事柄を一つ自己選択させて、それを教科とするということに尽きる。自己選択自体が既に自発性を動機とさせる。自発性を動機としない自己選択は二律背反以外の何ものでもない。他からの強制を隠した自己選択は自己選択の装いを取っていても、真の自己選択とは決して言えない。そのことはすべての生徒に口うるさく伝えなければならない。例え親や友達に相談しても、最終的には自分で選択せよと。
自己選択となったとき、そこに必然的に否応もなく自己責任が伴う。自己責任自体も自発性を構造とする。自己選択とは自己責任行為である。
自分が選択した教科である以上、自分から進んで学び、結果を出すべく努力をしをしなければならない責任が生じるというわけである。
中学校を好きな教科を学ばせる“専門学校化”とする以上、高校もそのような形式に対応させて「進学科」を含めて“専門学校化”しなければならないのは断るまでもない。
日本人は学歴主義・権威主義の行動様式から逃れることはできないだろうから、これまでと同じく願わくば大学卒の学歴、それが叶わなければせめて高校卒の学歴をと願って学歴獲得を目的に上級学校に殺到するための通過地点としてきたように中学が非義務教育化しても、小学卒で終える生徒が出てくるとは考えられず、学歴獲得の通過地点とすることに変りはなく、誰もが中学入学を目指すに違いない。
だが、小学校の少なくとも5,6年生になると、中学で何を学びたいか、どのような教科を選択するか、自己選択を迫られる。今までのように小学校を終えれば中学に進むものだと機械的に把え、機械的に進学していけば済む問題ではなくなる。学びたい教科、進むべき進路を誰に相談しようと、基本的には自分で考え、自分で決定することが求められる。
いわば自発性の発揮による自発的決定(=自己選択)へと持っていかなければならない。真に自分がしたいこと、学びたいことは親でも分からないだろうし、親に決めさせたのでは小学生5、6年生にもなって一個の人格とは言えなくなる。
自分で考え、自分で決める自己選択を行った以上、積極的に取り組む責任、継続させる責任、学びを深める責任が生じる。簡単には途中で投げ出すことはできないだろう。
いわば、「何を学びたいか」、学びたい教科を一つ自己選択させることで、そこに学ぶことへの自発性及び自己責任性を発動せしめ、そのことによって橋下大阪府知事が言っていた「子どもが走り回って授業にならない」、あるいは女教師がプリント配布中にふざけまわっていて窓から転落死するといった授業時間中の無秩序をなくす「具体的方法」とするということである。
例えばサッカーが好きだから、サッカーを学びたいという生徒への数学はどう教えるのかといった疑問が生じるが、サッカーボールの風という空気抵抗を受けた場合の速度変化、曲がり具合、あるいはどのくらいの力を加えたら、どのくらいの速度と距離をつくり出せるか等々、いくらでも数学を創り出せる。
このような数学はサッカーの競技自体にも役に立つことだから、生徒は興味を持って自発的に学ぶだろうことは十分に考えることができる。
焼き物が好きだからと陶芸科を選んだとしても、器の口と胴体の大きさやふくらみ具合の比率の違い、あるいは高さの比率の違いがれぞれにどういう美しさ・調和を与えるか、その計算を数学問題とすることもできる。あるいは粘土で仕上げた器等を窯に入れて焼くときの火力の違いからの粘土に与える伝わり方の違いも数学となる。
教師も考える、生徒も考える教育となるように思えるが。
自分から考える教育のスタートを「朗読劇」に置く
機会あるごとに言っていることだが、教師が伝える知識を単になぞって頭に暗記させる日本の教育は知識の機械的授受を構造としているゆえに考える意識作用はその構造にはそもそもからして組み込まれていない。考えたりしたら、暗記教育ではなくなってしまう。
いわば暗記教育を施すことによって、日々生徒の考える機会を奪っている。だからこそ、日本の子供は自分で考える力が欠如しているとして、「自分で考え、自分で決定する」という「総合学習」を設ける必要が生じたのだろう。
だが、「学力向上」圧力、と言えば聞こえはいいが、単に「テストの点数上げ」圧力を正体とした「学力向上」圧力に過ぎず、その圧力に負けて、「総合学習」指向は後退してしまった。「テストの点数上げ」が目的だから、学力テストの成績自体を問題として、その公開だ非公開だと騒ぐこととなっている。これはテストの点数で日本の教育を回そうとする教育状況となっているということであろう。
だが、以下のことも何度でも言っているように子供の考える力の欠如は大人の考える力の欠如を受けた、その反映に過ぎない。日本の大人が長らく「マニュアル人間」だとか「横並び思考」だとか言われていることも、考える力の欠如を指していることの譬えに過ぎない。両者とも「他に従う」(=従属)をキーワードとした行動を指し、「自分で考えて自分で決定する」自発性をキーワードとした行動への言及ではないからだ。
教師自体が暗記思考を行動様式とする権威主義に侵されているから、どうしても教科書の内容をなぞった上に自分で考えたものではない、誰かが言っていることをプラスアルファ付け加えただけの知識をただ生徒に伝える機械的な知識授受の暗記教育を歴史とし、文化とし、伝統とすることとなっている。
それを打破する手っ取り早い方法が「朗読劇」ではないだろうか。
小学校1年生から始める。クラスをいくつかのグループに分け、セリフを書いたノートを持たせて教室の前に立たせる。最初は機械的にセリフを読み上げるだけで終わるだろうが、上達させるために何度も繰返していくうちに、自分がセリフで演じる登場人物のセリフそのもからその人物の考え方、あるいは生き方まで学べるし、登場人自ら学び取っていくようになるはずである。
朗読劇終了後、クラスで劇は何を言いたいのか、言いたいことのテーマは何なのか。登場人物の誰それはどのような考え方、人生観の持ち主なのかを議論して、教師の指導で生徒それぞれの考えを深めていく。自分で考えて、自分で答を見い出していくという「考える教育」の機会とする。
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