安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(4)

2007-05-11 02:07:39 | Weblog

 A級戦犯合祀、御意に召さず

 S16/12月8日(月)(前略)今暁、米、英との間に戦争状態に入り、ハワイ、フィリッピングアム、ウェーク、シンガポール、ホンコン等を攻撃し、大戦果を収む。前12・00(正午)防空下令、夕刻警戒官制施かる。 

 S16/12月25日香港、本夕降伏を申出で、7・30停戦を命ぜらる。陸軍9・40上聞す。
 常侍官出御の際、平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむなど、仰せありたり。

 〈注〉おどろきの発言である。
 天皇は南洋の島々を平和回復後に「日本の領土となる」といっている。此時点では勝利を確信していたのか。
    
 ――まだアメリカと本格的な戦闘状態に入っていない、石油禁輸・屑鉄禁輸・在米資産凍結がどう響くかわからない状況下で、緒戦の「大戦果を収む」だけでその気になったのか。だとしたら、天皇「アメリカとの戦闘になったならば、陸軍としては、どのくらいの期限で片づける確信があるのか」 
 杉山「南洋方面だけで3ヵ月はくらいで片づけるつもりであります」を信ずるに至ったのか。
 
 S17/1月9日(金)(前略)本日午后4・00、首相拝謁の願出あれば、その機会に申上げをし然るべき旨伝ふ。首相拝謁の際、申上げたるものと察す。〈後略〉

 (注)この日の東条拝謁時の、天皇の面白い発言が『東条内閣総理大臣機密記録』に残されている。
「米英等に於て作曲されたる名曲〈例えば蛍の光の如し〉をも、今後葬り去らんとするが如き新聞記事ありし処、如何処理しつつありや」
 東条あわてて「そんな小乗的なことはしません」と答えたという。
    
 ――1年後には「そんな小乗的なこと」をした。

 「1943(昭和18)年1月13日には、内務省と情報局が『ダイアナ』や『私の青空』『オールド・ブラックジョー』『ブルー・ハワイ』など米英音楽1,000曲を敵性音楽としてリストアップし、演奏を禁止した。中でもジャズは「卑俗低調で、退廃的、扇情的、喧騒的」として徹底的に排斥された。代わって巷には、「加藤隼戦闘機」(空中戦の軍神といわれた加藤建夫少将を称えた歌)「お使いは自転車に乗って」の流行歌が流れた。」(HP「非国民」

 S17/2月15日(日)〈前略〉午后7・50、シンガポールにて敵軍無条件降伏す。5・50の参謀総長は同上の件上奏。ラヂオは10・10分、大本営発表を放送す。

 〈注〉紀元節までに攻略する。それが作戦発動当初の予定であった。やや遅れてこの日に英軍降伏となったが、実は日本軍の弾薬は底をつきかけていた。ゆえに軍司令官山下奉文中将は戦闘継続を恐れていた。巷間伝わる敵将パーシバルに「イエスか、ノーか」と居丈高に迫ったという話は故意に、つまり戦意高揚のために作られたもの。山下自身はのちのちまでその話は嫌悪していたのである。

 ――【紀元節】「1872年(明治5)、日本書記伝承による神武天皇即位の日を紀元の始まりとして制定した祝日。第2次大戦後廃止されたが、1966年(昭和41)「建国記念日の日」として復活した」(『大辞林』)

 歴史の長さだとか民族だとかを権威とする国家主義が戦後も生きていいる証拠。

 S17/2月17日(火)シンガポール島を昭南島と改称せらる。

 〈注〉『木戸幸一日記』に、木戸がシンガポール陥落のお祝いを述べたときの、天皇のすこぶる元気な発言がある。
「次々赫々たる戦果の上がるについても、木戸には度々云ふ様だけれど、全く最初に慎重に充分研究したからだとつくづく思ふ」 
    
 ――天皇がもし君子だとしたらの話だが、君子豹変す、といったところか。S15/10月12日の日記には、「支那が案外に強く、事変の見透しは皆が誤れり」の天皇の言葉があり、S16/1月9日(水)には「結局、日本は支那を見くびりたり。早く戦争を止めて、十年ばかり国力の充実を計るが賢明なるべき」と同様の言葉を述べている。

 軍部が「1ヶ月くらいにて片づく」とした支那事変が「4ヵ年の長きにわたってもまだ片づか」ない見通しの悪さで「支那を見くび」り、すべてに於いて日本よりも国力が遥かに優っているアメリカを「見くび」らなかったと早断定したというのか。

 S17/3月9日(月)ジャバ島全軍無条件降伏、10・30発表せらる。戦果益々挙る。目出度き極みなり。御満悦さこそと拝察される。

 〈注〉3月7日ジャワのバントンのオランダ軍降伏、8日ビルマのラングーン占領。ニューギニアにも上陸と、日本軍の快進撃は続いた。天皇は木戸を読んで、戦況を隠すことなく伝えて喜びの言葉を発した。
「あまり戦果が早くあがりすぎるよ」

 S17/4月18日(土)帝都各所に初めて爆弾、焼夷爆投下せらる。〈後略〉

 〈注〉後の侍従長、藤田尚徳の「侍従長の回想」に、この日のドゥリットル・B25爆撃機16機による、日本本土空襲に際しての宮中の狼狽ぶりが実写されている。
 侍従「陛下、空襲です。お退りください」
 天皇「そんなはずはないだろう。先ほど海軍大臣〔嶋田繁太郎〕がやってきて、空襲に来ても夕方だろうといっていた」
 侍従「いや、いま東京を空襲しているのでございます。おやはく・・・」
 侍従が誰かは不明。小倉侍従ではないようであるが。
    
――S16/12月8日の「今暁、米、英との間に戦争状態に入り、ハワイ、フィリッピングアム、ウェーク、シンガポール、ホンコン等を攻撃し、大戦果を収む」から4ヵ月余経過したのみで初めての空からの侵入を安々と許して空爆させる。しかも目視可能な昼間に正々堂々の爆撃を受ける。長期戦化し、防御体制が次第に崩されてからの侵入を許すというなら話はわかるが、初めての飛来であるにも関わらず侵入を許す見事な防空体制。天皇の「あまり戦果が早くあがりすぎるよ」が早くも怪しくなってきたか。

 S17/4月27日(月)一昨日の靖国神社御参拝の新聞写真は、今回の分あらざる模様に付、取調べたる所、昨年4月分にて、今回の御分が不出来に付、昨年分の掲載を宮内省にて許可したる由。天知る、地知る、何処かよりは現はるるものにして、便宜主義は不可なるべし。一億国民をあざむくものにして、御上に申訳なきことと愚考せらる。
    
 ――写真の付け替えぐらいの捏造、世論操作の「便宜主義」の類、戦後日本の歴史・伝統・文化として教育タウンミーティングでまだ続いていたのだから驚くには当たらないのだが、小倉侍従に於いてはその時点でまだ気づかぬことゆえ、仕方のないことか。

 S17/5月7日(木)コレヒドール島陥落。陸海軍に勅語を賜ふ。
 S17/5月8日(金)本夕、軍令部総長参上後、珊瑚礁海戦の大戦果発表せらる。

 〈注〉7日、8日と2日間にわたった珊瑚礁海戦では、米世紀空母1隻撃沈、1隻中破の戦果を挙げた。損害は軽空母1隻喪失、正規空母1隻中破であったが、日本軍は追撃を中止し、ポートモレスビー攻略の目的は達せられなかった。報告に参内した軍令部総長に天皇は言った。
「戦果は大いによかった。弱った敵を全滅することに手抜かりはないだろうね」
 永野は仕方なく追撃を中止したことを奏上する。そのときの天皇の言葉はきびしい。
「かかる場合には敵を全滅せざるべからず。〈作戦指揮をした〉第4艦隊長官は井上〈成美〉ならん。〈彼は〉事務に明るからんも戦のことは分りをらざる事なきや」(「嶋田繁太郎大将備忘録」)  
    
 ――とても「立憲国の天皇は憲法に制約される」として、発言しないことを心がけている人間には思えない。尤も国家元首、統帥権者としては当然な姿である。〝追撃中止〟は余力がなかったからだろう。あれば、バカでも追撃する。 

 S17/6月7日(日)昨日辺りより、御気色、少しく御不良に拝す。海軍の戦果に付てにはあらざるかと推せらる。

 〈注〉この日はミッドウェイ海戦敗北の日である。世界最強を誇っていた機動部隊の主力である空母4隻を喪失した。小倉日記にはその記載はなく、不機嫌な天皇の姿のみ見える。『木戸日記』には6月8日「今回の損害は誠に残念であるが。軍令部総長には之により指揮の沮喪を来さざる様に注意せよ、尚、今後の作戦消極退嬰とならざる様にせよと命じて置いた」との天皇発言が記されている。 
 私が調べたところでは、軍令部は損害は空母2隻と天皇に嘘の報告をしていることが分かった。軍は国民を欺すと共に、大元帥陛下をも欺していたのである。
    
 ――開戦から半年で戦果を捏造しなければならない。1ヶ月の見通しの支那事変が4年経過してなお進行形なのも、誤魔化しの上に誤魔化しを積み重ねてきた結果ではないか。但し、元々誤魔化しの政治体制、誤魔化しの立憲君主制だったのである。「日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」と背伸びだけは一生懸命に背伸びをして、大日本帝国なる名称を詐称していた。

 S17/6月9日(火) 御製御下げになり。北方海戦に航母4隻撃破せられたる御趣旨の、有難き御製を遊ばされたるも、極秘事項に属するを以て、御歌所へも勿論下げず、御手許に御とめ置き戴くこととせり。
 
 〈注〉ミッドウェイ海戦の戦果は始め天皇にも敵空母4隻撃破と報告されたことが窺える記述。天皇はそれを受けていったんは御製(和歌)を作ったようである。実際には1隻撃沈しただけ。このときの御製が書かれていないのが残念である。
    
 ――「次々赫々たる戦果の上がるについても、木戸には度々云ふ様だけれど、全く最初に慎重に充分研究したからだとつくづく思ふ」が糠喜びだ気づいたのだろうか。 

 S17/8月8日(火)常侍官出御(8・15-8・35)。侍従長(11・30-11・40)。海軍上聞(11・50-11・54)。内閣(12・55)海軍上聞(1・00-1・05)。(後略)

 〈注〉伊藤正徳『帝国陸軍の最後』に、出典不明であるが、興味深い記述がある。この日、米軍がソロモン諸島ガダルカナル島上陸との報告を受けて、「陛下は愕然として起ちあがられた。それは米英の反攻開始ではないか。今日光なぞで避暑の日々を送っている時ではない。即刻帰京して、憂をわかち、策を聴かなければならぬ。帰還方用意せよ」
 米軍のガ島上陸を反攻開始と察知したのは、少なくとも史料に見るかぎりでは天皇だた一人である。
    
 ――「策を聴」いたとしても、口出しできなければ、却って欲求不満、イライラを増すことになるだけ。立憲君主が事実としたら、すべてが終わったときの結果を待ち、その報告を「意に満ちても満たなくても」受け入れるしかない。

 天皇を取り巻く実質的政治権力者には名目的存在。国民に対しては、尊い、神聖にして侵すべからざる現人神。インチキそのもののその二重性を戦後に学んだからこそ、A級戦犯合祀に拒絶反応を持つに至ったのではないのか。その二重性によって、A級戦犯となった者を筆頭にした彼らから誤魔化しの戦果を受ける誤魔化される存在であったことを学んだ――。
 
 S17/10月27日(火)南太平洋海戦、大戦果発表。

 〈注〉ガダルカナル島争奪をめぐって日米は全力を結集して戦った。陸軍の総攻撃の支援のために出動してきた日本の機動部隊と、これを迎え撃つための米機動部隊とが衝突、ミッドウェイ海戦以来の航空決戦が展開された。「高松宮日記」10月28日の項。
「昨日お上のお話にて、参謀総長、侍従武官長もあれだけの損害で攻撃挫折したるは弱い。日露戦争のときは旅順などではもつともつと大損害でも攻撃したのにと云つていたとのことなり。陸軍の話では、夜戦にて上級指揮官が多く倒れたので攻撃力がなくなつたとのことであった。
 陸も海も攻撃挫折の報告に、天皇は切歯扼腕している。
 
 S17/12月11日(金) 伊勢神宮御参拝の為め、京都へ行幸。本日は御参拝前なるを以て、拝謁その他、御行事は一切願わず。陸軍上聞(7・00尾形)常侍官候所出御(7・10-8・57)明朝朝御発に付、御格子を御早く願いたり。
 本夜、常侍官出御の節、左の如き思召、御洩らしありたり。
 (1)戦争は一旦始めれば、中々中途で押へえられるものではない。満州事変で苦い経験を嘗めて居る。従って戦を始めるときは、余程慎重に考へなければならぬ。大山〔巌〕元帥は日露の役の際、自分の軍配の上げ方を見て呉れと言つたそうだが、卓見だと思う。今は大山が居ない。戦争はどこで止めるかが大事なことだ。
 (2)自分は支那事変はやり度くなかつた。それは、ソヴィエトがこわいからである。且つ、自分が得て居る情報では、始めれば支那は容易なことではいかぬ。満州事変の時のようには行かぬ。外務省の情報でも、海軍の意見でもそうであつた。然し参謀本部や陸軍大臣杉山〔元〕の意見は、支那は鎧袖一蹴ですぐ参ると云ふことであった。これは見込み違いであった。陸軍が一致して強硬意見であつたので、もう何も云ふことはなかった。
 (3)閑院さん〔閑院宮載仁(ことひと)〕の参謀総長で今井〔清〕が次長であり、石原莞爾が作戦部長であつたが、石原はソヴィエト怖るるにたらずと云ふ意見であつたが、支那事変が始まると、急にソヴィエト怖るべしと云ふ意見に変わった。
 (4)大東亜戦争の初る前は心配であつた。近衛のときには、何も準備出来ていないのに戦争に持つて行きそうで心配した。東条になつてから、十分準備が出来た。然し、12月8前に輸送船団が敵に発見されたと云ふことで、駄目かと思つたが良かった。
 (5)支那事変で、上海で引つかかつた時は心配した。停戦協定地域に「トーチカ」が出来ているのも、陸軍は知らなかった。引っかかったので、自分は兵力を増強することを云った戦争はやる迄は慎重に、始めたら徹底してやらねばならぬ、又、行わざるを得ぬと云ふことを確信した。満州事変に於て、戦は中々やめられぬことを知つた。(この点は度々繰り返し仰せらる。誠に国家将来の為、有難き御確信を得られたものと奉答す。)。
 (6)自分の花は欧州訪問の時だつたと思ふ。相当、朝鮮人問題のいやなこともあったが、自由であり、花であつた。(と御述懐あり。今後に花のあるのものと考ふる旨、申上ぐ)。
 本夕かかる仰せありたるは、誠に御異例のことなり。確り他言すべからざることを、尾形武官、戸田侍従二人と誓ふ。

 〈注〉戦勢が傾き出した時の天皇の心のうちがまことによく出ている。この京都の夜の天皇と侍従たちのとの語らいについて、侍従武官『尾形健一大佐日記』にわずかにある。
「本夜は珍しく過去の歴史、満州事変後の政務、戦争等に関する御感想を御洩らしあり。戦争を始むるは易く終るは困難なり。御言葉の中に陸軍の戦争指導、戦争準備に関し重要相当機密の御感想を御漏らしあり」
 軍人だけあって、「此に詳細は記し得ず」と尾形大佐は筆を擱いた。今回その全容が初めて明らかになったわけである。それにしても、20年前の皇太子時代のヨーロッパ外遊が「自分の花であった」と振り返る姿は痛々しい。
    
 ――蚊帳の外での繰言。統帥権者としての自覚が全然ない。形式だと自分でも分かっていたからだろうか。

 S17/12月21日(火)御前会議臨席。(11・05-11・45)。侍医頭、出御を御止め申上げたるも御許しなし。仍(よっ)て御場所、東一の間を、御学問所の二の間に変更す。

 〈注〉この御前会議は「対支那処理根本方針」を決定したもの。その内容は、汪精衛自身から申し出のあった参戦の承認、そして対重慶和平工作の全面中止などである。日本はもう対中国戦争に関わって入られないほどの危機に直面していた。
    
 ――対米戦争を始める前から食料不足の問題を抱え、アメリカから石油全面禁輸・屑鉄全面禁輸の措置を受けて物資困窮状態にありながら、兵力を分散することは同時に戦争資材を分散することになるのだから、兵力・資材共に二重に自ら手薄に持っていったようなものではないだろうか。

 《安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(5) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》


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