民進党代表代行の蓮舫が2016年8月23日に日本外国特派員協会で記者会見し、民進党代表の岡田克也を評して「つまらない男」と発言したことがマスコミを賑わしている。
発言の全文一部を取り上げている8月23日付「The Page」から、その発言個所を見てみる。発言一部残りは有料となっていて、会員となって会費を払わないと読むことはできない。
蓮舫「あとは、民進党のイメージを思いっきり、私が代表にさせていただくことで変えたいと思います。ここが大事なので、ぜひ編集しないでいただきたいんですが、私は岡田克也代表が大好きです。ただ、1年半一緒にいて本当につまらない男だと思います。人間はユニークが大事です。私にはそれがあると思います。ぜひ、皆さんのご支援いただければ、このあとぜひ、質疑応答で議論させてください。ありがとうございました」
蓮舫はこの発言個所に関する朝日新聞デジタルの記事の取り上げ方について同日付の自身のツイッターで異を唱えていることを「J-CASTニュース」記事が伝えている。
蓮舫「この編集のされ方は残念すぎます。私は『編集しないでほしい』との前提で、岡田代表への敬意を表しました。その上で、ユーモアのない真面目さを現場で伝えたかったのです」――
「朝日新聞デジタル」が紹介している発言は次のようになっている。
蓮舫「民進党のイメージを思いっ切り、私が代表にさせていただくことで変えたい。私は岡田克也代表が大好きです。ただ、1年半一緒にいて、本当につまらない男だと思いました。人間はユニークが大事です。私にはそれがあると思います。ぜひ、みなさんのご支援をいただければ」――
「ここが大事なので、ぜひ編集しないでいただきたいんですが」と発言した個所を抜かしているだけで、岡田が「本当につまらない男だ」と発言している肝心の箇所は何ら編集していない。
蓮舫が「1年半一緒にいて本当につまらない男だと思います。人間はユニークが大事です」と言っている以上、「人間的にユニークさのない本当につまらない男だ」との意味となる。その上で、「私にはそれがあると思います」との表現で、「私は岡田克也と違ってユニークさある」と、そのような性格か資質のあることを自ら保証した。
要するに蓮舫は岡田克也はユニークさのない平々凡々な「本当につまらない男」に過ぎないと酷評したのである。
一見すると、日本外国特派員協会の記者会見では具体的には触れていないためにこのユニークさのなさを単なる人間的性格に関してのみ指摘したのか、岡田克也の政治的資質について言及したかが問題となるように見えるが、民進党代表選に立候補する政治家としての立場から現在の代表である岡田克也にはユニークさがない、自分にはそれがあると、自身が代表になった場合と岡田克也と言う現在の代表を見比べているのだから、否応もなしに政治的資質についての評価ということになる。
つまり、「政治的な資質の点に於いてユニークさのない本当につまらない男だ」と、岡田克也よりも蓮舫自身を政治的ユニークさの点で遥か上に置き、自分こそ民進党の代表に相応しいとした。
勿論、こういった批判も可能だし、許されもする。但し「1年半一緒にいて」と言っているが、第1次菅内閣の時、岡田克也は外相、蓮舫は内閣府特命担当大臣(行政刷新担等)を務め、それぞれに内閣の一員を形成していた。
また野田佳彦が最終的に選出された2011年8月29日の民主党代表選挙では幹事長だった岡田克也が野田の選対顧問を務め、蓮舫は野田の推薦人に名前を連ねている。
いわば菅内閣以降、岡田も蓮舫もお互いが執行部に所属していたか、あるいはどちらかが所属していなくても、執行部に近い人脈という関係を築き合っていた決して1年半やそこらの親しい関係ではない。
にも関わらず、岡田克也が代表を務めていたこの「1年半」で岡田の政治的資質のユニークさの欠如に今更に気づいたかのように言う。
このゴマカシは限りなく胡散臭い。
さらに自身のツイッターで、「岡田代表への敬意を表しました。その上で、ユーモアのない真面目さを現場で伝えたかったのです」と、「本当につまらない男だ」との発言をさも人間的性格に関してのみの言及だったと思わせるゴマカシも胡散臭い限りである。
政治的な資質の点でユニークさを欠いているとするニュアンスで評価した「本当につまらない男だ」が、「ユーモアのない真面目さ」とどう繋がるというのだろうか。
否定の肯定という経緯を踏む評価の方法がある。
一般的にこの方法に則った場合、「彼はユーモアのないただ真面目一方の本当につまらない男だが」と事実その通りの否定的評価を最初に持ってくるが、それと対比させて、「但し何々の仕事を任せたなら、彼の右に出る者はそうそうはいない」と、否定的評価と比較した高い肯定的評価で締めくくる方法である。
最後にこの高い肯定的評価を持ってきてこそ、「岡田代表への敬意を表しました」と正面切って言うことができる。
だが、日本外国特派員協会での発言はそういった経緯を一切踏んでいない。
大体が代表選に臨む立場の蓮舫が代表になった場合の自身の優越性を与党の政策と比較した自身の政策に置かずに岡田代表の政治的資質のユニークさのなさに置いてどうなると言うのだろうか。
どこを叩いても、小賢しさだけしか出てこない。
この小賢しさは今夏の参院選で岡田克也が進めた共産党との野党共闘についての発言にも見ることができる。
「asahi.com」(2016年8月23日22時36分)
蓮舫「1人区という特殊な選挙区で、野党がバラバラに出すことで勝てないという戦いでは、一本化するのは望ましかった。私自身が戦った東京選挙区では、社民党、共産党は敵だ。(共闘は)『路線』ではなく、選挙区事情と地域事情による一つの『戦術』だ」――
確かに1人区で民進党が社民党や共産党と共闘しながら、複数区で議席を争ったのでは与党自公から見たら、その整合性が疑われることになる。だが、反安倍政治に共通点を置いて、そこに整合性を与えたなら、後は有権者を納得させることができるかどうかは自身の言葉の問題である。
民進党は複数区だけで持ってるわけではないから、1人区での野党共闘は必要だが、複数区には悪影響が出るでは自分勝手が過ぎて、小賢しいだけの話となる。
大体からして安倍晋三の新安保法制反対闘争では社民党や共産党、生活の党などと共闘を組んだ。国会前の反対デモでも野党党首は揃い踏みしてそれぞれが反対演説を行った。
2015年9月当時の新安保法制成立期には参議院に安倍晋三に対する問責決議案を民主党が出して、野党揃って賛成の立場で戦い、衆議院には野党共同で内閣不信任決議案を提出している。
にも関わらず、複数区では「社民党、共産党は敵だ」といったあからさまな言葉を使う。「敵」という言葉の意味は相容れることのできないゆえに拒絶反応を感じざるを得ない相手、あるいはまるきり拒絶反応以ってしか対することのできない相手のことを言う。
当然、自公に対して使うべき言葉であって、共闘が必要となる関係からすると、「議席を争わなければならない相手だ」ぐらいのオブラートに包んだ表現こそが相応しいはずだが、それができずに拒絶反応を含んでいる「敵」という表現が口を突いて出たのは言葉のセンスの無さだけではなく、小賢しさからきているはずだ。
確かに蓮舫は頭が切れる。だが、そこに小賢しさが加わっていて、その小賢しさが勝ち過ぎると、逆に「本当につまらない女だ」という評価が行き渡らないとも限らない。