久間原爆投下容認発言(2)/侵略戦争否定と同じ文脈

2007-07-03 11:24:15 | Weblog

 久間防衛大臣原爆投下容認<【発言の要旨】>(07年7月1日『朝日』朝刊≪「飛んでもない」「歴史認識低い」 原爆投下巡る久間氏発言≫)

 「日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのは、ソ連の侵略がなかったからだ。米国は戦争に勝つと分かっていた。ところが日本がなかなかしぶとい。しぶといとソ連も出てくる可能性がある。ソ連とベルリンを分けたみたいになりかねない、ということから、日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。8月9日に長崎に落とした。長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。
 幸いに(戦争が)8月15日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違えば北海道までソ連に取られてしまう。その当時の日本は取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている。
 米国を恨むつもりはないが、勝ち戦ということが分かっていながら、原爆まで使う必要があったのか、という思いは今でもしている。国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうことも選択肢としてはありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った」――

 何とまあ程度の低い思考能力の持主なのか。合理的客観性の一片もない。日本の政治家なのだから、仕方がないのかもしれない。こういった政治家が大臣にまで登りつめるのだろう。

 「日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした」

 「原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている」

 日米開戦間際から敗戦までの日米間の状況を時系列で追ってみる。

○1941年10月――東条英機内閣成立
 <大命により現役陸相のまま組閣。(後に)対米英開戦の決定を下す。>(『日本史広辞典』山川出版社)

○1941年11月26日――ハル・ノート
 <日米交渉最終段階にアメリカ国務長官ハルが示した対日回答。中国本土からの全面撤退、重慶政府以外の政府の否認、三国同盟の否認など厳しい要求を含んでいた。日本の暫定協定案(乙案)への回答であったために日本側はこれを事実上の最後通牒と見た。米側にも「乙案」に近い暫定協定案があったが、アメリカの対日参戦を期待する蒋介石の強硬な反対論と、蒋の説得に応じて反対に転じたイギリスのチャーチル首相の働きかけによって、アメリカはハル・ノートを発した。>(『日本史広辞典』)

○1941年12月8日――真珠湾攻撃・日米開戦

○1943年11月22日~26日――カイロ会談
 <エジプトのカイロで開催された米・英・中三国首脳会談。米大統領F・D・ローズベルト、英首相チャーチル、中華民国主席蒋介石が列席。議題は対日戦の戦略と戦後処理問題であった。この会談は連合国の協力関係の誇示と、四大国の一つとしての中国を内外に明示するのもであった。会談後、日本の領土問題に関するカイロ宣言が発せられた。>(『日本史広辞典』)

○1943年11月27日――カイロ宣言
 <カイロ会談の結果、第二次大戦の連合国米・英・中三国が共同で発した宣言。日本の戦後処理に関する連合国の基本方針が、戦時中ここに初めて明示された。具体的には領土問題に関連して、南洋委任統治地域の放棄、満州・台湾・澎湖諸島の中華民国への返還、朝鮮の独立などが定められた。同時にこれらの目的を達成するために、三国が引き続き協力して日本の無条件降伏に至るまで対日戦を遂行することが確認された。この基本線は以後変わることなく、ポツダム宣言へと受け継がれた。>(『日本史広辞典』)

○東条内閣――1944年7月、戦況不利のため総辞職。

○1945年3月10日――東京大空襲
 <前後の空襲を含めると、東京全域の死者は8万3000人から11万5000人と推定される。>(『日本史広辞典』)

○1945年4月1日――沖縄戦開始
 陸軍は沖縄戦を<本土決戦のための出血持久の前哨戦>(『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋・07年4月特別号・半藤一利解説)と位置づける。いわば背後に控えさせた本土決戦に備えての時間稼ぎの犠牲と見なしていた。
 
○1945年4月8日――御前会議
 <「方針=七世尽忠の信念を源力とし、地の利、人の和をもってあくまでも戦争を完遂し、もって国体を護持し、皇土を保護し、征戦の目的を期す・・・・」
 すなわち徹底抗戦、最後の一兵までの決意である。天皇はこれを裁可した。>(『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋・07年4月特別号・半藤一利解説)

○1945年6月23日――沖縄戦終了
 ①日本軍死者、民間義勇兵を含めて約10万人。
 ②米軍の死者約2万弱、負傷者3万8,000名
 ③島民死者約10万名以上
 兵士の死者だけに限っても、5倍もの力の差を見せつけられたのである。

○1945年7月26日――ポツダム宣言
 <ポツダム会談開催中に、米・英・中三国が発した対日降伏勧告。米・英・ソ三国首脳が決定、中国の蒋介石総統の同意を得て米・英・中三国の名で発表され、ソ連は8月6対日宣戦布告と同時に参加した。全13条。第6条以下の日本の降伏の条件は、軍国主義の除去、保障占領、カイロ宣言の履行、日本の主権の本土四島への制限、軍隊の完全な武装解除、戦争犯罪人の処罰などであった。7月28日鈴木貫太郎内閣は、軍部の圧力により「黙殺」するとの声明を出したために、連合国側は拒否と受け取る。>(『日本史広辞典』)

○1945年8月6日――広島原爆投下

○1945年8月9日――長崎原爆投下

○1945年8月14日――御前会議
 ポツダム宣言受諾・無条件降伏を受け入れる。 
  * * * * * * * *
 1945年3月の東京大空襲で大量の東京市民の死者を出すまでに首都東京の制空権を完璧に失いながら、なお戦争を継続させて沖縄戦を演出し、その最中に「方針=七世尽忠の信念を源力とし、地の利、人の和をもってあくまでも戦争を完遂し、もって国体を護持し、皇土を保護し、征戦の目的を期す・・・・」と勇ましい言葉を連ねて聞こえはいいが、本土決戦を何度目かのだろう、御前会議という場で確認しているが、<南洋委任統治地域の放棄、満州・台湾・澎湖諸島の中華民国への返還、朝鮮の独立など>、1943年11月27日の時点で既に戦略的に勝算・成算があったからだろう、カイロ会談で戦後処理方針を決め、実効化させた具体性から比較して何と抽象的な精神論で成り立たたせた日本の本土決戦論なのか。単に精神論で本土決戦なるものをぶち上げ、仮構したとしか見えない。

 いわば連合国側のように具体的な戦略性を持たせた成算や勝算を計算に入れた本土決戦を描いていたのではなく、精神論で強がる以外に道は残されていなかったために抽象的にならざるを得なかった本土決戦論だった疑いが濃い。

 物理的、あるいは心理的に優勢な戦力を条件として、「地の利、人の和」は有効化可能となり、その先に〝国体の護持〟、〝皇土の保護〟、〝征戦の完遂〟が達成される。その基本条件を無視した勇ましい目標の提示なのだかから、勢い抽象論とならざるを得なかったのだろう。

 実際問題としてもアメリカの激しい攻勢の前に日本が窮地に立たされている状況にあるというだけではなく、ありもしない誤魔化しの戦果を大本営発表という形で既に国民だけではなく、天皇まで欺く後はない窮地を自らお膳立てしいるのである。それが恒常化していた。大戦果が実際はアメリカ側の大戦果で、日本は戦果なしの虚報ということもあったというから、当然のこととしてにっちもさっちもいかない苦境を取り繕う強がりと背中合わせの見せ掛けの保障が必要となる。それが本土決戦だと、言葉で勇ましく見せるしかなかった仮構の保障だったのだろう。

 戦果を誤魔化すこと自体が既に自らの非力を誇大な戦果でプラスマイナスさせざるを得ないまでに非力状態にあったことを示す。いわば戦果を誤魔化しながら勝利の意味を含ませた本土決戦という逆説を演じていたのである。

 本土決戦が仮構ではなく、勝ち目ある具体的な戦略を描くことができていたなら、<本土決戦のための出血持久の前哨戦>だなどと消耗と犠牲を前提とした沖縄戦ではなく、兵力が少しでも多いに越したことはなく、消耗・犠牲を最小限にとどめるための方策を採ったはずである。集団自決も消耗と犠牲を前提としていたからこそ現出可能となった一風景だったに違いない。

 沖縄戦に敗れ、島民をも巻き込む多大な人的被害を出す圧倒的な軍事力の差を見せつけられながら、戦果は誤魔化すことはできても客観的冷静に形勢を顧みる目は持たず、一旦振り上げた本土決戦の拳を収めることもできないままにポツダム宣言を「黙殺」する。1945年7月28日のことである。

 その9日後の1945年8月6日の広島原爆投下。さらに3日後の1945年8月9日の立て続けの長崎原爆投下。

 そして長崎原爆投下からたった5日後の御前会議で天皇の聖断という名のもと、ポツダム宣言受諾を決定、無条件降伏を受け入れる。

○1945年8月6日――広島原爆投下
○1945年8月9日――長崎原爆投下――は明らかに不必要な項目だったのである。軍部が利口でさえあったならという条件付きではあるが。

 ポツダム宣言を軍部の圧力で日本政府が「黙殺」せざるを得なかった一事を以てしても明々白々であるように、戦争を主導・遂行していたのは軍部であり、天皇ではなかったにも関わらず、無条件降伏の受諾に限っては聖断という名の天皇主導で遂行された。

 このことは一旦振り上げた本土決戦の拳を軍部自らが振り降ろす認めがたい無様さを天皇の聖断とすることで、軍部はその決定の外に立つことができ回避した、少なくとも回避できたことを物語っている。戦果を誤魔化したように拳を振り上げて自ら降ろさなかった責任まで誤魔化したのである。

 沖縄戦敗北の1945年6月23日から1ヵ月半少々の1945年8月14日の無条件降伏受諾。その間軍部はずっと本土決戦の拳を振りかざしていた。

 こうして見てくると、久間客観性ゼロ大臣は「米国は戦争に勝つと分かっていた。ところが日本がなかなかしぶとい。しぶといとソ連も出てくる可能性がある。ソ連とベルリンを分けたみたいになりかねない、ということから、日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした」と言っているが、それはあくまでも当時は日本側が関知不可能なアメリカ側の作戦で、原爆投下にしても、その是非はともかく、日本の本土決戦にバカッ正直に付き合って自軍の戦死者をいたずらに増やすことは避ける防衛作戦上、原爆という新型兵器を手にした以上、例えそれが実験を兼ねたものであっても、投下はある意味必然であり、そういったアメリカ側の動向に対して戦う余力もないにも関わらず強がりでしかない拳を振り上げ、ポツダム宣言を「黙殺」させてまで固執した本土決戦の仮構こそが原爆投下につながった必然と把えるべきで、そう仕向けた軍部にこそ、原爆投下を招いた責任を負わすべきであろう。それを原爆投下で「戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている」とするのは、軍部の戦争責任をウヤムヤとする合理性をまったく欠いた言説でしかない。

 何度でも言うが、天皇の名で戦争を行いながら、実際に戦争を主導・遂行したのは軍部であって、天皇は名前を利用されたに過ぎない。軍部の中でも戦争を主体的に主導・遂行したA級戦犯等にこそ、戦争責任ばかりではなく、原爆投下を招いた第一の責任があるとしなければならない。

 それを無視した軍部免罪は久間大臣のみならず、安倍首相にしても、「A級戦犯は国内法では犯罪人ではない」とすることで、軍上層部の戦争を主導し・遂行した責任のみならず、原爆投下を招いた責任をも免罪している。

 また東京裁判を事後法で裁くもので根拠はないとする説も、1945年7月26日のポツダム宣言は戦争犯罪人の処罰を項目に加えていて、それを日本は無条件に受諾している以上、その裁判を受け入れる責任があるのではないか。

 戦争責任免罪、原爆投下を招いた責任免罪があってこそ、安倍美しい政治家は「我が国が自衛のための必要最小限度を超えない実力を保持するのは憲法によって禁止されていない。そのような限度にとどまるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではない」とか、「命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません」などと言えるのである。

 軍部、特に戦争主導・遂行の上層に位置していたA級戦犯や戦争協力者に対する免罪は侵略戦争否定につながる免罪以外の何ものでもない。彼らを免罪しながら、日本の戦争は侵略戦争だったとするのは二律背反の整合性を欠くからだ。

 久間発言だけではなく、安倍発言も含めて、戦前の日本の軍部の無謀であったばかりではなく、誤魔化しを含んだ戦争主導と遂行への言及を欠いたどのような主張も免罪説へと姿を変えることとなり、当然の結果として、侵略戦争否定と同じ文脈に立つことになる。


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