2016年10月18日、沖縄県の米軍北部訓練場(沖縄県東村、国頭村)のヘリコプター離着陸帯(ヘリパッド)建設工事の警備に当たる大阪府警20代男性機動隊員が建設反対デモ隊がフェンスを掴んで抗議しているとき、「どこつかんどるんじゃ、ぼけ、土人が」と罵ったことが沖縄県民に対する差別発言だと問題視された。
この問題視に対して沖縄北方担当相の鶴保庸介(49歳、東大法学部卒・和歌山県選挙区)が一概には差別と断定できないといった趣旨の発言をして、更に問題視されることになり、2016年11月8日の参院内閣委員会で共産党議員の田村智子がこの事を取り上げた。
田村智子「法案への質問の前に鶴保大臣にお聞きしなければならない問題があります。沖縄県東村高江でヘリパッド建設に反対する市民に対して大阪府警から派遣された機動隊員が『土人、支那人』と発言されたことが大きな問題となっています。
鶴保大臣は1月21日の記者会見で、『大変残念な発言』としつつ、『殊更それを人権問題と騒ぐでのではなく、県民感情を損ねているかどうか虚心坦懐に見ていきたい』と述べられ、更に31日には沖縄県内で『本当に差別かどうかということになるのかと言うと、色んな問題が出てくると思う』と述べられております。
言論の自由と言うものに触れた発言ですが、一般に国民というものが使ったと言うのとは違います。公務員が、しかも逮捕権を持つ警察官がこの公務の行為として『土人、支那人』という言葉を使って市民を侮辱した。
これが人権問題ではないということでしょうか」
鶴保庸介「えー、人権問題、調査会(自民党・人権問題等調査会)というものが自民党内にありまして、私はそこの事務局を長らく務めさせて頂きました。人権問題に関しての議論を大変深く、そして広範に亘ってですね、えー、えー、これまで議論してきた経験上ですね、えー、人権で、人権問題であるかどうかの問題について、えー、第三者がですね、一方的に決めつけるというのは非常に危険なことであります。
えー、言論の自由は、勿論、どなたにもあると見ておりますし、そして状況的判断やっぱりあるものだと思います。えー、その人権問題の、やっぱり一番のポイントは被害者、差別発言を受けた方の感情に寄り添うことは論を俟たないわけでありますけれども、その感情に対してどうして、誰が、理由を述べて、どういう理由でそれが差別であると判断するかについては、大変ケンケンガクガクの議論があるところでございます。
そうした重い判断を私個人が大臣という立場でですね、これは差別であると、断じることは到底できないことでありまして、また、今も、その議論は続いていると私は認識しておるからこそ、こういう発言をさせて頂きました」
田村智子「『土人、支那人』という言葉は自分よりも劣る民族・人種という意味で差別的侮蔑用語として使われてきた。それ以外に使われた例は聞いたことが無いですよ。
沖縄県では選挙で何回と米軍基地を拒否する意思が示されてきたにも関わらず、沖縄担当大臣だった島尻安伊子参議院が選挙で落選した翌日から大量の警察官・機動隊員を動員して高江のヘリパッド建設が強行された。
沖縄には民主主義がないのかという猛烈な怒りの声が起こってる中で沖縄県民に対する軽蔑とも言える発言が飛び出たわけです。これは官房長官も公安委員長も遺憾であり、謝罪という言葉しか述べていない中で鶴保大臣が『人権問題かどうか』と、これはですね、事の重大性を薄めるような発言をすると、私はこれは如何なものかと思うのですが、もう一言頂きたいですが」
鶴保庸介「今委員が奇しくもご発言なさった土人という発言が差別以外の何ものないとおっしゃったけど、それこそが申し訳ないけれども、私は判断できるものではないというふうに思っています。
えー、過去にその土人という言葉の経緯でありますとかですね、その言葉が出てきた歴史的経緯でありますとか様々な考え方があります。また今現在、差別用語とされるようなものであったとしても、過去には流布しておったものも歴史にはたくさんございます。そのうちたくさんございます。
そういう意味に於きましてもそれを土人であるということが差別であるというふうに私は個人的に自分は差別であると断定できませんということを強調しております」
田村智子「現在に於いて逮捕権を持つ警察が使った言葉だという、この事の重大性を私は理解していないじゃないかと。
今日は法案の審議ですので、この問題は別の機会で追及したいと思いますが、現状の鶴保大臣に今の発言に対して抗議をして法案に対する質問に移りたいと思います」
鶴保庸介が言わんとしていることは機動隊員がデモ隊に向かって「どこつかんどるんじゃ、ぼけ、土人が」と罵った言葉が差別用語かどうかは「どういう理由でそれが差別であると判断するかについては様々に議論がある」から、「第三者が一方的に決めつけることは非常に危険なこと」で、「そうした重い判断を私個人が大臣という立場でですね、これは差別であると、断じることは到底できない」との言い回しで意見が分かれる問題だとしようとしているところにある。
だから田村智子議員が「『土人、支那人』という言葉は自分よりも劣る民族・人種という意味で差別的侮蔑用語として使われてきた」と発言したことに対して「今委員が奇しくもご発言なさった土人という発言が差別以外の何ものないとおっしゃったけど、それこそが申し訳ないけれども、私は判断できるものではないというふうに思っています」と言葉を返すことになった。
そして差別用語だと「第三者が一方的に決めつけること」ができない具体的理由として「過去の土人という言葉の経緯」、あるいは「その言葉が出てきた歴史的経緯」を考えたとき、「今現在、差別用語とされるようなものであったとしても、過去には流布しておったものも歴史にはたくさんございます」からと、過去の流布を根拠とした歴史的正当性を持ち出して、「今現在、差別用語とされるようなものであったとしても」「様々な考え方がある」との理由付けで、土人という言葉が差別に当たるか否かは個人的には判断できないとした。
だが、過去の流布を根拠とした歴史的正当性を持ち出して土人という言葉が差別用語か否かは「様々な考え方がある」とする論理には時代の変化、あるいは時代的価値観の変化、具体的には人権意識の時代的な進歩が一切省かれたままとなっている。
このことは許されることではあるまい。
確かに海外の未開の土地の人間を土人、土人と呼んでいただろうし、琉球土着の住民や東北以北に土着していたアイヌ人を倭人たる日本人は「土人、土人」と呼びつけ、呼称としていた歴史的経緯はあるが、そのこと自体が田村智子が指摘しているように日本人を上に置いて「劣る民族・人種」との意味を持たせて発した言葉であって、過去に於いてそう呼び習わしていたことに部分的にであったとしても歴史的正当性を当てること自体に人権意識の欠如を見ないわけにはいかない。
また鶴保庸介の歴史論は土人という発言が飛び出た状況を一切無視している。沖縄の土地で主として沖縄県民が国家権力に対してノーを突きつけている今の時代という場面で国家権力側に立っている機動隊員から逆の立場に立つ住民に向かってその言葉を投げつけたのである。「ぼけ、土人が」と。
もし歴史的経緯が関係するとしたら、日本人の琉球人、あるいは沖縄住民に対する差別が持っている今始まったことではない歴史性であろう。
記憶の奥底に眠らせていたその歴史性を突然目覚めさせて「ぼけ、土人が」と口から発することになった。
そのような歴史性に如何なる正当性も与えることはできない。
何よりも問題なのはこのように人権意識が欠如した鶴保庸介なる東大法学部卒の政治家が自民党・人権問題等調査会の事務局長を長い間務めていたということであり、そのような人物を事務局長に据えていたということ自体、自民党・人権問題等調査会の質の程度が分かろうというものである。