安倍晋三の集団的自衛権「解釈変更これ以上できない」の薄汚い自己正当性の付与

2014-11-29 08:12:23 | Weblog
              生活の党 2014年総選挙公認候補予定者



      生活の党PR

       《11月30日(日)小沢一郎生活の党代表 テレビ出演のご案内》    

       番組名:NHK『日曜討論』 (生放送)
       日 時:平成26年11月30日(日)9:00~10:15 (※放送枠拡大)
       内 容:迫る公示 党首討論(仮)

       ○“アベノミクス”の是非について
       ○景気の好循環をどう実現するか
       ○消費税率10%への引き上げ延期と財政再建について
       ○安倍外交2年の評価について
       ○安全保障法制について

      番組の詳細はこちらから   『日曜討論』番組サイト(意見を投稿できます。)  

 11月26日、安倍晋三が朝日新聞のインタビューに応じて集団的自衛権に関して次のように発言したという。

 安倍晋三「解釈の変更については、それは憲法改正をしなければ、これ以上はできないということだろうと思う。

 基本的に(過去の)政府見解に則って変えた。これ以上変えていくには、基本的な考え方自体を変える必要がある。それは憲法解釈についての継続性、安定性を損なう。現時点で、国民の命を守るためにやらなくてはいけない解釈の変更は、今回の変更で十分だろうと考えている」

 安倍内閣は憲法解釈変更による集団的自衛権行使容認を今年2014年7月1日に閣議決定している。これ以上憲法解釈を変更するのは「憲法解釈についての継続性、安定性を損なう」から、憲法改正が必要だと言っている。

 このことの裏を返すと、憲法改正を経ずに憲法解釈変更のみで集団的自衛権の行使容認を認めることができるのは今回のケースまでだと言っていることになり、自身の憲法解釈変更に自分で正当性のお墨付きを与えていることになる。

 自らお墨付きを与え、これ以上の変更は憲法改正しかないとすることで国民の納得を得ようという魂胆なのだろう。

 正当性を判断するのは国民であるから、これ程手前勝手なお墨付きはないし、その魂胆にしても心がけがいいとは言えない。

 7月1日の閣議決定後の各マスコミの世論調査では安倍内閣支持率は軒並み下げて、低いところでは40数パーセントとなった。閣議決定が一つの節目となって、国民の憲法解釈変更による行使容認反対の意思がマイナスの力を伴って内閣支持率に改めて反映されたということであろう。

 このことは閣議決定に当たって十分な議論が行われたとは思えないという国民が多数派を占めたところに現れている。

 いわば国民の多くは憲法改正の手続きを踏むべきだと考えているにも関わらず、憲法解釈を手段とすることの是非についての時間をかけた丁寧な議論も行わずに閣議決定したことを不誠実だと見た。

 多くの国民のこのような意思表示に対して安倍晋三は憲法解釈変更に自分で勝手に正当性のお墨付きを与えた。独善的としか言い様がないが、その根拠を「基本的に(過去の)政府見解に則って変えた」と、「1972年の自衛権に関する政府見解」に置いた。

 いわば勝手に憲法解釈を変更したわけではない、政府見解の範囲内だと、そこに正当性を置いている。

 だとしたら、政府見解の範囲内の憲法解釈にとどまり、尚且つそれが「憲法解釈についての継続性、安定性」は損なうことなく維持できているとしさえすれが、さらなる憲法解釈変更は可能とすることができることになって、安倍晋三のインタビュー発言と矛盾することになる。

 このことに多くの国民や野党は危険性を嗅ぎ取ったはずである。閣議決定で憲法解釈を変えることが可能になると、内閣が変わるたびに解釈が変わる可能性が生じて、法的な安定性は損なわれると。

 だから、「解釈の変更については、それは憲法改正をしなければ、これ以上はできない」と自分から制限を設けて国民の納得を得て、憲法解釈のみで済まそうと魂胆したということなのだろう。

 そもそもからして安倍晋三の集団的自衛権の行使容認に関わる憲法解釈が1972年の政府見解に則っていると言っていること自体、虚偽そのものである。政府見解は個別的自衛権は認めているが、集団的自衛権は憲法上許されないとしているからだ。

 このことは2014年7月8日の当ブログ記事――《NHK「日曜討論」石破が言う安全保障環境の時間と距離の短縮を和らげる外交努力を安倍晋三はしていのか - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に既に書いたが、改めて触れてみる。

 『1972年の自衛権に関する政府見解』(全文)

 〈国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第51条、日本国との平和条約第5条、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約前文並びに日本国とソビエト社会主義共和国連邦との共同宣言3第2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと思われる。そして、わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。

 ところで、政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場にたっているが、これは次のような考え方に基づくものである。

 憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。

 しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止(や)むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。〉(以上)

 要約すると、〈国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位〉は、〈主権国家である以上、当然〉有しているが、日本国憲法が国民に約束し、国家権力に国民に約束したことの違約に制約を加えている平和主義の精神に則った場合、〈自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止する〉集団的自衛権まで認めているとすることはできず、あくまでも〈わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する〉個別的自衛権までが許されるとしている。

 その結論部分が、誰が見ても分かるように最後の、〈他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。〉に当たる。

 この政府見解が暗に言っていることは、もし集団的自衛権を国家として行使しなければならない安全保障上の環境に迫られた場合は国民の理解を得て、憲法を改正しなさいということであろう。

 あるいは憲法を改正する以外は集団的自衛権の行使は許されないと暗に言っているはずである。

 だが、安倍晋三はこの政府見解を勝手に解釈して、「基本的に(過去の)政府見解に則って」憲法解釈を変えたとインタビューに答えている。しかも、集団的自衛権に関わる憲法解釈変更はここまでだと、勝手に自身の変更に正統性のお墨付きを与えて、国民を納得させるダシにしようとした。

 多くの国民の意思を無視した薄汚い正当性の自己付与としか言い様がない。


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