安倍晋三の強権主義的政治手法に国民はようやく気づき始めたようだ。
「強権」という言葉の意味は「国家が国民に対して持っている司法・行政上の強力な権力」を言うが、それが「主義」という言葉がつくと、「国家の立場に立って強権を専らの姿勢として国民統治を行う」、あるいは「強権を先鋭化させて国民統治の有力な基盤とする」といった意味を取り、国家主義と重なることになる。
国家主義とは「国家をすべてに優先する至高の存在、あるいは目標と考え、個人の権利・自由をこれに従属させる思想」(大辞林)を言うが、国家の在り様を最優先する余り、国民の在り様を無視する体制を採用する過程でそこに強権主義の介在を必要条件とすることになるからである。
いわば国家主義者でなければ、強権主義の政治手法は取らない。民主主義者が強権主義に走ったら、民主主義者としての資格を失う。
安倍晋三の強権主義・国家主義は新安保法制やテロ等準備罪等の国会での強行採決に象徴的に現れているが、これが戦後の民主主義の時代だから、この程度で収まっているが、もし安倍晋三が戦前の日本に生きた政治家、あるいは軍人であったなら、十分に東条英機になり得たはずだ。
安倍晋三の自著『この国を守る決意』の文中の言葉、「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」の言葉は1941年1月8日に陸軍大臣東條英機が示達した戦陣訓の一節「恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)してその期待に答ふべし、生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」と本質的には同質の思想で成り立っている。
安倍晋三も東条英機も、戦争を基準に「命を捧げる」ことのできる国民を理想の国民像と見做し、そのような理想の国民像が国家を成り立たせるとする考えに立っている。
戦前の日本は戦争を基準に国民の価値を決めていたから、身体障害者や精神障害者は戦争に役立たない者として非国民扱いされた。安倍晋三はその手の思想を戦後まで引きずっている。
そしてこのような価値観には明らかに国家優先・国民二の次の国家主義が織り込められている。
2017年7月9日付けの「朝日デジタル」が7月9日、東京都新宿区の新宿中央公園で約8千人が集まった反安倍政権のデモが行われたと伝えている。
「安倍内閣退陣」、「NO 共謀罪」等々のプラカードが掲げられたという。新安保法制の強行採決のときも、テロ等準備罪の強行採決のときも国会周辺に反安倍政権のデモ隊が連日集結したが、強行採決に安倍晋三の強権主義が現れていることに気づき、その阻止のために抗議という形で行動しなければならない必要性が一定の国民を動かしているということでであろう。
この一定の国民の同行が2017年7月9日付け「朝日新聞世論調査」にも現れている。
7月8、9日両日の全国世論調査(電話)。
「内閣支持率」33%(7月1、2日前回調査-5ポイント)
「内閣不支持率」47%(前回調査+5ポイント)
「男性支持率」39%
「男性不支持率」45%
「女性支持率」27%
「無党派層の支持率」14%(前回調査-5ポイント)
「無党派層不支持率」60%(前回調査+5ポイント)
「加計学園問題に対する安倍政権の姿勢」
「評価する」10%
「評価しない」74%
「内閣不支持層の評価しない」95%
勿論、内閣支持率は今後高くなることもあり得る。だが、安倍晋三の国家主義・強権主義は本質的な政治姿勢であるゆえに変わることはない。憲法改正案の国会採決でも、国家主義・強権主義に基づいた強行採決は行われるだろう。
安倍晋三のアベノミクス経済政策にも国家主義・強権主義を見ることができる。一見強権性は見えないが、経済的に上のみが潤い、下が潤わない格差は国家優先・国民二の次の国家主義がそうさせているのであって、逆方向への尽力がない以上、上方向のみへの強権性が見えない形で働いていることになる。
例え安倍晋三が巧みな言葉でどう取り繕うと、あるいはソフトな態度をどう装おったとしても、本質的な政治姿勢としている安倍晋三の国家主義・強権主義は変わらないということである。
その国家主義・強権主義は安倍晋三の精神性に「雀百まで踊り忘れず」の形を取って生き続けることになるだろう。