2016年5月に東大工学部4年生たちが飲み会に参加していた2人の女子大生のうち1人をメンバーの自宅マンションに連れ込み、全裸にして強制ワイセツを働いて逮捕されたばかりなのに、今度は9月下旬、千葉大医学部男子学生3人が飲食店で飲み会を開き、酔った女性を介抱と偽ってトイレに連れ込み、強姦に及んで千葉県警に逮捕された。
こういったことは既に珍しい光景ではなくなったということなのだろう。
確か慶大生もこの種の事件に名乗りを上げていた。早大生も何年か前に名乗りを挙げている。事件化されずに闇から闇に葬る去られる例も幾多あるに違いない。
この手の事件の多くが居酒屋等飲食店で複数の男子大学生が女子大学生等女性を交えてアルコールをしたたかに体内に取り入れた後に起きている。アルコールは時として複数状態を形成した人間の理性のタガを外して判断能力を失わせ、理性の代わりに付和雷同の傾向を生み出す。
但し最初から酔わせた上で女性に対して性行為に持っていくことを目的に飲み会をセッティングしている例もあるから、仲間内ではシラフの状態でも既に付和雷同を発動させていた可能性がある。
要するに元々付和雷同の傾向にある大学生同士が類は類を呼ぶ形で集団となって、と言うことは、理性の働きを欠いている大学生たちが一定の集団となってアルコールを取り入れることで理性を完全に麻痺させ、逆に元々の付和雷同の性格を強めて、みんなで犯せば怖くはないとばかりに性犯罪に走らせることになるのだろう。
つまりアルコールのせいにはできない。自分たちが気づかずに抱えている付和雷同の性格が本質的には性犯罪要因となっていると見なければならない。
学校のイジメも、イジメ側が集団を成している場合に於ける集団のボスと成員との人間関係はボスに対する成員の付和雷同を力学として成り立っていることが多い。
学校は中学校ともなると、中学生に対して様々な人間関係を例に挙げて付和雷同とは何かを教える必要がある。付和雷同の回避もしくは抑制は自分が自分なりの意見を持つことが大きな力となり、それが理性となって育ち、理性は個人の自律に繋がっていく。
千葉大医学部男子学生3人を若い女性に対する強姦容疑で逮捕した千葉県警は3人の容疑者の身許を公表しなかったらしい。余り興味はないから、記事題名を目に触れただけで、その内容を確かめもしなかった。
この公表しなかった理由を作家の百田尚樹が自身のツイッターに投稿し、その投稿に対しての賛否論がネットを賑わしていると各マスコミ記事が伝えていた。その内容の方にこそ、興味がある。
11月27日付「The Huffington Post」記事を参考にその発言を見てみる。
11月24日の百田尚樹の投稿。
〈千葉大医学部の学生の「集団レイプ事件」の犯人たちの名前を、県警が公表せず。
犯人の学生たちは大物政治家の息子か、警察幹部の息子か、などと言われているが、私は在日外国人たちではないかという気がする。
いずれにしても、凄腕の週刊誌記者たちなら、実名を暴くに違いないと思う。〉
対してジャーナリスト津田大介(43歳)がその投稿に参戦、11月25日の投稿で批判している。
〈この人この種の発言懲りずに何度も繰り返してるし、単にツイッターの利用規約違反 https://support.twitter.com/articles/253501 なので、ツイッター社は然るべき警告した上でそれでもやめないようなら、この人のアカウント停止すればいいんじゃないかな。〉2016年11月25日 20:27
この批判に反論している百田尚樹の同じ11月25日の投稿。
〈千葉大の集団レイプの犯人が公表されない理由について、「犯人が在日外国人だからではないか」と呟いたら、多くの人から「ヘイトスピーチ」「差別主義者」と言われた。私は犯人が公表されない理由の一つを推論したにすぎない。しかも民族も特定していない。こんな言論さえヘイトスピーチなのか。〉
この応酬に元検事で弁護士の矢部善朗が参戦している。
〈百田氏は、「私は在日外国人たちではないかという気がする。」と言った。これは、犯人が公表されない理由について述べたものではなく、犯人を何の根拠もなく在日外国人であると憶測した文章だ。〉
百田直樹の「私は在日外国人たちではないかという気がする」という発言は千葉県警が容疑者の名前を非公表としたことに対して単に「犯人が公表されない理由の一つを推論したにすぎない」のか、ネットの批判のように人種差別発言なのか、とちらなのだろうか。
上記記事は千葉県警捜査1課が名前を非公表とした理由を記載している。
(1)被害者の特定につながる可能性があり、嫌がらせなどが懸念される
(2)共犯関係などの捜査に支障が生じる、としており今後も報道発表の予定はないという。
もしこの非公表にウラがあると疑うとしたら、容疑者の中にこの地域に対して相当な影響力のある何らかの有力者の息子(ネットで騒がれている大物政治家の息子か、警察幹部の息子)がいるからではないかと疑うのが一般的であって、「在日外国人たちではないかという気がする」と推測するのは特殊な例に入る。
しかも「在日外国人たち」と、男子学生3人共に在日外国人にしている。
在日外国人に何か含むところがなければ、いわば何らかの悪意がなければ、こういった推測は出てこない。
勿論、それが実生活上の面識だけではなく、ネットや出版物等で得た情報上の何らかの面識ある在日外国人のある個人に対して、それが複数の人間であっても、悪意を持つことはあり得るだろうが、その悪意が「在日外国人たち」と、多分面識もない3人共に向けられている言葉となっている以上、個人性を離れて、集団に対する悪意と見なければならない。
当然、そこには特定した「在日外国人たち」に対する人種差別が存在することになる。言葉上は民族を特定していなくても、人種差別主義者は心の中では特定しているはずである。
また、例えその発言が「犯人が公表されない理由の一つを推論したに過ぎない」としても、あるいは「民族を特定していない」としている釈明の正当性を100%認めるにしても、百田尚樹は千葉県警が犯罪が起きて、“犯人が在日外国人”の場合は公表しない規定にしていると決めつけたことになる。
つまり容疑者が日本人の場合は公表する規定となっていると決めつけていることにもなる。
そのような規定は存在するはずもないが、百田尚樹の中ではそのような規定を存在させているとしたら、考え得る理由は日本人女性が日本人の強姦に遭うならまだしも、在日外国人の強姦に遭うのは恥だとして容疑者が在日外国人であることを隠す必要からの非公表という規定としていると考えていると見る他ない。
もし百田直樹の中でそのような精神的葛藤があるとしたら、その恥意識は日本民族優越論に立った他民族蔑視論から発している意識ということになって、このような意識からも人種差別を窺うことができる。
但しである。容疑者がパチンコ産業を全国展開して財を成した在日外国人の息子である場合、警察はパチンコ店の営業許可、パチンコ機の違法性審査、換金許可等々の権限を握っている関係から、パチンコ業界団体や関連企業、パチンコの景品を扱う商社等が警察官の主要な天下り先となっていることから、パチンコ産業と警察の濃い結びつきは否定できないゆえに、もし百田尚樹が警察と通じていたなら、非公表の理由を把握していた上で「在日外国人たちではないかという気がする」と投稿した可能性はあり得る。
しかしそういった事情から把握した情報に基づいた「在日外国人」との言及であり、実際に容疑者が在日外国人であったとしても、そういった事情も明かさずに、あるいは個別の在日外国人の性犯罪であることを指摘もせずに「在日外国人たちではないかという気がする」という表現で言及することは、どの民族か言葉で特定していようがいまいが、個別の在日外国人の性犯罪であることから離れて、その民族全体の犯罪性であるかのように匂わせていることになる。
性犯罪を民族全体の問題とすることは日本民族を優越的位置に置いた人種差別以外の何ものでもない。
前者・後者、いずれのケースから見た発言であっても、人種差別絡みの発言となる。
そもそもからして百田尚樹は人種差別主義者である
2015年6月25日に安倍シンパの若手議員約40人が出席した「文化芸術懇話会」で講師役を務めたときの発言。
百田尚樹「自衛権、交戦権を持つことが戦争抑止力につながる。軍隊を家にたとえると、防犯用の『鍵』であり、しっかり『鍵』をつけよう。
世界には軍隊を持たない国が26カ国ある。南太平洋の小さな島。ナウルとかバヌアツとか。ツバルなんか、もう沈みそう。家で例えればクソ貧乏長屋。獲るものも何もない。
アイスランドは年中、氷。資源もない。そんな国、誰が獲るか」
軍隊を持っているか持っていないかを基準にして、持っていない国を「クソ貧乏長屋」と表現、見下している。国家を見下すということはその国の国民を政治家を含めて見下していることになる。
一方に見下す民族を置くことは自らの民族を誇っているからに他ならない。どのような民族もそれぞれの価値を認めて対等に見ることができない。
そのような精神性は日本民族優越論と向き合わせた他民族蔑視の人種差別を巣食わせていることによって成り立つ。