稲田朋美の靖国参拝「心の問題」は戦争加害国であることを忘れた自分たちだけの精神の現れ

2016-08-06 07:43:21 | Weblog

 初当選を果たした翌年の2006年以来、新人議員約30人と設立した東京裁判等の戦後の歴史を否定する「伝統と創造の会」のメンバーと共にサンフランシスコ平和条約発効4月28日と日本が敗戦を受け入れた8月15日の両日に毎年欠かさずに靖国神社を参拝してきた右翼の中でも最もタカ派な稲田朋美が安倍晋三によって右翼・タカ派の立場から日本の安全保障を任せるべく防衛相に任じられ、その「就任記者会見」で記者から靖国参拝は内閣の一員として適切に対応されるのかどうか質問を受け、「心の問題」だと答えたとマスコミが伝えていたから、防衛省のサイトにアクセスして、その発言を拾い出してみた。  

 記者「今朝、岸田外務大臣が閣議後の会見で、岸田大臣自身と稲田大臣の靖国神社への参拝について触れまして、岸田大臣は、安倍内閣の一員として日本の外相として適切に対応するとして、これまで、御自身が閣僚としては参拝なされていないという事に言及しているのですが、その上で、稲田大臣も内閣の一員として適切に対応されるものと考えています。というふうに仰っています。これについて、どのように受け止められていますでしょうか」

 稲田朋美「この点について、官房長官も、閣僚が個人の立場で参拝することは個人の信教の自由に関する問題であり、政府としては立ち入るべきではない。これが安倍政権の基本的な考え方であるというふうに述べられております。

 そして、私の考えについては、昨日も申し上げさせていただいたとおり、この問題は、心の問題であって、参拝するとかしないとか、すべきであるとかないとか、申し上げるつもりはございません。いずれにいたしましても、私としては、安倍内閣の一員として、適切に判断をして行動してまいりたいと考えております」

 安倍晋三の場合は個人の立場で参拝し、記帳は麗々しく「総理大臣安倍晋三」と記帳して個人と公人の使い分けを巧妙に行っている。

 稲田朋美の場合は行革担当相であった2013年も2014年も4月28日と8月15日に個人の立場で参拝、「伝統と創造の会会長 衆議院議員 稲田朋美」と記帳している。

 「伝統と創造の会」は議員連盟=国会議員の集まりであり、国会議員なるものが国民によって選挙で選ばれ、国民を代表している以上、その会長として行動する場合、あるいは衆議院議員として行動する場合、個人の立場からの行動であろうはずはなく、公人の行動そのものであって、稲田朋美にしても個人と公人の使い分けを巧妙に行いながら参拝していることに変わりはない。

 それを「個人の信教の自由に関する問題」に帰す。その矛盾を矛盾と感じずに堂々と消化していく。

 もし閣僚ではなく、単なる一議員なら、参拝するしないは政府の立ち入る問題ではないが、閣僚として政府に参加しているなら、参拝を許す許さないは政府の長の歴史認識に関わる姿勢、あるいは周辺国への配慮に影響を受けることになる。

 国会議員である以上、ましてや閣僚であるなら、決して個人の立場を表明して行うことは許されない靖国参拝であるはずである。

 当然、参拝が「心の問題」であっても、個人の立場からの「心の問題」という訳にはいかない。

 小泉純一郎も首相時代、靖国参拝を自身の「心の問題」だとした。稲田朋美が「靖国参拝は心の問題だ」言っていることの回答にもなるから、10年前にそのことを書いたブログをここで紹介したいと思う。

 《靖国参拝は「心の問題」、中韓の反対も「心の問題」 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》(2006年3月29日)   

 偉大な将軍キム・ジョンイルが憎き敵国日本を侵略し、属国とすべく宣戦布告なき戦争を仕掛けた。北朝鮮軍隊兵士が命令一下、偉大なキム・ジョンイル首領様と祖国北朝鮮のために勝利を信じて尊い命を捧げる奇襲戦を挑み、名誉の戦死を遂げる。

 そのことは北朝鮮と偉大な首領様キム・ジョンイルにとって、「国に殉じた」名誉ある戦死に値するだろうが、戦前の日本の戦術を思わせる戦闘機もろとも体当たりだ、自爆だといったヤケ糞な戦闘を仕掛けられたりしたら、人命を含めた被害を手ひどく蒙らないわけはない日本及び日本国民にとって、北朝鮮兵士の戦死を名誉ある殉国行為と讃えることができるだろうか。

 ひいきではない相手チームの野手の見事なファインプレーには拍手喝采できるだろうが、それとは訳が違う。

 それと同じく、大日本帝国軍隊兵士が勇ましくも名誉ある戦死を遂げ、国に殉じたと英霊として如何に祭り上げられようと、そのような称賛は侵略され、膨大な人的被害と国そのものの徹底的な破壊を受けた中国や、植民地支配を強いられ、生命や国土の損壊だけではなく、制度や習慣まで捻じ曲げられて精神的屈辱と苦痛を蒙った朝鮮にとっては意味も価値もないことであるばかりか、逆に腹立たしい待遇と映るに違いない。

 「国に殉じた」と「尊崇の念」(安倍の賛辞)を捧げられるたびに、戦争被害者たる立場にある中国人・韓国人が、消しがたく澱み残っている戦争の記憶を、あるいは当時直接心に刻み込まれた戦争の傷跡そのものを逆撫でされる感情を持ったとしても、あるいは戦争を直接知らなくても、歴史として学んだ侵略や植民地化への批判の感情を否定される思いがしたとしても、それは彼らにとって自然な「心の問題」としてある反応ではないだろうか。

 いわば一人の人間にとっての「心の問題」が、その人間だけの事柄で済むとは限らず、立場の違いによって、内容や心に受ける感情に異なった姿を与える場合がある。日本では「英霊」であっても、中国人・韓国人にとっては残酷な戦争加害者であって、その事実は歴史に刻みこまれ、変らない姿を取ることだろう。

 多くの日本人が、靖国神社参拝を批判するのは中国・韓国のみで、他のアジアの国で批判する国はないと言うが、実際にはシンガポールやインドネシアで批判する声が上がっている。それらの声が小さかったり、遠かったりするのは、日本との地理的距離の遠さが心理的距離の遠さとなって、批判の強弱・大小に影響を与えている面もあるに違いない。

 「靖国参拝は心の問題だ」と常々公言している小泉首相が06年度予算成立の後の記者会見で、「中国や韓国が参拝を理由に首脳会談を行わないのは、理解できない。そんな国は中国や韓国だけだ」と中韓の対応を批判したが、一つの戦争を戦った対戦国同士であっても、両者にとって決して同じ戦争ではなく、そのことに対応して、当然戦争に対する反応が異なるということに思い至らない無理解・鈍感さが可能とした発言なのだろう。

 そういった無理解・鈍感さが「心の問題」に現れているばかりか、日本の政治家の必須要件となっている。その代表者が小泉・安倍の両者だろう。

 要するに靖国参拝は中国や韓国等の戦争被害国の「心の問題」を考えない、戦争加害国であることを忘れた自分たちだけの「心の問題」となっている。
 
 稲田朋美は8月5日の閣議後の記者会見で、「歴史認識は両国の色々なレベルで率直に話し合うことが重要だ」と言い、「是非私も機会があれば中国を訪問して、防衛協力で信頼関係を構築し、建設的な協力関係を強化していくことは極めて重要だ」と述べたと「NHK NEWS WEB」記事が伝えているが、安倍晋三と同様に戦前の日本国家とその戦争を正当化したい強い欲求を「心の問題」として抱えている以上、その場限りの見せかけの信頼関係や協力関係を演じることしかできないはずだ。

 中国にしても韓国にしても、その正当化を決して受け入れないだろうからである。

 安倍晋三も稲田朋美も見せかけは得意な政治家である。

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