橋下徹は自身も背負わなければならない桜宮高体罰自殺の十字架ともう一つの十字架

2013-11-11 08:21:54 | 政治



 橋下徹が11月10日(2013年)、大阪市長として大阪市立桜宮高校のスポーツフェスティバルに出席、開会式で挨拶している。《桜宮高自殺「一生背負う十字架」 橋下市長、在校生に訴え》MSN産経/2013.11.10 18:20)

 2012年12月23日、桜宮バスケットボール部2年生キャプテンが顧問教師から度重なる体罰を受けて自殺した事件に触れての挨拶だそうだ

 橋下徹「一生背負っていかなくてはいけない十字架だ。天国に行った仲間のために誇れる学校にしてほしい」

 開会式終了後、校舎内で記者団の質問に答えている。

 橋下徹「起きた事件を『つらい、しんどい』と言って忘れてしまってどうするのか。(マスコミと)議論していても、どうしようもない。生徒がどう受け止めてくれるのか、それだけで十分だ」――

 体罰は明らかに目先の成果に拘っていたことから起きたはずだ。試合に於いては目先の勝利を、練習に於いては目先の完璧なプレーを最善の成果とし、そのような成果に拘る余り、不成果を容赦することができないスポーツ文化を生み出していた。

 目先の成果への拘りがスポーツを通して一個の人間を育てていくという長期的視野を欠くことになった。目先の成果に対する拘りの究極の形が勝利至上主義である。

 参加する以上、勝利しなければ意味はないと言う。だが、目先の成果に拘って、罵倒したり、平手打ちしたり、蹴りを入れたりして顧問の命令・指示に強制的に従わせ、その積み重ねで得た勝利とは、どれ程の価値があるのだろうか。

 各部員が誰に強制されるのでもなく、自ら考えて主体的・自発的に動き、プレーして勝利を得ることができずに敗戦したとしても、その敗戦から得る教訓は顧問の命令・指示に支配された勝利で得る従属性を教訓とすることとは比較できない、一個の人間として行動することのできる自律性(自立性)の確認であるはずである。

 どれ程に主体的・自発的にプレーできたか、できなかったかの自律性(自立性)の確認が一個の人間としての成長を促していく。

 自律性(自立性)を獲得していない場所で「十字架」をいくら背負っても意味はない。生徒たちは体罰を勝利のためにはある程度止むを得ないとする、在校生は小中高と、今年の新入生は小中と体罰容認の文化の中で育ち、従属性を体質としてきているはずだ。

 このことは部活顧問による目先の勝利を求める体罰が全国的に横行していた状況が証明している。体罰の横行とは勝利のために体罰を運動部活に於ける文化としてきたということである。

 橋下徹はかつては体罰を容認していた。過去に容認した発言を今更くだくだ言っても仕方がない。だが、世の中の体罰文化を担っていた以上、一人の生徒を体罰を原因として命を絶たせたことの十字架を生徒にのみ背負わせるのではなく、自らも背負わなければならないはずだ。

 また、体罰を容認していたということは生徒の自律性(自立性)の育みに無知であったことを意味する。

 橋下徹は体罰容認の立場から体罰否認の立場へと足を踏み変えた。当然、各部活各部員が各顧問の命令・指示に強制的に従う権威主義的従属性を否定・排除し、自ら考えて主体的・自発的に動き、プレーする自律性(自立性)の育みをスポーツ指導に求めなければならない。

 いわば勝利至上主義から自律性(自立性)育成主義へのスポーツ文化の転換である。

 桜宮高がそのような学校に成り得たとき、橋下徹が言う「誇れる学校」となる。

 一個の生きて在る生命(いのち)を失わせた自殺という痛ましい事実の十字架を桜宮高の生徒に背負うことを求めたとしても、自律性(自立性)を獲得していない場所で「十字架」をいくら背負っても意味はないと書いたが、各部活顧問の命令・指示に強制的に従う権威主義的従属性の横行を当たり前とし、自律性(自立性)の育みに無知であったことに対する十字架を橋下徹は何よりも背負わなければならないはずだ。

 一生とは言わない。勝利至上主義から自律性(自立性)育成主義へのスポーツ文化の転換を成し遂げることができたとき、その十字架を降ろすことができる。

 橋下徹がもう一つの十字架に気づいていないとしたら、何をか言わんやである。教育に口を出す資格を失うはずだ。

 余談だが、開会式での橋下徹の詳しい発言が載っていないかと桜宮高のHPにアクセスしてみたが、載っていない代わりに「校訓」に気づいた。ついでに他のHPから校歌を見つけ出した。参考までに記載するが、体罰自殺の事実に加えて学校が体罰の隠蔽等の責任逃れを謀ったことによって校訓と校歌の美しい言葉の世界を体現していなかったことが露わに見え、それらの美しい言葉の数々が却って自殺以上の痛ましさを感じさせた。

 校訓は単なるスローガンで終わり、校歌は機械的に歌っていたのだろう。何よりも教師たちが精神的肥やしとしていなかったはずだ。

 桜宮高校・校訓

 知性・敬愛・活力

 何が本当の自由で、何が本当の個性なのか?
 本校では、集団の中で生き生きと生きる自分をみつけることができます。
 厳しい状況にあっても自分を見失わない強い自分、
 人にやさしくできる自分を発見することができます。

 桜宮高校校歌

 水は巡る  桜宮

 とわの流れ  淀のほとりに

 知恵あきらかに  真理の道を

 真理の道を  究めんと 

 若きいのちのつどふ

 栄あれわれらが自由の学園

 栄あれわれらが自由の学園


 空は輝く  桜宮

 さやけく青き 生駒嶺のぞみ

 こころゆたかに 善美のすがた

 善美のすがた 求めんと

 若きちしほの燃ゆる

 栄あれわれらが自由の学園

 栄あれわれらが自由の学園


 風は薫る  桜宮

 みはるかす緑 毛馬の広野に

 意気高らかに 自主の誓を

 自主の誓を 固めんと

 若きちからのあふる

 栄あれわれらが自由の学園

 栄あれわれらが自由の学園

コメント
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