国家の姿を問題とせずに、兵士の「国のために尊い命を捧げた」行為を無条件・無考えに善とし、正義とするなら、命を捧げた対象の国家をも無条件・無考えに善とし、正義と価値づけることになる。
と言うことは、兵士が命を捧げた対象の国家を無条件・無考えに善とし、正義と価値づけるためには兵士の「国のために命を捧げた」行為を無条件・無考えに善とし、正義とすることによって達成可能となる。
また、兵士から命の捧げを受けた国家と国家に命を捧げた兵士を無条件・無考えに善とし、正義とすることによって、戦争総括は拒否されることになる。
国家の実態の暴露は国家を無条件・無考えに善とし、正義と価値づけることを不可能とするからだ。
このことは現在の国家を見てみれば容易に理解できる。
戦前の大日本帝国は無能な政治家・官僚によって、大日本帝国軍隊は無能な軍人によって支配されていた。以下、以前にブログに一部書いたことを、異なる視点も加えて再度取り上げて、その無能を証明してみる。
太平洋戦争開戦時の陸軍参謀総長だった杉山元(げん)について、その有能さについて『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋/2007年4月特別号)の「昭和16年9月5日(金)」の記述に対する半藤一利氏(昭和史研究家・作家)の解説は次のように記している。
「昭和16年9月5日(金)」
「近衛首相4・20-5・15奏上。明日の御前会議を奉請したる様なり。直に御聴許あらせられず。次で内大臣拝謁(5・20-5.27-5・30)内大臣を経、陸海両総長御召あり。首相、両総長、三者揃って拝謁上奏(6・05-6・50)。御聴許。次で6・55、内閣より書類上奏。御裁可を仰ぎたり。」
半藤一利氏解説「改めて書くも情けない事実がある。この日の天皇と陸海両総長との問答である。色々資料にある対話を、一問一答形式にしてみる」
昭和天皇「アメリカとの戦闘になったならば、陸軍としては、どのくらいの期限で片づける確信があるのか」
杉山陸軍参謀総長「南洋方面だけで3ヵ月くらいで片づけるつもりであります」
昭和天皇「杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あの時、事変は1カ月くらいにて片づくと申したが、4カ年の長きにわたってもまだ片づかんではないか」
杉山陸軍参謀総長「支那は奥地が広いものですから」
昭和天皇「ナニ、支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。如何なる確信があって3ヵ月と申すのか」
半藤一利氏解説「杉山総長はただ頭を垂れたままであったという」――
何という有能さなのだろうか。支那の奥地が広いことは支那に侵略して初めて知った地理的特徴ではなく、最初から把握し、その情報をも参考にして立てた支那支配の、あるいは支那植民地化の戦略であったはずである。
それを後になってから支那の奥地の広さを知ったかのように戦線膠着化の言い訳に使う。
1937年(昭和12年)7月7日の蘆溝橋事件に端を発した支那事変(日中戦争)は結局のところ日本が1945年8月15日のアメリカとの戦争による敗戦に伴って終結することになった。1カ月くらいで片付けるつもりであったのが、その96倍の8年間も手こずって、手こずったままの状況で日本の方が退散することとなった。
大日本帝国軍隊が支那一つに手こずっているいたにも関わらず、国力も軍事力も桁違いに大きなアメリカに「3カ月くらいで片づけるつもりで」1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾奇襲を以って戦争を挑み、「3カ月」が3年8カ月もかかって、それも戦争に勝利したなら、「3カ月」が3年8カ月もかかろうと言い訳も立つが、日本の方が無残にも片付けられた。
杉山陸軍参謀総長のこの有能さを以ってのことなのだろう、二人しか存在しないうちの一人として、陸軍大臣、参謀総長、教育総監(日本陸軍の教育を掌る役職)の陸軍三長官を全て経験した上で元帥という最高峰を極めたというのだから、最高峰中の最高峰だったわけで、杉山なる軍人に最高峰中の最高峰を許した最高峰以下の日本の軍人の有能さは押して知ることができることになる。
1940年(昭和15年)9月30日付施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)により開設された内閣総理大臣直轄の総力戦研究所が模擬内閣を結成、1941年(昭和16年)7月12日、開戦した場合の日米戦争勝敗の第1回総力戦机上演習(シミュレーション)を命ぜられた。
模擬内閣は7月から8月にかけて研究所側から出される想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済の各局面での具体的な事項(兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や輸送経路、同盟国との連携など)について各種データを基に分析し、日米戦争の展開を研究予測した。
研究発表は1941年8月27・28日の両日、首相官邸に於いて当時の近衛文麿首相や東條英機陸相以下、政府・統帥部関係者の前で報告された。
総力戦机上演習の結論「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に日本の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」(Wikipedia)
東条英機「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戰争というものは、君達が考へているようなな物では無いのであります。
日露戦争で、わが大日本帝国は勝てるとは思はなかった。然し勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、止むに止まれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。したがって、諸君の考えている事は机上の空論とまでは言はないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります」(同Wikipedia)――
国力や軍事力、戦術等の彼我の力の差を計算に入れた戦略(=長期的・全体的展望に立った目的行為の準備・計画・運用の方法)を武器とするのではなく、それらを無視して、最初から「意外裡」(=計算外の要素)に頼って、それを武器にしてアメリカに戦争を挑もうというのだから、東条英機のその有能さはさすがである。
要するに猪突猛進の体当たりしか手はなかったということなのだろう。体当たりにしても、どの程度通用するかシミュレーションしなければならないが、それすらせずに「意外裡」(=計算外の要素)だけを頼りにぶっつかっていった。
だからこそ、〈国民総生産は約1千億ドルと10倍以上。総合的国力は約20倍の格差があったと推定されている〉(MSN産経)アメリカに対して「南洋方面だけで3カ月くらいで片づけるつもりであります」と大胆不敵な歴史への舵を切ることができたのだろう。
東条英機はをA級戦犯となって処刑された。東条英機も含めて無能な政治家・軍人として列席していたA級戦犯たちを一国主義的に無罪放免し、国内法では犯罪人ではなくなったと靖国神社に祀っている、現代社会に於けるこの歴史認識上の倒錯は底なしである。
対米英開戦の決定を下した東条英機を首相に据えたイキサツも日本の政治家・官僚の有能さを示す。
昭和16年10月17日、昭和天皇より東条英樹陸軍大臣に組閣の大命が下された。木戸内大臣の推薦を昭和天皇が受け入れたのである。
『東久邇日記』(半藤氏解説による)「東条は日米開戦論者である。このことは陛下も知っているのに、木戸がなぜ開戦論者の東条を後継内閣の首相に推薦し、天皇がなぜ御採用になったのか、その理由がわからない」
半藤一利解説「木戸内大臣の狙いは、忠誠一途の陸軍の代表者に責任を持たせることによって、陸軍の開戦論者を逆に押さえこむという苦肉の策であったという。天皇も、木戸の意図を聞いて、それを採用し、『虎穴に入らずんば虎児を得ずだね』と感想をもらした」――
だが、諸々の戦略に立って戦争を遂行するのではなく、「意外裡」(=計算外の要素)を武器に戦争を想定する日米開戦論者の東条をして見事に日米開戦論者の役目を果たさしめ、勝てない戦争に突入させることとなった木戸等の政治家の有能さは見事である。
軍人の無能に政治家の無能が響き合ったのである。その歴史の瞬間であり、当然、無能と無能が響き合った歴史は破局の瞬間にまで響き合うことになる。
昭和19年以降、硫黄島の戦闘に備えて全島を地下壕で厳重に要塞化した上、2万人もの兵士を送り込み、昭和20年2月16日に開戦した硫黄島の戦いはアメリカ側が精鋭の海兵隊6万人を送り込んで5カ日間で占領できると踏んでいた計算に反して日本軍は1カ月以上激しく抵抗、1945年3月26日、生き残った者全員が玉砕を以って終結した。
だが、2月16日開戦に10日遡る20年2月6日、大本営は『陸海軍中央協定研究・案』を策定、「硫黄島を敵手に委ねるの止むなき」と決めていた。
「硫黄島を敵手に委ねるの止むなき」とは、大本営が一つの戦いに戦わないうちから太刀打ちできないと意志したことを意味する。
また捕虜となることを許していなかったのだから、「敵手に委ねる」とはほぼ全員の玉砕を想定したことになる。
大本営という作戦部署が硫黄島の敗戦を予測した時点で、日本軍は打つ手を――戦術・戦略のすべてを失ったことを認めなければならなかったはずだ。「敵手に委ねる」のは何も硫黄島が初めてではなく、サイパン島でもガダルカナル島でも、ミッドウエー海戦でも、さらにその他で「敵手に委ね」てきた。そして硫黄島の次に沖縄戦でも多くの犠牲を代償に「敵手に委ねる」こととなった。
打つ手を失ったにも関わらず、人員と武器を投入して、消耗だけが残る、あるいは消耗だけを成果とすることになる体当りしては「敵手に委ねる」戦いを継続していった。
本土決戦をした場合でも、双方の犠牲を上積みするだけで、同じ繰返しを宿命としたはずだ。
日本軍人の戦争を戦う合理的精神はこの程度だったのだから、その有能性は自ずと知れることになる。
戦争継続の中身、本土決戦を叫んでいた中身は戦術・戦略上の合理的な戦いの方法を全く欠いた、欠いているがゆえに虚勢に過ぎなかった。
戦前の大日本帝国が無能な政治家・官僚によって支配され、大日本帝国軍隊が無能な軍人によって支配されていたのだから、当然の姿だったはずだ。
2012年8月15日放送のNHKスペシャル《終戦 なぜもっと早く決められなかったの》では、録音テープで残されている軍人や政治家、官僚の戦後の生の証言を聞くことができる。
ソ連が参戦し、1945年8月9日満州に侵攻した。
木戸幸一内大臣「日本にとっちゃあ、もう最悪の状況がバタバタッと起こったわけですよ。遮二無二これ、終戦に持っていかなきゃいかんと。
もうむしろ天佑だな」
曽祢益(そね えき)外務省政務局第一課長「ソ連の参戦という一つの悲劇。しかしそこ(終戦)に到達したということは結果的に見れば、不幸中の幸いではなかったか」――
自分たちの手で戦争終結という結末――尻拭いを獲ち取ることげできずに第三者が仕掛けた原因を受けた結果論を以ってして「天佑」と言い、「不幸中の幸い」と言う精神の有能性は如何ともし難い。
「天佑」、あるいは「不幸中の幸い」と言う以上は、ソ連の満州侵攻によって日本軍戦死者数が約8万人、日本人民間人死者が推定で19万人近く、シベリア抑留者57万人以上、うち5万3千人が死亡という国民の「不幸」を問題外とした、少なくとも過小視した国家体制の行く末だけを考えた「天佑」あるいは「幸い」と定めていることになるが、国民への想像性を欠いたこの程度の政治家・官僚が支配層の一員を占めることができたのは周囲が同じ穴のムジナだったからこそ可能となった一員であったはずだ。
ポツダム宣言受諾要請を無視し、広島・長崎への原発投下を招いた政治家・軍人の有能性はもはや何を言っても始まらない。
安東義良外務省政務局長「言葉の遊戯ではあるけど、降伏という代わりに終戦という字を使ったってね(えへへと笑う)、あれは僕が考えた(再度笑う)。
終戦、終戦で押し通した。降伏と言えば、軍部を偉く刺激してしまうし、日本国民も相当反響があるから、事実誤魔化そうと思ったんだもん。
言葉の伝える印象をね、和らげようというところから、まあ、そういうふうに考えた」――
「降伏」を「終戦」と言葉を変えることで戦前の日本国家の実態をゴマ化し、ウヤムヤにするマジックを施したこの狡猾な有能性は最悪であり、醜悪ですらある。
また、「降伏」を「終戦」と言葉を変えることで政治家・官僚・軍人の無能を隠したのである。
かくこのように戦前の大日本帝国は無能な政治家・官僚によって、大日本帝国軍隊は無能な軍人によって支配されていた。
にも関わらず、靖国神社に祀られている戦死者の「国のために尊い命を捧げた」行為を無条件・無考えに善とし、正義とすることで、無能な政治家・官僚、無能な軍人によって支配されていた命を捧げた対象の戦前の日本国家まで無条件・無考えに善とし、正義と価値づけている。
国家の姿を問題とし、検証することによって、政治家・官僚・軍人の無能性は排除可能となり、再び戦前の日本を繰返さない、国家に対する危機管理上の予防措置となり得るはずだが、そうしない歴史の壮大なマジックが安倍晋三等によって着々と進められている。