《麻生副総理の憲法改正めぐる発言要旨》(asahi.com/2013年8月1日1時35分)
麻生太郎の、“憲法改正はヒトラーの手口がおススメ”発言がヒトラー肯定だと内外のマスコミ、政府、人権団体から批判の声が上がった。それだけ反響が大きかったということは発言内容の重大さと同時に麻生太郎の発言力の大きさを物語っている。さすが大物だなと思った。
各マスコミが報じた翌日の8月1日午前、麻生太郎は財務省内で記者団に発言撤回を伝え、その後同じ内容のコメントを読み上げたという。マスコミによって発言の伝え方に違いが出てくることを恐れたのかもしれない。
だが、その後いくつかのマスコミが伝えた講演での発言要旨を見る限り、どの記事も要旨に添った報道となっていて、誇張も悪意もない、そのまんまの事実提示となっているはずだ。
昨日のブログでマスコミが伝えた麻生発言の何が問題か、自分なりに考えて記事にしたが、改めて発言要旨と発言撤回コメントから、どこに問題があるか自分なりに解釈してみようと思う。
麻生副総理の憲法改正関連の発言要旨は次の通り。
護憲と叫んでいれば平和が来ると思っているのは大間違いだし、改憲できても『世の中すべて円満に』と、全然違う。改憲は単なる手段だ。目的は国家の安全と安寧と国土、我々の生命、財産の保全、国家の誇り。狂騒、狂乱のなかで決めてほしくない。落ち着いて、我々を取り巻く環境は何なのか、この状況をよく見てください、という世論の上に憲法改正は成し遂げるべきだ。そうしないと間違ったものになりかねない。
ヒトラーは民主主義によって、議会で多数を握って出てきた。いかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違う。ヒトラーは選挙で選ばれた。ドイツ国民はヒトラーを選んだ。ワイマール憲法という当時欧州で最も進んだ憲法下にヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくてもそういうことはありうる。
今回の憲法の話も狂騒のなかでやってほしくない。靖国神社も静かに参拝すべきだ。お国のために命を投げ出してくれた人に敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。いつからか騒ぎになった。騒がれたら中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから静かにやろうや、と。憲法はある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね。わーわー騒がないで。本当にみんないい憲法と、みんな納得してあの憲法変わっているからね。ぼくは民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、私どもは重ねていいますが、喧騒(けんそう)のなかで決めてほしくない。
「改憲は単なる手段だ」と言っているが、憲法は国民の権利を確かなものとするために国家権力はどうあるべきかの思想に基づいて国家権力の行使を規定した最高法規としての方法論であって、改憲にしてもこの目的に添わなければならない以上、「単なる手段」ではないはずだ。 《麻生氏が発表したコメント全文》(asahi.com/2013年8月1日11時46分)
やはり麻生太郎にしても、安倍晋三と同様、「国家の安全と安寧と国土」を先に持ってきて、国民の「生命、財産の保全」は後回しになっている。
そして「国家の誇り」と言い、基本的人権と生命・財産が保障されることによって成り立たせることのできる「国民個人の誇り」は省略している。
「ワイマール憲法という当時欧州で最も進んだ憲法下にヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくてもそういうことはありうる」を憲法の宿命として把えているなら、「狂騒、狂乱のなかで決め」なかったとしても、「喧騒(けんそう)のなかで決め」なかったとしても、いわば静かな環境で決めたとしても、宿命払拭の保障となるわけではないのだから、改憲の環境は何ら関係しない要素ということになる。
どうも言っていることに論理矛盾が存在する。憲法に対する危機管理(=国家権力行使に対する危機管理=国民自身による国民の権利と自由の保障を維持する危機管理)は国家権力が憲法の規定どおりに行動しているか、国民の監視が唯一最大の力ということになる。
それらに対する国民の監視が誤った方向を取ったとき、危機管理は機能しなくなり、憲法が死文化するだけではなく、国家による権力の恣意的行使を許すことになり、当然、国民は自らの権利と自由を制限されるか、あるいは失うことになる。
麻生太郎は「憲法という当時欧州で最も進んだ憲法下にヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくてもそういうことはありうる」と言ったなら、このような危機管理をこそ問題視すべきだったろうが、改憲の環境を重大な要素とする勘違いを起こしている。
麻生太郎は、「憲法はある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね。わーわー騒がないで。本当にみんないい憲法と、みんな納得してあの憲法変わっているからね」と、ドイツ国民が納得し、歓迎することで様々な危機管理に対する機能不全を来たした、ヒトラーが独裁権力掌握の目的に対応させた「手口に学んだらどうかね」と確かに勧めている。
例え本人の頭の中には手口しかなく、手口と目的が相呼応する関連性に考えが及ばなかったとしても、それは本人の頭の程度であって、頭の程度を知らずに日本の政治の重要な位置を占める人物という観点から、一般的な解釈が関連付けた発言と見做したとしても、止むを得ないはずだ。
では、発言撤回コメントを見てみる。
麻生太郎副総理が1日に発表したコメント全文は次の通り。
◇
7月29日の国家基本問題研究所月例研究会における私のナチス政権に関する発言が、私の真意と異なり誤解を招いたことは遺憾である。
私は、憲法改正については、落ち着いて議論することが極めて重要であると考えている。この点を強調する趣旨で、同研究会においては、喧騒(けんそう)にまぎれて十分な国民的理解及び議論のないまま進んでしまった悪(あ)しき例として、ナチス政権下のワイマール憲法に係る経緯をあげたところである。私がナチス及びワイマール憲法に係る経緯について、極めて否定的にとらえていることは、私の発言全体から明らかである。ただし、この例示が、誤解を招く結果となったので、ナチス政権を例示としてあげたことは撤回したい。
「私の真意と異なり誤解を招いた」と言っているが、例え手口しか頭になかったとしても、ヒトラーの独裁権力掌握の事実につながった「手口」の事実という関係上、「手口に学んだらどうかね」の学習は一般的な解釈としては前者の事実まで含むことになる。
さらに、「喧騒(けんそう)にまぎれて十分な国民的理解及び議論のないまま進んでしまった悪(あ)しき例として、ナチス政権下のワイマール憲法に係る経緯をあげた」云々はこの期に及んで自己正当化を謀る狡猾巧妙な欺瞞そのものの詭弁でしかない。
「あの手口に学んだらどうかね」とおススメしたのである。勿論、「悪(あ)しき例」は反面教師として学習する価値はあるが、講演では、「本当にみんないい憲法と、みんな納得してあの憲法変わっているからね」とドイツ国民のヒトラー憲法(=ヒトラーが成立させた全権委任法)歓迎の状況を言っていながら、コメントでは、「喧騒(けんそう)にまぎれて十分な国民的理解及び議論のないまま進んでしまった悪(あ)しき例」と言葉を180度変えていることから判断して、反面教師ではなく、正面教師としておススメしたはずである。
安倍内閣で副総理兼財務相という重要な地位を占めている人物が平気で言葉を変える詭弁やゴマ化しで自己正当化を謀る。自らの地位に関わる使命感と責任感の欠如の裏返しとしてある言動でなくて、何であろう。
当然、安倍晋三の任命責任に関わってくるはずだ。