「国家暴力装置」論、「軍隊暴力装置」論は今の時代に通用するのか

2010-11-20 08:44:41 | Weblog

 仙谷官房長官が国会答弁で持ち出した自衛隊は「暴力装置」なるフレーズを正しい発言だとして、軍隊は「暴力装置」だと主張する面々が存在する。マキャベリを持ち出し、レーニンを持ち出し、ウェーバーを持ち出し、トロッキーを持ち出して、軍隊は「暴力装置」であるばかりか国家をも「暴力装置」だとしている。

 中には警察も「暴力装置」の仲間に入れている。《自衛隊も警察も「暴力装置」でしょ》BLOGOS/秋原葉月/2010年11月19日09時30分)

 〈いくら綺麗事を言っても、自衛隊は他国の軍隊同様「暴力を行使する機関」であることは否定できない客観的事実です。他国の軍隊では「軍隊は暴力装置である」といわれて怒り出す軍人が果たしているでしょうか?むしろ「その通り、暴力装置だ。だから我々は厳しいシビリアンコントロールに服している。」という返事が返ってくることでしょう。警察も軍隊も自衛隊もいわば必要悪の暴力装置です。だから厳しく法で律し、誤った方向に行かぬよう常に監視の下におかれるのです。〉――

 と言うことなら、「暴力」としてそれぞれの権限を行使することになる。各上層部の指示と指揮の元、その範囲以内の許される「暴力」を以って他を制御、もしくは制圧する。

 例えば中国軍が軍事的に実効支配すべく尖閣諸島に上陸、占拠した場合、中国軍は「暴力装置」としての機能を持って行動したと言えるが、中国軍を排除すべく行動を起した場合の自衛隊、もしくは米軍は「暴力装置」として行動したことになるのだろうか。

 軍隊や警察が持つ暴力性の一面は否定できないとしても、民主主義国家の軍隊、警察はそれぞれの権限を「暴力」として行使するわけではあるまい。

 ミャンマーの国軍、警察は民主化要求デモに対して、あるいは中国に於いては特に天安門の民主化要求デモ制圧時の中国人民軍は「暴力装置」そのものと化したが、民主国家に於いては例えデモが暴徒化したとしても、社会秩序維持としての制圧力を機能させることはあっても、いわば「社会秩序維持装置」との働きをしても、「暴力装置」としての能力を示すわけではあるまい。

 もし「暴力装置」となったなら、もはや民主国家の資格を失うのではないだろうか。

 上記記事は、〈警察も軍隊も自衛隊もいわば必要悪の暴力装置です。〉とした上で、次のように述べている。

 〈それを「暴力装置」と言う言葉を謝罪し「実力組織」だと言い換えるなんて、仙谷さん、何遠慮してるんでしょ。畏れ多くも自衛隊に「暴力」というネガティブなイメージの言葉を使うのは不敬である、とでも?それとも「暴力装置」と言われて傷つく自衛官がいるとでも?・・・そんなナイーブな人に自衛官や警察官を勤められてもねぇ(笑)自衛官や警察官は、自分たちは合法的に暴力を振るうことができる暴力装置だからこそ法を遵守せねばならない、という強い自覚のある人でないと困るのですが。暴力装置なのは事実なのに、その言葉を問題視する方がむしろ問題だと思います。〉――

 法を遵守する合法的暴力という論理は果して成り立つのだろうか。あるいは社会的事実としても成り立つのだろうか。だが、成り立たせて、自衛官や警察官に「暴力装置」として機能しろと言っている。「合法的に暴力を振るうことができる暴力装置」なのだから、「暴力」だと認識して、自らの使命とせよと。

 国家論から軍隊を「暴力装置」だとする主張を見てみる。それぞれが学問に時間と頭脳を投資して深い学識を得た側からの主張であって、私みたいな無学の者は太刀打ちできないが、私なりに考えてみる。
 
 《アナーキー・国家・ユートピア》池田信夫blog/2010年11月19日10時16分)

 池田信夫氏は軍隊が「暴力装置」であるばかりか、国家の本質は「暴力の独占」だとまで言っている。〈軍隊が暴力装置であり、国家の本質は暴力の独占だというのは、マキャベリ以来の政治学の常識である。それを「更迭に値する自衛隊否定」と騒ぐ産経新聞は、日本の右翼のお粗末な知的水準を露呈してしまった。〉と、――

 そしてレーニンや、誰だか知らないが、ノージックなる人物、あるいはマルクス主義を取り上げて、それぞれの欠点を言いつつ、国家の本質も「暴力装置」だと主張している。

 その上で、国家の本質が「暴力装置」であることを理解できない無知が様々な矛盾を生んでいると批判している。

 〈マルクス主義の限界は、暴力装置を誰がコントロールするのかという国家論が欠けていることだ。このため日弁連に典型的にみられるように、刑事事件で国家と闘うときは「権力=悪」という図式で議論するのに、過払い訴訟で消費者金融を壊滅させるときは、国家は財産を悪者から弱者に再分配する慈愛に満ちた福祉国家になる。

 このようなダブル・スタンダードは、官僚機構を批判しながら政府の「景気対策」を求めるメディアから、「派遣村」で政府を批判しながら厚労省に生活保護を求めるボランティアまで広く分布している。それは「平和憲法」が暴力装置としての国家の本質を曖昧にしてきたからだ。しかし尖閣諸島や普天間基地の問題は、このような脳天気なご都合主義が、そういつまでも続けられないことを示している。〉――

 国家の本質は「暴力装置」なのだから、そのことを深く認識して尖閣問題や普天間問題に取り組めとの教えである。

 マキャベリが生きた1500年前後のヨーロッパも含めたイタリアは封建制が強く残った時代であったろう。共和制を国家体制としながら、君主独裁制を敷いた指導者も存在したという。

 そういった時代の空気を吸って、マキャベリは〈軍隊が暴力装置であり、国家の本質は暴力の独占だと〉する政治学を確立した。その思想が現代の政治解釈に通じる知識を備えていたとしても、部分的であって、国家そのものの体質は当時と現在とでは大きく変質しているはずである。少なくとも先進民主国家に於いてはマキャベリが生きた封建制と独裁性が混在した時代とは明らかに違うはずで、マキャベリが言い、後世の学者が引き継いだ「国家暴力装置」論を現代の国家に果してそのまま当てはめることができるのだろうか。

 トロツキー、レーニンの場合はロシア帝政時代の絶対王権下に生れ、育ち、帝政を倒してソビエト社会主義共和国連邦を成立せしめたが、その政治体制は共産主義一党独裁である。

 いわば封建制と独裁性が混在した時代の国家を洞察してマキャベリが打ち立てた「国家の本質は暴力の独占」だとする「国家暴力装置」論を説いた政治学をトロツキーもレーニンも学び、受け継いだとするなら、絶対王権を国家体制としたロシア帝政時代の水を飲み、その政治体制を眺めつつマキャベリの「国家暴力装置」論を自分たちの思想として育み、自分たちなりの政治学の常識として体現し、革命を暴力措置そのままに発動、その集大成が共産主義一党独裁体制の国家であったということであろう。

 マキャベリの「国家暴力装置」論を出発点とし、時代状況や地域性、国民性の違いによる解釈の違いや方法論の違い等によっていくばくかの変質があったとしても、マルクスの影響をも受け、自分たちを「暴力装置」とさせて、樹立した共産主義一党独裁国家の本質とした。

 当然、国家維持の重要な手段である軍隊にしても「暴力装置」である国家に内包された「暴力装置」としての位置づけを受けることになる。

 このような経緯、国家の本質を現代の先進的民主国家にそのまま適応させることができるのだろうか。植民地主義時代の列強やその軍隊には当てはめ可能かもしれないが、先進民主主義国家に限っては当てはめ可能はその時代辺りまでで、戦後の民族自決時代以降は当てはめ不可能の国家の姿を取っているのではないだろうか。ましてや軍隊にしても。

 つまり「国家暴力装置」にしても、「軍隊暴力装置」にしても、封建制、独裁体制と共に歩み、存在した。封建制、独裁体制の領域以外では生息不可能の生態となっていた。

 当然現在の21世紀の時代でも、封建制や独裁体制を国家体制としている国家に於いては今尚、「国家暴力装置」にしても、「軍隊暴力装置」にしても生息可能であるし、実際にも生息させてていると言える。

 その区別をつけず、民主国家に所属する日本国家やその軍隊である自衛隊に対してまでも「国家暴力装置」論、あるいは「軍隊暴力装置」論を振り回す知識人は過去の学問を学ぶことで自身の殆んどの知識・情報を成り立たせていて、頭でっかちとなっているように思えてならない。

 あるいは私自身の解釈が見当違いということなのだろうか。

コメント (1)
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