前回のブログ記事≪今度は大阪府知事橋下徹が撒き散らすこととなった「ケイタイ禁止令」騒動」≫で安倍・福田両内閣で首相補佐官(教育再生担当)を務めた山谷えり子の「自我の未発達」を理由とした上からの「ケイタイ禁止令」は止むを得なしとする主張を批判したが、その主張の出所は08年6月15日の『朝日』朝刊記事≪耕論/子供とケータイ≫からで、山谷えり子(50年生れ)とNPO青少年メディアセンター研究協会理事長下田博次(42年生れ)、それにソフトバンク嶋 聡(58生れ)の3者が記事の中でそれぞれの主張を述べている。全文を引用して、改めて問題点を見てみたいと思う。
最初にキーワードを引用。
【キーワード】
1.教育再生懇談会の報告書
08年5月26日に福田首相に提出。有害情報対策として、
(1)必要ない限り、小中学生が携帯電話を持つことがないよう保護者、学校はじめ関係者が協力する。
(2)安全確保の理由から持たせる場合でも、通話(相手側を限定)やGPS(全地球測位システム)機能
のみの機種を推進する、などが盛り込まれた。
2.フィルタリング
青少年に有害なサイトへの接続と自動的に遮断する仕組み。親が子供の携帯を契約する際、携帯電話会社がサービスとして提供している。
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山谷えり子(首相補佐官/教育再生担当)
『小中学生は持たなくていい』
携帯電話を持つ子供が増え、出会い系サイトを通して性犯罪に巻き込まれたり、学校裏サイトと呼ばれる掲示板がいじめの温床になったりするなど、「携帯依存」の弊害が深刻になっている。子供の成長にとっても好ましくなく、小中学生の年代では携帯を持たなくていいと思う。
日本PTA全国協議会の調査では、「深夜でもメールのやり取りをする」が小5で11%。中2で51%。「返信がないととても不安になる」が小5で18%,中2で24%いる。
子供の世界では「30分ルール」というものがあり、この間に返信しないと友情が崩れてしまうそうだ。だから食事や入浴中も携帯を手放せない。「嫌われたくない」と言う強迫観念で常に緊張状態に置かれるのは残酷である。
小中学生の頃は、五感を磨く大切な時期なのに、いつも「ピコピコ」と電波が入ってきて「いま何しているの?」と用もなく聞かれる。これでは人間がデジタル化してしまう。顔を合わせて話す機会が減れば、表情からニュアンスを読み取る力は育たず、親の言葉さえ十分にキャッチできなくて、家族団欒にも悪い影響が出るだろう。
自我が未発達な小中学生は同年代の影響を受けやすく、携帯の正しい教え方を教えても、きちんとコントロールできない。携帯から解放してあげることが子供を守る最も適切な対策だと思う。
福田首相も同じような認識で、政府の教育再生懇談会に対し「そもそも持つ必要があるのか議論してほしい」と指示した。先月まとまった報告書=キーワード①=は、「必要ない限り持たない」「持つ場合は機能限定の機種」という提言を盛り込んだ。社会総がかりで子供を守るメッセージとして、国民全体が真剣に受け止め、携帯を買い与えようとする親が一考するきっかけとなってほしい。
政府として、法律で所持を規制することまで考えているわけではない。地域や学校などで自主的な対策が進むことを期待している。長野県野々市町では小学生には携帯を持たせないように町ぐるみで取り組み、東京都品川区では区立小に通う全児童に対し、通話先を限定した携帯を貸与している。このような取組みを各地に広めるためにも、国が情報提供や財源などの面で支援していくことも検討すべきだろう。
子どもが有害サイトに接続できないようにするフィルタリング=キーワード②=を携帯電話事業者に義務付ける法律が今国会で成立したが、これでは一件落着とはならない。子どもにせがまれてフィルタリングを解除する親も多く、受け穴もあって徹底するのは難しいからだ。メールも従来どおり自由に使えてしまう。
携帯電話事業者の協力はいっそう重要になる。家族との通話や位置確認などに限定した小中学生向けの機種の開発・普及に努めてほしいが、教育再生懇談会のヒヤリングでは、「マーケットが小さい」ことを理由に消極的だった。様々なコンテンツを使ってもらわないと利益にならないからだろう。日本の資本主義は倫理観あってのものであり、拝金主義的であってはならない。(聞き手・深津弘)
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下田博次(NPO青少年メディアセンター研究協会理事長)
『対策遅れ、政府・企業は謝罪を』
子どもたちは「インターネットのジャングル」に放り出されている。こんな状態になる前に、政府や携帯電話会社はどうして早く手を打たなかったのか。今頃、お上が持たせるなとかフィルタリング規制を強めろと言っているが、子育ての面から言えば、愚かな策だ。
携帯電話のインターネットサービスは、来年で10年になる。この間、私は学生や市民と共に子どもたちの使用状況を調べたり、教師や保護者のための講習会を開いたりしてきた。子どもたちにとって携帯電話はインターネット端末、すなわち「ケータイ」だ。未知の世界に連れて行ってくれる魅力的な道具だ。
ケータイを使った学校裏サイトへの悪質な書き込みが問題になった。いじめ、個人情報の流出、性の誘惑、ゲーム中毒、詐欺行為など、さらに深刻化している。私たちのもとに日々、多くの教師や保護者から「困った」「どうしたらいいか」という切実な訴えが寄せられている。
子どもたちはすでにケータイを自由に使う楽しさを知ってしまった。今になって禁止したり規制を強めたりしたら、「お兄ちゃんやお姉ちゃんは自由だったのに、なぜ自分たちはそうじゃないんだ」と反発するだけだ。
ネットの世界は規制と規制逃れのいたちごっこだ。無理に抑えつけたら子どもたちは隠れて危ないネット遊びをするだろうし、新手の業者が誘いかけもするだろう。コンテンツ業者もフィルタリングの基準を緩めたがっている。
大事なのは子どもたちを納得させることだ。そのために政府、携帯電話会社、コンテンツ各社は子どもたちに謝らないといけない。「君たちのための対策を取っていなかった、危ないものを自由にさせてしまった。申し訳ない」というように。政府の偉い人や企業のトップがテレビに出て頭を下げ、「保護者や先生は子どもたちを説得してほしい」と呼びかけたらどうか。それを見た子どもたちは「そんなに大変なことなのか」と知り、考えるに違いない。
突拍子もないように聞こえるだろうか。事態はそこまで深刻だということが分かっていないから、そう思うのだ。
ケータイは便利な道具だ。だが、あなたの子どもが、本人の知らないうちに加害者になったり、見知らぬ大人と出会ったりするメディアでもある。保護者は勉強し「ペアレンタル・コントロール」(親としての指導性)を身につけなければならない。親がケータイについて指導能力を獲得できるかどうか、今はぎりぎりのところにいる。
叱ったり、強硬な対策を打ったりするのは逆効果だ。子どもたちをさらに見えない世界に追い放ってしまう。
ケータイを持たせる前に、子どもに①情報の良しあしの判断力②有害情報や誘惑への自制力③ケータイを持つことの責任能力の三つを教えることが必要だ。私の経験では、彼らも学びたがっている。
保護者や教師の助けに教育プログラムが必要だ。群馬県や広島市では既に動き出している。費用は無策だった政府と携帯電話会社が出し合ったらどうだろうか。(聞き手・刀弥館正明)
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嶋 聡ソフトバンク社長室
≪読み・書きに並ぶ必須能力≫
子どもにとって今や「読み・書き・携帯」の時代で、携帯電話には通話だけでなく様々な機能があり、教育にも使える。小学生の早い時期から携帯を持たせた方がいいと思う。とにかく携帯が問題にされるが、それは国民全体に便利で重要な社会インフラになったからだ。車の事故と同じで、便利なものには問題もあるが、功罪を考えれば圧倒的に「功」の方が大きい。
携帯は進化しており、いずれはパソコンと同じ機能を持つ。パソコンを24時間身につけられる環境になる。
パソコンの黎明期から活躍していた弊社の孫正義社長は「国際競争のカギは通信技術で、パソコンの次には携帯が主役になる」「世界に通用する日本人をつくる入り口が携帯なのだ」と確信している。
携帯の検索機能は充実し、気になることはいつでも調べられ、メールで世界の子どもとつながる。若者には携帯で小説を読む文化が浸透し、携帯を道具に文学も創作できる。便利な機能は大人よりうまく使う。だから子どもの可能性を信頼したい。
私の娘は東京に移り、新しい環境に慣れないとき、前の中学の友達とメールをすることで情緒が安定した。人格形成や非行に走らないように携帯を生かせる面もある。
携帯を使いこなせず、実情に疎い大人に限って「子供に持たせない」と言うのではないか。子どもの発達を阻害するという裏付けはないだろう。学校裏サイトも深刻だが、実像より悪のイメージが肥大化したように思う。
考えてほしいのは携帯が不可欠になった背景だ。大人並みに忙しい子どもにとって習慣予定を管理し、時間を有効に使うのに携帯は必須だ。共働き夫婦で一人っ子という家庭が増え、夕飯は1人で食べ、塾通いする子も多い。
ソフトバンクでは家族間の通話を無料にでき、犬も登場する家族の交流のCMを流している。携帯の功罪を家族で納得するまで話し合い、携帯を家族再生のツールにしてほしい。
「携帯を持たせない方がよい」という教育再生懇談会の提案は、戦前のように政府が「あれはダメ、これはダメ」と小さいことに干渉するようなもの。再生というなら、教育は国家百年の計という大きな視点で議論すべきだ。
携帯からつながる有害なサイトを遮断する機能は、年齢や子どもの成長などに応じてきめ細かく自主的に整備したい。携帯の罪の部分はこうした努力で克服できる。
子供向けの携帯は親の心配に幅広く応えられる状況になっている。当社は、インターネットやメールの利用制限に加えて、通話先・メール先を保護者の暗証番号操作で限定可能な「コドモバイル」も既に販売している。利用時間帯や利用数(量)に応じた制限も可能だ。
別に、携帯メールによる学校の出席管理や登下校の情報提供のサービスも検討中だ。
我々は、消費者の要望を大切にして、よりよい商品を提供するのが役目で、選択の自由を大切にしたい。最後に選ぶのは消費者だ。子供向けがあっても、消費者はよいと思うものを選んでいる。(聞き手・山下勉)
かつて20年程前に「有害図書追放運動」と言うのがあった。あからさまな性描写を描いた読み物や写真・絵を載せた雑誌・漫画本は青少年に有害だからと、主に主婦たちが先頭に立って活躍した。どれ程成功したのだろうか。いわゆるエロ雑誌を収めた自動販売機の街からの撤去に行政を動かして成功したぐらいの成果しか上げることができなかったのではないか。
「追放運動」が「運動」のみで推移している間に時代は活字や写真からビデオへと移った。性器部分はモザイクを入れてあったものの、露骨なセックスシーンを惜しげもなく提供した。ときには裏ビデオとして、性器部分をはっきりと写したビデオが出回り、警察に摘発されたりした。テレビでも上半身何もつけていない若い女性の姿を写すようになっていた。
そして現在、ケイタイを端末としてインターネットに接続、インターネットの世界から性情報を簡単に手に入れることができるようになった。悪質業者に引っかからなければ、セックスシーンをたっぷりと見せてくれるアダルトDVDをそれ相応の値段で入手も可能となる。
女子高生の中には出会い系サイトを利用して相手となる見知らずの男を求め、ホテルに一緒に入って当座の小遣い稼ぎをする。それが一歩間違えて、山谷えり子が言うように「出会い系サイトを通して性犯罪に巻き込まれ」る事件も起きている。
だからと言って、ケイタイを禁止して問題が解決すると思っているのだろうか。有害図書が雑誌や漫画本で収まっていた時代でさえも、その追放に成功せず、利用者を根絶できなかったのである。
ケイタイを禁止しても、自分の小遣いで買って、こっそりと所持し、こっそりと利用するか、性情報がどうしても欲しい、あるいは出会い系サイトにどうしてもアクセスしたいがケイタイではフィルタリングが邪魔になるというなら、青少年は親に買ってもらうか自分で買うかしてパソコンを手に入れ、利用するだけのことだろう。
問題は「有害」とする情報自体は決してなくならないということだ。出会い系サイトが法律で一切禁止されたとしても、出会い系サイトと分からないように偽装した形で登場することになるだろう。正真正銘の結婚紹介サイトを利用して、個人的に出会い系サイトに変えてしまうことだってできる。
以前、女子中高生が渋谷や新宿、池袋の人通りの多い繁華街で男の方から声をかけさせる目的で派手な私服で徘徊して、男が声をかけるとその場で値段を交渉して、交渉成立となるとホテルに行き、男の目的を果たさせてからカネを手に入れるという自分の目的を果たして小遣い稼ぎとする一種の売春が流行ったが、現在も続いているのかどうか、そういったことを伝えるテレビ情報に出会わないが、もしケイタイを禁止されたなら、ケイタイから繁華街へと媒介手段を変更するだけのことだろう。
地方から家出してきて、それで食いつないでいた女子中学生や女子高生がいたという話も聞くし、ホテルでの交渉次第で1回限りを週に何回、月に何回と定期性を持たせたり、あるいはその度毎の支払いではなく月いくらの契約で継続性を持たせる“援交”の形にもっていくといった話もあった。
援交なら、自分がケイタイを持たなくても、公衆電話で相手のケイタイに連絡を入れれば何ら支障はない。女の側に対する連絡はホテル近くの喫茶店を待合わせ場所にしておけば、男が急に都合がつかなくなった場合、その喫茶店に電話を入れることで意思の疎通を図ることができる。
勿論、犯罪に巻き込まれたり、未成年という理由で警察に逮捕されたりする事態も発生するだろうが、その当座は自粛したとしても、衣服以外への資本投入が不要で費用対効果が絶大な小遣い稼ぎということなら、喉元通れば何とやらで、決してなくなることはないだろう。単に売春が低年齢化しただけのことである。
要するに「ケイタイ禁止令」はケイタイ所持の禁止のみに終わって、その弊害に関しては形を変えて持続することになるだろう。ケイタイは大人たちが弊害だとする行為に近づくための単なる道具に過ぎないからだ。メールができなくなれば、以前のように親が不在の友達の家に仲間で集まって、テレビゲームやたわいもないおしゃべりで時間を潰すことになるだろ。
そう言えば、以前ゲーム機を使ったテレビゲームにばかり熱中して勉強しない子供が問題になったときがあった。ケイタイの調査に変えて言うなら、「テレビゲームへの依存傾向が高い児童・生徒ほど、学習時間が短い」ということになっていたはずである。
事実そうであったなら、熱中対象がテレビゲームからケイタイに変化しただけのことになる。
友達との時間を考えない頻繁なメール交換や裏サイトで友達の悪口を書き散らす、インターネットで性情報を得て性的欲望を満たす、あるいはケイタイや出会い系サイトを利用し小遣い稼ぎと刺激を求めて不特定多数の異性と交渉を持つ。そういった活動を自己実現の便宜的な手段とし、自分の世界としてしまっている。このことこそが解決しなければならない問題ではないだろうか。
学校の勉強でも運動でも、あるいは大人が健全と認める遊びでも自己実現を図るための自分の世界とすることができず、大人が見たら逃避と言うだろうが、ケイタイが与えてくれる世界で自己実現を日々満たし、自分の世界とする。
学校の勉強が何ら刺激を与えてくれず、面白くもなく退屈でケイタイが与えてくれる刺激に走ってしまうということもあるだろうから、大人が見たら健全と言えて、なお且つ子供たちが自己実現可能で自分の世界とすることのできる刺激的な活動の場を与えてやる以外に道はないのではないのか。ケイタイから離れられないなら、学校の授業でケイタイを使って生徒の知識欲を刺激するより有益・有効な情報にアクセスできる方法を教える手もある。
テストの成績か部活の運動でのみ生徒の自己実現の機会を限定し、そのことのみを自分の世界とさせるべく人間の可能性を限定・管理すること自体が間違っているのではないだろうか。
以下、三者の主張に批判を加えたい。
山谷えり子の子供の成長に好ましくなく、持たせるべきではないとする考えは前回のブログでも触れたと思うが、自己判断能力を奪う考え方であって、上からの言いつけ(命令・指示)に従わせ、言いなりに従う子供をつくる権威主義性の刷り込み以外の何ものでもないだろう。
その一方で「小中学生の頃は、五感を磨く大切な時期」だと矛盾したことを言っている。自己判断能力もなく、他人の言いつけに従うばかりの人間に満足な「五感」は育たないばかりではなく、日本の学校教育自体がテストの点数を上げることを強迫観念とさせていて、まさにそのことによって「五感」を殺ぐ教育となっていることに考えを及ぼしていない。
小学校に入学したばかりの頃からケイタイ依存症に陥るわけではない。「五感を磨く」時間は優にあるはずだが、家庭教育も学校教育もテストの点数・テストの成績のみに目を奪われてその方面の時間を用意してない。
山谷が言う「30分ルール」にしても、権威主義的に他者の支配下に自分を置いて、他者の判断に従う状況を言う。自律的(自立的)主体的自己とは逆の自己となっている。決してケイタイがつくり出した存在性ではなく、ケイタイはそのような存在性発揮の単なるキッカケに過ぎないだろう。
ケイタイ禁止といった方面に向けた労力・エネルギーを使うなら、自分は自分だという「自我」の育み、自律的(自立的)主体性の育みにこそエネルギーを注ぐべきである。
こういった労力こそが、「自我の未発達」を避ける教育上の危機管理となる。
山谷えり子は最後に「日本の資本主義は倫理観あってのものであり、拝金主義的であってはならない」と体裁のいいことを言っているが、どこの国の資本主義も「拝金主義」で成り立っているのではないのか。日本の資本主義もその例外ではない。
だからといって、資本主義を否定するつもりはない。資本主義は人間の本能に従っているからだ。
下田博次は「ケータイを持たせる前に、子どもに(1)情報の良しあしの判断力(2)有害情報や誘惑への自制力(3)ケータイを持つことの責任能力の三つを教えることが必要だ。私の経験では、彼らも学びたがっている」と主張しているが、上記3つの教育はすべての行動について言えることで、ケータイの所持・使用に限定して必要とされる能力ではないはずである。ケイタイを持たせるに当たって急遽必要となる能力ではない。
そもそもからしてそれらを身につけさせる教育を行ってこなかったことの結果性として現れている欠陥能力であり、自己判断能力と自己責任能力を欠いた子供たちの姿ではないのか。ケイタイの弊害を言う前に、子供たちをそのような姿に仕向けているテスト教育の弊害を言うべきである。
嶋 聡についても一言。
「パソコンの黎明期から活躍していた弊社の孫正義社長は『国際競争のカギは通信技術で、パソコンの次には携帯が主役になる』『世界に通用する日本人をつくる入り口が携帯なのだ』と確信している」
「世界に通用」云々はウソだろう。下田博次が提案していたが、自己判断能力と自己責任能力をきっかりと身につけることが「世界に通用する日本人をつくる入り口」ではないのか。
「携帯の罪の部分」は解消可能だと言っているが、それも子供たちそれぞれの選択にかかっている。馴染み、流されるか、流されないか。例え馴染んだとしても、一時的で、他のことときっちりと分けることができる子供もいるに違いない。遊ぶときは遊ぶとき、勉強するときは勉強すると言うように。
自分で判断し、どう行動するかは自分の責任で行う。行きつくべき場所は「ケイタイ禁止令」ではなく、あくまでも自己判断能力・自己責任能力の育みでなければならないはずだが、間違った指摘だろうか。
中学校高学年にもなると、親の干渉・制止を許さなくなる子供が多いに違いない。やはり子ども自身の判断に任せるしかない。子ども自身の判断能力・責任能力を育む方向に進むしかない。親の制止が効かなくなったからと放置したら、子供は流されっ放しになる。そうなる前の問題として、自己判断能力・自己責任能力を育む親のしつけ、学校教育が必要であり、喫緊の課題ではないだろうか。
テストの点数だけを言う教育を続けるなら、それに応えることのできる生徒だけを相手にして、応えることのできない生徒がケイタイに依存しようが出会い系サイトを利用して売春して小遣い稼ぎしようとも干渉しないことである。干渉して管理しようとしないことである。彼ら・彼女らの自己実現をよしとすべきである。
例え犯罪に巻き込まれる子供が出たとしても、折角見つけ、築いた彼ら・彼女らが自分の世界とすることができた活動の場を温かく見守るべきである。