モチベーション奪う大相撲黒海モミアゲ禁止

2007-11-19 03:31:18 | Weblog

 権威主義が働いた常識の統一

 07年11月13日のスポーツニチ。
 ≪大相撲:何でダメ?黒海もみあげ禁止令に怒る≫

 <大相撲九州場所2日目、黒海に「もみあげ禁止令」が通告された。場所前の巡業からエルビス・プレスリーばりのもみあげを蓄えていたが、初日夜に師匠の追手風親方(元幕内・大翔山)から「そんなことでなく相撲で目立て!」と忠告され、やむなくきれいにそって土俵を務めた。黒海は「前にもはやしていた力士がいたのに、何でダメなのか。巡業でも好評だったのに。正直すごく腹が立つ」と不満そう。取組でも白露山に敗れ、散々な1日となった。>

 九州場所初日(07.11.11)NHK大相撲中継。通路に現れたときの黒海を見て、思わずニヤリと笑みがこぼれた。控えに座って待つ間の黒海、行司に呼び出されて土俵に上がり、塩を取りに行く黒海。仕切る黒海。露鵬に上々の勝ちをして蹲踞して勝ち名乗りを受ける黒海。モミアゲばかりに目が行ってしまう。なかなかいいじゃないかとニヤニヤが止まらない。

 黒々と長く伸ばしたモミアゲの内側最短部の端が左右から鼻下の方向にまで三角形の形で極端に伸び、顔の殆どを隠す印象を与えている。こういった思い切った形のモミアゲは大胆な気持ちにならなければなかなかできない。その上愛嬌があっていいと思った。

 「サイコー」の褒め言葉を与えたい程の出来栄えと言えた。ところが正面解説の北の富士が「似合わない。感心しない。まあ、本人がいいと言ってるんだから、いいんじゃないですか?」と投げやりに言い、お気に召さない様子。
 
 向正面解説の舞の海「私は似合うと思います。巡業では人気があった」というようなことを言っていた。奴凧の大袈裟な頬ヒゲふうで、その大袈裟なところがまさしく愛嬌がある。外国人奴凧といったところだ。正月に揚げる凧のキャラクターに十分使える風貌に思えた。最近凧を揚げる光景を見かけることは少なくなったが、相撲ファンなら、部屋のアクセサリーに利用もできる。野球を全然知らなくても、ハンカチ王子の人気にあやかるべく所属大学チームの試合に朝早くから群がったように、人気次第で相撲を知らないオバサンやギャルまで惹き付ける可能性は否定できない。
 
 ところが2日目、黒海の顔からきれいさっぱりモミアゲが消えている。相撲協会からお咎めが出たなと思ったが、アナウンサーはモミアゲが剃ってあることは言ったが、お咎めに関しては何も言わない。インターネットで検索したら、上記記事に出会った。

 記事は親方の忠告を受けて剃ったとなっているが、舞の海が巡業中から生やしていたと言っているし、黒海自身も「巡業でも好評だったのに」と言っている。

 となれば、親方も承知していたはずのモミアゲだろうから、禁止するなら早くから禁止していただろう。相撲協会からの注意があって親方がそれに従った疑いが濃い。

 似合う似合わないは他人の言うことである。黒海にしても社会的に既に大の大人なのだから、本人の判断に任せればいいのに、任せることができない。協会はなぜ注意しないんだといった「お叱り」が自分たちのところにまわりまわってくるのを恐れて、先手を打ち批判されそうなことは前以て摘み取ってしまおうとしたのではないか。そうすることが自分たちを責任の及ばない安全地帯に置くことができるからだ。試しにやらせてみろといった冒険心がない。裏を返すと、事勿れな無責任主義を事としているからだろう。結果として、社会的な常識にごくごく当たり前に添った当たり障りのない態度に終始することとなる。

 黒海が世間の反応を見て、どうも評判がよくないようだとやめてしまうのも本人の判断、評判が悪かろうがよかろうが続けるのも本人の判断。本人自身の趣向であって、生やすについては本人なりに気分一新を狙ったとか、それなりの動機付け(モチベーション)があったはずである。活動への意欲向上に人間は常に何らかの動機付けを欲する。

 確か新庄が大リーグから日本に戻って日本ハムに入団したときだったと思うが、野球解説者の元タイガース捕手(後に西武へ移籍していたかもしれない)、田淵幸一が野球解説の途中で「新庄みたいな二流選手が大リーグで活躍できるようでは、大リーグもたいしたことはない」と言っていた。

 人間は引越しして新たな住まいに身を置き、そこを生活拠点として新生活の第一歩を踏み出すだけで、心機一転、頑張るぞという気持ちになり、仕事に対する意欲も湧いてくる。プロ野球の選手がFAの資格を獲得しても元々の球団に残留する場合もあるが、環境を変えて改めて自分を試してみようと新天地を求め他球団に移るのは、新たな飛躍への動機付けとしたいからだろう。

 日本のプロ野球から一段上の能力集団である大リーグに移籍するのは自分の能力がどれだけあるか、大リーグで通用するかどうか、ある面イチかバチかの挑戦が目的で、そのことのみで自身を精神的にも能力的にも高める、あるいは奮い立たせる動機付けに十分になり得る。錚々たる大リーガーの面々と混じったとき、否が応でもかつて経験したことのない激しい充実感が湧きあがってくるはずで、湧き上がってこないとしたら、その時点で挑戦の意味を失う。

 そして日本では味わうことのなかった大リーグから受ける刺激を挑戦の意欲にうまく相乗作用させて実際のプレーに反映させ得たとき、日本からのすべての選手が成功するとは言えないが、多くの選手がそれ相応に活躍することになるのは高い場所への〝挑戦〟と新しい環境から受ける刺激とが絡み合った動機付けがあるからこそだろう。新庄の大リーグでのそれなりの活躍も、上記経緯を踏んでいたからに違いない。

 かつてのスタープレやーであり、現在プロ野球解説者・田淵幸一は大リーグ移籍日本人選手が挑戦という動機付けによって得ることとなるプラスαの力を考えるまでに至らなかった。

 新庄が06年にシーズンを終えてからではなく、開幕草々にその年限りでの引退を表明したのは、最後のシーズンにいい成績が残せるよう自分自身を鞭打つ動機付けの意味合いもあったからに違いない。それが彼自身の活躍だけではななく、ファンやチームをも活気づけて、パリーグ優勝・日本シリーズ優勝の大きな動機付けともなったはずである。

 日本相撲協会は黒海の少なくとも心機一転を図った動機付けを奪った。それが師匠の追手風親方発祥の禁止だったとしても、そのことに相撲協会が何ら意思表示を示さなかったことは相撲協会も同じ意見だということを示している。

 黒海の動機付けが結果として好結果に結びつくかどうかは未知数だが、好結果を目的としていたことは確実に言える。ハワイ出身の元大関小錦が大相撲のアメリカ場所巡業で「ジャパニーズ・ロボコッポ」と英語で紹介していた高見盛の通路をやや顔を仰向き加減して手を肘から前に突き出したまま歩くロボットを思わせる歩き方、土俵上でその手を下に激しく振って自分を奮い立たせるパフォーマンス、勝っても負けても手を前に突き出す姿勢に戻って天を仰ぐように顔を上に向ける、これもロボットを思わせる仕草は多くのファンの声援を呼び、それら両方が相混ざって身体が大きくもないし特別な才能もない高見盛りの戦う意欲を駆り立てる動機付けともなっているはずである。

 もし大相撲の品格を言うのだったら、安倍晋三の「規律を知る凛とした美しい国、日本」と同様に口で言っているだけの「品格」に過ぎないが(時太山暴行死事件で見せた師匠及び北の湖理事長以下の日本相撲協会の面々の振舞いがその最たる証拠となる)、高見盛りのパフォーマンスにしても「品格」の部類に反することになる。

 要するに「品格」とはキレイゴトそのものでしかなく、中身は相撲協会の面白くも何ともない常識を塗り込めてつくり上げてあるに過ぎない。大人の判断と判断に従った行動を求めるだけで十分だからだ。

 今ひとつ人気のない外国人力士黒海が「巡業でも好評だった」独特・異形なモミアゲによって自身の活躍への意欲を駆り立てる動機付けに加えて人気を博した場合は、それがさらなる動機付けとなる相乗効果を生み、予想外の成績を上げない保証はなかったはずである。元々馬力のある相撲取りなのだから。

 社会のルールに反したわけではない、月並み・平凡な社会的常識から見て少々異様に見えるというだけで相手を大人と見ることができずに上からの指示に従わせるということは面白くもない上の常識の支配下に置こうとする権威主義の行動様式に則った意識の働きによるものだろう。

 外国人奴凧・黒海が初日1日だけのお披露目だったとは、何としても惜しい気がする。

 ある日突然、大銀杏を金髪に染めて土俵に上がる関取が出てこないだろうか。出てきたら、拍手喝采してやるのだが。

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