昨11月10日(07年)の『朝日』朝刊≪「沖縄ノート」口頭弁論 集団自決 真相巡り対立≫
原告は沖縄西南部の座間味島戦隊長で少佐だった大阪府在住の梅沢裕氏(90)と渡嘉敷島戦隊長で大尉だった赤松嘉次氏(故人)の弟秀一氏(74)。被告はノーベル賞作家大江健三郎氏。
米軍が上陸した1945(昭和20)年3月の座間味で約130人、渡嘉敷で約300人以上の住民の集団自決は軍の命令によるものなのかを争う裁判であるが、隊長であった自分がさも集団自決命令を出したように「沖縄ノートに」に書かれ名誉を傷つけられたとして出版差し止めと慰謝料1500万円を求めているという。
梅沢氏は米軍の攻撃後、村人5人から「軍の足手まといにならないように自決する。手榴弾を下さい」と頼まれたが、「とんでもないことを言うんじゃない。死んではいけない」と制止した、自分は命令していないと主張。
但し、「軍の責任を認めるような内容の手紙」を生存者に出している点について被告側弁護士から問われると、「我々は島に駐屯した以上、まったく関係ないといえないという趣旨だ」と答えたという。
大江氏は<集団自決を軍の命令と考える根拠を問われると、体験者の証言集の存在を上げ、「執筆者から聞き、結論に達した」>。<実名を明かさなかったのは「軍隊が行った事件と考えた」ためとし、元隊長の具体的命令の有無を問題にしているのではないと強調。さらに、軍は「軍官民共生共死」の方針を県民にも担わせており、集団自決は「タテの構造」の中で「すでに装置された時限爆弾としての『命令』」で実行されたと、陳述書で指摘した。>(同『朝日』記事)と軍関与説を展開。
原告側弁護士「元戦隊長が住民の集団自決を事前に予期できたとするなら、いつの時点でできたのですか」
大江健三郎「軍が住民に手榴弾を渡したという証言が多くあります。集団自決を予期しないで、どうして手榴弾を渡すんですか」
閉廷後の梅沢氏の記者会見「要点を外し、なんとくだらん話をするのかと嫌になった。こちらの訴えに何も答えていない」
「国民が足手まといになるから死んでくれ、などという兵はいるわけがない」
原告弁護士「著作には隊長命令で集団自決させたと具体的に書いているのに、大江さんは陳述書で『軍隊の実際行動の総体』と読むよう求めた。とてもついて行けない論理で、独善だ」
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梅沢氏「国民が足手まといになるから死んでくれ、などという兵はいるわけがない」
だが、実際には存在した。既にブログにも書いたことだが、(1994.6.27『朝日』朝刊≪ルポ沖縄戦 語り部の50年≫)沖縄で<「赤ん坊の声が敵に聞こえると居場所が分かる」>と軍から命令が出て母親自らが手をかけた嬰児殺し、「足手まといになるから」と軍の兵士たち自身が手にかけたフィリッピン中部セブ島での児童殺害等々の「命の生き剥がし」・殺人。圧倒的な軍事力を持ったソ連軍参戦で雪崩を打って敗走した関東軍に護衛を頼んでも断られ、置き去りにされた満州に開拓団として入植した日本人たち。
(1994.10.9『朝日』≪落日の満州3 教え子探し、帰国に尽力≫)<旧満州東部の哈達河(ハタホ)開拓団は、豪雨を突いて夜通し歩き、麻山(まさん)というなだらかな丘にたどり着いた。前方にはソ連軍が迫っていた。敗走する関東軍に護衛を頼んだが、「任務ではない」と冷たく突き放された。根こそぎ動員で男はわずかしかいない。
「自決の道を選ぶのが、最も手近な祖国復帰だ」
団長の提案が通り目隠しの布が配られた。家族ごと輪になり、夕日に染まる陸に座った。
仲間の銃口が火を噴き、数時間の間に、四百数十人の命が奪われた。>麻山事件はあまりにも有名である。
日本軍の護衛・護送拒否によって生じた民間人の集団自決、もしくはソ連軍による攻撃死は日本軍が間接的にそう仕向けた集団自決、攻撃死と見るべきだろう。戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」は民間人にも植え付けられ、固定観念化していた意識だったはずで、その意識(=思い込み)が「自決」という次の意識・次の思い込みを囲い込んでいたはずである。そうでなければ、「自決の道を選ぶのが、最も手近な祖国復帰だ」という国家主義的発想に追い込まれることはなかったろう。軍隊から発信した「自決」情報なのであり、マインドコントロールなのである。
参考までに上記記事は、当時教師として他の場所に赴任していたために集団自決の輪に加わることから逃れることができた女性が、母親たちが身を以て銃弾から庇った元教え子たちが残留孤児として中国に生き残っていると知って、帰国を果たす前に3人は死亡してしまったものの、残る3人の帰国に尽力したという内容である。
当時の軍隊・軍人は国民に対して絶対者の位置にいた。天皇の権威を背負い、天皇の軍隊・天皇の兵士だったのである。軍隊・軍人は自分たちを絶対的場所に置いていた。そのことを忘れてはならない。国民の命よりも先ず自分たちの命だったのである。
「著作には隊長命令で集団自決させたと具体的に書いているのに、大江さんは陳述書で『軍隊の実際行動の総体』と読むよう求めた」構図は梅沢氏の「命令は出していない」が「島に駐屯した以上」「軍の責任がまったく関係ないといえない」とする構図と相互対応するものとなっている。「軍の責任がまったく関係ないといえない」が「命令は出していない」が許されるなら、前者の論理も許される。戦隊長なら、「軍の責任」(=部隊の責任)を第一番に背負わなければならない立場にあったはずで、例え実際に命令を出していなくても、軍の存在自体が住民の心理や行動を様々に支配していたはずである。米軍の攻撃という勝てる見込みのないことを知っていたはずの緊迫した状況下では、なおさらのこと、親にすがる子ども並みに軍が操作しやすい心理状態に住民は陥っていたに違いない。暗黙の支配意志が働いていたとしたら、「命令は出していない」だけでは済まされない。
(94/6/27「朝日」≪ルポ 沖縄戦 語り部の五十年① 集団自決 家族も手に掛け・・・≫)から集団自決のあらましを引用してみる。
上陸してきた米軍の圧倒的な猛攻にさらされ、(渡嘉敷)島全体がたちまち玉砕の危機に追い込まれていた。軍陣地近くに終結せよと日本軍から命令が出され、「自決せよ」と命令が出たと情報が伝えられ、軍からあらかじめ渡されていた手りゅう弾を握り締める。家族が固まりを作る。幼い子に因果を含める声。むずかる赤ん坊を必死でなだめる押し殺した声が聞こえる。一瞬の静寂。そして突然手りゅう弾の爆発。人間の断末魔の悲鳴。号泣。
<金城少年も手りゅう弾を手にした。母親、妹、弟がにじり寄る。教わった通り、爆発させる。が、発火しない。方法を誤ったのか不発弾だったのか、とにかく爆死は失敗に終わった。
ぼうぜんと立ちつくす少年は不思議な光景に目を奪われた。一人の男がすごい形相で木の枝を折っている。そして次の瞬間、折り取った木を頭上に振り上げ、そばにうずくまる妻や子をむちゃくちゃに殴り始めた。
それが導火線になった。爆死に失敗した人々は、かまで、こん棒で石で、肉親を撲殺していった。>(同記事/下線・筆者)
狂気が支配していた。この狂気は日本軍の存在が深く関わった「生きて虜囚の辱めを受けず」の意識統制やアメリカ軍の捕虜になったなら、女は姦され、男は殺されるといった日本社会を支配していた強迫意識を引き金とした狂気であろう。
(1994.6.29『朝日』≪ルポ 沖縄戦 語り部の五十年3 重い荷物背負い続け生きる≫)
<渡嘉敷島の惨劇は、米軍も知っていた。『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』(上原正稔訳編)には、ニューヨーク・タイムズの記事を引用したつぎのような報告が記載されている。
<ようやく朝方になって、小川に近い狭い谷間に入った。すると、「オーマイゴッド」、何ということだろう。そこは死者と死を急ぐ者たちの修羅場だった。この世で目にした最も痛ましい光景だった。ただ聞こえてくるのは瀕死の子どもたちの泣き声だけであった。
木の根元には、首を絞められて死んでいる一家族が毛布に包まれて転がっていた。小さな少年が後頭部をV字型にざっくり割られたまま歩いていた。まったく狂気の沙汰だ。
何とも哀れだったのは、自分の子どもたちを殺し、自らは生き残った父母らである。彼らは後悔の念から泣き崩れた。自分の娘を殺した老人は、よその娘が生き残り、手厚い保護を受けている姿を目にし、咽(むせ)び泣いた。>>
どのような集団自決も日本軍の有形無形の関与があって発生した「命の生き剥がし」なのは間違いない。だが、梅沢戦隊長の自分は「命令していない」という事実が残る。
沖縄集団自決訴訟/大江健三郎vs元隊長(2)に続く
沖縄集団自決訴訟/大江健三郎vs元隊長(1)から続く
(Snkei Web/2007.11.9 15:12≪【沖縄集団自決訴訟の詳報】梅沢さん「とんでもないこと言うな」と拒絶≫)は裁判の審理を詳しく報道している。そこから、「命令していない」を悪い頭で考察してみる。先ずは全文を引用。下線・色字は筆者。
<沖縄の集団自決訴訟で、9日、大阪地裁で行われた本人尋問の主なやりとりは次の通り。
《午前10時半過ぎに開廷。冒頭、座間味島の守備隊長だった梅沢裕さん(90)と、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次さんの弟の秀一さん(74)の原告2人が並んで宣誓。午前中は梅沢さんに対する本人尋問が行われた》
原告側代理人(以下「原」)「経歴を確認します。陸軍士官学校卒業後、従軍したのか」
梅沢さん「はい」
原「所属していた海上挺身(ていしん)隊第1戦隊の任務は、敵船を撃沈することか」
梅沢さん「はい」
原「当時はどんな装備だったか」
梅沢さん「短機関銃と拳銃、軍刀。それから手榴弾もあった」
原「この装備で陸上戦は戦えるのか」
梅沢さん「戦えない」
原「陸上戦は予定していたのか」
梅沢さん「いいえ」
原「なぜ予定していなかったのか」
梅沢さん「こんな小さな島には飛行場もできない。敵が上がってくることはないと思っていた」
原「どこに上陸してくると思っていたのか」
梅沢さん「沖縄本島だと思っていた」
原「昭和20年の3月23日から空爆が始まり、手榴弾を住民に配ることを許可したのか」
梅沢さん「していない」
原「(米軍上陸前日の)3月25日夜、第1戦隊本部に来た幹部は誰だったか」
梅沢さん「村の助役と収入役、小学校の校長、議員、それに女子青年団長の5人だった」
原「5人はどんな話をしにきたのか」
梅沢さん「『米軍が上陸してきたら、米兵の残虐性をたいへん心配している。老幼婦女子は死んでくれ、戦える者は軍に協力してくれ、といわれている』と言っていた」
原「誰から言われているという話だったのか」
梅沢さん「行政から。それで、一気に殺してくれ、そうでなければ手榴弾をくれ、という話だった」
原「どう答えたか」
梅沢さん「『とんでもないことを言うんじゃない。死ぬことはない。われわれが陸戦をするから、後方に下がっていればいい』と話した」
原「弾薬は渡したのか」
梅沢さん「拒絶した」
原「5人は素直に帰ったか」
梅沢さん「執拗(しつよう)に粘った」
原「5人はどれくらいの時間、いたのか」
梅沢さん「30分ぐらい。あまりしつこいから、『もう帰れ、弾はやれない』と追い返した」
原「その後の集団自決は予想していたか」
梅沢さん「あんなに厳しく『死んではいけない』と言ったので、予想していなかった」
原「集団自決のことを知ったのはいつか」
梅沢さん「昭和33年の春ごろ。サンデー毎日が大々的に報道した」
原「なぜ集団自決が起きたのだと思うか」
梅沢さん「米軍が上陸してきて、サイパンのこともあるし、大変なことになると思ったのだろう」
原「家永三郎氏の『太平洋戦争』には『梅沢隊長の命令に背いた島民は絶食か銃殺ということになり、このため30名が生命を失った』と記述があるが」
梅沢さん「とんでもない」
原「島民に餓死者はいたか」
梅沢さん「いない」
原「隊員は」
梅沢さん「数名いる」
原「集団自決を命令したと報道されて、家族はどんな様子だったか」
梅沢さん「大変だった。妻は頭を抱え、中学生の子供が学校に行くのも心配だった」
原「村の幹部5人のうち生き残った女子青年団長と再会したのは、どんな機会だったのか」
梅沢さん「昭和57年に部下を連れて座間味島に慰霊に行ったとき、飛行場に彼女が迎えにきていた」
原「団長の娘の手記には、梅沢さんは昭和20年3月25日夜に5人が訪ねてきたことを忘れていた、と書かれているが」
梅沢さん「そんなことはない。脳裏にしっかり入っている。大事なことを忘れるわけがない」
原「団長以外の4人の運命は」
梅沢さん「自決したと聞いた」
原「昭和57年に団長と再会したとき、昭和20年3月25日に訪ねてきた人と気づかなかったのか」
梅沢さん「はい。私が覚えていたのは娘さんだったが、それから40年もたったらおばあさんになっているから」
原「その後の団長からの手紙には『いつも梅沢さんに済まない気持ちです。お許しくださいませ』とあるが、これはどういう意味か」
梅沢さん「厚生省の役人が役場に来て『軍に死ね、と命令されたといえ』『村を助けるためにそう言えないのなら、村から出ていけ』といわれたそうだ。それで申し訳ないと」
《団長は戦後、集団自決は梅沢さんの命令だったと述べていたが、その後、真相を証言した。質問は続いて、「集団自決は兄の命令だった」と述べたという助役の弟に会った経緯に移った》
原「(昭和62年に)助役の弟に会いに行った理由は」
梅沢さん「うその証言をしているのは村長。何度も会ったが、いつも逃げる。今日こそ話をつけようと行ったときに『東京にいる助役の弟が詳しいから、そこに行け』といわれたから」
原「助役の弟に会ったのは誰かと一緒だったか」
梅沢さん「1人で行った」
原「会って、あなたは何と言ったか」
梅沢さん「村長が『あなたに聞いたら、みな分かる』と言った、と伝えた」
原「そうしたら、何と返答したか」
梅沢さん「『村長が許可したのなら話しましょう』という答えだった」
原「どんな話をしたのか」
梅沢さん「『厚生労働省に(援護の)申請をしたら、法律がない、と2回断られた。3回目のときに、軍の命令ということで申請したら許可されるかもしれないといわれ、村に帰って申請した』と話していた」
原「軍の命令だということに対し、島民の反対はなかったのか」
梅沢さん「当時の部隊は非常に島民と親密だったので、(村の)長老は『気の毒だ』と反対した」
原「その反対を押し切ったのは誰か」
梅沢さん「復員兵が『そんなこと言ったって大変なことになっているんだ』といって、押し切った」
原「訴訟を起こすまでにずいぶん時間がかかったが、その理由は」
梅沢さん「資力がなかったから」
原「裁判で訴えたいことは」
梅沢さん「自決命令なんか絶対に出していないということだ」
原「大勢の島民が亡くなったことについて、どう思うか」
梅沢さん「気の毒だとは思うが、『死んだらいけない』と私は厳しく止めていた。責任はない」
原「長年、自決命令を出したといわれてきたことについて、どう思うか」
梅沢さん「非常に悔しい思いで、長年きた」
《原告側代理人による質問は、約40分でひとまず終了。被告側代理人の質問に移る前に、5分ほど休憩がとられた》
《5分の休憩をはさんで午後2時55分、審理再開。原告側代理人が質問を始めた》
原告側代理人(以下「原」)「集団自決の中止を命令できる立場にあったとすれば、赤松さんはどの場面で中止命令を出せたと考えているのか」
大江氏「『米軍が上陸してくる際に、軍隊のそばに島民を集めるように命令した』といくつもの書籍が示している。それは、もっとも危険な場所に島民を集めることだ。島民が自由に逃げて捕虜になる、という選択肢を与えられたはずだ」
原「島民はどこに逃げられたというのか」
大江氏「実際に助かった人がいるではないか」
原「それは無目的に逃げた結果、助かっただけではないか」
大江氏「逃げた場所は、そんなに珍しい場所ではない」
原「集団自決を止めるべきだったのはいつの時点か」
大江氏「『そばに来るな。どこかに逃げろ』と言えばよかった」
原「集団自決は予見できるものなのか」
大江氏「手榴弾を手渡したときに(予見)できたはずだ。当日も20発渡している」
原「赤松さんは集団自決について『まったく知らなかった』と述べているが」
大江氏「事実ではないと思う」
原「その根拠は」
大江氏「現場にいた人の証言として、『軍のすぐ近くで手榴弾により自殺したり、棒で殴り殺したりしたが、死にきれなかったため軍隊のところに来た』というのがある。こんなことがあって、どうして集団自決が起こっていたと気づかなかったのか」
原「(沖縄タイムス社社長だった上地一史の)『沖縄戦史』を引用しているが、軍の命令は事実だと考えているのか」
大江氏「事実と考えている」
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大江氏「手榴弾を手渡したときに(予見)できたはずだ。当日も20発渡している」
原「赤松さんは集団自決について『まったく知らなかった』と述べているが」――
赤松氏は「大江先生は渡嘉敷島を訪れて直接取材することもなく、兄を誹謗中傷した。憤りを感じる」(上記「朝日」記事)と言っているそうだが、兄は渡嘉敷島戦隊長(大尉)だった。とすると、大江氏の「当日も20発渡している」は渡嘉敷島のことなのだろうか。だとすると、梅沢氏の「命令していない」を崩す証言とはならない。
渡嘉敷島では手榴弾を使った集団自殺が起こっている。それが集団行為であろうと、自宅内で個別に行った自決行為であろうと、複数の住民が自決という共通の手段を取っている以上、軍の命令に従った行為と考えなければならない。先に当時の軍隊・軍人は国民に対して絶対者の位置にいたと言ったが、手榴弾を渡すとき、渡す目的・使用目的を話していたはずで(オモチャにしろと渡したわけではあるまいと、以前にブログで書いたが)、住民はそれに従う立場にいたのだから、軍は命令していない、村の村長か誰かが命令したのだろうと言い逃れることはできない。集団自決の場で村長が命令したとしても、それは軍の命令を引き継いだ命令だったはずである。国が「天皇陛下のために命を捧げよ」と命令したのに対して内心はどうあれ、国民が形式的には従ったように。
少なくとも渡嘉敷の軍はそれが集団のものであろうと、個別のものであろうと自決を予見することができ、結果を予定行動と受け止めなければならない立場にあったはずで、そのことを知ったのが時間的にいつのことでも、「まったく知らなかった」で済ますのは狡猾な責任逃れであって、限りなく信用できない。もし責任逃れだと省みることができないとしたら、限りなく鈍感と言わざるを得ない。
梅沢氏がそのような赤松氏の傍らにいて共に裁判を進めていながら、その狡猾な責任逃れと鈍感さに気づかないとしたら、性格的に似た者同士だからだろう。
梅沢氏の責任逃れ・鈍感さは次の裁判での遣り取りに現れている。
原「当時はどんな装備だったか」
梅沢さん「短機関銃と拳銃、軍刀。それから手榴弾もあった」
原「この装備で陸上戦は戦えるのか」
梅沢さん「戦えない」
原「陸上戦は予定していたのか」
梅沢さん「いいえ」
原「なぜ予定していなかったのか」
梅沢さん「こんな小さな島には飛行場もできない。敵が上がってくることはないと思っていた」
原「どこに上陸してくると思っていたのか」
梅沢さん「沖縄本島だと思っていた」――
「こんな小さな島には飛行場もできない。敵が上がってくることはないと思っていた」――渡嘉敷島・座間味島等の慶良間諸島は沖縄本島・那覇市の西方約30キロに位置してるという。飛行場がなくても、日本軍は上陸して陣地を敷いた。例え武器が「短機関銃と拳銃、軍刀。それから手榴弾」であったとしても、米軍が詳細を把握しているわけではないだろうから、日本軍が展開していることさえ分かれば、背後を突かれないために前以て攻撃し、壊滅しておくことが軍事行動の常道であろう。
いわば日本側から言えば、沖縄本島に直接アメリカ軍が向かった場合は背後から突く目的で陣地構築をしたはずである。海軍の艦船を慶良間諸島の要所要所に配置したのもその目的からであろう。
もし大本営がアメリカ軍の攻撃が沖縄本島のみと考え、後ろからいきなりワッとビックリさせるように背後からの攻撃でやすやすと撃退できるとだけ考えていたとしたら、戦時中の皇居での天皇と杉山元(はじめ)陸軍参謀総長(当時)との会話で明らかになった作戦の先見性に関する間抜けさ加減と同じ性質の間抜けさ加減を性懲りもなく引きずっていたことになる。何度かブログ記事に利用しているが、再度引用してみる。
<天皇「アメリカとの戦闘になったならば、陸軍としては、どのくらいの期限で片づける確信があるのか」
杉山「南洋方面だけで3ヵ月くらいで片づけるつもりであります」
天皇「杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あの時、事変は1ヶ月くらいにて片づくと申したが、4ヵ年の長きにわたってもまだ片づかんではないか」
杉山「支那は奥地が広いものですから」
天皇「ナニ、支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。如何なる確信があって3ヵ月と申すのか」
杉山総長はただ頭を垂れたままであったという。>〔『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋・07年4月特別号)/半藤一利氏解説から(昭和史研究家・作家)〕
果たせるかな、米軍は沖縄本島攻撃前に渡嘉敷島や座間味島などの慶良間諸島を攻撃している。大本営がアメリカ軍の攻撃は沖縄本島のみと間の抜けた作戦を立てていようといまいと、その作戦を梅沢氏が鵜呑みに頭から信じていようがいまいが、米軍の攻撃が開始された時点で、アメリカ軍の最初の上陸地点が「沖縄本島だと思っていた」自分の判断が間違っていたことを否応もなしに悟らざるを得なかっただろうから、裁判で「沖縄本島だと思っていた」で済ますのは隊長の地位にある者としてはやはり鈍感なまでに薄汚い責任逃れであり、少なくとも自己正当化のウソをついていると見ないわけにはいかない。
座間味島は昭和20年の3月23日から空爆が始まり、3月25日夜、第1戦隊本部に村の助役と収入役、小学校の校長、議員、それに女子青年団長の5人がやってきて、米軍が上陸してきたら、米兵の残虐性をたいへん心配している。老幼婦女子は死んでくれ、戦える者は軍に協力してくれと行政から言われている、一気に殺してくれ、そうでなければ手榴弾をくれと訴えたのに対して、「とんでもないことを言うんじゃない。死ぬことはない。われわれが陸戦をするから、後方に下がっていればいい」
「短機関銃と拳銃、軍刀。それから手榴弾」で「陸戦をする」と言うのである。「それから」という付け足しの言葉がカギを握っているのではないだろうか。
手榴弾に後ろめたいものがあるから、「それから」と付け足しで最後に持ってきたのか、少ししか残っていないという意味で「それから」と最後に持ってきたのか、いずれであろう。
どちらであっても、手榴弾を豊富に所持していたとは考えにくい。3月23日から始まったアメリカ軍の猛烈な空爆にその制空権の所在を思い知らされ、使用武器の違いと併せて2日後の3月25日に至らずとも戦局の趨勢を知るに至っただろうから、乏しい手榴弾を戦闘に役立たない住民の自決のためにムダに使ってはいられない、「陸戦をする」自分たちの身を守るためにこそ必要なものであって、最後まで残しておかなければならない、しかし正直にブッチャケタなら帝国軍人の威信に関わる。そこで最大限勿体ぶって、「とんでもないことを言うんじゃない。死ぬことはない。われわれが陸戦をするから、後方に下がっていればいい」と強がったということではないだろうか。
もはや戦う余力を一切失っていながら、軍上層部はなお拳を振り上げて本土決戦の強がりを叫んでいたようにである。その報いが原爆2発なのだが、その無能さを誰も刻印付けない。
これまで見てきた赤松弟・梅沢某の鈍感さ・責任逃れ意識から判断すると、十分にあり得る疑惑ではないだろうか。
名誉毀損で訴えてくれてもいい。