一昨日(07.5.21)の月曜日の夜8時からのNHKテレビ『鶴瓶の家族に乾杯 ムッシュかまやつ疎開探しで大苦戦』の番組はかまやつが戦争中に疎開した山梨県甲斐市を訪ね歩く内容だったが、冒頭部分で、60年も昔のことで遥か彼方の時効となっているからなのだろう、疎開先でいじめにあったといったことを軽く笑いながら話していた。
それを聞いて、そう言えば街の子が疎開先で田舎の子供にいじめられる光景はごく当たり前のこととされていたのではないかと思い出して、インターネットで調べてみた。ポータルサイトの「goo」で「疎開 いじめ」で検索すると、重複しているものもあるだろうが、なかなかどうして「約4,020件」の数字が表示された。
その中でいじめが街の子と田舎の子の間だけではなく、集団疎開者同士の間にも存在していたことを≪いじめ≫というHPで知った。冒頭部分と最終箇所を引用してみる。
< 1.集団疎開はいじめに最適な環境であった。
(1)親の面会は制限されていて1学期に1回程度で、親の
目が届かなかった。
(2)手紙は先生による検閲があり、子どもは親に本音が書
けなかった。
(3)先生は強い皇国民の錬成に熱心で、体罰は日常化し、
子どもたちに弱音を吐くことを許さなかった。戦時体
制下「欲しがりません、勝つまでは」と、耐えること
ばかりが強いられていた。
(4)日常生活は四六時中上級生が取りしきる軍隊式集団生
活で、上下の規律が厳しく、下級生は上級生に絶対服
従であった。いくらいじめられても、先生に告げ口を
すれば後で何倍もの制裁が待ち受けていたので、怖く
て何も言えなかった。
(5)上級生は空腹や家恋しさのストレスのはけ口として、
下級生をいじめて楽しんだ。
(6)いくらいじめられても泣いてすがれる母親もなく、登
校拒否をする自由もなかった。最後に残された手段は
「脱走」しかなかったが、いじめられっ子には脱走す
る気力も枯れていた。>
<上級生は空腹や家恋しさのストレスのはけ口として、下級生をいじめて楽しんだ。>の箇所が疎開者同士の陰湿な閉塞下での上下関係を如実に表現している。内(=集団疎開者たちの世界)も外(疎開先の子供たちの世界)もいじめに支配されていた。
疎開とは空襲そのものから、あるいは空襲の恐れから逃げてきた行為であって、それは疎開先の田舎の子供たちには負の行為として把えられたに違いない。何しろ日本の兵隊さんたちが戦地で「生きて不慮の辱めを受くることなかれ」と死を賭し、勇猛果敢に戦っている勇ましさに反した逃げる行為なのだから、卑怯・卑劣に見られたといったこともあったのではないだろうか。部隊を指揮する立場の将兵が兵士を部隊ぐるみ置き去りにして戦地を離脱する卑怯・卑劣な振る舞いに及んでいたことなどごく一部の軍関係者しか知らないことで、ましてや内地の片田舎の子供たちには知る由もなかったろう。
もし頭数の点で田舎の子よりも疎開した子供の方が圧倒的に多かった場合、これといって武器を持って戦うわけではないのだから、その優位性が唯一の利点となって、いじめは疎開した子から田舎の子に向かったに違いない。戦国時代、落ち武者が頭数は劣るものの、遥かに人口の多い村に侵入してその村を支配することができるのは村人が所持しているのとは比較のできない優秀な武器を所持し、その武器を使いこなす技術に於いて優っていたことからの優位性が可能とした支配・統治であろう。
いじめはそれしか自己実現のない人間、それしか自己活躍の方法のない人間によって、何らかの優位性を力として起こる。あるいはそのような人間はどのような優位性をも武器とする時代の美化とは無縁の美しくない卑劣な人間行為としてある。
最終箇所の<3.引率教師の戦後の述懐>はいじめが深刻であったことを示唆している。
<このような事実を当時の親が聞いたら、気も狂うであろう。集団疎開は一度に瓦解したかもしれない。
泣けば総がかりで声を止め、つぎの制裁は倍化するのだから、もちろん先生に告げ口をすることなどは思いもよらない。親が面会にきたときに、親に話せば先生につうじ、だれが告白したかは明瞭になるし、その結果は自分に報いてくることをこの子たちも知っていたから、ただ完全にあきらめるしかなかったのであった。
班長が牢名主然と構えて、下級生を顎で使うのは男子である。その命令は絶対的だった。
戦争中の訓練主義教育が必要以上に子どもたちのうえに覆いかぶさっていたことは否めない事実でもあった。われわれは子どもの精神衛生面を重要視できなかったということが、決定的な落度といわなければならないのではなかったか。
これほどの事実が子ども同士の間でおこなわれていたということを、現地にあって、学童補導の任にあたっていたわれわれがまったく気づかずにいたとは、じつにうかつな話で、たとえそれがあらゆる手段で隠蔽されていたとしても、知らなかったとして、済むものではない。まことに申訳ないことをしたものである。>
しかし先生が<強い皇国民の錬成に熱心で、体罰は日常化し、子どもたちに弱音を吐くことを許さなかった>存在だったにしては、非当事者のような観察となっている。いじめに気づいていながら、軍隊式に強くなるための試練・訓練の類だぐらいに思っていたのではないだろうか。
軍国主義がはびこり、天皇の兵隊が自分たちは絶対正しいといった何様態度で我が物顔にのさばっていた社会の風潮が教師の生徒に対する体罰や子供たちの上下関係にまで影響していたということだろう。
このようないじめ状況は安部首相が小沢民主党代表と党首討論を行ったときに戦前の日本について発言した「大家族で地域がみんな顔見知りで、子供たちを家族で、地域で教育していく仕組みがあった」とする親近的で懐の深い地域性が子供に対する教育効果に何ら有効ではなかったことを物語っていて、そういった地域の関係は結果としてあってもなきが如し、あるいはタテマエだけのことで無意味化し、あったとするのは歴史の捏造に相当しないはずはない。
それとも「みんな顔見知り」の間のみに有効な限定条件付の地域性だとでも言うのだろうか。とすると日本人が外国人、特に有色人種に対して持つ差別的な忌避感はそのような限定つき地域性が反映した他処者扱いなのだなと頷けもするが、まるきりの限定つきで日本全体の価値としてあった地域性ではなかったとすると、一国の首相が国会でさも日本の全体性としてある地域性であるかのように声を強く主張し、訴えること自体が歴史の捏造に当たることになる。
いわば安部晋三は二重にも三重にも歴史の捏造を犯す歴史捏造の常習者となっている。当然、戦後日本を批判して「経済は成長したが、価値の基準を損得だけにおいてきた」とする価値否定にしても、「損得を超える価値、例えば家族の価値、地域を大切にし、国を愛する気持ち、公共の精神、道徳」といった戦前の価値自体が少なくとも日本社会全体を覆って存在せず、戦前の日本に於いても「価値の基準を損得だけにおいてきた」のだから、戦前はあったとして「子供たちに教える必要がある」とするのは砂上の楼閣を築くに等しい幻想で終わるだろう。
法律はいくらでも美しい文字を連ねて作り上げることができるが、内容に込めた目指すべき理想を現実社会に如何に運用・反映させて、社会の利益として結実させるかが唯一重要な最終目的であることを無視して、単に法律を改正したばかりの先行き不透明な段階であるにも関わらず、いわば砂上の楼閣化しかねかねない段階で、どの首相も成し遂げることができなかった教育基本法改正を自分が首相になって成し遂げたといったふうに声を上げて自画自賛の胸を張ったが、成果を見ないうちからの成果を誇る早トチリがどうも砂上の楼閣化を占っているように思えてならない。
7年前の2000年森政権下の「教育改革国民会議」がどのくらいの雁首とカネをかけたか知らないが、砂上の楼閣に終わったからこその安部政権の「教育再生会議」があるのだろう。森が砂上の楼閣に終わって、安部が終わらない保証などどこにもない。結果を見ないでまだ条文を変えただけの段階に過ぎない教育基本法を改正したと胸を張っているようでは、森以上に砂上楼閣化の可能性の確率は高いのではないのか。
一柳恵子なる女性が≪「いじめ」は昔からありました - OhmyNews:オーマイニュース “市民みんなが記者だ”≫の中で、安部首相と同じ線上にある歴史捏造を扱って疎開先のいじめについて語っている。
<テレビを見ていたら、小説家で僧侶でもある瀬戸内寂聴氏が現代のいじめ問題に言及して、「私たちの子供のころにはいじめはなかった」と発言していた。私は、著名文化人としてはきわめて無責任な発言だと思う。
戦前は、牧歌的な時代だったから、子供ものんびりしていたとの理解が氏にはあるようだが、「いじめはなかった」というのは、氏の個人的な体験をいっているに過ぎず、綿密な教育学的統計調査に基づいた見解ではないだろう。
私の叔母は、戦時中、学童疎開をした体験があるが、地元の子供から、極めて陰湿ないじめを受けたと聞いたことがある。背中にがまがえるを突っ込まれたり、漆の枝をつかまされて肌をかぶれさせられたり。>
「私たちの子供のころにはいじめはなかった」――テレビに出たり、新聞に記事を書く著名人が時代による陰湿性の度合いの違いや感受性の個人差を無視して、「昔は今みたいな陰湿ないじめはなかった」といじめを一緒くたに扱うことで過去のいじめの否定、もしくは無化を通して過去をよき時代とする時代美化論からの発言であろう。
瀬戸内寂聴が成長の段階で第三者のいじめ体験を知識としていなかったわけではないだろうが、「子供のころ」の時代を美化する正当化操作によって、そのような時代の空気を吸って成長した現在の自己が「子供のころ」から一貫して変わらない善なる存在だと見せたい人間なら誰でも持っている無意識の自己利害からの自己美化衝動が自己に都合の悪い事実を記憶から排除させてしまっているのだろう。勿論過去の時代の実際の姿を自分に都合よく変える美化は人にウソを伝える歴史の捏造に入らないわけはない。
安部晋三が戦後生まれであるにも関わらず、戦前の日本を美化・肯定し、戦後日本を否定・排斥するのは、日本民族自体の正当化を図る美化操作であって、戦後を否定する比較対照で戦前と一貫性を持たせたいがための歴史捏造であろう。そしてその先にあるのが「戦後レジームからの脱却」なる戦前との一体化・一貫性なのは言うまでもない。日本人の内実性に於いて戦前と何ら変わらない戦後を否定しようとする「戦後レジームからの脱却」が歴史捏造の上に歴史捏造を重ねる新たな歴史捏造というわけである。