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高市早苗の夫婦別姓をパスポートの旧氏併記要件大幅緩和等通称使用機会確保で解決可とするお花畑なノー天気

2025-04-09 05:02:11 | 政治

 自己同一性(アイデンティティ)とは、自分は自分であるという個性面・人格面での独自性、生き方の独自性を指す。

 物心つくと、生まれたときからの名字と名前に基づいて自分は自分であるということを意識ながら行動し、生きていくことになるから、ほかの誰でもない、自分は自分であるという独自性を意識したり、確認したりする際には名字と名前を拠り所とすることになり、名字と名前が自分は自分であることとイコールを成すことになる。

 結果、自分は自分であるという個性面・人格面での独自性、生き方の独自性を示す自己同一性(アイデンティティ)は名字と名前と一体となって付いて回ることになり、それ程にも名字と名前と自己同一性(アイデンティティ)は密接な関係を持つことになる。

 自分の生き方を大切にして自らの個性面・人格面での独自性を培いつつ自らの足跡を築いてきた女性、もしくは男性それぞれの自己同一性はその人の生き方の核心的な本質部分を占めることになるが、名字と名前によって切っても切れない一体性を取っているにも関わらず、結婚後にその主たる一部である名字を手放し、別の名字を名乗ることはそれまでの名字と名前を背景として築いてきた自己同一性との一体性を断絶させることを意味し、この断絶は従来の名字と名前に紐付けて培ってきた生き方の独自性としての自己同一性であるがゆえに新しい名字で紐付け直すことは生き方の歴史を塗り替えるに等しく極めて困難で、それ程にも存在の本質部分に食い込んでいる一体性と見なければならない。

 当然、結婚後、名字を変えたとしても、旧姓を通称使用することで何ら心理的な抵抗もなく夫婦別姓の代替策としうると考え、夫婦別姓に強硬に反対する集団は生まれたときからの名字と名前を維持することでしか守ることができないことの、その一体性としてある本質的な存在性、本人独自の自己同一性(アイデンティティ)を理解する頭を持っていないことになる。

 その集団の代表格が自由民主党高市早苗で、2025年4月号「月刊正論」に寄稿の『夫婦別姓不要論 通称使用でなぜいけない』から、その無理解の程度を見てみる。

 先ず、〈自民党は、戸籍のファミリー・ネームは守った上で、婚姻により戸籍氏が変更になった場合にも社会生活において不便を感じないよう、旧氏を通称使用できる機会を拡大するため、長年にわたって努力を続けてきました。〉と主張、夫婦同姓の統一された名字のみを「ファミリー・ネーム」と決めつけ、夫婦別姓の異なる名字を「ファミリー・ネーム」から除外している。

 例え名字を異にしても、夫婦別姓の当事者からしたら、それぞれの名字が「ファミリー・ネーム」であり、「ファミリー・ネーム」とすることになる事実に理解が追いついていない。

 さらに2015年の最高裁判決の趣旨に基づいて夫婦同氏制度を定める民法750条の規定を「合憲」と判断した2021年6月23日の最高裁判断を持ち出して同姓制度の正当性を、いわば別姓制度の不当性を主張しているが、高市早苗は自身のサイトの「Column」で、〈夫婦同氏制度は、旧民法の施行された明治31年に我が国の法制度として採用され、我が国の社会に定着してきたもの――〉、いわばその歴史的伝統とそれを背景とした社会への定着に価値観を置き、家族の呼称としての一つの氏に意義を与えているが、その意義は戦後民主化された日本国憲法第24条の、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」の規定を背景とした戦後民法750条「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」とした同姓制度とは全く違い、明治31年(1898)旧民法第750条の規定、「家族カ婚姻又ハ養子縁組ヲ為スニハ戸主ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス」とした封建的家父長制に基づいた746条「戸主及ヒ家族ハ其家ノ氏ヲ称ス」の規定、同姓制度であって、同じ同姓制度であっても、個人の人権とは無縁の封建色で成り立たせた後者を歴史的伝統と社会への定着を要件とした同姓制度として絶対視し、別姓制度を排除しようとするのは戦後の男女を問わない時代的な基本的人権の保障や女性の権利向上の一般化を一切歯牙に掛けない論法であって、高市早苗の同姓制度論とそれに対応させた通称使用機会拡大策は時代錯誤に過ぎないことを露わにすることになる。

 最高裁の民法750条の規定に対する合憲判断は基本的には現憲法の第24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立する」とした規定と、現民法の750条「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」とした規定を規定通りに忠実に解釈すると、合憲となると言うことであって、昨今の女性の個の独自性を求める生き方の少なくない多数者の存在を考慮した場合、日本国憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される」対象とされるべき権利を有している関係からして、夫婦別姓の合憲化は時代の趨勢と見なければならないだろう。

 だが、高市早苗は個人の権利よりも封建的な家父長制を骨格とした明治以来の伝統に拘り、氏の統一の死守に執念を燃やす復古主義に陥っていることに気づかない。復古主義を満足させる主たる方法の一つが通称使用の法的認可の広範囲化なのは周知の事実となっている。

 要するに高市早苗は時代の趨勢から取り残された存在だが、保守主義の政治的権力によってのさばりを辛うじて得ている。

 以下、高市早苗の「夫婦別姓不要論…」から通称使用機会の拡大策を見てみる。

 〈2019年11月5日には、「住民基本台帳法施行令」の改正(政令改正)の施行により、「住民票」と「マイナンバーカード」に戸籍氏と旧氏が併記できるようになりました。〉――

 〈その後、「旧氏記載が可能であることが明示されていない法令等」のうち「総務省が単独で措置きるもの」については、全てを旧氏の単記(331件)か併記(811件)で対応できるようにしました。2020年6月までに「新たに旧氏記載可能とする」旨を通知・周知したものは、合計1142件でした。〉――

 〈仮に全府省庁が総務省と同じ取組みを実施して下さったなら、少なくとも国の法令等に基づく氏名記載については、全て旧氏記載が可能になるはずです。〉――

 以上、総務省の所管か、関わりがある関係から、高市早苗自身の通称使用機会拡大の執念からの職権を利用した、と言って悪ければ、活用した、夫婦別姓の阻止を狙いとした旧氏記載の自由選択に向けた画策の様々となっている。

 そのほかに、〈2021年4月から、外務省が「旅券(パスポート)」の旧氏併記要件の大幅緩和を行うとともに、旧氏を渡航先当局に対してわかりやすく示すため、旧氏に「Former surname」(旧姓)との説明書きを追記しました。〉、〈既に、本人証明や各種手続に必要な「住民票」「マイナンバーカード」「パスポート」「運転免許証」「印鑑登録証明書」では、旧氏併記が可能になっています。〉、あるいは、〈2024年5月31日時点で、320の「国家資格免許等」の全てで旧氏使用が可能となっています。「資格取得時から旧氏使用ができるもの」が317件、「資格取得後に改氏した場合は、旧氏使用ができるもの」が3件ですから、旧氏が使用できないものはゼロ件です。〉等々、旧氏使用の縛りの少なさを盛んに主張しているが、名字と名前と一体とさせて本人それぞれに確立することになったそれぞれに独自な自己同一性がそれぞれの本質的な存在性と結びつくことになっていることに目を向けることができないままの、単なる便宜性の提供で終わっていることにすら気づかない高市早苗の旧姓使用の執着となっている。

 高市早苗が思想的に自らも封建的体質を抱えているのは目に見えていて、戦前の封建時代の日本の家族制度を伝統とすることから抜けきれずにその伝統を戦後の民主化され、基本的人権が普遍的な価値とされるに至った社会に持ち込もうとしている、その時代錯誤は救い難い。

 多分、高市早苗の頭の中は明治から敗戦までの一世紀弱の間に伝統とするに至った、封建主義に色づいた様々な制度が彩りも鮮やかなお花畑となって咲き誇っているのかもしれない。

 選択的夫婦別姓反対派が最大の反対理由としている「子の氏の安定性」を高市早苗も勿論、取り上げている。

 〈私が選択的であったとしても「夫婦別氏制度」の導入に慎重な姿勢を続けてきた最大の理由は、「子の氏の安定性」が損なわれる可能性があると思うからです。〉――

 「慎重な姿勢」とは白々しい。

 出生直後の子の氏を争うとか、争った結果、〈「戸籍法」が規定する「出生の届出は十四日以内」には間に合わない可能性〉をあげつらい、〈長期にわたって「無戸籍児」になる〉可能性を指摘したり、〈「夫婦の氏が違うことによる子への影響」に関して、69%の方が悪影響を懸念しておられることも内閣府の世論調査から読み取れます。〉等々、夫婦別姓の最悪面を並べ立てている。

 夫婦別姓反対派が騒ぎ立てる程に子の氏の一方の親との違いは家庭の秩序を乱す要素を孕む問題点としなければならないのだろうか。当方は父親と母親が子に対して父親の姓を継がせるのか、母親の姓を継がせるのかは些かも重要な事柄だとは捉えていない。

 なぜなら、子は父親の姓を継ごうが、母親の姓を継ごうが、与えられた姓と名前を自分自身の姓と名前として当初は意識しないままに自我を形成していき、自己同一性(アイデンティティ)の確立に向かうのだから、子どもにとって基本的にはどちらの名字であっても構わないからである。

 もし物心ついてから、「お父さんとお母さんはなぜ名字が違うの。僕の(あるいは私の)名字はお父さんと一緒だけど、お母さんと違うのはなぜ?」、あるいは、「お母さんと一緒だけど、お父さんと違うのはなぜ?」と聞いてきたら、「お父さんとお母さんは生まれたときから付いていた名字をそのまま使う結婚生活を選んだの。その場合は生まれた子どもはお父さんの名字かお母さんの名字か、どちらかの名字にしなければならないから、お父さんの名字に(あるいはお母さんの名字に)した。あなたにはタケシという名前をつけたから、お父さんの名字と(あるいはお母さんの名字と)タケシという名前があなた自身ということになるの。

 名前をタケシと付けたけど、ヒロシと付けたとしても、お父さんかお母さんのどちらかの名字とヒロシという名前があなた自身をということになるのだから、どのような名字と名前が付けられとしても、付けられた名字と名前があなた自身となることに変わりはない。お母さんと(あるいはお父さんと)名字が違っても、あなたはあなたの名字と名前で自分として生活していくことになると言うことが一番大切なことなの」

 即座に全てを理解できないことは分かっているが、自分から問いかけた"なぜ"であるなら、その"なぜ"は解けなければ解けないままに母親の(あるいは父親の)言葉としてぼんやりとではあっても、頭に記憶の形で残ることになり、世の中のことを学んでいくうちにその"なぜ"を解いていくことになるだろうし、自らに与えられた名字と名前を持った自分という人間の生き方が大切なことは学ばなければならないだろうし、特に学校の先生が教えて、子どもたちに身に付けさせなければならない知識としなければならないだろう。

 学び、知識とするより良い方法は、例えば山田太郎が本人の名字と名前であるなら、「あなたは山田太郎という一人の人間なの」とか、「あなたは山田太郎という名字と名前を持った一人の人間として生活し、生きているの」等々、何々という名字と名前をつけた一人の人間であることを幼い頃から自覚するよう仕向けることだろう。

 このような自覚への仕向けが与えられた自分の名字と名前を一体とさせた一人の人間として、あるいは一個の存在、一個の人格として行動するよう促され、このことが自律心(あるいは自立心)を育むキッカケとなるばかりか、自分は自分であるという自らの自己同一性(アイデンティティ)を確立していく基礎となるはずである。

 要するに誰の名字を与えられたとしても、与えられた名字と名前が自分は自分であることのベースとなり、与えられた名字と名前をベースとした自分は自分であるという思い・意識が自我確立のエネルギーとなって、自己同一性(アイデンティティ)の確立を促す力となる。

 生きていく過程で誰かの名字と自分の名前が自分自身に付いて回るのではなく、与えられた自分の名字と名前がついて回るのだから、元は母親の名字であっても、父親の名字であっても構わないわけで、誰の名字であっても、それを如何に自分の名字とし、自分の名前と一体化させて、
自分は自分であることのベースとしうるかを肝心なこととしなければならない。

 以上の考えからすると、高市早苗が言う、出生直後の子の氏を争うだ、14日以内に出生届ができなければ、長期に亘って無戸籍になる等々、無意味そのものとなる。

 高市早苗は「いろいろな考え方がありますが」と断りながら、〈平成8年の法制審議会の答申では、結婚の際に、あらかじめ子どもが名乗るべき氏を決めておくという考え方が採用されており、子どもが複数いるときは、子どもは全員同じ氏を名乗ることとされています。〉と述べているが、あくまでも答申であって、法制化されたわけではない。

 複数の子どもに対しては父親の名字、母親の名字、それぞれに選択は自由とすれば、別姓夫婦で第一子は男親の姓を、あるいは女親の姓にすると決めておいて、第二子を設けた場合は最初が男親の姓なら、第2子は女親の姓、最初が女親の姓なら、第2子は男親の姓と平等を旨に決めておけば、名字の継続を平等にしたい思いから第2子まで出産する事例が出てくることは否定できず、少子化の僅かな解消に役立つ可能性に向かう。

 高市早苗はまた、平成8年の法制審議会の答申では別姓夫婦の未成年の子どもが与えられたどちらかの親の名字を変えたくなった場合は、「特別の事情の存在と家庭裁判所の許可が必要とされる」として、子の姓の付け方には難しい点があることを、殊更なのか、書き連ねているが、与えられた名字と名前で如何に自分が自分であろうとすることができるかが本質的な問題であって、このことは同姓夫婦の子どもであっても変わらない問題であり、高市早苗の"通称使用論"は最初から最後まで本質的な問題点から大きくズレた、それゆえに些末な主張で成り立たせた、通称使用で代替させることを狙った「夫婦別姓不要論」に過ぎない。

 女性の地位の向上を言うなら、全ての人間が生まれながらに持っている、人間らしく生きるために必要な権利の保障を言うなら、選択夫婦別姓制度は法制化される時代に入っていなければならない。高市早苗はカビ臭い旧時代の空気を吸って息をしている人間に過ぎない。
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世耕弘成の政倫審虚偽証言と弁明に於ける現金還付違法性を知っていたのに知らなかったことと強調の逆説手法

2025-04-01 07:23:07 | 政治

 2025年3月28日付「NHK NEWS WEB」記事が、同3月28日に自民と立憲の幹部が政治とカネの問題を巡って自民党旧安倍派幹部の世耕弘成前参議院幹事長の参考人招致を行う必要があるとの認識で一致、それを受けて参議院予算委員会が世耕弘成の参考人招致を全会一致で議決したと伝えていた。

 本来なら、参議院自公与党反対多数で否決されるのだが、昨2024年10月の衆議院選での与党過半数割れが安倍派政治資金パーティーの裏ガネ疑惑が主として招いた結末であり、今年2025年3月からの衆参政倫審で安倍派疑惑幹部が真相追及を受ける証言に立ったものの、真相解明には程遠く、却って疑惑を深めることになり、今夏の参議院選挙で衆院選の二の舞いとなって降りかかる逆風を恐れ、それを避けるために止むを得ず疑惑解明の積極的な姿勢を見せる必要性からの自公与党も賛成の全会一致ということなのは誰の目にも明らかであろう。

 いわば自公与党側にしたら、議席を守りたいがための背に腹は変えられない全会一致といったところなのだろう。

 世耕弘成の参考人出席は任意だが、世耕弘成には断る理由はない。政倫審の弁明で、「公式機関である東京地検特徴部が多大な人員と時間を割いて、多数の関係者から事情聴取を行い、関係先を捜索するなどして徹底調査された結果、法と証拠に基づいて私については不起訴嫌疑なしと判断をされたわけであります」と、内心、胸を張ってだろう、自らの潔白を宣言し、自民党佐藤正久の生ぬるい追及に対しては、「これは刑事的には私は不起訴、嫌疑なしですから、真っ白なわけでありますけれども」と主張、この「真っ白」の心境を言い換えると、恐いものなしということになるはずだから、何度参考人招致を要請されても、要請されるたびに正々堂々とした態度で身の潔白を訴えるはずだ。

 安倍派幹部西村康稔、塩谷立、下村博文、世耕弘成の4人が出席した2022年4月の安倍晋三出席の会合で安倍晋三が申し渡した、安倍派政治資金パーティーでの派閥所属議員に課したノルマを超えた売り上げ分の現金還付中止について2024年3月1日政倫審で自民党の武藤容治に対する答弁の中で西村康稔は次のように証言している
 
 「(安倍会長から)現金は不透明で疑念を生じかねないから、こうして現金の還付はやめると、まあ、還付そのものをやめるということで、我々方針を決めて対応したわけであります」――

 要するに安倍晋三はノルマを超えた分の現金還付は、「不透明で疑念を生じかねない」性格のものだという理由付けで中止を指示した。透明そのもので、疑念を受けるような筋合いのものではないなら、中止する必要性は生じない。

 例え世耕弘成の収支報告書不記載が嫌疑なしの真っ白だったとしても、現金還付を真っ白とすることはできないことを意味させていることになる。つまり還付現金の収支報告書不記載を未知の事実、全く知らなかったことだとしていたとしても、少なくとも真っ白とは言えない違法性を臭わしたと受け止めなければならない。

 このことは4月の会合に出席していた西村康稔のみならず、その場に居合わせた塩谷立も、下村博文も、世耕弘成も、その時点で現金還付の違法性を既知の事実としていなかったとしても、現金還付そのものは真っ白ではないと違法性を暗示されたことをほぼ同じように共通認識としていなければならないことを示すことになる。でなければ、安倍晋三が「現金は不透明で疑念を生じかねないから、こうして現金の還付はやめる」と指示したとする事実を消し飛ばしてしまうことになる。

 要するに安倍派幹部の4人が4人共に現金還付の違法性を既知の事実としていなかったとしたら、安倍晋三が自ら発した"不透明"、"疑念"のキーワードから現金還付はどう真っ白ではないのだろう、どのような違法性の指摘なのだろうかと少なくとも不審の念に駆られることになったはずだ。

 そしてこのことは各幹部のそれぞれの政倫審での証言の中に見えてこなければ、現金還付が真っ白でないこと、違法性が関係していることを既知の事実としていて、それを隠すためにそれぞれが虚偽の証言をしていたということになる。

 念には念を入れる意味で改めて断りを入れる。安倍晋三の現金還付中止指示、「不透明で疑念を生じかねない」は現金還付を真っ白とは扱っていない示唆そのもの――違法性の指摘そのものと受け止めなければならない。

 では、2024年3月14日午前中の参議院政倫審から世耕弘成の2022年4月の会合に関わる証言が現金還付を一切の違法性抜きに真っ白なのものと扱っていたのか、違法性を疑い、真っ白とは扱っていなかったのかを見てみる。前者なら、虚偽の証言を混じえていたことになる。

 日本維新の会の音喜多駿は参院政倫審で世耕弘成に対して「令和4年4月に安倍元首相はキックバックをやめると言ったとき、安倍元首相は違法性の認識を持っていたかどうかお分かりでしょうか」と質問しているが、安倍晋三自身が口にしたとしている"不透明"、"疑念"のキーワードから現金還付を真っ白とは扱っていなかった、違法性を臭わせたと読み解くことができなかったようだ。

 対して4月の会合の場に居合わせていた世耕弘成の答弁。

 世耕弘成「そのミーティングではですね、違法性についての議論は一切行われなかったと思います。先程申し上げましたけれども、安倍会長からですねえ、ノルマ通りの販売にするからというご指示が出た場だというふうに思っています。私はそこで意見を述べるというよりは、参議院側にそのことをしっかり伝達をする役割として呼ばれてるというふうに認識をしておりました」

 「違法性についての議論は一切行われなかったと思います」と言うことは、その場では現金還付は違法でも何でもなく、真っ白だと見ていた。安倍晋三の"不透明"、"疑念"のキーワードから現金還付は決して真っ白ではないことの心証を持つことすらなかった。ただ単に中止指示が出た場に過ぎなかったとしている。

 安倍晋三の"不透明"、"疑念"のキーワードが持つ現金還付制度の性格と世耕弘成自身が受けた心証との矛盾を解くとしたら、世耕弘成の答弁自体を偽証そのものとしなければ整合性は取れないが、ごく自然な当たり前の心証を機能させるべきを機能させることができなかった理由は4月の会合自体が実際には存在しなかった作り事と見るほかない。

 実際に存在した会合なら、安倍晋三が口にした現金還付中止のキーワードから真っ白とは言えない違法性を考慮して、その違法性に終止符を打つべく、現金還付を違法とはならない方法に変えて、若手や中堅議員の政治資金の手当てに役立てると同時に従来の現金還付は4月の会合後に直ちに廃止に(中止ではなく、廃止にである)持っていくべく実行に移していたはずだ。

 ところが安倍派幹部の誰もが一旦は中止したが、誰が決めたのか、従来どおりの違法性を持たせた現金還付が再開されていたなどと無責任丸出しなことを決め込んでいる。4月の会合での安倍晋三の"不透明"、"疑念"の言葉が示した真っ白とは言えない違法性を厳格に考慮すべきを、そうしなかったことになるのだから、この一事を以ってしても、実在した4月の会合とは言えない。

 世耕弘成の還付金の仕組みについての答弁に関しても偽証かどうかを窺ってみる。自民党佐藤正久の質問に答えた世耕弘成の証言。

 「この還付金の仕組みがですね、いつ始まったかこれ本当に分かりません。あの何年前と言えればいいんですけれども、少なくとも10数年前には始まっていたというふうに思います。

 ただ私はですね、若い頃はノルは達成が精一杯だったというふうに思ってますので、その還付金制度っていうものを殆ど意識しないでですね、パーティー権の販売をしてきてました」

 竹谷とし子議員(公明党)「世耕議員が以前はノルマ以上に売れなかったけれども、最近は売れるようになってきたということで、ノルマ以上に自分ご自身が売っている。そして還付金の制度があるということを知っているということは、自分にも還付があったというふうに思うのが、感じるのが普通じゃないでしょうか」

 世耕弘成「いやいや、ですから、還付金があったということ自身はですね、(2022年)11月の報道で明らかになったあと、私は知ったわけであります。還付金はですから、若い頃はそもそも完付金が貰えるような立場になかったので、先程もご説明したように2012年からは私自身、自分で自分の事務所の会計を日々細かくチェックすることができなくなったので、その頃にはもう相当ノルマが上がってきてますから。私は逆にノルマ売れてるのか心配で、一度にはノルマ行けてるかって言ったら大丈夫ですと言われて、それ以降報告がないので、私は自分のとこはノルマ通りに売ってるもんだというふうに、これは結果としては誤った認識ですけれど、認識をしていたわけであります」

 共産党山下芳生に対する答弁。

 世耕弘成「そういう還付金という仕組み、ノルマをオーバーすれば、そのオーバー分を返してもらうという仕組みが、清和会にはあるということは、私は随分前から、ま、10年以上前だと思いますけれども、認識をしておりました。

 でも、それを自分が受け取ってるということはですね、全く思っていなかった。若い頃はノルマ通り売るのが精一杯でしたし、段々勤続年数が長くなった、ポストが上がっていくとノルマもすごく高くなっていく中で事務所の方からノルマ、オーバーしましたという報告がない限りは、ノルマ通り精一杯売ってるんだろうというふうに思っていました。ですから、還付金という仕組みはあること。それを知ってましたが、まさか自分が受け取ってるとは思っていなかった。そして受け取ってると思っていなかったので、その還付金が政治資金収支報告上、どういう処理をされてるかということについては、私自身深く考えることがなかったということであります」

 ノルマを超えた分の現金還付の制度があることは10年以上前から認識していた。但し若い頃はノルマ通り売るのが精一杯だったし、勤続年数の長期化とポスト上昇に応じてノルマとしての売り上げ金額が高くなって、いわばノルマに応じるのが一杯一杯で、還付金をまさか自分が受け取ってるとは思っていなかった。

 この答弁にウソ=偽証を紛れ込ませているかどうか見てみる。

 勤続年数の長期化とポスト上昇に応じてノルマ金額が上がっていったということはノルマを超える売上を長期に亘り十分な実績としていて、その実績がポスト獲得へと貢献する形にもなったことの結果であって、実績としていなければ、ノルマ金額を上げても、それだけが上がって、実績は変わらないというムダな現象を招くだけのことだから、世耕弘成自身のノルマが上がったということは、当然、売り上げ実績に対応した応分の要求であって、「ノルマに応じるのが一杯一杯」は虚偽証言以外の何ものでもないと指摘できる。

 また、売り上げ実績がないままに勤続年数だけが長期に亘ったとしても、派閥に対する貢献度は低く評価されて、人材として特に優秀な部類に入らなければ、派閥を後ろ盾としたポストの獲得は容易ではないだろう。

 さらに言うと、世耕弘成の上記発言は安倍晋三が「現金は不透明で疑念を生じかねないから」とした現金還付の、いわば真っ白ではないという違法性を取り去った扱いをしているのと同じく、ノルマを課す意味をも取り去っている。

 ノルマを課す意味は派閥が所属各議員に勤続年数や役職経験等に応じて要求する貢献の基準と看做していることにあるはずである。各議員側にしても、売り上げの額そのものが派閥に対する貢献の度合いを示すことになる。上昇志向の強い野心ある議員にとってノルマ超えの売り上げに奮闘し、しかもノルマ超えは現金で還付されるから、派閥に対して自分がどれ程に貢献したかが数字で示すことになる上に還付現金を表に出ないカネとして政治活動にも自由に使えることから、一石二鳥としての有り難い価値を持っていただろうし、否応もなしにノルマを大きく超える売り上げに励み、反対給付としての役職の提供を望つつノルマの効用に応える努力を果たしたはずである。

 また、世耕弘成がノルマどおりに売っているに違いないなどと悠長に構えていることができる程度におとなしい上昇志向の持ち主だったなら、安倍派参議院の約40人もいる清風会の会長を2016年から裏ガネ疑惑を受けて2024年2月に解散するまで約7年間も務めてはいないだろうし、2024年の総選挙で参議院からポスト獲得の機会がより多い衆議院に転身して、当選を果たすこともしなかったろう。

 この上昇志向は世耕弘成の2018年から2022年の時効分5年間の収支報告書不記載金額合計1542万円が示すノルマ超えの売上にも現われている。

 いわば世耕弘成はノルマを超える売上げに頑張ってきたのであり、その頑張りは上昇志向の程度そのものの現われでなくてはならないし、上昇志向の数値化がノルマを超えた1542万円という金額そのものとなる。しかも時効分の2018年までの金額だから、それ以前を含めると、相当な金額となり、「段々勤続年数が長くなり、・・・事務所の方からノルマ、オーバーしましたという報告がない限りは、ノルマ通り精一杯売ってるんだろうというふうに思っていました」は明らかに偽証そのものと言える。

 「若い頃はノルマ通り売るのが精一杯だった」としていることも、世耕弘成の家系を見ると、正反対の答しか導き出すことができない。世耕弘成の祖父の世耕弘一が近畿大学創設者であると同時に大臣も務めたことのある衆議院議員であったこと。近畿大学の総長であった伯父の世耕政隆が衆議院議員時代に自治大臣兼国家公安委員会委員長として入閣したこともある政治家であり、世耕弘成自身が世耕政隆の死去に伴う1998年11月の参議院和歌山県選挙区の補欠選挙に自由民主党公認で出馬し、初当選したこと。さらに父親の死去に伴い、2011年9月から就任した近畿大学理事長職が現在まで10年以上に亘っていること等々をベースとした様々な自他の関係性や縁故関係が自ずと築き上げることになったであろう幅広い人脈を考えると、若い頃であっても、パーティ券を売るツテに不自由することは先ず考えにくく、「若い頃はノルマ通り売るのが精一杯だった」は限りなく偽証の疑いが出てくる。

 以上、世耕弘成が政倫審証言で偽証していることとこれらの偽証との関係で4月の会合がデッチ上げとしか見えない様子は質疑に入る前の弁明発言に別の意味解釈を与えることになる。

 その発言をいくつか挙げてみる。

 「私自身は派閥で不記載が行われていることを一切知りませんでした。とは言え、今回の事態が明らかになるまで事務的に続けられてきた誤った慣習を早期に発見・是正できなかったことについては幹部であった一人として責任を痛感しております」

 「今回の事態が明らかになるまで、自分の団体が還付金を受け取っているという意識がなかったため、還付金について深く考えることはありませんでした。

 もっと早く問題意識を持って還付金についてチェックをし、派閥の支出どころか収入としても記載されていないこと、自身の資金管理団体でも収入に計上されていないことに気づいていれば、歴代会長に是正を進言できたはずとの思いであります」

 「私が積極的に還付金問題について調査をし、事務局の誤った処理の是正を進言しておれば、こんなことにはならなかったのにと痛恨の思いであります」

 自身に対する現金還付も還付現金の収支報告書不記載も2022年11月の報道で知ったとしている関係からしたら、前以ってできるはずもないことを、「早期に発見・是正できなかったことについては幹部であった一人として責任を痛感しております」だ、「問題意識を持って還付金についてチェックをしていれば」だ、「収入に計上されていないことに気づいていれば」だ等々、不可能をさも可能であるかのように仮定して、「歴代会長に是正を進言できたはずとの思いであります」と言い切るこのマヤカシは底が知れない。

 特にこの「歴代会長に是正を進言」は4月の会合で安倍晋三が口にしたとしている「現金は不透明で疑念を生じかねない」と中止を指示した現金還付そのものに対して真っ白とは言えない違法性を嗅ぎ取る対応すらしなかったことになるのだから、ヌケヌケとした見せ掛けに過ぎない偽証そのものと断定できる。

 嗅ぎ取るのが人間のごく当たり前の認識であることからすると、嗅ぎ取らなかったこと自体が4月の会合の存在自体の否定材料となる。4月の会合が存在しなかったからこそ、「当たり前の認識が機能するシーンを想定することができなかったということである。

 世耕弘成の弁明でのできないことをできるかのように、あるいはするつもりもないことをしていたかのように仮定するこの物言いは典型的なウソつきがよく使う手で、世耕弘成をウソつきの部類に入れることができるが、これまでに指摘した偽証と4月の会合をデッチ上げと見ると、これらの弁明発言に別の意味解釈を与えなければならないことになる。

 実際には還付現金の収支報告書不記載を前々から知っていたことだが、そのことを隠すために、「気がついていれば」とか、「問題意識を持って還付金についてチェックをしていれば」等々、実際にはできもしなかったし、するつもりもなかったことをできたかのように、していたかのように装う逆説手法の言い回しを用いることで事実知らなかったことだと強調できる利点を持ち、そのことを表面的には成功させている。

 いわば誤魔化しの誤魔化しによって身の潔白の、現金還付も収支報告書に不記載処理されていたことも知らなかったことだとする証明としている。

 誤魔化しの誤魔化しをさらに裏返すと、ノルマ超えの現金が還付されていたことも、その現金が収支報告書上不記載処理されていたことも知っていて、自由に使える裏ガネとして利用していたということになるはずである。
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安倍派幹部は死人に口なしの安倍晋三を利用、4・8月の会合をデッチ上げ、不記載の事実を知らぬこととした

2025-03-13 07:13:16 | 政治


Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 今までの記事では安倍晋三が現金還付を中止したという事実を打つ立てることで、いわば、それを一つの功績として、安倍晋三自身の裏ガネ関与の罪薄めを図るために4月・8月の会合をデッチ上げたと見る内容で書いてきたが、安倍派幹部4人の政倫審証言を読み直して、異なる視点を取り入れ、改めて一つの記事に纏めてみた。

 4月・8月の会合が実際には存在しなかった会合、デッチ上げと見る点は変わりはない。

 4月の会合の出席者は派閥会長の安倍晋三、派閥幹部の衆議院議員西村康稔、同塩谷立、同下村博文、そして参議院議員の世耕弘成、派閥事務局長兼会計責任者の松本淳一郎で、8月の会合の出席者は7月に銃撃死した安倍晋三を除いたそれ以下の同じ5名ということになっている。

 この両会合に出席していた西村康稔は2024年3月1日政倫審で安倍晋三の4月の会合での現金還付中止について自民党の武藤容治に対して次のように答弁している。

 西村康稔「ただ、今思えばですね、事務総長として特に安倍会長がですね、令和4年、22年の4月に現金での還付を行ってる。これをやめるということを言われまして、私もこれはやめようということで、幹部でその方針を決めまして、そして若手議員何人かをリストアップして、電話も致しました。私自身も若手議員にかけ、電話もしてやめるという方針を伝えたところ、伝えたわけであります。

 従って、会長はその時点で何らかのことを知っておられたんだろうというふうに思います。全体のこと、どこまでご理解、把握しておられたのか分かりません。けれども、兎に角、現金は不透明で疑念を生じかねないから、こうして現金の還付はやめると、まあ、還付そのものをやめるということで、我々方針を決めて対応したわけであります」――

 立憲民主党の枝野幸男には次のように答弁している。

 西村康稔「えーと、私の理解、私の認識はですね、安倍元会長は現金で戻す。これは疑義を生じかねない、不透明だと、還付そのものをやめるというふうに意向を示されて、そして先程申し上げたように4月の段階では幹部が手分けをして、所属議員に連絡をいたしました」――

 公明党の輿水恵一には次の答弁。

 西村康稔「安倍総理が、元総理会長がですね、還付を行わないという方針が示されましたので、これを少なくとも令和4年は徹底すればよかった。こうしたことは今となってもう反省することばかりでありますけれども、二度とこうした事態を招かないようにですね、これまで以上に厳格に政治資金の管理、自分自身も行ってまいりたいと思いますし、より透明でクリーンな政治に向けてですね、今回のことを教訓として、是非これまで以上にして参りたいというふうに考えております」

 共産党の塩川鉄也に対して。

 西村康稔「まさに現金での還付は不透明、そして様々な疑念を生じかねないということで、還付そのものをやめるということが安倍会長の意向として示されたわけであります。そのときに何か収支収告書の話をしたわけでもありません。還付そのものが適法なのか違法なのか、そういった議論もしたことはありません」

 西村康稔の4月の会合での安倍晋三の現金還付中止の説明描写は主としてこの程度である。次に4月の会合に出席していた塩谷立の安倍晋三の現金還付中止についての描写を同じ2024年3月1日の日本維新の会の岩谷良平に対する政倫審答弁から見てみる。

 塩谷立「先程も申し上げましたが、あのいわゆる資金の流れというか、透明性をということで、現金はやめようというようなことだったと思います。正確にちょっと私記憶してませんが、そういったことで兎に角還付はやめようということだと思います」

 同じく岩谷良平へのほぼ同じ繰り返しの答弁。

 塩谷立「確かに今申し上げましたように現金あるいは不透明な点だからやめようということで、それ以上の具体的な話は我々した記憶がございません。そういうことで、一応安倍さんの判断で、あの、還付をやめたということでございます」

 塩谷立と共産党の塩川哲也との4月の会合に関する遣り取り。

 塩川哲也「そこで令和4年の会長が出席をしたあの会合についてお尋ねをいたします。4月の会議、8月の会議、それぞれ主な議員の出席をされておられたということで、この4月において会長から還付をやめるという話があったと。

 で、現金の取り引きをやめた方がいい、透明性を高めるために現金をやめた方がいいという話だったということですけれども、一方でお話されておりましたが、若手の資金集めを派閥パーティーで支援をするということは重要だったと。そうであれば、その現金支給をやめても、他の方法で還付する方法を取るっていうことは検討されたのか。例えば口座取引きにするとか、そういうことにはならなかったんですか」

 塩谷立「安倍総理の考え方はやはり還付はやめた方がいいというのが一番のテーマだと思いますんで、あの先ずは他の方法でということはその点では考えませんでした」

 塩川哲也「そうしますと、そもそもその若手に対しての支援というシステムを行われてたとおっしゃっておられるので、そういう意味ではまるっきり還付するものをやめるっていうのは矛盾する話になります。そのものをやめるっていう判断っていうのが安倍会長の元でどういう理由だったのか、 改めてお聞きしたいと思いますか」

 塩谷立「あの、何回も申し上げますが。透明性、あるいは現金でということが問題ではないかということで、還付はやめようということになったわけでございます」

 次は世耕弘成の2024年3月14日午前中に行われた参議院政倫審だが、4月の会合での安倍晋三の現金還付中止の指示に関わる自民党佐藤正久への答弁。

 世耕弘成「安倍会長からは5月に、2022年の5月のパーティーでしたけども、4月上旬に幹部が集められて、ノルマどおりの販売にしたいってことは即ち還付金はやめるというご指示が出ました」

 では最後に下村博文の2024年3月18日に行われた政倫審での4月の会合での安倍晋三の現金還付中止についての日本維新の会岩谷良平に対する答弁。

 下村博文「2022年の4月に安倍会長の国会の事務所に私と塩谷さんとそれから当時西村事務総長、それから世耕参議院幹事長が呼ばれました。そのときに安倍会長の方から還付について現金の還付は不透明だからやめようということと、そのものをやめようという話がありましたが、還付が不記載であるとか、あるいは違法であるとかいう話は全く出ませんでした」

 以上で4月の会合での安倍晋三の現金還付中止の指示に関する安部派幹部の言及は大体、この程度である。

 西村等ほかの幹部が「現金還付中止」とのみ説明していることに対して世耕弘成だけが安倍会長からの指示の形として、「ノルマどおりの販売」だと説明している。要するに今後も従来通りにノルマをつけた売り上げを指示した。

 但し現金還付中止・ノルマどおりの販売は安倍派清和政策研究会という政治団体側の「今後どうするか」の対応であって、所属議員に対する「今後どうするか」の対応に関しては安倍晋三は派閥会長でありながら、何ら触れていないことになるし、会合そのものから抜け落ちていることになる。

 既に上で取り上げているが、共産党の塩川哲也が塩谷立に対して現金還付中止は若手の資金集めを支援するという派閥パーティーの趣旨に、いわば添わないことになるが、口座取引き等の他の方法で還付する方法は検討されたのかと質問したことに対して塩谷立は「安倍総理の考え方は現金還付中止が一番のテーマで、他の方法は考えませんでした」と答弁する形で所属議員に対する「今後どうするか」の対応はなかったと証言していることになる。

 そんな会合が果たして存在するだろうか。自分達の都合だけを伝えて、相手の都合は考えない。トランプならやりかねないが、一般的には想定不能で、4月の会合の存在自体を怪しくさせる。

 西村康稔も弁明で、「(現金還付は)自前で政治資金を調達することが困難な若手議員や中堅議員の政治活動を支援する趣旨から始まったのではないかとされていますが、いつから行われたのかについては承知をしておりません」と述べているし、塩谷立も弁明で、「還付が行われたのは個人でのパーティー開催など、政治資金を自前で調達することが大変な若手や中堅の政治活動を派閥のパーティーを通じて支援するとの趣旨であったように理解しております」と同じことを述べている。

 4月の会合が現金還付の本来の趣旨であるところの若手議員や中堅議員の政治活動支援を置き去りにした安倍晋三の現金還付中止指示と安部派幹部の中止指示の受諾となっていて、派閥会長と派閥幹部がわざわざ顔を揃えて現金還付について話し合う会合にしては常識では考えられない片手落ちのものとなっている。

 安倍晋三の中止理由、"現金還付は不透明で疑義を生じかねない"をクリアして、なおかつ若手議員や中堅議員の政治活動を今後共に派閥の政治資金パーティーを通した支援を継続するとしたら、ノルマ超えの売り上げを例え現金で還付したとしても、寄付や政治活動費名目で収支報告書への記載を指示すれば、それだけでこちらもクリアできるはずだが、そのような手も打たず、現金還付は一旦中止したが、誰の指示か不明で再開されることになったという、4月の会合が事実存在するものなら、その会合を無意味とする無責任な事態を引き起こしたことになるが、幹部としての責任を一切無にしていることになり、このあり得なさから言っても、4月の会合が存在したとすることはできない。

 このことのタネ明かしは現金還付して、還付した現金を収支報告書に何らかの費目を用いて記入するというごくごく常識的な手を打つことになったという筋書きとした場合、安倍晋三の現金還付中止以後、安部派幹部の関与外で現金還付・不記載がいつの間にか再開されていたという、4月と8月の会合を使ったストーリーは成り立たなくなるだけではなく、このストーリーの不成立は現実には現金還付と不記載が延々と続けられていて、途中一旦停止も、一旦停止に伴う再開というプロセスも存在しなかったこと、当然、4月と8月の会合も存在しなかったことを逆に証明することになるからとしか、答は出てこない。

 当然、安倍派幹部たちの政倫審証言のみで成り立たせている、4月の会合を利用した「不記載の話はなかった」としている自分たちの不記載無関与説にしても成り立たなくなり、結局は安倍晋三の死人に口なしを利用したことが露見することになる。

 そもそもからして自前での政治資金調達困難な若手議員や中堅議員が安倍派清和会政治資金パーティーの売り上げに自らの政治資金調達を頼る理由は清和政策研究会の名前は、特に安倍派清和政策研究会の名前は日本では一大ブランドとなっているからだろう。若手議員や中堅議員にとっては議員個人の政治資金集めパーティーでは売り上げに苦労しても、派閥の政治資金パーティーではそのブランド力ゆえに購入する企業が多くて、結果、ノルマ超えの売り上げが比較的容易で、その分、自らの政治資金にプラスされることになる。

 当然、現金還付の中止に伴って、若手議員や中堅議員の政治資金集め支援を今後どうするかの議論は是非とも欠かすことができない4月の会合となるが、現金還付と不記載がいつの間にか再開されたというストーリー仕立てを優先させる必要上、今後どうするかのルールを厳格に決めたというストーリーにすることはできなかった。

 つまり4月の会合も8月の会合も拵え事に過ぎないことを露見することになる

 次の点、8月の会合で「ノルマを超えて売り上げた若手議員等から返して欲しいという声が挙がった」理由を4月の会合の現金還付中止指示の前に、いわば還付中止指示を知らずに売り出していたからだと、幹部の全員がほぼ同じことを答弁しているが、ここからも矛盾を見い出すことができる。

 先ず最も理解できる答弁として立憲蓮舫に対する世耕弘成と塩谷立の日本維新の会岩谷良平に対する二例を挙げてみる。

 世耕弘成「5月のパーティーを、ま、4月にノルマ通りという指示が出ていますから、売ってしまった人もいるので、そういう人はやっぱり政治活動の資金として当てにしている面もあるんで、何らかの形で返すべきではないかという意見も出ました」

 塩谷立「パーティーは1月から2月頃から売り始めていますので、多くの人がもう売ってしまったという状況の中で、8月に売った分を是非お願いしたいという声が出てきたというふうに私は理解をしております」

 ここで問題となるのは売りに出した時期ではなく、派閥事務局への入金時期であろう。4月と8月の会合に共に出席していなかった同じ安部派幹部の高木毅は2024年3月1日の衆院政倫審の弁明の中で、「私の事務所では、清和研のパーティー券代金専用の銀行口座を開設し、基本的に購入者の方にはその口座に振り込み入金して頂くという形で売上金を管理しており、パーティーが終わった段階で口座から引き出した現金を清和研事務局に持参して全額を収めるという運用をしていました」と述べていて、派閥への入金はパーティー終了後となっているが、手違いとか、失念していたとかの理由でパーティー前日、あるいはパーティー当日ギリギリに入金される例もあるだろうし、あるいは売り手側の人情としては開催日寸前になっても売れることを期待して、その日まで待つこともあるはずで、派閥への入金はパーティー終了後が一般的であることは予想がつく。

 だが、幹部の誰もが返して欲しいと申し出た議員は4月の現金還付中止の指示前にパーティ券を売りに出して、ノルマ以上に売ってしまった結果のこととしているが、派閥事務局への入金時期には誰一人触れていない。

 入金時期が現金還付中止の指示を出した4月の会合以前ということはあり得ないことで、5月のパーティー開催日前後と考えると、4月の現金還付中止の指示が出たが事実と仮定したとしても、4月の会合後となるはずで、それでもノルマを超えた分の売り上げを返して欲しいという声が挙がるのは従来のままノルマ付けの販売を求め、ノルマを超えたとしても、これまでは行なってきた超過分の現金還付方式はやめ、いわば安倍晋三の指示通りに現金還付を中止し、ノルマ超えだろうと何だろうと全額入金を求める、いわば、"やらずボッタクリ"式の"ノルマどおり"だったことになる。

 それを受け入れるかどうかは議員の立場に応じて違いが出るはずである。人事や待遇で見返りを求めているなら、そのための投資と考えて、"やらずボッタクリ"に仕方なく応じるだろうし、派閥議員としての役目として義務的に行なっているだけのことだったなら、中抜きするなりして、自ら"やらずボッタクリ"を免れる手を打つ議員も存在するはずである。

 ところが、ノルマを超えた売った若手や中堅の全てが返して欲しいと声を挙げたかのような印象操作を行なっている。8月の会合を事実あったこととするためのストーリー作りでなければ、このような印象操作はできない

 この事実を裏返しすると、8月の会合など、存在しなかったということである。

 根拠はほかにもある。安倍晋三は4月の会合で、"現金還付は不透明で疑義を生じかねない"を中止の理由としていた。だが、幹部の誰一人、この言葉から、現金還付の違法性も合法性も一切嗅ぎ取ることをしていない。人間としての当たり前の感覚を麻痺状態にして出席していたと見るほかない。

 西村康稔の立憲枝野幸男に対する答弁。文飾は当方。
 
 西村康稔「(現金還付中止の)方針をずっと継続をして、5月のパーティーを開くわけですが、7月で安倍さんが撃たれて亡くなられた後、返して欲しいという声が出始めて、8月の上旬に集まったと。その段階で、繰り返しなる部分もありますが、還付は行わないと。

 しかし返してほしいという声にどう対応するかということで、色んな意見がなされたわけであります。で、その時点でこの還付が適法であるとか、違法であるとか、この法的な性格について何か議論したことはありませんし、収支報告書についても話はしておりません

 西村康稔の共産党塩川鉄也に対する答弁。

 西村康稔「まさに現金での還付は不透明、そして様々な疑念を生じかねないということで、還付そのものをやめるということが安倍会長の意向として示されたわけであります。そのときに何か収支収告書の話をしたわけでもありません。還付そのものが適法なのか違法なのか、そういった議論もしたことはありません

 塩谷立の立憲寺田学に対する答弁。

 塩谷立「私も真実を申し上げてますが、その(不記載の)話は出ませんでした。今までもその不記載のことが話題になったこともありません

 同じく立憲寺田学に対する答弁。

 塩谷立「その時点で多分、法令違反とかそういうことですから、我々はそのことは話はしなくて、ただ還付をやめようということで、それを行ったわけでして、その点では我々は別に嘘ついてるわけではなく、事実も今私してるところであります。だから会長は直そうとしたんでしょ」

 日本維新の会岩谷良平に対する答弁。

 塩谷立「確かに今申し上げましたように現金あるいは不透明な点だからやめようということで、それ以上の具体的な話は我々した記憶がございません。そういうことで、一応安倍さんの判断で、あの還付をやめたということでございます」

 塩谷立の公明党中川康洋に対する答弁。

 塩谷立「あの先程来申し上げておりますが、不記載についての話は一切出ておりません。そして、私もあの不記載についてもそれまで、今日今回この問題は起きるまで全く知りませんでしたので、その点で仮に不記載の話が出ればですね、当然、そのことを議論して何らかの対応していたと思っております

 2024年3月14日参院政倫審世耕弘成の立憲蓮舫に対する答弁。

 世耕弘成「(8月の会合で出たとしている、ノルマ超え分を議員個人のパーティーに上乗せして還付するという案について)誰が言ったか記憶ありません。で、違法性の認識は全くありません。私は上乗せなんていう案は出てないと思っています」

 世耕弘成の日本維新の会音喜多駿に対する答弁。

 世耕弘成「(4月の)そのミーティングではですね、違法性についての議論は一切行われなかったと思います。先程申し上げましたけれども、安倍会長からですねえ、ノルマ通りの販売にするからというご指示が出た場だというふうに思っています。私はそこで意見を述べるというよりは、参議院側にそのことをしっかり伝達をする役割として呼ばれてるというふうに認識をしておりました」

 世耕弘成の同じく日本維新の会音喜多駿に対する答弁。

 世耕弘成「(4月の会合は)ただ、ここはもう話し合いとか違法性を議論する場ではなくて、ノルマ通りの販売とするという指示が伝達された。そういう場だったというふうに思っています」
 
 既に取り上げているが、2024年3月18日衆院政倫審下村博文の日本維新の会岩谷良平に対する答弁。

 下村博文「2022年の4月に安倍会長の国会の事務所に私と塩谷さんとそれから当時西村事務総長、それから世耕参議院幹事長が呼ばれました。そのときに安倍会長の方から還付について現金の還付は不透明だからやめようということと、そのものをやめようという話がありましたが、還付が不記載であるとか、あるいは違法であるとかいう話は全く出ませんでした

 下村博文の同じく日本維新の会岩谷良平に対する答弁。

 下村博文「私自身も同時にそのときに地元でも、あるいは選挙区以外でも、個人の資金集めパーティーをしておりましたから、安倍会長からそのとき(現金還付中止の話が)あったときに、それは私自身は当然だろうというふうに思っておりましたので、還付そのものが不記載であるとか、違法であるとかいう話も出てませんし、私もそういうふうに認識したわけではありません

 要するに4月の会合で安倍晋三から現金還付中止の指示があった際、不記載とか、違法性とかの話が直接出なかったから、安部派幹部の誰もが不記載であったことや、その違法性を全く知らずにいた。

 と言うことは、安倍晋三の"現金還付は不透明で疑義を生じかねない"の文言から、どのような意味・解釈を付け加えることも、如何なる認識を働かせることもなく、どういったことなのか、尋ね返す気持ちも起きず、その文言を文言のままに、いわば無色透明な状態で受け取ったことになる。世間の善悪をまだ弁えない幼い子どもが大人の言うことを理解もできずにただ「ウン、ウン」と頷くに似た様子を幹部4人は安倍晋三に見せたことになる。

 だが、各幹部共に議員歴が長く、政治の世界の裏も表も知り尽くしているだろうし、海千山千の性格部分も抱えているはずだから、安倍晋三の"現金還付は不透明で疑義を生じかねない"の言葉が持つ意味内容を無色透明にしてしまうことなどできようはずはなく、できないことを平気でしているのだから、4月の会合を存在したこととすることはできない。

 例え不記載であることを承知していなかったとしても、あれ、これはどういうことなのだろうと疑問に思う気持ちが起きていいはずで、そこから合法性・違法性、いずれなのかを見極めようとする判断が働いていくものだが、それさえもなく、いわば意味のない言葉としてのみ虚心坦懐に耳に受け止めたように見える。

 世耕弘成は「ノルマ通りの販売とするという指示が伝達された。そういう場だった」と言っているが、現金還付中止の指示に対して当たり前の常識や感覚の持主なら自然と働かせることになる、"なぜ"という思いも働かなかったようで、人間存在として極めて不自然なこの形式いは4月の会合を現実には存在しなかった作り事としない限り、釣り合いは取れない。

 カラクリはこういうことでなければならない。現金還付を中止する理由を拵えるためにはある程度違法性を装わせなければならない。装わせたとしても、即政治生命に関わることだから、その違法性に対して自分達の関与を認めることはできない。この矛盾を解消するために常識ある人間なら持ち合わせているはずの善悪の判断力を鈍らせた状態に持っていき、現金還付が正しい行為なら使われるはずもない、"不透明"、"疑義"なる単語を敢えて無色透明な響きに変えることになった。結果、自分達を常識的な認知機能さえ持ち合わせていないリアリティを備えていない人間に見せることになった。

 人間として非現実的なこのような存在形式に関わる設定は安倍晋三から現金還付中止の指示が出た、我々はそれを受けて、各議員に連絡した、その際、違法性について議論もされなかったし、不記載の話も出なかった、それゆえに我々は現金還付の違法性も、不記載処理されていることも知らずにいたことにしようと幹部間で申し合わせた作り話――デッチ上げであることを否応もなしに逆証明することになる。

 全員が重度の認知症を患った人間にしか見えない。「不記載であるとか、違法であるとかいう話は出なかった」といくら言おうと、安倍晋三の死人に口なしをいくら利用しようと、4月と8月の会合を事実存在した会合とすることができない以上、不記載を知っていたことの証明としかならない。
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蓮舫を叩く:女だからではない、「私はこの20年、道を作ってきたつもり」は言い過ぎのインスタグラム

2025-03-02 07:32:24 | 政治
 livedoor blog 《八方美人尾木ママのイジメ論を斬るブログby手代木恕之》に、《25/2/27:清和政策研究会事務局長松本純一郎参考人聴取後の安住予算委員長会見文字起こし》を載せました。関心のある方はアクセスしてみて下さい。

 4月8月の安部派幹部の会合が安倍晋三の現金還付・収支報告書不記載の罪を薄めるためのデッチ上げの確信は変わらず、近々、《安倍晋三の「今後どうするか」の対応策検討の跡がない現金還付中止の指示4月会合の不思議》と題したブログをgooブログに載せる予定です。

 《テレビの世界でレポーターやキャスター等を約5年間務め務め、中国に留学し、参議院議員20年務めながら、相も変わらず合論理的思考力を欠いた発言の羅列となっている。》

 《・・・・・・》

Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 2024年7月7日投開票都知事選敗北後の2024年7月13日蓮舫インスタライブの続き、最終回。

 蓮舫「あのね、今回面白かったんだけども、何て言うのかなあ、『あっ、何て言ったらいいんですか』って言われるの。こういうこと平気で言われますと。『お前、まだ子どもは作らへんか』とか言われて、未だにあるんだって、それでまだ結婚しないのかも知れないし、『何て言えばいいんですか』て言われるから、キツイな、こんなにまで踏ん張っている子たちがいるんだってのが凄く分かって、なる程なあ、まだこんなに頑張ってくれる人たちがむしろ働いて、この国を支えている一人がいるってことを誇りに思えない上司って、何か、クソじゃん?

 私、最近言葉がキツイんだけど、『コンチクショウ』とか、今まで公人としてメッチャ言ってはいけない言葉と思ってんだけど」

 長男村田琳「『女性』だからっていう言葉はすごく軟らかい。『シングルマザー』って言葉は・・・」

 蓮舫「『シングル母』って実はまだきつくって、泣きつく先がないんだよ。シングルマザーって、窓口がまだある。だが、その窓口って施しでね、相談しに来い的な行政の。でも、それは違うと思ってて、それはシングルファザーの窓口にしないといけなくって、きっと何か施す場所って福祉で、お前ら相談しに来い的な空気で、未だにまだ残っていて、実は私、変えたかったんだけど、どうやったらそれを変えられるかなってのは議会時の仲間に託していないんだけどねえ」

 長男村田琳「やっぱり女性の権利ってのは凄く大事なことだし、今回の・・・」

 蓮舫「何か、いくつになっても、やれることがある社会なんだよっというのを体現したときにそれはそれで公人の道を作るのかなって、後輩たちにね、私はこの20年、道を作ってきたつもりです。

 で、面白かったなって、面白いって言い方変なんだけど、あの敗選の会見をやったときに終わって、後輩の地方自治体議員とかが私にメッセージを一言ずつくれたときに、うすい愛子ちゃんていう女の子がいて、彼女はレズビアンなんだけど、それを公言して区議になってね、凄く大好きな子で、彼女が一人で生きる選択とか、パートナーと暮らす選択って、堂々と街当演説言われた言葉を切望してたってんですよ。

 私、切望っていう言葉の重みをあんときにすごく感じて、あ、そうか、届かないと思って諦めてる子たちにやっぱり政治が届けなきゃいけないって思うのと、政治以外でそれが届けられるのかなっていうのを実はもどく感じて、私はもう政治家じゃないかと、探してみようって冷静に見てたんだよね」

 長男村田琳「でも、今まで公人としてこうやってて、それを反対する声を聞いてきて、その人たちも未来はあるし、家族もあるし、自分が民間人になったとき、自分の人生が豊かでないと、自分は民間人じゃないけど、まあ、クソだから、何かを語っていないと、やっていけない人っていると思うんだよ」

 蓮舫「多分、そっちなんだよね。別に何かを語るときは、何となくいいかなあみたいな」

 長男村田琳「気持ちいいじゃん。今まで自分が社会に認められていないから、SNSという特定の場で、何でだろうと考えたときに地位が低いと自分の中で思っている女性にこう噛みついている人間を考えている自分、カッコいいなあって思っていると思う」

 蓮舫「有名な人が噛みつき魔みたいなことを言っていると、私、最近ね、残念だな、この人の視野って思うんですよ。私も今までそうだったから、相手を否定して、自分はこうなんだっていうマウントじゃなきゃあ、女性とかやってられなかったのか、最近ね、この人可哀想だな、この人も子どもがいるのに子どもがその背中を見たらどう思うんだろうとか、何か、意外にそこはね、ああ、可哀想だなって思って、如何にもしわくなって・・」

 長男村田琳「・・・(意味不明)」

 蓮舫「面白いなあと思ったのはちょっと看過できない、うちの家族のこととかに言っている、SNSとかに、ちゃんと反論するようにしたんですよ。それに対していきなり閉じてアカウントを停止(?)した人が凄くたくさんいて、ああ、病んでるな。あ、多分この人、現実社会で病んでるなと思ったときにこの人が病んでるのをどうやったら取り除くことができるんだろうかとか、多分、辛いんだろうな、と思うようになって、凄く勉強になったなあ、それが」

 長男村田琳「寂しい人も一緒に戦っていこうよと言ってた方が凄いよと思うよ」

 蓮舫「一緒に戦っていこうよと思うんだよね。ただ、病んでるところが、活路がSNSって、凄く勿体なくて、SNSってやっぱり、こうだよねっていうのがいい形で連鎖すると楽しいじゃない?だけど、辛いものを更に辛くして引っ張り続けることができちゃうのは、勿体なあと思って。おんなじ時間だったら、反省した方がいいじゃん。」

 長男村田琳「分かんないなあ。自分のストレスの捌け口を人に当たったり、誰かの悪口を言うってのを、僕はそういうことを、蓮舫を通して貰って、その価値観を僕は教えられてなかったから、サッカーしたり、友達と電話したりとかするから」

 蓮舫「立場のあり方をちゃんと知ってるよね。琳もそうだけど、うちの娘も」

 長男村田琳「周りもそう」

 蓮舫「そうね。確かにそうね」

 長男村田琳「SNSで悪口言ったら、・・・(不明)・・・、SNSで何か言うのは自分の看板を掛けていることになるから、・・・正しい形のどうやったらいいんだろう、どうやったらもっともっと明るい世にできるんだろうと戦ってきた20年間は凄いと思う」

 蓮舫「琳の友達って何気にラインで繋がってたりするんだけど。今回これに挑戦したけど、(声を大きくして)残念でした、落ちました、でも、頑張りますみたいな。見事前向きな、こういうね、何で私に直接報告してくるのかって、かわいいなって思うんだけど、何かそういうふうにインセンティブを持って前向きになったら、諦めない理由になってくれると思ってて、今回それを感じてて、諦めない理由が、それには何が足りないのか、何を悩んでるのかっていうのを、それを解いていくのが政治だと思ったんだけど、多分、政治以外の社会のあり方もそういう価値観をもう過去のものだと言えちゃうような、何かそういう社会の一員になりたいなと思っているんだよねえ」

 長男村田琳「20年間戦ってきた蓮舫だからできる次のステップじゃない?」

 蓮舫「うん、だからもう、次のステップが全然見当がつかない。私失業して、どこへ行くんだろうと思って」

 長男村田琳「国政やってた人間が、(大きな声で)明日からは国政してます」

 蓮舫「言ってることは言ってるんだけど、国政とは言ってないよ。何を勝手に間口を広くしているから」

 長男村田琳「国政以外にやりたいことがあるかも知れないけど・・」、

 蓮舫「何がやれるんだろう、(カメラの向こうの視聴者に向かって)教えてみんな。私、何ができるんだろう。何もやってこなかったような気がして。ずうーっと何かやっぱり法律しか見てなかったし、行政監査しかしてこなかったし。自分は何がやれるのかって、それを探すのもあっていいなと思ってて」

 長男村田琳「でも、法律とさ、行政のスペシャリストって、やっぱ多くはないわけだから、そういう人材を使って――」

 蓮舫「ハートが飛っぶって何だろう。えっ、凄い、(視聴者が)2000人超えてる、しかも。ハート飛ん出る。それに今気づかされるって、バカじゃない?(笑って)ありがとう。

 でも、楽しいなあ、そう考えるとと思ってて。こんなに私の話を聞いてくれる人がいるのは嬉しいし、定期的にやろうかなあ。」

 長男村田琳「今の時代、SNSで誹謗中傷している方がいいかもの時代じゃないけど、入会員制としてやった方がいいと思うけど」

 蓮舫「それは考えている。それは考えている。ちゃんとやっていこうと思って。ただね、会費請求する前にちゃんと反応してて、どういうことかしらって言うと、大抵そういう人たちはみんな閉じていなくなっていくから、その数は一杯いるんだけど、ちゃんとやることは大事で、それはおかしいですよねっていうのはちゃんとやっていこうと思っている」

 長男村田琳「いいんじゃない、もう」

 蓮舫「(コメントを見て)こんなにさあ、『お疲れ様』とか、『頑張ってください』とかさあ、言ってくれるの本当に有り難いなあ。ねえ、何ができるんだろう。また皆さんにアイディアを貰いながら、自分でも模索していきたいと思います。あっという間に30分。あっ、テルくん?(左手を振る)テルくんとルック(犬?)だ。

 テルくんはルックライク(?)でしょ?犬も人もいない端っこをそおっとポテ、ポテ、ポテと歩いて、トップランニングの犬じゃないんです。本当に。今日朝、上野に息抜きに行ってきたんですよ。6時半に家を出て、テルくんと。普通の快感を得ながら。『テルくん歩く?』って言ったら、端っこをポテ、ポテ、ポテと。どこへ行ってもこの子は変わらないんだと思って。

 今日は蓮がきれいでした。暇だったら、暇だったらと言うより時間があったら、上野の不忍池?本町公園、凄い綺麗です。見に行って貰いたい。あー、こんなに蓮池が広がっているっていうのは美しかった。

 うん、そのきれいな蓮、可愛かった。多分8月ぐらいは満開なんじゃないかなあ。美しいんで是非、いらっしゃれる人は行って欲しい。東京のど真ん中でああいう自然があるっていうのは凄い素敵だと思うんで。

 (着ているTシャツを指でつまんで広げて見せて。猫の図柄)Tシャツいいんでしょ。娘が作ってくれたんです。こんだガビちゃんのTシャツあるんで、ガビちゃんのTシャツ。うるちゃんの前にいた18歳で、で、~の橋を渡ったところなんですけど、その子も~犬で、飼い主がもう飼いきれない、8歳とかそのくらいだったかなあ、いきなり帰ったら、家にいたんですよね。家にいたよね、いきなり。小学生の時。

 二人が帰ってきたとき、ガビがいたよね。この子何みたいな」

 長男村田琳「(犬の話。聞き取れない)」

 蓮舫「中型犬だけどね。テルくんね、お腹を出して投げていいよっていうのが1年半掛かったの。お腹出せない子だったのよね。今じゃデコぺンしてるけどね、普通に。腹出しているけどね。ほんとにホッとする」

 長男村田琳「(ワンちゃんの話だが、聞き取れない)」

 蓮舫「で、びっくりしたよね。だから、日本てやっぱり異質なんだなっていうのを考えてみるのが大事だったと思うし、異質だったら、それを何とか変えていきたいなと。変える立場に今までいたんだけど、飛び降りちゃったし、何ができるかを考えていきたいと思ってる」

 長男村田琳「(聞き取れない)

 蓮舫「今回溝の口(?)まで行ったんだけど、フェリーがワンちゃん、猫ちゃん連れていけるかなって、やっぱり小型犬でキャリーに入れなきゃって言うから、テルくんは行けないんですよ。・・・・

 あー、時間だから。(居住まいを正し)またやります。2000人もの人が見てくれて、ありがとうございます。ホントーはみんなの悩みとか、相談とか子育てで、これ聞いて欲しいみたいなことやりたかったんだけど、琳がいるからやれなかった」

 長男村田琳「やれよ」

 蓮舫「ハハハハッ。だから今度から一緒にやりましょう。(コメント欄にコメントされていたのか)お笑いを一緒にやろうと言っている。やっちゃう?色々可能性は考えたいんだよ。これやってほしいとか、ハハこう言ってほしいとかいるんだったら、教えて下さい。今日もおつきあいありがとうございました。良い週末をお迎えください(左手を振る)。では、またです、ありがとう」

 上司から、「お前、まだ子どもは作らへんか」と言われる女性がまだ存在していて、「あっ、何て言ったらいいんですか」と聞かれる。それを「あのね、今回面白かったんだけども」と面白かったこととする。その感性は凄い。

 そして女性たちがそれぞれに抱えているプライベイトな事情を考慮することのできない上司を、「まだこんなに頑張ってくれる人たちがむしろ働いて、この国を支えている一人がいるってことを誇りに思えない上司って、何か、クソじゃん?」と批判する。この言葉の展開の非合理性に気づかない。

 部下として働いている女性一人ひとりを一個一個の人格を有した自律した存在と見て尊重する当たり前の精神を欠いているからこそ、女性の内心にずかずかと土足で踏み込むことができるのであって、そのような上司にとって、そういった女性を「誇りに思えない」のは当然の結末で、結末に至る誘因を問題とせずに、それを「何か、クソじゃん?」で片付けて済ます蓮舫自身の感性はやはり凄い。

 女性を自律した存在として尊重できないのは女性の役割を結婚して、子どもを生んで、育てることだと昔からの慣習を通してしか見ることできないからだろうが、テレビドラマの世界では姑が嫁に対して、「早く孫の顔を見たい」、「早く跡継ぎが欲しい」と暗に妊娠・出産を望む、あるいは急かすシーンに出食わすことがあり、現実にはあり得ないこととすることができないから、女性の役割を固定化しているのは男ばかりでないのだろう。

 上司から「お前、まだ子どもは作らへんか」と言われる女性の一般的な年齢は30歳を超えていると思うが、その年令近辺の女性を蓮舫は、「こんなにまで踏ん張っている子たちがいる」と、一個の自律した存在と扱うことができずに、ここでも、「子たち」と軽んじた下の者扱いをしている。

 この軽視はクソだとけなしている上司の態度とさして変わらない。

 すぐあとで、「まだこんなに頑張ってくれる人たち」と言い換えているが、「頑張ってくれる」は、「踏ん張っている」の主体性を相手に置いた蓮舫自身による評価であるのに対して相手の主体性は蓮舫自身の評価を基準とした、その範囲内に置いていて、その分、相手の主体性を軽んじている。

 例えば母親が「自分の子どもは毎日元気に学校へ行っている」と言うのと、「自分の子どもは毎日元気に学校へ行ってくれている」の評価の違いである。

 ここからも蓮舫の、年下相手であっても、対等な存在と見るのではなく、自身を上に置く何様意識が見えてくる。

 相手の主体性を重んじて、自律した対等な個人として扱うには、蓮舫が何様でなかったなら、年令に関係なく、「頑張っている女性たち」という言葉を使うべきだろう。
  
 蓮舫は現在の福祉は「お前ら相談しに来い的な空気」が「未だにまだ残ってい」る、「施す場所」の感じがすると言い、そういった福祉を「変えたかったんだけど」と言いながら、「どうやったらそれを変えられるかなってのは議会時の仲間に託していない」と打ち明けている。

 要するに「変えたかった」は思いだけで、変えようと挑戦する具体的なアイディアにまで踏み込むことも、「議会時の仲間」にそのようなアイディア作りの着手を託すこともしていなかったことになる。例え託したとしても、自身が手つかずにしていた以上、丸投げになるのだから、蓮舫自身のこの「変えたかった」に反して何もしなかった政治的不作為は蓮舫が頑張っている女性を誇りに思えない上司に投げつけた「クソじゃん?」という言葉を借りるとすると、「クソじゃん?」そのものとなる。

 自らの有言不実行を自ら明かしたのである。

 蓮舫は「何か、いくつになっても、やれることがある社会なんだよっというのを体現したときにそれはそれで公人の道を作るのかなって、後輩たちにね、私はこの20年、道を作ってきたつもりです」と誇っている。

 確かに国会追及の活躍は華々しく見えるが、実質的な成果を上げてきたわけはないから(安倍晋三の政治の私物化・権力の私物化追及には、その無策が延命に手を貸しただけであった)、華々しさは見せかけでしかなく、経歴上は党の役職を様々に消化してきているが、取り立てて素晴らしいと言える足跡を残しているわけではなく、その役職の数はそれなりにあるから、後輩の中には第2の蓮舫、第3の蓮舫を目指す女性議員は存在するかもしれないが、蓮舫は自身に対するバッシングを流してしまうと「次の子たち」が流しきれないと反論に出たが、その反論も人を唸らせるようなものでは全然なく、その程度の反論よりも、批判やバッシングに負けない自分自身の言葉を持つことを勧めることが肝心な点だが、本人自身はその肝心な点が何もできていないだけではなく、今まで見てきたようにこれといった素晴らしい言葉を発信してはいないのだから、その程度の発信能力、認識能力では、「私はこの20年、道を作ってきたつもり」は表向きの道は立派に見えるが、一本筋が通った、これこそと言える政治姿勢は見えてこない。

 このことは区議になってからレズビアンを公言したといううすい愛子ちゃんについての言及からも窺える。その発言を改めて取り上げてみる。

 「で、面白かったなって、面白いって言い方変なんだけど、あの敗選の会見をやったときに終わって、後輩の地方自治体議員とかが私にメッセージを一言ずつくれたときに、うすい愛子ちゃんていう女の子がいて、彼女はレズビアンなんだけど、それを公言して区議になってね、凄く大好きな子で、彼女が一人で生きる選択とか、パートナーと暮らす選択って、堂々と街当演説で言われた言葉を切望してたってんですよ。

 私、切望っていう言葉の重みをあんときに凄く感じて、あ、そうか、届かないと思って諦めてる子たちにやっぱり政治が届けなきゃいけないって思うのと、政治以外でそれが届けられるのかなっていうのを実はもどく感じて、私はもう政治家じゃないかと、探してみようって冷静に見てたんだよね」――

 どうもすんなりとは理解できない言葉の羅列となっている。うすい愛子なる女性が「一人で生きる選択とか、パートナーと暮らす選択」を堂々と街当演説で発言した言葉を誰が「切望してた」のか、主語が全然見えてこない。情報を共有している人間には通じるのだろうが、情報の門外漢には意味不明以外の何ものでもない。

 で、ネットで調べてみた。「OUT IN JAPAN」なるサイトに彼女のことを紹介していた。「OUT IN JAPAN」とは、LGBTQ+の性的マイノリティを可視化することを目的としたフォト・プロジェクトだそうだ。

 「OUT IN JAPAN」の意味は、多分、「日本の中から外へ」ということなのだろう。あるいは「日本の因習を切り離して、自由な世界へ」といった意味を含ませているのかもしれない。

 うすい愛子なる女性自身の大きな写真と自身の言葉が記されている。年齢31歳。いつの記事か日付なしだったから、立憲民主党の議員情報で調べてみると、1990年生となっている。現在34歳か、35歳ということになる。

 要約すると、高校生のときに自分自身のセクシャリティに気づき、付き合い始めた友人にカミングアウトし、"ふつう"に受け止められた。但し、「政策の柱も、私の想いも、ジェンダーやセクシャリティが大きくかかわっているにも関わらず、私は自分の背景を半ば隠したまま議員になった」としている言葉とその他の言葉から、カミングアウトを切望しながら、そのことは区議となっても限られた個人関係のレベルにとどまり、世間に対しては当事者であることを隠したまま、いわば理解者の態度、あるいは支援者の態度にとどまり続けた。

 その心苦しい見せ掛けの姿を取り払って、一人の人間として、一人の区議として、世間に向けてやっとのこと堂々とカミングアウトができた。それが蓮舫が言っているところの、「堂々と街当演説で言われた言葉を切望してたってんですよ」に当たるのだろうが、「切望してた」の主語は、勿論、うすい愛子なる女性自身だろうが、「街当演説で言われた言葉」の「言われた」が敬語扱いになっているから、うすい愛子なる女性以外の格上の人物を主語として口にした言葉を「切望してた」という意味を取らせてしまい、素直には通じない言葉になってしまっている。

 要するに本人は街当演説でカミングアウトして、本当の自分の姿を見せることを切望していながら、なかなか果たせなかったが、やっと踏ん切りがついて、カミングアウトを切望どおりに果たすことができた。その「切望」なる言葉に重みを感じたということなのだろうが、意味の通じない起承転結だから、言葉の重みが何も伝わってこない。

 「私はこの20年、道を作ってきたつもり」の自負をこの上なく怪しくさせる。参議院議員20年もやっていると、こうなるのかもしれない。

 蓮舫のうすい愛子なる女性に関わる問題点はこれだけではない。レズビアンが、ゲイも同じだが、自らの固有の生き方を"切望"しても、その声が「届かないと思って諦めている子たちにやっぱり政治は届けないといけないって思う」の"政治は何"を届けるのかには何も触れていないだけではなく、「政治以外でそれが届けられるのかなっていうのを実はもどく感じて、私もう政治家じゃないかと、探してみようと思って、様子を見てたんだよねえ」と様子見の風見鶏を呑気に決め込んでいる。

 この程度では、「私はこの20年、道を作ってきたつもり」は言い過ぎだろう。▲

 2024年7月7日都知事選4ヶ月前の札幌高裁の2024年3月14日、同性婚を認めないのは憲法違反だと示した初の違憲判断に対する同日付「NHK NEWS WEB」記事。

 次のような内容となっている。〈齋藤清文裁判長は婚姻の自由を保障した憲法の条文について「人と人との間の自由な結びつきとしての婚姻についても定める趣旨を含むものだ。同性間の婚姻についても異性間の場合と同じ程度に保障していると考えるのが相当だ」という踏み込んだ判断を示しました。

そのうえで、「同性愛者は婚姻による社会生活上の制度の保障を受けられておらず著しい不利益を受けアイデンティティーの喪失感を抱くなど個人の尊厳を成す人格が損なわれる事態になっている。同性愛者に対して婚姻を許していないことは合理的な根拠を欠く差別的な扱いだ」として、憲法に違反すると判断しました。〉――

 蓮舫は政治以外に何を届けられると思っているのだろう。如何なる社会の成り立ちも国の政治と深く関わっている。結果、人間の存在形式は憲法の保障を含めて政治と大なり小なり関わることになる。とはいえ、個々の生活に於ける理解・不理解は周囲の人間関係に応じることになるが、社会全体の理解・不理解は政治が手を打つことが必要になる。札幌高裁判決が「解釈の違いだ」で片付けられないように政治が日本国憲法第24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」を、「婚姻は、両性もしくは同性の合意に基いて成立」と書き改めることによって時間の掛かる遠回りであっても、人権上の尊厳ある確実な保障をもたらす近道となるはずだ。

 同性婚への理解が広がっていけば、同性愛者が同性同士の集まりを開きやすくなるし、その集まりに参加しやすくなり、そのことへの社会的認知がカミングアウトの容易な環境へと導いていく。

 蓮舫は理解ある者の装いを見せながら、寝ぼけた綺麗事を口にしているに過ぎない。愛子ちゃんとの関連で、同性婚の憲法容認しかないな、憲法容認がカミングアウトをより容易にし、生き方の保障に繋がっていくはずだとすぐさま飛びつく長年政治をしてきた人間の嗅覚を働かすことができないのだから、その政治的感性はお粗末としか言いようがないし、20年間、どのような"道"を歩んできたのか疑わしくなる。

 東京都の区議会議員の被選挙権は25歳以上、2022年4月1日以降なら、成人から7年、以前なら、成人から5年。それなりの社会意識が備わり、それなりの社会的認知機能が身についた一個の人格であるはずの社会人相手に「あきこちゃんという女の子」と相変わらず"子扱い"する。一見、親しみを込めているようだが、年齢差に関係なく、年齢の上下に関係なく、自分も一個の人格であるが、相手も一個の人格であるとする、その人なりの価値や重要性を尊重する人権意識を欠いていなければ、成人男女を"子"と呼ぶことはできないはずだ。後輩であろうと何だろうと、個人として尊重する精神が蓮舫からは見えない。自身を相当に何様に置いているのだろう。  

 長男村田琳が他者を攻撃したり、バッシングする話を再度持ち出して、「何かを語っていないと、やっていけない人っていると思うんだよ」と母親の蓮舫と同じく、高みからの物言いで批判している。

 例えば熱狂的な蓮舫ファンの女性が蓮舫の言動全てを称賛して、自身のSNSに称賛の言葉を書き連ねることができるのは自己を絶対真としているからであって、蓮舫が徹底的に嫌いなアンチファンがそれを読んで、クソだと思い、激しい攻撃の言葉をそのSNSに投稿するのも自己を絶対真としているからであろう。

 このように相互に自己を絶対真と思っているから、どちらか一方を、あるいは両方を「何かを語っていないと、やっていけない」、いわば心の空白を埋めるためだなどと自己認識させることは困難で、なかなか止めることはできない。現実にも、止まらない光景は延々と続いている。

 このように相対的に捉えるだけの認識力を働かすことができずに、「何かを語っていないと、やっていけない人」と批判することも自己を絶対真としているからで、いわば自己正当化バイアスを通して他者を価値判断していることになる。

 このことは村田琳の以下の発言にも強く現れている。

 「気持ちいいじゃん。今まで自分が社会に認められていないから、SNSという特定の場で、何でだろうと考えたときに地位が低いと自分の中で思っている女性にこう噛みついている人間を考えている自分、カッコいいなあって思っていると思う」

 では、東国原英夫もデープ・スペクターも、蓮舫が「地位が低いと自分の中で思っている女性」であって、そういう女性に噛みついている自分がカッコいいと想像して、その快感のために「蓮ちゃんは生理的に嫌われているから」と発言したり、「蓮舫がテレビ司会者に転身→ヒステリーチャンネル」と投稿したりしたのだろうか。人間は簡単に規格化できる程には単純には出来上がっていないはずだが、簡単に規格化して、そこに自己絶対真を置いている。

 蓮舫は「相手を否定して、自分はこうなんだっていうマウントじゃなきゃあ、女性とかやってられなかった」と以前の自分自身の視野の狭さを自己批判しているが、誰かに対する否定が即、視野の狭さを示すわけではない。その否定がどれ程に聞く者の判断によって受け入れられるかであって、多くに受け入れられた場合は視野は逆にその広さを評価される。その否定がその時代の多くに受け入れられなくても、次の時代に受け入れられて、その視野の広さを見直されるということもある。

 但し受け入れられるか受け入れないかは別にして、自身にとっての合理的思考を最大限に駆使した否定でなければならないということであろう。あとはその否定の正当性は周囲の判断に任せる。視野が広いか、狭いかも、その判断に負う。

 つまり自己絶対真で終えてはならない。そのためには常に第三者の判断を仰ぐ姿勢でいなければならない。

しかし蓮舫の「相手を否定して」の「否定」という言葉の扱いは"間違い"と位置づけていて、反省して出てきた答ということになる。その反省は相対的思考力や合理的思考力の成長を背景としているはずである。両能力の成長なくして、自身の過ちを正す反省は生じない。

 だが、蓮舫の次の発言は相対的思考力も合理的思考力も、備えているのか疑わしくさせる。

 「有名な人が噛みつき魔みたいなことを言っていると、私、最近ね、残念だな、この人の視野って思うんですよ」、「最近ね、この人可哀想だな、この人も子どもがいるのに子供がその背中を見たらどう思うんだろうとか、何か、意外にそこはね、ああ、可哀想だなって思って、如何にもしわくなって」――

 「有名な人」とは東国原やデープ・スペクターを指すのだろう。「噛みつき魔」とは合理的な根拠も理由もなく、自身の基準で無闇と好んで批判を繰り返す人物を言っているのだろう。当然、その視野は狭いと言える。

 だが、東国原やデープ・スペクターを「噛みつき魔」に結びつけるには、これまた合理的な根拠、あるいは理由の提示が必要となる。東国原が「蓮ちゃん、生理的に嫌いな人が多いと思う」と発言したことが「噛みつき魔」に相当する根拠も理由もないことだとの証明である。

 その証明を経ずに子供が見た場合の本人の背中(=生き方)を問題にして、気づかない本人を可哀想だとか、しわい(=ケチ臭い)とか批判する。一体何様だと思わせる程に傲慢な考えであって、相対的思考力も合理的思考力も窺うことはできない。

 蓮舫が「相手を否定して、自分はこうなんだって」云々と過去の自分を反省の文脈で発言していることは相対的思考力や合理的思考力が成長したからではなく、話のバランスを取るために持ち出した方便に見える。

 蓮舫は単なる民間人ではない。その発言は党役職を含めた政治家としてのキャリアを背景にしている。当然、それ相応の社会的責任を負っている。具体的根拠や理由を示さずに「可愛そうだ」、「しわい」と好悪の感情を示すだけでは、その正当性は第三者には判断できない。だが、蓮舫自身は自分の感情に正当性を置いて喋っている。その矛盾に気づかない。自己正当化バイアスしか窺うことができない。

 蓮舫はSNSでの家族に対する批判には反論することにしていた。その反論に対してアカウントをいきなり閉じた人が凄くたくさんいた。多分この人、現実社会で病んでるなと思ったとき、この精神の病みをどうやったら取り除くことができるんだろうかと考えた。多分、辛いんだろうな、と思うようになって、凄く勉強になったと。

 ネットではX(旧Twitter)にしても、インスタグラムにしても、匿名アカウント作成が可能であるようなことが紹介されている。最も匿名性が高いSNSはXだとされている。多くが本名を名乗らず、ハンドルネームを名乗っている。当ブログに対するコメントも、数少ないが、「Unknown」やニックネームが多く、本名を名乗るコメントはごく少数派となっている。

 蓮舫の家族に対する批判への蓮舫自身からの反論に直ちにアカウントを閉じたということは本名を名乗っていたことになる。匿名だったら、放置しておけば済むからなのは断るまでもない。本名を名乗っていて、アカウントを閉じるという行為は蓮舫の反論に再反論できなかった恥となる証拠となる。どこそこの誰々は私の反論に何も言えず、アカウントを閉じたという指摘を可能とする証拠ということである。

 そういった危険を犯して、反論できないような批判を行うだろうかということを第一番に考えなければならない。

 蓮舫が先に挙げた「有名な人」は証拠を残して恥となったとしても、当然、閉じることはできない。無視する措置に出るだろう。とすると、「閉じた人が凄くたくさんいた」は「有名な人」以外の一般人ということなのだろう。但し一般人と言えども、知人、同僚、面識のないその他と繋がっている場合はSNSによっては再反論できなかった恥かしい証拠は繋がっている彼らには周知の事実となる可能性を抱えることになる。

 閉じて、恥を残すくらいなら、閉じないままにして無視するか、最初から匿名にするか、いずれかの選択をしなかったのだろうか。閉じる手間も省くこともできる。

 但し、アカウントを停止した人の「凄くたくさん」は蓮舫自身が確認できる人数ではあるが、その不特定多数が「現実社会で病んでる」かどうかは確認できない事実であるはずで、ただ単にアカウントを閉じただけで判断する蓮舫の主観的判断ということになる。

 但し往々にして主観的判断はそうあってほしいという思いが描き出してしまう景色ということもあり得て、「現実社会で病んでる」の「現実社会」は蓮舫をSNSで批判する社会を指していて、だからこそ、蓮舫が病んでいて欲しいというだけの主観的判断である可能性は否定できない。

 いずれにしても、好き勝手な批判、根拠のない批判を振りまくアカウントの多くは責任回避の備えからも匿名を武器にしていることが多いはずだ。SNSの匿名率を見てみる。 
 
 《平成26年版 情報通信白書のポイント》(総務省)によると、

「Twitterの実名・匿名利用の割合」は――
日本(匿名75.1%:実名利用9.4%)
米国(匿名35.7%:実名利用56.4%)
英国(匿名31.0%:実名利用60.3%)
仏国(匿名45.0%:実名利用42.4%)
韓国(匿名31.5%:実名利用54.5%)

 10年前の調査だが、国民性も絡んでいるだろうから、10年で実名率が格段に向上するとは思えない。

 かくも日本の匿名率は諸外国と比べて高い。このことは、いわば元々匿名率が高いのだから、誰かを批判して反論され、その反論に再反論を加えることができなくても、アカウントを閉じる必要率の低さをも物語ることになる。この低さは蓮舫が「アカウントを停止した人が凄くたくさんいた」とする発言と矛盾する。当然、反論できなくなるとアカウントを閉じるという行為を匿名率の点から言っても、世間的に一般的な現象とすることはできない。蓮舫が自身に対する批判の多さを説明するために誇張したとも考えられる。

 この匿名率の割合は、《我が国と諸外国のこどもと若者の意識に関する調査(令和5年度)》(こども家庭庁)の中の国別の「自分には長所があると感じている」割合と、同じく国別の「私は、自分自身に満足している」割合とほぼ同傾向を取ることを必然としなければならない。5カ国の調査だが、日本と米国とドイツの3カ国を取り上げてみる。

「自分には長所があると感じている」
「そう思う」「どちらかといえば 「どちらかといえば 「そう思わない」
そう思う」     そう思わない」
日本  21.1%   44.4%       22.0%        12.4%
米国  44.7%   37.9%       12.5%        17.5%
ドイツ 33.9%   51.3%       11.4%         4.2%

「私は、自分自身に満足している」
「そう思う」「どちらかといえば 「どちらかといえば 「そう思わない」
そう思う」     そう思わない」
日本  16.9%   40.5%       25.4%        17.2%
米国  36.4%   36.8%       16.45%        10.3%
ドイツ 32.3%   41.3%       19.1%         7.0%

 要するに日本のこどもと若者の自己肯定感は5カ国の中で最も低くて、上記両質問から平均を取ると、アメリカと比較して約50%近く、ドイツと比較して約60%近くの低さとなっていて、この低いことがSNSを使った他人に対する誹謗中傷や歪んだ正義感の強要を通して自己肯定感の不足分を充足させている可能性が考えられることになる。

 誹謗中傷にはまり込むことも、歪んだ正義を振り回す快感も、考える力(=論理的思考力)の欠如によって生じる。この欠如の原因は教師が伝える知識をなぞって頭に叩きむだけで、思考の回路を通さずに完結できる暗記教育に主としてあるはずである。

 蓮舫が反論を返すと、アカウントを閉じてしまうSNS利用者を「現実社会で病んでるな」と看做して、「この人が病んでるのをどうやったら取り除くことができるんだろうかとか」と言いかけたが、その方策を考えずじまいにして、ただ単に「多分、辛いんだろうな」、「凄く勉強になったなあ」と何が勉強になったのか読取り不能の発言をしているが、誹謗中傷や歪んだ正義に走る原因は社会的な善悪や社会的な常識・非常識を考える力(=論理的思考力)が未熟だからであって、その成長を抑える原因は学校教育が暗記が主体となっていることによって考える力(=論理的思考力)の育みが阻害されいるからと見て、暗記教育主体から考える教育主体へと転換して考える力(=論理的思考力)を育んでいき、その成果としてSNSの匿名率を減らし、実名利用率を上げていく方向に持っていくことであろう。

 考える力が身につけば、善悪の判断も、常識を弁える分別も自ずと働く。蓮舫は参議院議員20年やってきて、こういったことの道理すら考えつかない。できることは「多分、辛いんだろうな」、「凄く勉強になったなあ」と、精々自己満足に過ぎない情緒的な反応を示す程度に収まっている。

 考える力(=論理的思考力)を欠いていることが誹謗中傷やニセの正義感に走る原因になっていると考えると、それらの誇示を有意義な時間の過ごし方と勘違いしているだろうから、蓮舫が言っている、「病んでるところが、活路がSNSって、凄く勿体なくて」、「辛いものを更に辛くして引っ張り続けることができちゃうのは、勿体なあと思って。おんなじ時間だったら、反省した方がいいじゃん」の指摘は反発を招くことはあっても、素直に受け入れられる言葉となる可能性は低く、やはり時間のかかる遠回りになったとしても、暗記教育主体の学校教育から考える教育主体の学校教育への転換を政治の力で図ることに思い至るべきだろう。

 長男村田琳が「自分のストレスの捌け口を人に当たったり、誰かの悪口を言う価値観を蓮舫を通して教えられてなかったから、そういう価値観は理解できない」といった趣旨のことを言い、蓮舫が「長男も娘も立場のあり方をちゃんと知ってるよね」というふうに答えている。要するに蓮舫は子育てに優れた母親だった。

 蓮舫の父親はバナナの日本への輸入を手がけて財を成したという。そういった裕福な家庭で蓮舫は育ち、大学に行かせて貰い、大学在学中にモデルとなり、それからテレビの世界に活躍の場を移し、政治家へと転身した華麗な経歴の持ち主ちとなっている。そういった家庭で長男も娘も育ったはずだ。

 生活の貧しさが与えるストレスに負けることなく考える力が優って、貧しくても逞しく生きる男女が多く存在する一方でストレスに考える力が伴わずに負けてしまう男女も多く存在する。特に後者の多くは自身の貧しさの原因を社会が不当だからと考えて、自らをその不当性が生み出した社会的弱者と位置づけ、その対極に社会的強者を置いて同じ不当な存在と看做して、自身ができる能力で彼らを攻撃する者が出てくる。
 
 あるいは同じ社会的弱者を自分を見ているようで苛立ち、そのうちの誰かを攻撃しても安全な自分より弱い者と見る、例えば身体障害者や性的マイノリティを見つけて、苛立ちの捌け口として何らかの方法を用いて攻撃する。それを可能とする能力が現在の社会ではSNSを使った攻撃であり、それが最も簡便な方法ということであろう。

 蓮舫や長男村田琳が考えるように、自分のストレスの捌け口を人に当たったり、誰かの悪口を言う価値観は親に教えられなかったといったことで収まりがつく程に世の中は単純ではない。特に蓮舫は国民の生活を考える国政政治家だった。個人的な収まりで片付けていいはずはない。

 だが、親子共々、単純な考えで収まりをつけている。収まりをつけていられるのは二人が共に自己正当化バイアスに囚われていて、相対的思考力を失った状態にあるからだろう。

 相対的思考力を持たない人間が政治家を務めていたというのは逆説でしかない。社会的弱者に目を向けなければならない機会が訪れたときにだけ目を向ける慣習が身についているから、アンテナがどんなときでも臨機応変に必要とする方向に感度を働かせるということはないのだろう。

 だが、長男村田琳は母親の蓮舫に対して「SNSで何か言うのは自分の看板を掛けていることになるから、・・・正しい形のどうやったらいいんだろう、どうやったらもっともっと明るい世にできるんだろうと戦ってきた20年間は凄いと思う」と最大限の賛辞を送っている。

 対して蓮舫は長男村田琳が母親に「残念でした、落ちました、でも、頑張ります」と連絡してきた等、内輪には即通じるだろう会話を紹介しているが、不特定多数の視聴者相手のライブ配信であるにも関わらず、内輪の話と分かる設定を前置きしない不用意な会話であることに蓮舫は気づかない、

 要するに長男が蓮舫の都知事選落選をニュースで知り、スマホか何かでメールか電話をしてきて、「残念でした、落ちました、でも、蓮舫は頑張ります」と蓮舫の身になって落胆を和らげると同時に頑張り宣言を促したといったところなのだろうが、政治家として演説や国会追及で会話し慣れているはずなのに、うすい愛子なる女性が「一人で生きる選択とか、パートナーと暮らす選択って、堂々と街当演説で言われた言葉を切望してたってんですよ」の発言を初めとしてストレートには通じない会話を披露して、

 そういった性格の会話であることに気づかないでいる。

 だが、続けて話している内容もストレートには通じないものとなっている。

 「何かそういうふうにインセンティブを持って前向きになったら、諦めない理由になってくれると思ってて、今回それを感じてて、諦めない理由が、それには何が足りないのか、何を悩んでるのかっていうのを、それを解いていくのが政治だと思ったんだけど、多分、政治以外の社会のあり方もそういう価値観をもう過去のものだと言えちゃうような、何かそういう社会の一員になりたいなと思っているんだよねえ」

 どうも意味不明で、素直に頭に入ってこない。目標もなく頑張りますと言っても始まらないのだから、"頑張る"という気持ちそのものがインセンティブとなるわけではなく、何らかの行動目標を立てて、その達成に向けた活動自体をインセンティブとすることが常識的な成り行きであるはずである。

 都知事選に落選しても、多分政治家をということなのだろう、「諦めない理由」として何が不足しているのか、何を悩んでるのか、「それを解いていくのが政治だと思ったんだけど」と言っているが、政治家を続けるべきかどうかは政治が解くわけではなく、政治家を続けるにしても、続けないにしても、以後何をしたいのか、何を成すべきなのか、自身の意志・意欲が解く進路であって、そこに「政治」を持ってくるのは敗選で終止符を打つことになったとしても、過去から現在までの自身の政治家としての関わりをタダ者と片付けられたくない虚栄心、裏返すとそれ相応の政治家だったと知らしめたい虚栄心が働いている部分もあるに違いない。

 次に言っている「多分、政治以外の社会のあり方もそういう価値観をもう過去のものだと言えちゃうような、何かそういう社会の一員になりたいなと思っているんだよねえ」も意味不明で、大体が社会は常に政治と大なり小なり関わっているのだから、「政治以外の社会のあり方」など存在しないはずだ。

 勿論、政治という職業に関わらない社会の一員という存在形式はあるが、「社会のあり方」そのものを指すわけではない。

 「そういう価値観」とはどういう価値観なのか、蓮舫のこの発言の前に長男村田琳との間の会話で「価値観」という言葉が出てきたのは、村田琳が自分のストレスの捌け口を他人を攻撃することで見い出す価値観は理解できないという文脈で使っている。この「価値観」を当てはめると、ストレスの捌け口を他人を攻撃することに価値を置く社会が「もう過去のものだと言えちゃうような」、いわば攻撃等に煩わされない、「何かそういう社会の一員になりたいなと思っている」という意味を取ることになる。

 但しこの解釈が間違っていたとしても、蓮舫が発言していること自体はそういう社会を実現させたいという自らの意志を示した発言ではなく、自然発生的にそういう社会になっていることを望む発言であって、その姿は過去に於いて政治家の姿をしていたとも、あるいは現在に於いても政治家の姿をしているとも言い難い。自分からが働きかけてそういう社会に持っていきたいとしているのでなく、他力本願そのものの実現願望だからだ。

 また、この実現願望は東国原やデーブ・スペクターの、蓮舫本人が言っているバッシングが相当応えていることをも示していることになる。敗選という結果に反して都知事選は「達成感があった」、「確実に繋がっている人達がいるってのが分かった」、「120万を超える人が蓮舫と書いてくれた」等々、並べ立てていた選挙の有意義性の、その効力を跡形もなく消し去った、何ものにも煩わされない「社会の一員」への同化願望――平穏無事を願望しているからだ。

 この点からも、都知事選挙の有意義性は強がりでしかなかったことを証明することになる。あるのは自己正当化バイアスのみとなる。特に東国原の「蓮ちゃん、生理的に嫌いな人が多いと思う」の批判が応えていて、生理的に嫌っている多くの有権者の存在を頭に置いてしまい、敗因の大きな一つと気に病んでいる可能性は否定できない。

 以下、今後の身の振り方として何がいいのだろうかという話、入会員制でライブ配信する話、愛犬との散歩の話等をしてから、ライブ配信を閉じている。最後に蓮舫の思考力を疑いたくなる2点を取り上げてみる。

 長男村田琳が「入会員制」でライブ配信を勧めると、蓮舫はそれはちゃんと考えているとした上で、「ただね、会費請求する前にちゃんと反応してて、どういうことかしらって言うと、大抵そういう人たちはみんな閉じていなくなっていくから、その数は一杯いるんだけど、ちゃんとやることは大事で、それはおかしいですよねっていうのはちゃんとやっていこうと思っている」と答えている。

 蓮舫はかつて有料会員制のライブ配信を試みたことがあったのか、社会的な常識としていたのか、会費請求する段になると、「閉じていなくなっていく」。しかも「その数は一杯いる」。と言うことは、会費制を承知して登録を行なったものの、一度か二度視聴してみて、カネか払ってまで視聴し続ける価値はないと見る視聴者が多くいて、その多くが月額制なら、その月の分を支払い後、会員登録を解除してしまうということであろう。

 要するに配信内容に対する視聴者側の費用対効果の問題に尽きることになり、それが配信側の精神的不満足を生み出すことになるのだが、蓮舫はこのことが理解できないだけではなく、会員登録及び会員登録解除は自由意志であることを理解することができないで、「ちゃんとやること」、いわば視聴し続けること、あるいは登録し続けることは「大事で、それ(登録解除)はおかしいですよねっていうのはちゃんとやっていこうと思っている」と言うことのできる蓮舫のこの思考力は疑わざるを得ない。

 蓮舫が指摘している日本の異質性について。長男村田琳が蓮舫の愛犬について話していたが、聞き取れなくて、続けて蓮舫が次のように発言している。「で、びっくりしたよね。だから、日本てやっぱり異質なんだなっていうのを考えてみるのが大事だったと思うし、異質だったら、それを何とか変えていきたいなと。変える立場に今までいたんだけど、飛び降りちゃったし、何ができるかを考えていきたいと思ってる」

 長男村田琳が日本の異質な点を指摘したのだろう。その指摘を蓮舫は「日本てやっぱり異質なんだなっていうのを考えてみるのが大事だったと思う」と肯定した。いわば蓮舫と長男はある事実が日本の異質な点であることに意見が一致した。

 にも関わらず、蓮舫は「異質だったら、それを何と変えていきたいなと」と言って、日本のその異質点を「だったら」と仮定の問題としている。最初は「日本てやっぱり異質なんだな」と断定しながら、次の瞬間、異質でない場合もあり得るニュアンスの発言に変えている。

 もし事実異質であるなら、「異質だったら」とするのではなく、「異質である以上、それを何とか変えていきたいなと」したなら、"異質"に向けた自身の変革の意志を明確に示すことができると同時に例え政治家をやめても、一般国民が持ちうる変革に向けた政治的意志をも明確に示すことができる。

 小さな問題で、揚げ足取りのように見えるかもしれないが、論理的思考力の問題となることと論理的思考力の欠如が誘い込む落とし穴が自己正当化バイアスであって、両者は深く関係することだから、最後に取り上げてみた。

 以上で、「蓮舫を叩く:女だからではない」の6回に亘ったブログ記事は終えることになるが、"叩き"具合の正当性は、当然ながら、数少ない読者それぞれに任すことになる。
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夫婦別姓:民法で認めることから子どもの氏の問題は解決 子の自律(あるいは自立)を促す

2025-02-25 10:18:21 | 政治


Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 誰であっても、何をするか、何をしたかの自分は、例え親の庇護のもと生活をしていても、あるいは親の言動の影響を受けることはあっても、本質のところでは父親や母親の存在や人格とは独立した自分独自の存在、自分独自の人格を形成していくことになって、何をするか、何をしたかの行動自体は自分の姓と名前を一体とさせた一個の存在、あるいは一個の人格に基づいて行われていることになり、それらの総合が自分なりに独自な経験として積み重ねられていき、個人としてのアイデンティティを築いていくという成長の過程を辿る。

 要するに同姓夫婦の子どもであり、当初は親の影響は受けていても、あるいは異姓夫婦の子どもであり、同じく当初は親の影響は受けていても、どちらの子どもであっても、本質的のところでは与えられた自分の姓と名前を一体とさせた一個の存在、一個の人格として行動することになり、自らのアイデンティティを成り立たせていくことになるが、その場合、名字より名前の方に自分は自分というアイデンティティの基礎を置くことになるだろう。

 断るまでもなく、兄弟姉妹を含めた家族の中で自分を周囲とよりよく区別することができるのは姓よりは名前だからである。

 例えば児童養護院に預けられた子どもが親の姓と自身の名前で生活していたとしても、ある年齢で養子縁組をして、養子先の親を自分の親として受け入れることができた場合、養子先の姓と自分の名前を一体とさせた一個の存在及び一個の人格として行動していくことになるが、やはり変わらないものとして自分の名前により重点を置いて行動していくことになるだろう。

 つまり誰であっても、どのような姓であったとしても、自分自身の名前により重点を置いた、その姓と一体とさせた一個の存在、一個の人格として行動することになり、自らのアイデンティティを獲得していくことになる。
 
 民法750条「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」を、「夫婦は、夫又は妻の氏を称するか、夫の氏又は妻の氏をそれぞれ称する」と改めさえすれば、後者の場合、子どもは夫又は妻の氏のいずれかを名乗ろうと、その姓は付与されたものとして自身の名前と一体とさせた行動を取り、行動に応じた経験を積み、経験の総体がアイデンティティの形成への取っ掛かりを作っていくことになる。

 夫婦別姓の親は子どもに、「僕の、あるいは私の名字はお父さんと、あるいはお母さんと一緒だけど、お父さんと、あるいはお母さんと違うのななぜ」と聞かれる物心つく前から、あるいは「僕の、あるいは私の名字がほかの兄弟(姉妹)と違うのはなぜ」と聞かれる物心つく前から、法律で認められた夫婦別姓であること、子どもは父親か母親の名字を名乗らなければならないこと、例え一方の親と名字が違っても、兄弟姉妹と違う名字であったとしても、与えられた名字と名前で、名前により重点を置いた一人の人間として自分という存在を生かしていく点については名字の違いは問題ないということ、何をしたいか、何をするかの自分は与えられた名字と名前で行動していき、その行動によってほかの人間との違いが出てきて、それが生き方の違い、何をし、何を成し遂げるかの違いとなって現れるのだから、一方の親との名字の違いや兄弟との名字の違いが自分の生き方を根本のところで決めるわけではないといったことを噛み砕いた言葉で繰り返し言い聞かせて、やがて理解できるようにしていかなければならない。

 その理解がゆくゆくは誰もが自分自身は本質のところでは父親や母親の存在や人格とは独立した自分独自の存在、自分独自の人格を形成していて、何をするか、何をしたかの行動自体は自分の姓と名前を一体とさせた一個の存在、あるいは一個の人格に基づいて行われていること、それらの総合が自分なりに独自な経験として積み重ねられていって、個人としてのアイデンティティを成り立たせていくんだという道理に到達することになる。

 そしてこういった理解と道理を子どもに求めていく夫婦別姓を選んだ親自身の努力が子どもに対して自律心(あるいは自立心)を促す教え、あるいは教育そのものとなるだろうことは容易に想像できる。

 自律心(あるいは自立心)の育みに向かわせる教え諭しが主体性や責任意識への育みを共に伴走させる。

 このように考えると、夫婦同姓の親が子ども共々同姓であることを長い歴史を引き継いだ当然の慣習と見て、そのような慣習の上に安住しているのに対して夫婦別姓の親が子どもに一方の親や兄弟で姓が違うことを理解させるために尽くす言葉の数々は却って高度な教育の形を取ることになるのだから、その利点は自らのアイデンティティを守ることに劣らない、子どもに向けた教育価値を有していることになる。

 大体が安倍晋三や高市早苗等、保守派の別姓反対の急先鋒が家族の一体性を同姓に求めること自体が、形だけを求める安っぽい形式主義に過ぎない。
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安倍派裏金事件:政倫審幹部証言が明かすことになる、4月・8月会合は安倍晋三罪薄めの自作自演の猿芝居

2025-02-20 06:42:08 | 政治


Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 安倍派清和研の政治資金パーティ裏ガネ収支報告書不記載に関して、2024年4月1日に、《安倍派政治資金パーティキックバック裏金:22年4月と8月の会合を作り話とすると、全てがスッキリする - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》を、2024年5月31日に、《安倍晋三が設計首謀者の現金還付・収支報告書不記載の慣習・制度だっだと疑うに足る相当性ある状況証拠の提示 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》をブログに投稿した。

 その内容の正確性についてだが、最近、AI文字起こしのスマホアプリ「音声文字変換&音検知通知」(フリー)の存在を知り、政倫審国会質疑が原則としては非公開であることから議事録が衆参共に非公開となっているために動画をダウンロード、安倍晋三出席のもと現金還付中止を決めた2022年4月と、2022年7月の安倍晋三の銃撃死後、中止と決めた現金還付再開を決めたのではないかと疑われている2022年8月の会合に共に出席していた安倍派清和研幹部西村康稔、塩谷立、下村博文、世耕弘成出席の政倫審動画から発言を文字起こししてみた。

 文字起こしの精度は6~70%程度といったところか、動画を聞きながらの修正にかなり時間がかかり、聞き取れない箇所はNHKの国会中継録画を字幕付きで利用、完成させた質疑を全て読み返してみた結果、現金還付・収支報告書不記載裏ガネシステムの設計首謀者を安倍晋三とするのは間違いの可能性に気づいた。

 第1次安倍政権では参院選で過半数割れの敗北を受けてねじれ国会を生じせしめ、閣僚のスキャンダル等もあったが、政権運営に苦労し、ほぼ一年しか持たなかった苦い経験からだろう、第2次安倍政権では選挙時期に合わせて消費税増税を二度延期したり、選挙の際、国民に不人気な政策は争点から隠したり、毎年4月の首相主催「桜を見る会」では招待客の選考基準を無視して選挙地元山口の安倍後援会会員を多数招待したりして、政権運営の第一義をなりふり構わずに選挙に勝つことに置いている様子がミエミエだったから、裏ガネシステムの設計首謀者ではなくても、システムの貪欲な推進者だった可能性は捨てきれない。

 例えば、このノルマ超えのキックバックは参議院選挙のある年の安倍派改選参議院議員はノルマに関係なく、パーティ券売上の全額が派閥からキックバックされて、各議員の選挙事務所に裏ガネとして収められていたと言うが、これも政権運営の第一義を選挙に勝つことに置いているなりふり構わない例の一つに数えることができる。

 参議院選挙が行われる年の「桜を見る会」では自民党改選議員は友人や知人、後援会関係者などを4組まで招待できるシステムとなっていて、愛人がいれば、愛人だって招待できただろう、いわば首相基準の招待ではなく、自民党改選参議院議員基準の招待という特別扱いとなっていたと言うから、選挙に勝つためにはなりふり構わないという点で見事通底している。

 4月と8月の会合が安倍晋三の関わり、その罪を限りなく薄めるためにデッチ上げた作り話とする見立てに関しては狂いはなく、却って確信を深めた。上記4人の幹部の政倫審発言を適宜取り上げて、そのことを証拠立ててみる。

 政倫審での追及側の議員は4月と8月の会合を現実に存在した事実と見ていて、4月の会合で安倍晋三が現金還付中止の指示を出したことも事実、8月の会合で幹部たちが話し合って、そのうちの誰かの決定によって中止をひっくり返したのも事実、その結果、現金還付と収支報告書不記載が継続されることになったと見立てて、追及する結果、ウソから事実が出てくるわけがなく、埒の明かないことになる。

 逆に両会合をデッチ上げと見ることによって明らかになってくる事実がいくつかある。

 では、最初に2022年4月の会合で安倍晋三の現金還付中止の指示がどのような様子で行われたのか、西村康稔の自民党武藤容治に対する答弁から見てみる。

 「安倍会長がですね、令和4年、22年の4月に現金での還付を行ってる。これをやめるということを言われまして、私もこれはやめようということで、幹部でその方針を決めまして、そして若手議員何人かをリストアップして、電話も致しました。私自身も若手議員にかけ、電話をしてやめるという方針を伝えたところ、伝えたわけであります。

 従って、会長はその時点で何らかのことを知っておられたんだろうというふうに思います。全体のこと、どこまでご理解、把握しておられたのか分かりません。けれども、兎に角、現金は不透明で疑念を生じかねないから、こうして現金の還付はやめると、まあ、還付そのものをやめるということで、我々方針を決めて対応したわけであります」――

 西村康稔は安倍晋三の現金還付中止について、「会長はその時点で何らかのことを知っておられたんだろうというふうに思います」と安倍晋三を違法行為から一定程度離れた位置に立たせているが、弁明では、「清和会主催の政治資金パーティー収入の還付にかかる処理は歴代会長と清和会の事務職である事務局長との間で長年慣行的に扱ってきたことであり、会長以外の私たち幹部が関与することはありませんでした。先程申し上げた通り、事務総長はこのことを含め、会計には関与しておりません」と安倍晋三を違法行為の主犯格そのものに仕立てていることと矛盾している。

 勿論、後者はあとで知った事実と片付けることはできるが、この矛盾の正当性を順次見ていく。

 西村康稔の中止指示に関わる具体的な状況説明はこれだけで、他の幹部は中止の指示があった程度の簡略した証言で終わらせている。一見、西村康稔が詳しく説明しているように見える。だが、隠している事実が少なからず存在している。

 もし幹部たちが「現金は不透明で疑念を生じかねない」の意味するところを承知していたなら、いわば現金還付を自分達も受けていて、その現金の不記載処理に応じていることを知っていたなら、人間の自然な感情として何かバレそうなヤバいことが持ち上がったのだろうかとか、あるいは誰かからか注意を受けたのだろうかとか、共犯者意識からビックっとし、「何かあったんですか」と安倍晋三に問わずにはいられないだろう。

 もし現金還付も不記載も幹部自身には関知しない事実であったなら、「どういうことですか」と安倍晋三に問うことになるだろう。あるいは中止指示を言い出す前に安倍晋三の方から、「派閥ではこういうことをしていた。議員側には巻き込むことがないよう、知らせていないが、秘書にのみ知らせていた。裏ガネに政治活動の便宜を求める時代ではもうない」などといった何らかの理由を説明しなければならないし、当然、することになるだろうから、知らずに加担させられていたことに驚き、安倍晋三に対して何も言い返せなかったとしても、顔を青ざめさせるぐらいの感情の変化は見せるのが人間の自然な姿だろう。

 要するに中止を指示されたことに対して幹部たちの気持ちや感情が何も紹介されていない。であるなら、質問者の方で追及して、違法性を把握していたのか、していなかったかを知り得る材料とすべきだったが、綻びを前以って予防して行なっている説明を人間の自然な感情の点から突くことをしないから、相手の筋書きに乗せられてしまう。

 例え関知していなかったが事実であたとしても、大枚のカネの支払いと受領を現金で遣り取りすること自体が記録や証拠の類いを残さない便宜からの利用であることは世間的な相場となっている以上、現金還付中止を切り出された時点で、そこに違法性を嗅ぎ取らないこと自体が奇麗事だけでは済まない政治の世界に長年身を置いている派閥の幹部としての姿に反する。

 何の感情も湧かなかったとしたら、現金で遣り取りされることの裏の意味も、内心察することもなかったことになって、あまりにも不自然である。
 
 要するに安倍晋三の現金還付中止の指示に対して4人の幹部がどのような認識で反応したのか、どのような印象を持ったのか、尋ね返したことはないのか、様々に問う過程で見えない事実が見えてくる可能性は決して否定できない。

 だが、追及側は西村康稔が打ち立てたこの証言を事実とのみ掴まえ、その範囲内で不記載を知っていたのではないかどうかと質問しているから、知らなかったと答えられると、効果的な反論を見い出すことができず、極めて疑わしい感触を持ったまま否応もなしに事実の体裁を取らせてしまうことになる。

 この4月の会合に説明にはもう一つ、大きな事実が隠されているが、その事実を明かすには8月の会合の各幹部の証言が必要になり、両会合共にデッチ上げであることを証明できるが、その前に追及する側が最も必要とする情報は何のために政治資金パーティ券の売上にノルマを課したのかであろう。

 ノルマを課すことは課した相手の交渉力や人脈構築力の程度を確かめるだけではなく、忠誠心や功名心を競わせる効用がある。そこに何よりも価値を置いているから、ノルマを超えたカネを還付することで、苦労や努力の見返りとしての満足や感謝を与えて、忠誠心や功名心をなお誘い出す動機づけに利用することができる。

 派閥所属議員側にしても、パーティ券のノルマを超える売上は自己能力の誇示のみならず、
政治の世界で将来的には閣僚の地位を、あるいはそれ以上を狙うだけの野心があったなら、ノルマ達成は派閥内での序列を上げるまたとないチャンスだったろうし、自己承認欲求を駆り立て、自身の能力を可視化できる価値あるシステムの一つとすることができる

 だとすると、世耕弘成の自民党佐藤正久に対する、「安倍会長からは5月に、2022年の5月のパーティでしたけども、4月上旬に幹部が集められて、ノルマどおりの販売にしたいってことは即ち還付金はやめるというご指示が出ました」の証言からすると、派閥側は所属議員に対して引き続いてノルマに応じた売上を目標とした貢献を求めるが、所属議員に対してこれまで行なっていた見返りの貢献は省くことになり、彼らのモチベーションを一定程度下げることになる。

 当然、派閥のボスという立場にある安倍晋三は所属議員のモチベーションを維持する、現金還付に代わる方策を自分で考案するか、幹部たちに相談して構築するかして、組織の変わらぬ結束を意図する責任を有していたはずだが、そのような責任主体として扱われていない。

 安倍晋三のこのような非現実的な存在性からも、4月の会合が事実あったことと認めることはできない。

 また西村康稔は自身の事務所に対して清和会のパーティーはノルマ分だけ売ればいい、自身の政治活動費は自身の政治資金集めパーティで確保していくからといった趣旨で立憲民主党の枝野幸男に対して答弁しているが、ノルマ達成が自身の出世の階段を一歩一歩登っていくのに役立つという性格を無視した、この奇異な発言は自民党下野後の2009年自民党総裁選に総裁の谷垣禎一、河野太郎と共に出馬、最下位となっているものの、政治の世界で頂点を目指す野心を抱えていることと明らかに矛盾する。

 確かに西村康稔は弁明で述べているが、2018年から4年間で不記載金額は100万円と少なく、ノルマ分だけ売ればいいの証言が正しく聞こえるが、実家は時計店を経営していたものの、夫人の父親である吹田愰は、wikipediaによると、衆議院議員となる前から岸信介と付き合いがあり、A級戦犯だった岸の政界復帰に尽力し、岸の首相就任に奮闘し、岸の政界引退に際しては後継指名を受けて、衆議院議員選挙に出馬、当選後は岸の娘婿であると同時に安倍晋三の父親である安倍晋太郎の首相就任に執念を燃やし、自治大臣も努めた政治家であるから、そのコネを受けて、西村康稔自身が政のみならず、財・官まで含めてパーティ券を売るコネに事欠かない状況にあることは容易に想像できる。

 西村康稔の安倍派清和研のパーティ券はノルマ分だけ売ればいいとした出世の意欲を欠いた発言と政治の世界で頂点を目指す野心を抱えていることと、結果、周囲から将来の首相候補と目されていることと、パーティ券を売るコネに事欠かない政財官の人脈を抱えているだろうこととに整合性を与えるとしたら、西村康稔は自分の方から与えられたノルマ以上のノルマを申し出て、パーティ開催のたびに達成、結果として還付分が少なかったものの、安倍晋三から人物としての高い評価を受け、自らは自己承認欲求を満たしていたとも考えることができる。

 このことはあくまでも推測に過ぎないが、限りなく疑わしいノルマ分だけ売ればいいの淡白さであり、4月と8月の会合をデッチ上げと見る要素とはなりうる。

 安倍晋三から現金還付中止を指示されて、各幹部が手分けして所属議員に電話で伝えたとしているが、事務局長が出席していたのだから、会合の日が平日なら、その場から事務局に電話を入れて、休日・祝日なら、日を置いて事務局職員に指示して一つの文面で複数のメールアドレスに送信できるカーボン・コピー(CC)形式で送信すれば、遥かに手っ取り早く、効率よく連絡することができる。わざわざ幹部の手を煩わす電話を用いたとしていることも、4月の会合の存在を怪しくさせる。

 もし現金還付が「不透明で疑念を生じかねない」という性格上、メールでは証拠が残ることが懸念されたとしたなら、幹部たちも現金還付の違法性に気づいていたことになって、電話での伝言は都合が悪い関係上の演出となり、やはり4月の会合はデッチ上げの可能性が高くなる。

 追及側は現実には現金還付と収支報告書不記載が続いていたことから、安倍派幹部4人が4月の安倍晋三の中止の指示を安倍晋三が亡くなったことの影響もあって徹底できず、8月の会合で4人のうち誰かが中止撤回を決めたと見て、質問が8月の会合に集中することになった。

 では、8月の会合についてそれぞれの証言を見てみる。

 西村康稔の自民党武藤容治に対する証言。

 「その後安倍総理、安倍会長が亡くなられて、その後、ノルマよりも多く売った議員がいたようでありまして、返してほしいという声が出てきました。それを受けて8月の上旬に幹部で議論をし、そしてどうするかと、還付は行わないという方針を維持するという中で、しかしこう返して欲しいという人をどう対応するか、色んな意見がありましたけれども、結局結論は出ずにですね、私は8月10日に経済産業大臣になりましたので、事務総長を離れることにもなります。

 その後どういった経緯で現金での還付が続けられる、継続されることになったのか、その経緯は承知をしておりません。その後、幹部の中で私が入った幹部の中で、そして議論は行っておりませんので、その経緯は承知しておりませんが、今思えばですね、安倍会長がもう還付をやめるということを言われたわけですので、事務総長としてしっかりとそうした方針を徹底してですね、少なくとも令和4年の還付はもうやめるということをしておけばよかったなと思っています」

 他の幹部も同様な答弁なのは整合性の点で不思議はない。8月の会合に出席していたとする安部派幹部の一人塩谷立は日本維新の会の岩谷良平に対して次のような発言をしている。

 「パーティーは1月から2月頃から売り始めていますので、多くの人がもう売ってしまったという状況の中で、8月に売った分を是非お願いしたいという声が出てきたというふうに私は理解をしております」

 4月と8月の会合に出席はしていなかったものの、還付現金不記載の違法行為を行なっていた、同じ安部派幹部高木毅は同じ日、2024年3月1日の衆院政倫審の弁明の中で次のように述べている。

 「私の事務所では、清和研のパーティー券代金専用の銀行口座を開設し、基本的に購入者の方にはその口座に振り込み入金して頂くという形で売上金を管理しており、パーティーが終わった段階で口座から引き出した現金を清和研事務局に持参して全額を収めるという運用をしていました」

 清和研の事務局側に対するパーティー券の売上入金が5月のパーティー終了後であるとし、パーティー券の販売開始を2月からと遅く設定したとしても、4月と8月の両会合に出席している安倍派の会計責任者である松本淳一郎事務局長はパーティ開催が1ヶ月余と迫る4月の会合の段階で既に売り上げている議員の存在を想定していなければ、事務局長としての事務処理担当の意味を失う。

 要するに安倍晋三が現金還付中止の指示に併せて2022年の5月のパーティに関わるノルマを超えた売り上げの発生を想定して、その分に対してどう対応するか、その対応策も同時に所属議員に伝える責任を有していて、各幹部は所属議員に手分けをして中止を伝えるだけではなく、対応策も伝えなければならなかった。だが、中止を伝えただけで終えている。

 特に7月に参院選挙があり、改選議員にとって選挙に自由に使えるカネだからと、返し貰えないかどうかを8月の段階で幹部に訴えていたとしたら、遅過ぎて、奇妙な不一致を生む。

 新聞報道によると、実際には参議院選挙があった2019年だけではなく、会合のあった2022年の安倍派改選参議院議員に対してパーティ券売り上げ全額がキックバックされていたと伝えていて、この報道が政倫審以後に知り得た情報に基づいていたとしても、そのキックバックは7月の参院選前でなければ、改選議員限定の意味を成さないから、8月の会合で返金を求めた議員の中には改選参議院議員は存在していなかった計算になるし、4月の会合で出席していた世耕弘成が安倍派参議院議員グループ清風会の会長を務めている立場上、参議院議員中心に電話で中止の伝達を行なっていただろうから、改選参議院議員に対しては現実とは異なる電話伝達をしていたことになって、4月の会合の現実性を失わせると同時に8月の会合の現実性も失わせることになる。

 4月と8月の会合を現実にあった話だと仮定したとしても、安倍晋三が4月の会合で指示した現金還付中止を全員で決めたというのが事実なら、中止の徹底を図るのが安倍派幹部としての義務と責任だが、4ヶ月も経った8月の時点で還付を望む声が上がり、そのことを8月の会合で話し合わなければならなかったとしていること自体が各人の義務と責任を果す能力を幹部という地位に反して有していなかった矛盾を曝け出すだけではなく、還付に代わる合法的な手段での資金手当ての方策を講じるのが安倍晋三亡きあとの派閥の結束を図るための義務と責任であるはずだが、話のどこにも義務と責任を果たそうとする努力の影すら見えないのは4月、8月の会合が実体を備えていなかった、いわば作り話であることの何よりの証拠となるだろう。

 極めつけは違法性の話がなかったから、還付現金の不記載に気づかなかったとしている点である。

 共産党塩川鉄也に対しての西村康稔の答弁。

 「あの収支報告書についても、事務局長に於いてこれ恐らく会長と相談されてたと思いますし、会計については会長と事務局長の間で行われてきたということでありまして、事務総長としてもまた他の幹部も関わってなかったと思いますので、そのときに収支報告書の話はしておりませんし、還付が適法か違法かといった議論も行っておりません」

 共産党の山下芳生の違法性を前提に現金還付中止の指示があったのではないのかという問いに対する世耕弘成の答弁。

 「8月に何かが決まったというようなこと、あるいは違法性について議論をしたということは全くないと。これが検察の調査の結果として示されてるというふうに思います」

 共産党の塩川哲也の塩谷立に対する追及。

「下村議員はその合法的な形で出すということがあるのではないかという案があったと言ってるわけで、この合法的な形で出すということが、そこには違法性の認識があったということになるんですが、こういう違法的な認識について、会合の場で表明をされていたということでありませんか?

 「その点については、あの私は認識しておりません。違法性のお話があったということも、具体的にはそういった話は出てないと思います」

 同じく塩川哲也対塩谷立。塩川哲也が8月の会合で下村博文がノルマを超えた分を個人の資金集めパーティに上乗せをして収支報告書で合法的な形で出すということもあるのではないかという案があったと2023年1月の記者会見で述べていたことに関して、不記載という違法性の認識があったから合法的な形で出すといった物言いになったのではないかといった趣旨の問いかけをすると、「それは現金をやめようという中で、それらが出たと私は理解しております。あくまであの不記載のことについては一切話が出ておりません」

 日本維新の会の音喜多駿「令和4年4月に安倍元首相はキックバックをやめると言った時、安倍元首長は違法性の認識を持っていたかどうかお分かりでしょうか」

 世耕弘成「そのミーティングではですね、違法性についての議論は一切行われなかったと思います」

 同じく音喜多駿が世耕に対して安倍晋三がキックバック中止を指示した際、世耕自身が「違法性があるやり方であると思いましたか?思いませんでしたか」と問いかけたのに対して、「ここは(4月の会合は)もう話し合いとか違法性を議論する場ではなくて、ノルマ通りの販売とするという指示が伝達された。そういう場だったというふうに思っています」

 要するに4月の会合で安倍晋三から「現金は不透明で疑念を生じかねないから、こうした現金の還付はやめる」と指示された際に違法性の話があったわけでも、違法性の議論があったわけでもないから、理由も何も察することなく、右から左へ電話で以って所属議員に幹部が手分けして中止の伝達を伝える仲介役をただ単に果たしただけということになる。

 ここからは自民党最大派閥、天下の安倍派の幹部という、それなりに矜持を備えた姿は見えてこないし、良識ある大人の姿さえも彷彿不可能で、単にガキの使いを果たしただけにしか見えない。

 義務感と責任感を含めて、このように幹部が幹部なりの実質性を備えていない姿を描き出す結果となっているのは、4月と8月の会合が実際にあった話ではなく、架空の話であることに伴った連鎖的な現象だからだろう。

 実際にあった会合なら、4月の時点で現金還付と還付した現金の収支報告書不記載に終止符を打つために幹部としての義務と責任を果たし得ていただろうし、幹部でいる以上、果たし得なければならなかっただろう。

 だが、何もし得ずに放置した結果、政治的大スキャンダルとなって、国民に対して大きな政治不信を招き、2024年10月の総選挙で自公与党割れという懲罰を受けることになった。

 想像するに、連続在任日数で歴代1位であることと、銃撃死後、首相経験者では1967年の吉田茂元首相以来、戦後2例目となる国葬を2022年9月27日に受けた安倍晋三の輝かしい経歴のメッキが剥がれて、汚れたカネの力に頼って政治を動かしてきた政治家としての評価を受けることを恐れ、政治資金規正法違反の罪となる現金還付・収支報告書不記載の強力な推進者とされることから少しでも遠ざけるために、2023年11月頃からマスコミに騒がれ出して急遽打つことになった芝居が4月、8月の会合ということなのだろう。

 安倍晋三が現金還付を中止したという事実が欲しかった。現金還付中止は収支報告書不記載の中止を伴うから、そのような事実を以って安倍晋三を政治資金規正法違反から距離を置き、その罪薄めを謀った。

 現実世界では5月の安倍派政治資金集めのパーティでも引き続いて現金還付と収支報告書不記載の違法行為が続けられていたのだから、このことと照らし合わせると、安倍晋三に向けた幹部たち自身による罪薄めの自作自演の猿芝居という結末しか見えてこないのは当然のことだろう。

 また、罪薄めの自作自演に迫られたということは安倍派幹部たち全員が現金還付の事実と収支報告書不記載の事実を前以って知っていたことを証拠立てることになる。違法性を承知していたからこそ、芝居を打つ必要に迫られた。
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2025年1月31日衆院予算委:参考人招致全会一致議決自民批判対長妻昭の刺激も面白みもない陳腐な反論

2025-02-06 11:36:46 | 政治

 2025年1月30日の衆院予算委員会で旧安倍派の事務局長兼会計責任者松本淳一郎の国会参考人招致について採決が行われ、野党側の賛成多数で招致が議決された。自民党安倍派の政治資金パーティ券ノルマ超過売上分が派閥幹部等、多くの安倍派議員に現金還付され、それを収支報告書に不記載とし、裏ガネ化していた不正行為に(ほかの派閥も行なっていたが、安倍晋三率いる安倍派程大掛かりではなかった)派閥の事務局長兼会計責任者として深く関わっていた松本淳一郎から、未だ明らかにされていない、安倍晋三や派閥議員の関与の実態等を聞き質して明らかにしたい目的からである。

 参考人招致に関わる議決は全会一致が原則だそうで、賛成多数による議決は1974年以来の51年ぶりだそうだ。これも国会議席が与野党逆転となったことと、このこととの関連で予算委員会委員長に野党第一党立憲の安住淳が就任していることに関係があるのだろう。

 招致が議決された松本淳一郎は還付現金収支報告書不記載のスキャンダルが発覚後、告発を受け、昨2024年10月に政治資金規正法違反(虚偽記載)で禁錮3年、執行猶予5年の有罪判決が確定している。

 但し参考人招致に法的拘束力はなく、出席は任意で、松本淳一郎は「裁判で証言した以上のことはない」との理由で招致には応じられないとの意向を関係者に示しているという。出席は見込みなしということなら、議決した手前、出席させることができるかどうかは野党の腕の見せどころとなる。

 自民党は慣例の全会一致が反故にされ、賛成多数での議決が腹に据えかねたのか、それとも疑惑がほじくり返されて、何か出てくることを恐れたのか、翌1月31日の衆院予算委員会で全会一致に抗議の発言をしたとマスコミが伝えていた。

 その抗議に対して質問に立った立憲の長妻昭代表代行の、同じくマスコミが伝えていた反論が刺激も面白みも何もない、陳腐な内容で、もう少しまともなことが言えないのかと思ったものの、マスコミ記事のみでは下手に批判できないと思い、質疑の動画をネットからダウンロードして、文字起こししてみた。

 その結果は最初の印象どおりに刺激も面白みも何もない、陳腐そのものの長妻昭の反論に過ぎなかった。

 自民党小野寺五典と中曽根康隆の全会一致に抗議した発言、中曽根康隆の抗議をターゲットにした長妻昭のまとも過ぎる反論と、最後に参考人招致の出席を促すよう、総理大臣石破茂に迫った、同じく立憲の奥野総一郎の埒のあかない質問を取り上げてみる。

 小野寺五典「自由民主党の小野寺五典です。冒頭一言申し上げます。当初の予定であれば、この委員会は昨日から始まる予定でありました。熟議を掲げる国会であります。一日一日を大切にしなければなりません。安住委員長にはそうした点も十分考慮し、公平な委員会運営をお願いしたいと思っております。

 で、さて、これから審議する予算でありますが。国民所得の拡大はもちろん、経済、成長、地方創生、外交安全保障など我が国にとって重要な政策の裏付けとなる予算となります。野党の皆さんとも誠実に向き合いながら審議を進め、一日も早い成立を期したい、そのように思っております」――

 国民生活と国家運営に直結する重要な予算審議が参考人招致の議決で一日先延ばしにされたと暗に野党を批判しているが、参考人招致に自民党は反対したのだから、当然、それを阻止したかったが、
総選挙で過半数を割った悲しさ、少数頭数で阻止できなかったことの悔しさが口を突いて出たといったところなのだろう。

 但し参考人招致に法的拘束力はなく、出席は任意で、松本淳一郎は「裁判で証言した以上のことはない」との理由で招致には応じられないとの意向を関係者に示しているという。出席は見込みなしということなら、議決した手前、出席させることができるかどうかは野党の腕の見せどころとなる。

 しかし小野寺五典の悔しさは実際には国民に真摯に向き合う姿勢を全面的に欠き、自民党自身にのみ向き合う姿勢が言わせたご都合主義に過ぎない。

 なぜなら、立憲の奥野総一郎も質問で取り上げているが、最近に至っても政治資金パーティに関わる疑惑は十分に解明されていない、政府の説明は不十分だと見る国民が世論調査で無視できないまでの多数を占めているからなのは断るまでもない。無視できない多数に対する無視は国民に向き合う姿勢を欠いていることによって可能となる。

 小野寺五典は少しあとで、「強い日本を作って国民を守る、そのための強い経済、地方、人材育成、外交安保など様々な切り口から令和7年度予算について議論を深めていきたいと思っております。その第一は強い経済の実現です。日本は過去30年デフレが続き、その間コストカット型経済に走り、本来振り向けるべき投資を国内より海外に加速させてきました。その結果、国内の資本蓄積は細り、成長率は低下。世界に比べ、日本だけが低空飛行の状態が続いてまいりました」と言って、国家と経済の立て直しの緊急重要性を言い立てているが、過去30年のデフレも、コストカット型経済も、投資の国内よりも海外加速も、国力の日本だけが低空飛行も、自民党政治が招いた惨状で、反省から入るべきを、そうしないのは実際のところは国民に向き合う姿勢を欠いているからにほかならない。

 次が中曽根康隆。自分達にのみ向き合う姿勢はより露骨になっている。

 中曽根康隆「自由民主党の中曽根康隆です。冒頭一言、申し上げたいと思います。熟議を重ねながら、参考人招致を審議の条件とし、国民生活に直結する予算の審議入りが一日遅れたことは甚だ遺憾であります。また、安住予算委員長の職権により行われた昨日の参考人出頭決議についても言及をさせて頂きます。

 賛成多数による議決は51年ぶりとはいえ、判決が確定した当事者という観点からは過去に例はなく初めての事例となりました。これは長年積み上げてきた全会一致の原則を逸脱するものであると共に司法権の独立と人権法の観点からも重大な禍根を残すものであり、極めて遺憾であります。

 さらに言えば、立憲委員一名が遅刻によってこの重大な採決を欠席されたことは大変遺憾であります。以上申し述べて、質問に入りたいと思います」

 政治資金収支報告書に記載すべきカネの収支を不記載とし、闇のカネとした。最大派閥の清和政策研究会(安倍派)に至っては所属99人のうち77人が関係し、2018~22年の5年間で総額6億7654万円が不記載、闇のカネとしていたという。

 この"5年間"は政治資金収支報告書の不記載という虚偽記載罪の公訴時効が5年となっているから、5年以前は罪に問えないというだけの話で、いつ、誰が始めたかによって、闇の深さに違いが出てくるが、事の真相自体が闇に葬られたままの状態になっていて、闇が闇のままに放置され、その放置が国民に政治不信の形を取らせ、2024年10月27日衆議院議員選挙で自公与党過半数割れという衝撃的な悪夢を自公与党に与えた。

 自民党としたら、参考人招致に反対したのだから、これ以上の真相解明はご免蒙り、ご免蒙ることで、いわば真相を薮の中に隠すことで、悪夢の再来を断ち切りたいと考えているのだろう。

 こういった姿勢自体が真相解明を求めるより多くの国民・有権者に真摯に向き合う姿勢を持たず、自分たち自民党のみに目を向けている、自民党のみと向き合っている姿勢であることの論拠とすることができる。自分勝手も甚だしい。

 では、中曽根康隆の野党批判に対する立憲民主党長妻昭の面白みも何もない、陳腐な反論を見てみる。

 長妻昭「立憲民主党の長妻昭です。よろしくお願いします。先ずですね。午前中、中曽根さんが一方的にお話になった件について一言申し上げます。旧安倍派のですね、。松本元事務局長はですね、この昨日の議決は全会一致ではなく、議決するのはおかしいなどなどと、滔々と述べられたわけですね。 私は相当的外れだったと思います。

 誰がこんな議決をさせる原因を作ったのか? 国会で膨大な時間を使わせてんのは誰なのか? 全く当事者意識が感じられません。率先して真相解明する自民党がそれをしないから、議決せざるを得なくなったんではないでしょうか? (野党席から拍手)

 その自民党が、その自民党が何と議決自体に反対。採決でも反対する。とんでもないことだと思います。本来は、自民党がですよ。今ヤジ飛ばしておられますけれども、松本元事務局長からきちんとヒアリングをして、キックバック再開に関わった政治家を特定して発表していればですね、呼ぶ必要ないんですよ。(野党席からパチパチと拍手)

 それを怠ったために呼ばざるを得なくなったと(声を大きくして)、ということをですね、よく認識いただきたい。どの口が言うのかということを強く申し上げたいというふうに思います」

 長妻昭のこの反論が面白みも何もない、陳腐な言葉を並べただけだと思わなければ、余程鈍感だと言わざるを得ない。長妻昭の発言にパチパチと拍手を送った野党議員はみな鈍感の部類に入れることができる。

 自民党は本質のところでは真相解明に後ろ向きだった。国民・有権者の真相解明を求める声に真摯に向き合う姿勢を見せず、逃げの姿勢を打った。例えば安倍派に関して言うと、5年間で総額6億7654万円という誤魔化してきた金額の大きさ、誤魔化した人数が所属99人のうち77人の多さからしたら、松本淳一郎だけではなく、安倍派幹部5人も証人喚問が当然なはずだが、ウソをつけば、3カ月以上10年以下の偽証罪に問われ、相当な理由がなく出頭や証言を拒否した場合は1年以下の禁錮又は10万円以下の罰金が課せられる、ウソはつけない、出頭はできても、証言は拒否できない、制約の厳しさに断り続けてきたところに逃げの姿勢が現れている。

 国民の多くが自民党のこのような有り様に潔くない印象を受け、旧統一教会の問題も影響したのだろうが、直近の問題として10月の総選挙で懲罰の意味もあったはずで、自公への投票を回避、結果として過半数割れという敗北を招くことになったはずだ。

 長妻昭はこのことを指摘し、「真相解明は我々野党だけが求めているのではない。多くの国民、多くの有権者が求めていて、我々野党がその声を代弁して真相解明を求めてもいる。国民・有権者の求めにいつまでも後ろ向きの姿勢でいたなら、今後の国政選挙で10月の総選挙の二の舞いを演じることにならないか。演じてもいいのか」と、選挙と紐付けて迫るべきだった。

 少なくとも、夏の参院選挙で昨年の総選挙の二の舞を演じてもいいのかといったことを匂わせなければならなかった。少しは迫力ある追及ができたはずだ。

 勿論、自民党としたら、選挙への悪影響を最も恐れているだろうからである。

 但し真相解明がされればされたなりに選挙への悪影響は付き纏う。政権交代を余儀なくされるかもしれない。その真相解明が誰か派閥の領袖が築いてきた輝かしい経歴をメッキだったと暴露する性格のものなら、派閥連合体と言ってもいい自民党の体質そのものを醜悪なものと曝す危険性を抱えることになるから、自民党の長い歴史に傷をつけることになる汚点を最小限にとどめるために真相を薮の中に置いたまま選挙に敗れて政権交代の道を選択する可能性も浮上する。

 もし自民党の歴史に傷がつくことを恐れて真相解明に後ろ向きの姿勢を続けるようなら、そのことを優先して、国民・有権者の真相解明を求める声、政治の信頼回復を求める声に真摯に向き合おうとする意識を置き去りにしているからで、政治の基本から外れた国民・有権者に背を向ける行為にほかならないと、野党一つになって一大合唱すべきだろう。

 長妻昭の反論がまとも過ぎたのは食うか食われるかの戦う姿勢が不足しているからに違いない。大体が前日の衆院予算委で参考人招致に自民党が全員で反対したこと自体が既にこれ以上は真相解明を前へ進める気はないという、ある意味サインであって、それを読み取ることができていたなら、「松本元事務局長からきちんとヒアリングをして、キックバック再開に関わった政治家を特定して発表していればですね、呼ぶ必要ないんですよ」はするはずもないこととして、口を突いて出ることはない発言だったが、読み取ることができていないから、甲斐もないことを言うことになり、この点にも戦う姿勢の不足を感じ取ることになる。

 この戦う姿勢の不足は、多分、野党第一党の議員でございますと胡座をかいているからではないかと疑えなくはない。

 最後に立憲民主党の奥野総一郎が松本元事務局長が参考人招致の議決に従って国会に出席するよう石破茂に何度も求める埒のあかない質問を取り上げてみる。

 奥野総一郎(冒頭)「私は先ず、参考人招致の議決について総理に伺おうと思いますが、総理ね、読売の一月の世論調査ではですね、政治とカネの問題。自民党のこれまでの対応は十分だと思いますか?という問いに対して、『思う』はたったの9%なんですよ。読売ですよ。

 そして『思わない』が86%。ということは多くの国民、殆どの国民は自民党の対応は不十分だと、こう思ってるわけですよ。8億円を赤い羽に寄付したとか、あるいは政倫審も勢力的に開いていますが、全く事実は解明されてない。

 国民はそれをよく見てるわけです。そして松本氏の参考人招致についてはこれTBSの一月調査ですが、招致すべきは61%。する必要はないは29%なんですね。これも多くの国民が招致に賛成してるわけです。それも当然です。

 パネルをご覧ください。これはまあ何回も言われてきたことでありますけれども、松本氏は22年8月の幹部会の結果、これ裁判での証言ですけれども、安倍派の幹部会の中で還付は再開したと。還付やりますとなって、4人の議員がそれぞれに連絡をしたということなんですね。これに対して政倫審では下村、西村、世耕各氏は、『そんなことは決まっていない』ということですね。

 塩谷さんはちょっと違いますけれども、 3人、主要幹部3人とこの松本氏の証言が食い違ってる。これが一つ。そして最近の政倫審でもですね、多くの議員が一連の問題が発覚するまでは記載を知らなかった。そして還付金を収支報告書に記載しないようにとの党の指示は派閥の事務局、これは松本氏ですよね、松本氏から、事務局からそれぞれの秘書に対して行われていた。そう発言しているんですが、こんな大事なこと、本当に議員に知らせなかったのか、知らなかったのか。

 ここも一つポイントになりますが、これも松本氏に聞かなければならない重要な問題だと思います。松本氏は裁判で述べていますが、前任の鳩山さんという方ですね、その方から事務局長を引く継ぐ際、2019年1月頃と言ってますが、キックバックの件を引き継いだとこういうふうに述べているわけです。

 経緯を知るキーパーソンなんですよ。そして新たに求めている、その招致を受けることはですね、私はまさに国政調査権の発動であって、世論の求めに応じた当然のことだと思うんですね。ですから、総理はこの議決に従って、国会の議決は重いんですよ。自民党は反対されたかもしれない。しかし議決は通りました。

 総理はきちんと国会の議決に従って松本氏に参考人招致、自民党総裁として応じるように促すべきだと思うんですよ。総理、促して頂けませんか?」

 石破茂「検察による厳正な捜査が行われ、決着がついておるものでございます。また、民間人を参考人として招致するということについては、慎重であるべきで、さらばこそずっと全会一致ということが行われてきたと承知を致しております。国会の議決は国会の議決として、それは尊重すべきものではございますが、私ども自由民主党としては民間人、そしてまた検察の捜査、それなりの決着がついているもの、そういう方を参考人として招致するのは慎重であるべきだという立場には変わりはございません」

 奥野総一郎「係争中のときにこの話をすると、係争中だから、司直の手にかかってるから呼べない、聞くべきじゃないと話になるわけですね。そして判決が出て、確定して終わった。終わったら呼ぼうとしたら、今のような答弁になるんですね。じゃあこれ、呼べないじゃないですか? 国政調査権発動できないじゃないですか?自ら縛っていいんですか? おかしいですよ。これだけ世の中が求めているときに僕は政治に対する信頼を失う、失ってる大きな原因だと思います。この大変なときにこそ、きちんと解決すべきだと思います。

 もう一回聞きますが、総理は促すつもりはないということでよろしいんですね」

 石破茂「国会の議決がなされたということはそれなりに重いものだと思っております。国会の議決というものはなされた上で、その方がどのように判断されるかということについて、今予断を持って申し上げる立場にはございません」

 奥野総一郎「委員長。これまでじゃあ話を伺ったことありますか? 岸田前総理は火の玉になって、先頭に立って聞き取りはあると。私不十分だったと思いますが、それなりに一生懸命やっておられたと思うんです。石破総理はどうですか? 再調査もしない。新たな事実が出てきても再調査しないと仰り、そしてこの松本氏の参考人招致も促さないと。先程反対だとこう仰ってるわけですよ。

 これでは解決できません。国益に私は反すると思うんですね。もう1回聞きますが。今まで聞いたことありますか?そして松本さんから話を聞いたことがありますか?そしてこれから参考人招致を促そうと。もう一度聞きますが、促すつもりないということなんですか」

 石破茂「この方、ただいま民間人でございます。国会の議決がございました。どういう判断をされるか、私には今申し上げる立場にはないところでございます」

 奥野総一郎「お答えになってないんですね。結局本人次第だとおっしゃるが、しかしいくら民間人であっても、自民党総裁として責任と責任者として促すぐらいできると思うんですね。促してダメだというのあるのかもしれません。これまでね、そういう話はされましたか?

 そしてされてないんであれば、せめて出なさい、国会の場で説明しなさいと。総理を促すべきだと思うんです。それもしないんですか」

 石破茂「先程来申し上げておりますように国会の議決がございまして、我が党は反対を致しましたが、国会の議決がなされたものでございます。で、今その方、民間人であって、私ども自由民主党と関係が直接ある方ではございません。これをどのようにご本人が判断されるということが分からない時点で、出なさい。なぜという立場に私はおりません」

 奥野総一郎「ちょっと聞き方を変えましょう。自民党の政治改革本部ですか?として聞き取りをすればいいじゃないですか。民間人であっても、国会じゃいけないんだと言うんだったら、自民党総裁として自民党の中で聞き取りをして、それをここでそれを述べてくださればいいんじゃないですか?それもやらない、それもできないんでしょうか」

 石破茂「検察による厳正な捜査が行われて、結論が出てるものでございますが、それでは足りないと。従って国会で参考人として申し述べよというのが現在の国会の立場でございます。それをご本人がどう判断されるか、私どもとして検察による厳正な捜査が行われ結論が出ており、今は民間人であるということは、それは尊重していかねばならない。法治国家である以上、当然のことでございます」

 奥野総一郎「今の私の質問に答えていないんですね。その自民党の中で総裁として聞いてはどうですか、と。それもやらないんですか、という質問に答えていただいてないんですよ。

 極めて後ろ向きじゃないですか? これではいつまで経っても、この問題終わりませんよ。いくらやったって、法案が通った、何したって、この問題が出てきてますよ。この問題は決して終わらないんですよ。

 だから、松本さんに語って頂くことが大事だと。裁判と同じことでもいいんですよ。そのことは国民を知らないわけだから。

 どうですか、総理。裁判で語った以上のことは語れないとおっしゃったのかもしれないけども、同じことを繰り返していただいたって構わない、国会で。どうですか」

 衆院予算委員長安住淳「質問ですかね?」

 奥野総一郎(自席に座るが、立ち上がって)「じゃあ、まあまあこれでもう終わりにしときますが、極めて後ろ向きだと思うんです。これじゃあ国民は納得しません。さっきの話ですけど、1割の方しか納得しないということを申し上げておきます。そしてこの問題は後々これからきちっとここでやっとかないとですね、なかなか、あの、終わらないと思います。えー、このぐらいにしときます。

 え、そして次はフジテレビ問題ですが、昨日ですね。官房長官に伺いたいんですが、え、政府広告を――」

 参考人招致させることに議決された。出席するか否かは本人の任意ということなら、出席させることができるかどうかは質問者の腕の見せどころなのに、同じ質問を繰り返す堂々巡りを演じたに過ぎなかった。途中で埒のあかないことをしているなと自ら気づくことはなかったのだろうか。

 参考人招致の採決に自民党全体で反対なら、その反対の意思に倣って、招致に応じることはないだろうと予測がつく。石破茂が、「民間人だ、民間人だ」と言っても、自民党の伝統ある最大派閥安倍派のメシを何年間か食ってきた民間人である。自身も表沙汰にできないことを色々と隠してきているだろうから、仲間意識の方に引っ張られる力の方が強いはずだ。

 取り調べで22年8月の幹部会の中で還付は再開したとしている証言が他の幹部と違うとしているが、約2年間を置いたそれぞれの証言ということを考えると、口裏を合わせて記憶違いを演出、実態を隠すための撹乱戦法ということもありうる。

 とは言え、読売の一月の世論調査を持ち出して、自民党の対応は十分だが9%、不十分だが86%の数字を示したのだから、「ということは多くの国民、殆どの国民は自民党の対応は不十分だと、こう思ってるわけですよ」と数字どおりの解説で済ます策のないことをするのではなく、86%はただ単に真相解明を不十分だと思っているということではなく、政治資金パーテイに関わる政治とカネの問題が発覚以来、政府と自民党が真相解明を求める国民の声、有権者の声に真摯に向き合ってこなかった姿勢に対して不満を示した国民の割合、有権者の割合なのだと位置づけて、「その不満を解消して政治の信頼を回復させる大きな手立てが今回の参考人招致を実現させ、知っていることを正直に話させることではないのか。実現させるためには石破総理が先頭に立って、国民の声、有権者の声に真摯に向き合わなければならないはずだ」とでも迫るべきだったろう。

 もし石破茂が、「検察による厳正な捜査が行われて、結論が出てるだ」、「今は民間人であるということは、それは尊重していかねばならないだ」と言ったら、「真相の解明を求める国民・有権者に真摯に向き合わずに、真相を隠そうとする自民党自身にだけ向き合う逃げの姿勢ではないか。政治は何事も有権者とその家族、即ち全ての国民に向き合うことから始まるはずだが、石破総理は国民・有権者に向き合わない政治スタイルでやっているのか」と反論すればいい。

 「真相解明が不十分だ」、「派閥幹部の説明は不十分」といった世論調査の高い確率を武器に国民・有権者に真摯に向き合わずに背を向けているから、世論調査のこういった数字が弾き出される結果となっているのではないのかと、"国民・有権者と真摯に向き合っているのか、真摯に向き合うことができないでいるのか"の一点で押していく。

 そうすれば、埒のあかない堂々巡りの追及を避けることができる。

 現在の石破自民党は国民・有権者に対して真摯に向き合わない姿勢を続けるに応じて去年の衆議院選挙に引き続いて、票の一票一票失っているかもしれない。自民党議員の目にも、国民・有権者の目にも見えない、さながら自民党終末時計といった具合で票が失われつつあるかもしれない。

 だとしても、石破自民党からしたら、国民・有権者の真相解明が不十分だ、説明責任を果たしていないという声に真摯に向き合わうのも地獄、向き合わないのも地獄、どう対応していいのか窮地に陥っているのかもしれない。

 2025年2月4日のNHK NEWS WEB記事が、「既に検察の事情聴取や刑事裁判の公開の法廷でも述べたとおりであり、これ以上、申し上げることはない」と衆院予算委員会理事会に文書で回答があったと伝えていた。そもそもからして予想がついていたことだが、出席に向けた野党の腕の見せどころがこうまでもお粗末では、予想を覆すどころか、本命ガチガチが当然といったところかもしれない。

 以上見てきた芸のない国会議員に国民の税金で給料を払っていると考えると、複雑な気持ちになる。
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蓮舫を叩く:女だからではない、自分は打たれ強いとする何様装いは事実無根の自己正当化バイアスな動画配信

2025-01-19 06:31:36 | 政治
Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 2024年7月7日投開票都知事選敗北後の2024年7月13日蓮舫インスタライブの続き。叩き甲斐のある自己正当化バイアスの宝庫と言える。

 蓮舫「私ねえ、実は私事(わたしごと)として見たら、(自身に対する攻撃・批判の類いは)『言ってれば』という勢いなんだけど、次の子たちとか、今政治家やっている子たちがここまで強くなれないと思ったときに『ああ、ダメだな』と思って。本当にやらなきゃ」

 長男村田琳「次の子が政治家になるのは関係がないと思ってるけど」

 蓮舫「私もそうだったけど、今回だけは反応が違うじゃない?女政治家負けた。何やってもいい的構図で、凄いよね」 

 長男村田琳「今、20歳とか、30歳とか40歳でこれから政治に関わりたいという――」

 蓮舫(急に笑いだし、大きなマグカップを傾けてカメラに映す)「飲んでいるの。空っぽではありません」

 長男村田琳「これからなりたいって思う子たちが叩かれると思うのは凄い嫌だなって思う」

  蓮舫「それを作っちゃった要因が私ってなるのも嫌だし、・・・・ だから、私は民間人でも声を上げる。挙げた声は残るって、・・・じゃないけど。その声は必ず誰かの力になる。あー、そうだなあ、誰かの力になれるんだったら。いいなあ。これだから恐ろしい。私だって恐ろしいと思いますよ。

 難しいねえ。私ねえ、今回、松尾あきひろさんていう知り合いで、戦っている弁護士の総支部長がいて、立憲民主党なんだけど、彼が私が演説する前に喋ってくれたんだけど、あ、こんなにクールな子が泣きながら言うんだ、という一言があって、お嬢さん小学生で、自分の娘が大人になったときにおっさんたちにね、頭を下げなくて済むよう、昭和の人たち?、そんな社会を作りたいといったときに、『あっ、こんな30代の子たちが野党から政治家になろうとしてくれている健全な民主主義ってあるんだって凄く思ったんだよね。

 あれは素敵だった。凄い素敵だった。ちゃんとこうやって自分のための声を出すってとっても大事で、こういう国を作りたい、こうしたいって言われれば、そこには自分事のこうあるから、そうされたいんだっていう演説の文化になってくれたら、多分、有権者とか国民も自分事として考えてくださるんじゃないかなあというのが今回見えた景色だった。

 (ライブ参加者に)何か私に聞きたいこととかありますか?取り敢えず強くなれないからね。人を(?)発見してくれたのは嬉しかったというのはそのとおりで、そうなの、政治って、多分、マスに対して、票を持っている人に対して、カネを持っている人に対して、力を持っている人に対して働きかけるのが自分の当選だったのが、そうじゃなくって、一人じゃないんだよっていう人に語りかけることで、こんなに熱を帯びた街頭演説の双方向ができたってのは私にとって誇りなんです。達成感なんです。

 一人にちゃんと見てるんだよっていう政治があっても、いいんだって気づいて、それに呼応してくれた人方たちが、一人スタンディングしてくれたり、一人街宣してくれたり、名前があるのに蓮舫を応援するとカミングアウトしてくれたり、これが新しい民主主義の形だったなあ、生まれたかなっていうのは、すごく私の力になった」
 
 長男村田琳「次の選挙は?」

 蓮舫「今はねえ、国政選挙を考えていない。だって、国政から卒業して、都知事に手を挙げて、凄い景色を見たんですよねえ。まあ、千人単位で聴衆が増えてくる演説会場って初めてで、2009年のときもなかったから、そうするとやっぱり毎晩帰ってきて、自分の演説をここが悪かった、ここが足りなかった、実は今でも言うんだけども、あそこの言葉がこれが足りなかったとか、演説を含めてあそこまで聞いてくださった人たちがいて、残念ながら結果を出せなかったんだったけれども、それでも120万を超える人が蓮舫と書いてくれたことに対してこれでまた国政に戻るっていうのはちょっと私の中では違う」

 長男村田琳「うん?そうなの?」

 蓮舫「だって、私からはなんか渡り鳥みたいじゃない?」

 長男村田琳「言い方は悪いけど、そういうものだと思って・・・。あの結果を見て、蓮舫にまだまだ期待をしてくれていると言うか――」

 蓮舫「あれは都知事として頑張った応援なんだから、次のステップでまた国政ですかっていう声は聞いていないんですよ、今回。自分の中で整理をつけなければいけないと思ってて、一旦ピリオドだなって思うんだよなあ。

 結果が出せなかったし、もう一度経験しての声があるから、何ができるのかなって実は今、考え始めていて、考えてみたら、大学2年のときから芸能界デビューして、大学出て芸能界に入って、18年ぐらい芸能界に行ったり、中国に留学行ったり、それから政治家を始めて、10年は経って、突っ走り続けてきたから、自分は他の何かになれるんだってことを考えたことがなかったの。

 ほかの何かになれるのかなっていうのも、今ちょっと不安の半分ありながら、無職なんだね(息子と同時にアハハハと大笑い)。

 長男村田琳「・・・・、やりたいことできるじゃん」

 蓮舫「そうなの。やりたいことって何だろうって思って、今回、双子の育児の話?靴紐の話なんか今覚えていないけど、5歳のときかな、靴紐やっぱり結ぶの、ちゃんと巻けなかったゆえにもっとあの話をすべきだって。次から靴をマジックテープで止めたの。最悪、最悪、靴紐巻けなかったからって、マジックテープに戻した母親って、最悪だと思ってて。

 でもね、あのことを自分の子として思ってくれる人は実は何人かいて、若い記者とかも、背中を押されましたとか色々言って、みんなの声聞くよ。みんなの育児、孤独じゃないよって、そういう聞く場所っていうのもやりたいなあと思っていて、だから、蓮舫に聞いて貰いたいことがある場所っていうのはこういうふうにインスタライブでやってみるのもアリかなと思って、私もこういうふうに誰かの力になれるんだったら、普通に実は凄くやりたいことかなあってのは思っている」

 長男村田琳「本来日本国民と国政、あるいは都政というのは本来こうあるべきだとすべきではないと思う。やっぱりこうあるべきとなっちゃうっていうのは仕方ないことだと思っちゃう。蓮舫が国政、都政じゃなくて、もっともっと近くに寄るよってやりたいことがあったら、蓮舫に試させてみようてことが今より多くなるかも知れないね」

 蓮舫「うん、多分、今まで以上に繋がっている感が凄くあって、何か凄いなあ、何かこうやっても繋がってる感があって、有難ないなあって凄く思う。女性の見方ではいつでもなく、男性の見方にもよる。子育てでプレッシャーを感じるっていうのはやっぱ凄くきつくて、本当は子育てって楽しいんことじゃない?だけど、楽しめないの。なぜなのか、プレッシャーしか感じないから、そういう仲間とか、友達とか、先輩見ていると、あ、きついんだって思っちゃうのは実は凄く嫌な瞬間で、ほかの世界に向けて、今双子の話をしているんだけどね、こんなに楽しかった経験てないんだよね。

 それをもっともっとみんなに言いたくって、なぜなんだろう、そんなキツイの、辛いの、仕事やばいの、カネ足りないのと思うと、キツイなあと思って。やっぱ、そうだよねえ。

 多分、相手は私に対してパワーハラスメントとは思っていない方がヤバイんだよね」

 長男村田琳「今回は息子とかじゃなくて(?)、パワハラの、パワハラを表現したのが今回の蓮舫に対するバッシングだと思っている。東国原さんだとかディープさんが生理的に嫌われているとか、嫌われる人間だとかいうのを、一つに括っちゃいけないんだと思うだよね。

 でも、蓮舫だから、言っても、何も返ってこないっていう、別にこれで自分の評判に関係ないから言っちゃおうよって言えるのであって」

 蓮舫「だから、結局、何ていうのかなあ、視聴率とか、反応とか、自分への評価とか、厭らしい資本主義が透けて見えるんだよね」
 
 長男村田琳「むしろこれって、メディアとかじゃなくて、・・・・・虐げられている女性、男性、パワハラを受けている人たちってたくさんいると思うんだよ。これが今回メディアとして出たのが蓮舫っていう大きな看板だったから、これをじゃあ、私はパワハラを受けてるけど戦います。じゃあ、 私はここで戦うけど、あなたたちも受けてる。フィールドってのがあるから、それも一緒に解決していこうよっていうのをそう言えたら、そう、もっと。 あのね、今回面白かったんだけども・・・」

 以上の発言を取り上げる。話が理路整然としていない。何度も読み返さないと、意味が取れない個所が相当ある。インスタライブを直接聞いている視聴者は聞き流してしまうこともあるに違いない。だが、支持者、あるいはファンだろうから、問題にしないのかもしれない。

 東国原とデーブスペクターに批判されたことが、あるいはそのほかからも色々と批判を受けていたのか、余程癇に障っていたらしく、それらに対する反論に区切りをつけることができず、同じ発言を繰り返している。周囲の批判を当初は「言ってれば」と無視する態度でいたんだけれども、「次の子たちとか、今政治家やっている子たちがここまで強くなれないと思ったときに『ああ、ダメだな』と思って。本当にやらなきゃ」と、前のところで挙げたほぼ同じ理由で戦うことにした。いわば反論に出ることにした。  

 理由は尤もらしいが、「次の子たち」や「今政治家やっている子たち」が「ここまで強くなれない」の意味するところ、自身は打たれ強いが、同性の後進や同輩は打たれ弱いと結論づける、あるいは決めつける根拠が何も説明されていない。いわば彼らは誰もが打たれ弱いと画一扱いし、頼まれた訳でもないのに私が守ってやらなければと気負っている。それぞれに意志を持った一個の自律した存在と看做さず、多様性や潜在的能力を考慮することもなく、庇護すべき弱い存在と意味づけている。

 このことの裏を返すと、蓮舫はそれ程にも自身を何様に装わせている。あるいは大層な庇護者に見立てている。

 最初から批判や誹謗中傷に覚悟を持って政治家を志し、そういった攻撃に強い女性も存在するだろうし、当初は傷ついても、自身が信じる言葉を発信し続けることによって打たれ強い政治家に変身していく女性も存在するに違いない。あるいは、「私をちゃん付けで呼んだ」、「10何年、話したことがない人だ」、「携帯も知らなければ、ご飯も食べたことない」といったどうでもいいことで大騒ぎするのではなく、反論するだけの価値がある批判かどうかの観点にのみに立って冷静に対処する賢明な女性も様々に存在するはずである。

 だが、自分以外は一様に打たれ弱く、自分は打たれ強いとする。実際には些末なことに自分から振り回されにいき、大騒ぎし、それを強がりで誤魔化す姿を曝しているだけのことで、打たれ強さなど微塵も見えない。その思い上がった固定観念は相対化能力の欠如、論理的思考力の欠如を否応もなしに示すことになり、ここにも「自分の考えは常に正しい」とするだけの自己正当化バイアスを見ることになる。

 しかも既に触れたように後に続く政治家を「子たち」と半人前に見立てた下の者前扱いは自身を上の存在に置いて政治家としての経歴の多少で人間の価値を決める、人間の実質を見ない形式主義そのもので、テレビの世界で報道・情報番組のレポーターやキャスター等を約5年間務め、参議院議員約20年も務めていながら、その形式主義は過去に人間の姿について満足に学んでいなかったことになり、滑稽な逆説を示すことになる。

 長男の村田琳が政治家に「これからなりたいって思う子たちが叩かれると思うのは凄い嫌だなって思う」と発言したのに対して蓮舫が「女政治家負けた。何やってもいい的構図」は許せないと応じている意味は二通りに解釈できる。

 一つは蓮舫個人に対する批判、あるいはバッシング、攻撃等を「女政治家」全般の問題へと転化し、蓮舫という個人の問題ではないとすることで、蓮舫の個人性や個人的資質を問題外に置くことを可能とする点である。結果、「女政治家」であるという一点でバッシングの対象にしていることになり、男尊女卑時代の前近代的男女差別観に毒された男たちをバッシング主体に位置づけていることになる。

 この方程式の中に東国原英夫も、デーブ・スペクターも入れていることになる。東国原英夫の「蓮ちゃんは生理的に嫌われているから」云々は言葉通りに解釈すると、蓮舫の個人性に対する好悪の一般論化に見えるが、そうではなく、実際は女政治家だから、自らの男女差別観に基づいてバッシングを行い、男女差別観が動機であることを誤魔化すために蓮舫の個人性に見せかけたということになる。

 デーブ・スペクターの「蓮舫がテレビ司会者に転身→ヒステリーチャンネル」も、男女差別観から蓮舫を理由もなくヒステリーに貶めているということになる。だが、バッシングを受ける理由を「女政治家だから」と解釈することは個人的資質としてはバッシングを受けるようなこれといった欠点も短所もないと自己評価することになり、蓮舫にとっては好都合な解釈となるが、自身を目立った欠点も短所もない人物に仕立て上げることは自己正当化バアスが過ぎることになるだけではなく、やはり自身を何様に位置づけていることになる。

 日本社会が戦前の男尊女卑の思想を戦後の民主化時代もどうしようもなく引き継いでいて、男性上位・女性下位の傾向を残していることになっているとしても、女政治家だからと性別のみで攻撃するのはごく限られた男の女性差別であって、東国原にしてもデーブ・スペクターにしても、蓮舫が女政治家だからと言って、例の発言をしたわけではあるまいから、両者をその範疇に入れるのは無理がある。あくまでも蓮舫という政治家を対象にして発言した。蓮舫の性別が女ということであったに過ぎなかったはずだ。

 要するに蓮舫は女とか男とかは関係なしに自分という政治家に対するバッシングとして受け止め、その合理性を問い、合理的でないと見たなら無視。何らかの合理性が認められたなら、反論するなり、反論せずに何を言われても我が道を行くことを宣言する、いずれかを選択すればよかった。

 だが、蓮舫がしたことは「私をちゃん付けで呼んだ」等々、合理性を問わないままに感情的な反発を前面に押し出し、結果としてどうでもいいことで世間の注目を集めただけではなく、「女政治家」だったから攻撃対象となったと女性という性全般に対するバッシングであるかのように普遍化し、問題を大きくする誤魔化しまで働いた。

 そうまでして自分を正しい位置に置こうとする自己正当化バイアスは際限がない。自身に対するバッシングと同性他者に対するバッシングを切り離して、後者のそれは本人が他者の力を借りるにしても、借りないにしても、自身の成長のためにもそれぞれが受け止め、それぞれが主体的に解決すべき問題だと距離を置くべきを、「次の子たちとか、今政治家やっている子たちがここまで強くなれないと思ったときに『ああ、ダメだな』と思って。本当にやらなきゃ」と批判やバッシングの類いなど止めることもなくすこともできないにも関わらず、自らの力で不可能を可能に変えることができるかのように見せかける。思い上がりというものだろう。

 こうまでも拘るのは都知事選の有意義性が本人が口にしている程に実態を備えていないからで、実態を備えていたなら、その有意義性の前に東国原英夫やデーブ・スペクターの蓮舫の落選に見せた反応など冷静に眺めることができるはずだが、それができなかったのは強がりでしかない有意義性であることを改めて暴露することになる。

 蓮舫の長男村田琳も、これから政治家を目指す男女を"子"扱いして、「叩かれると思うのは凄い嫌だなって思う」と叩かれることを前提とする画一性にはまっているが、対して蓮舫は叩かれる「要因が私ってなるのも嫌だし」と応じている。

 例えば蓮舫と同じ党の女性議員だからと蓮舫憎しが高じて袈裟まで憎しで叩いたとしたら、蓮舫個人は手の施しようも防ぎようもない合理的理由を欠いたバッシングそのものであり、バッシング主体の性格に帰すべき個別的問題であるにも関わらず、その個別性を無視して、蓮舫という存在があったからこそのバッシングの連鎖だと動機付けるとしたら、自分で自分の存在感を理由もなく過大評価する振舞いであって、自分を何様に位置づけていなければできないこととなる。

 根拠も理由もない合理性を欠いた批判やバッシングを世の中からなくすことは不可能なことは既に触れたが、その不可能性に対して自身へのバッシングに試みた反論の「挙げた声は残る」、「その声は必ず誰かの力になる」と保証しているその"声"は相手の非を認めさせ、自らの過ちを納得させることのできる論理的にして合理性ある力を備えていなければならない。

 だが、東国原英夫が蓮舫敗因の一つに「蓮ちゃん、生理的に嫌いな人が多いと思う」と挙げたこと自体に反論するのではなく、「蓮ちゃん」と親しい間柄であるかのように名指ししたことに対して、「友達でない人」だ、東国原は「そのまんま東さんで止まっている」だ、「携帯も知らなければ、ご飯も食べたことなければ、連絡先も知らない人」だからは論理性も合理性も窺うことができないばかりか、単なる感情的な反発しか見えてこない。

 果たしてこのような"声"が相手の非を認めさせ、自らの過ちを納得させることのできる力を備えていると確信できるだろうか。

 デーブ・スペクターのX投稿、「蓮舫がテレビ司会者に転身→ヒステリーチャンネル」に対して「それはどういう意味かしら、デーブさん、私の闘いや私の姿勢を個人で笑うのはどうぞご自由に。もう数十年お会いしてませんが。私を支え、私に投票してくださった方を否定しないでいただけると嬉しいわ」との表現で蓮舫投票有権者の存在否定に当たると批判しているが、蓮舫を支え、投票した有権者数が当選にまで届かなかったことは小池百合子に投票した有権者からは都知事になる資格はないとする否定を受けたことになって、その有権者数の方が遥かに多かった。

 石丸伸二にしても小池百合子に投票した有権者からは都知事になる資格はないと否定を受けたことになるし、蓮舫は石丸伸二に投票した有権者の数以上に都知事になる資格はないと否定された計算となる。

 安倍晋三政治の否定は安倍晋三を国会に送り込んだことも、総理大臣に選んだことも、そのこと自体が間違いであるという否定を根底に抱えていなければ不可能となる。だが、肯定する有権者や国会議員の方が遙かに優っていた。

 当然、デーブ・スペクターの対蓮舫投票有権者の存在否定は蓮舫の落選に対応させた反応に過ぎないことになる。当選していれば、否定を受けることはなかったろう。蓮舫が「否定しないでいただけると嬉しいわ」などとお願いすること自体が論理性も合理性もなく、せめてもの対応はデーブ・スペクターの蓮舫叩きを無視し、再度都知事選に挑戦、東京都民から都知事として肯定される票数を獲得するか、より確かな安全策として今夏予定の参議院選挙に立候補、有権者からその存在を否定されない当選に必要な票数を獲得して返り咲くか、いずれかを可能とすることで、東国原英夫やデーブ・スペクターを黙らせる道を選択すべきだった。

 蓮舫は「次の子たちが流しきれない」からと両者に反論を試みたことに対して、「東国原さんもデーブさんも連絡ないですね」と言っているが、反論に対するそれなりの言葉の送りつけができなかったわけではなく、ただ単に相手にしない態度を取ったのだろう。勿論、自分たちの蓮舫批判に賛否があることは承知しているだろうし、あったとしても、蓮舫が反応したことで最初に送りつけた言葉は却って拡散し、送りつけたことの目的は十分に果たしただろうからである。

 大体が反論の価値もない言葉に蓮舫がその見極めをつけることもできずに飛びついただけの話だった。反論の力量がその程度でしかないのだから、「挙げた声は残る」、「その声は必ず誰かの力になる」は自己能力の過大評価、思い上がりに過ぎない。 

 己の頭の蠅を追うこともできずに「次の子たちが流しきれない」からと人の頭の蠅を追おうとすること自体が思い上がった振る舞いでしかない。

 弁護士で総支部長の松尾あきひろ(実際の年齢は49歳)が蓮舫の演説の前に喋ってくれた。小学生の娘が大人になったときに昭和の人たちに頭を下げなくて済むよう社会を作りたいと「こんなにクールな子」が泣きながら演説した。

そしてこのような「30代の子たちが野党から政治家になろうとしてくれている」ことを以って蓮舫は「健全な民主主義」だと称賛している。

 要するに昭和生れの人間は年下の者に対して何につけて古い価値観を押し付けてくる、頭を下げてくることを求める、目下の目上に対する言葉遣いの丁寧さで人物を評価したりする、悪くするとへりくだった態度を年下の年上に対するより良いマナーと見る、そういった上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的な上下の人間関係を思考・行動のパターンとする者が多くて、若者の自由な社会活動の障害となっているということを指しているのだろう。

 但し蓮舫は自分がこのように発言していることの二つの問題点に気づいていない。一つはそういった時代遅れの人間関係に囚われたままの昭和生れの大人たちに対して意識改革の戦いに直ちに挑む行動力の発揮を目の当たりにして、「健全な民主主義」と言っているのではなく、「小学生の娘が大人になったとき」、つまり昭和生れの大人たちが社会の表舞台から退場する時間の経過を待つだけの戦わない姿勢を指して「健全な民主主義」だと称賛している点である。

 例え表舞台から去ったとしても、何らかの上下の価値観を用いて人間の有用性を推し量る権威主義の思考・行動様式は民族性を背景として封建時代の昔から伝統的、あるいは文化的精神としてきたもので、小学生の娘が大人になる時代にまで進んだとしても、変わらぬ姿をとどめる人間の存在を全否定できるわけではない。

 戦後の民主主義の時代に年数を経てもなお戦前型の思考を残した人間が数多く存在することがこのことを証明し、松尾あきひろの指摘はこういった人間を指しているはずだ。

 二つ目は蓮舫自身の後輩・後進に対する「あの子、この子」の下の者扱いは一種の権威主義的上下関係で価値づけていることになり、松尾あきひろに対しても「あ、こんなにクールな子が泣きながら言うんだ」と、例え年齢が下でも、一個の人格として対等に扱うのではなく、大の大人を「子」扱いする上下関係を昭和生れの一人として自らも体現していながら、自分以外の昭和生れの大人たちの権威主義を批判の俎上に載せる滑稽な矛盾を犯して気づかずにいる点である。

 要するに蓮舫の後輩・後進に対する対人視点からは「健全な民主主義」は窺いようがない。

日本の社会で権威主義的な上下の人間関係は目上の者と目下の者の間にのみ働いているわけではない。職業的地位の上下、戦前の男尊女卑が戦後に男性上位・女性下位の形で残っている男女関係、あるいは学歴の上下、収入の上下、その他をも縛り付けている人間関係力学として残存している。

 男性を上に置き、女性を下に置いた男性上位・女性下位の権威主義的上下関係を社会レベルで改めることができたなら、家事労働時間や育児時間の女性偏重は改善に向かい、改善の進行によって第2の出産、第3の出産を望む女性増加の可能性は否定できない。
 
 そしてこのような平等社会の実現を目指す力が無視できない大きなうねりを示し得ることになったとき、初めて「健全な民主主義」が機能していると言うことができる。蓮舫は昭和のおっさんたちに頭を下げなくて済む社会の実現が男女平等社会にまで繋がっていく可能性についてまで考えを広げる思考力までは備えていない。

 次の発言、松尾あきひろの小学生の娘が大人になったときに昭和のおっさんたちに頭を下げなくて済むような社会を作りたいと訴えた演説は、「あれは素敵だった。凄い素敵だった。ちゃんとこうやって自分のための声を出すってとっても大事で、こういう国を作りたい、こうしたいって言われれば、そこには自分事のこうあるからそうされたいんだっていう演説の文化になってくれたら、多分、有権者とか国民も自分事として考えてくださるんじゃないかなあというのが今回見えた景色だった」と言っていることが、頭が悪いせいか、意味がすんなりと入ってこない。

 頭が悪いなりに解釈してみるが、松尾あきひろの演説は「自分事」としてあるから説得力を持つのであって、そういった「演説の文化」になれば、「有権者とか国民も自分事として考えてくださるんじゃないかなあというのが今回見えた景色だった」と高評価をつけたということなのだろう。

 但しその相互の「自分事」が化学反応し合う「演説の文化」の素材はあくまでも言葉や思い、あるいは熱意のみで、自分事の実現を約束する力とは必ずしもなり得ない。言葉や思い、熱意の先に何らかの意識改革の方法なり、政策の形なりに纏めて、成果へと向けた動きを導き出さなければ、「演説の文化」は文化のままとどまり続けて、政治の恩恵としての社会生活上の利益は形を取って届けることはなかなかできないからだ。

 蓮舫の目に映る「景色」には「政治は結果責任」という透かし文字を入れ忘れている。断るまでもなく、「結果責任」とは結果を生み出して届ける責任のことを言う。蓮舫は結果責任を置き忘れたまま、ただ単に安っぽく感動しているに過ぎない。

 蓮舫にしても、昭和のおっさんたちに頭を下げなければならない慣習がどのような社会の構造によって強いていることなのかの本質的な点に気づいていないのだから、どうすべきかの段階にまで進まずに、ただ単に松尾あきひろの演説に感動したという表面的な「景色」で終わることになる。

 蓮舫は選挙活動の演説で、「一人じゃないんだよ」、あるいは「一人にちゃんと見てるんだよ」と寄り添ってくれる聴衆に語りかけることで「熱を帯びた街頭演説の双方向」ができたのは自身にとって「誇り」であり、「達成感だ」、「新しい民主主義の形」だと再び都知事選で手にした有意義性を誇っている。

 選挙活動の演説に集まった聴衆というものの正体を改めて見てみる。中には敵情偵察の者もいたかもしれないが、ごく少人数のはずで、大多数は支持者であるが、既に触れたように各地区の後援会から動員された支持者が無視できな人数で混じっていたはずで、蓮舫は参議院議員の間は東京都が選挙区だから、地元の有権者である自身の後援会員や、街頭演説場所の立憲系の都会議員、区会議員の後援会会員、あるいは近隣の地区の後援会会員を動員しているだろうし、当然、応援に熱を帯びる。

 さらに序盤情勢、中盤情勢、終盤情勢と小池百合子に対して劣勢に立たされていた上に石丸への支持が増えていく状況に際しては動員指示は加速していったはずで、当然、演説を行う側と演説を受ける聴衆側との間が熱を帯びるのは自然なことだが、その熱が当選に結びつく程に大きな広がりを見せなかったということは動員以外に自然発生的に演説に参加していく聴衆が大きな塊となっていく状況にまでは進まなかったことをも示していて、いわば動員した支援者でほぼ固めた聴衆を相手に「街頭演説の双方向ができた」とするのは基本的な認識性を欠いていることになって、「達成感だ」、「新しい民主主義の形」だといった有意義性はニセモノと化す。

 このニセモノそのものの有意義性は都知事選敗北の屈辱によって元々の自己正当化バイアスを刺激して誘い込むことになった強がりが生みの親となっていることは間違いない。

 蓮舫は奇麗事を口にしているに過ぎないことになる。やはり選挙の有意義性が見せかけで、見せかけと思わせない仕掛けとして強がりを必要とし、強がりだから、言っていることが奇麗事となる。その悪循環に絡め取られてしまった。

 蓮舫の今後の進路についての長男村田琳との遣り取りを見てみる。長男村田琳に「次の選挙は?」と問われると、「千人単位で聴衆が増えてくる演説会場」の「凄い景色」や、「120万を超える人が蓮舫と書いてくれた」事実を前にして「国政に戻るのはなんか渡り鳥みたい」で、「私の中では違う」と答えている。

 この発言にある矛盾を無視するなら、再度の都知事選を目指しているようにも見える。矛盾とは演説会場に集まった際の聴衆の多くが動員された頭数であることを抜きにして、事実、「凄い景色」であったとしても、投開票前の景色であって、それがどれ程に凄くても、票に繋がって当選という次の景色を結果としたわけではないのだから、その"凄さ"は相対化の審判を受け、光を失う。掛け値なしに「凄い景色」だったなら、あれは何だったのだろうか、ただの蜃気楼だったのだろうかと疑惑にも駆られるだろう。だが、蓮舫は結果を無視して、投開票前の景色だけを取り上げて、"凄い"と価値づける矛盾は自己正当化バイアスの心理的な偏りを外したなら、満足のいく解釈は不可能となる。

 その一方で、「次のステップでまた国政ですかっていう声は聞いていないんですよ」の発言は、それを望む声次第では国政復帰の可能性をも示唆していることになり、「一旦ピリオドだなって思う」は国政復帰を望む声待ちを意味することになる。

 蓮舫が都知事選に挑戦したのは、一般的に考えると、政党支持率が10%以下の少数野党乱立状況下の自民党一強の政局では野党第一党所属であっても、自分たちの政治で国を動かすことは現在のところ不可能であるのに対して、都知事に当選すれば、アメリカの大統領制に近い首長制であることから強い権限を与えられていて、野党の一議員の立場ではほぼ不可能な、自身の政治を国際的な巨大都市東京という大舞台で政策の形に持っていくことが可能となるからだろう。

 つまり自身の政治力を見せたかった。だが、落選し、その野心的な目論見は潰えた。しかし4年後の都知事選で、より慎重になるだろうが、取り巻く状況次第では自身の政治を政策の形に持っていくという実験は再度挑戦が不可能というわけではない。

 但し都知事選に再び立候補したとしても4年間のブランクは票獲得に不利に働かない保証はないから、2015年7月の参院選に当選を前提として立候補して、4年間後の都知事選を窺う両睨みでいたのではないのだろうか。

 そのために「国政に戻るのはなんか渡り鳥みたい」と一方で言いながら、もう一方で、「次のステップでまた国政ですかっていう声は聞いていないんです」とどっちとも取れる言い回しとなった。参議院復帰も都知事選再挑戦も、理由は支持者の後押しがあったからと何とでもつけることができる。

 だが、2024年7月7日の都知事選後から6日後の2024年7月13日のインスタライブ当時から
国の政治状況は大きく変わった。3ヶ月後の2024年10月27日の衆院選で自公が過半数割れとなる政局の大変動は、期待はあったかもしれないが、実際のこととして予想した向きは少なかったに違いない。

 2024年10月27日の衆院選投開票を3日前にした10月24日に自民党石破執行部は政治とカネの問題で非公認とした候補代表の政党支部へ2000万円を提供した事実が判明。非公認扱いしたことと矛盾した秘密行為が過半数割れを誘う分岐点となったに違いない。

 だが、世論の大勢が決定的に政権交代を望まなかったから、対自民懲罰票が野党第一党の立憲民主党に全面的に向かう流れを取らずに国民民主党にも向かう結果となり、与党過半数割れで終わることになった。

 自民党が政治とカネの問題に国民の納得がいく形で決着をつけることができないままに2025年7月の参院選を迎えることになったなら、参議院でも自公を過半数割れに誘い込む可能性は否定できず、ゆくゆくは政権交代も予想範囲に捉えることができる。蓮舫は閣僚の地位を狙える一人として、参議院復帰に狙いをつけ、「それでも120万を超える人が蓮舫と書いてくれたことに対してこれでまた国政に戻るっていうのはちょっと私の中では違う」と発言したことや国政復帰を「渡り鳥みたい」と形容したことなどケロッと忘れて、支持者の後押しを受けたとか何とか理由をつけて、立候補することになる可能性は十分に予測できる。

 大体が「自分の考えは常に正しい」とする自己正当化バイアスに強度に取り憑かれた蓮舫が都知事選3位という汚名を政治人生の終着駅とすることは考えられない。都知事選再度挑戦当選なり、参院議員高得票獲得復帰なりの形で東国原やデーブ・スペクターに一矢報いたいと思っているはずだ。

 内心は蓮舫に対する東国原英夫の批判やデープ・スペクターの揶揄を思い出すたびに悔しくて悔しくて、ハラワタが煮えくり返っているに違いないことは、今後やりたいことの一つに若いお母さんから育児について聞く場所をインスタライブを使って「やってみるのもアリかなと思って」と話していながら、急に思い出して怒りが込み上げてきたのか、何の前触れも脈絡もなく、いきなり、「多分、相手は私に対してパワーハラスメントとは思っていない方がヤバイんだよね」と言い出して、周囲の蓮舫に対する批判、バッシングの類いを悪質化の方向に一段昇格させて、自身に対する「パワハラスメント」だと断じ、バッシングとは異なる暴力的不当行為であることに相手が気づいていないことを咎めてやまない姿勢に現れている。

 但しパワーハラスメントだとすることに様々な問題が含まれることになる。

 パワーハラスメントとは何らかの必要性に基づいて築いている、逃げられない人間関係の中で一定の関係を優越的な立場と非優越的な立場で捉え、前者の立場を取る者が自らの優越性を表現するために後者の立場を取る者が持つ人間的対等性を踏みにじり、人格を否定する威迫行為(乱暴な言葉や動作で相手を脅して無理に従わせようとすることなど)を行うことを言うはずである。

 ところが、東国原にしても、デーブにしても、蓮舫と何らかの人間関係を進行させている状況にあったわけでもないし、反論できたのだから、当然、逃げられない関係にあった訳でもなく、そのような関係の中で蓮舫に対して優越的な立場を築いていたわけでもなく、蓮舫にとっては受け入れ難い発言だったろうが、その発言は蓮舫に自分たちの意思に無理やり従わせるようとする威迫性を持たせた言葉でもなかった。

 勿論、蓮舫自身が自らの自由意思を東国原やデーブに無理やり抑えつけられて、望まない何かをさせられたという訳でもない。

 そのような関係にあった蓮舫に対する行為をどうパワーハラスメントと名づけ得ると言うのか、甚だ疑問である。常識的に考えても名づけ得ないと断定できるはずで、パワーハラスメントだと定義づけること自体が過剰解釈であり、東国原やデーブの発言に対する過剰反応としか言いようがない。

 しかも、パワーハラスメントにしただけではなく、そうであることに気づいていないことを「ヤバイ」と、いわば最悪状況の無知扱いにしている。

 多分、東国原やデーブの自身に対する発言を「そういうの我慢できちゃうし、流したんだけど」とか、「次の子たち」や「今政治家やっている子たち」が「ここまで強くなれない」という言葉遣いで間接的に自身は打たれ強いとしていたことがやはり強がりでしかなく、実際は都知事戦に落選したことも手伝って、内心に収まりのつかない激しい怒りが渦巻いていて、断罪したい復讐心が単なるバッシングとするだけでは満足できず、一層の批判や非難を浴びることになり、自らの社会的役割まで否定されることになりかねないパワーハラスメントというより悪質な行為に持っていきたくなったのかもしれない。

 だが、この悪質化は、改めて、蓮舫が打たれ強くも何ともなく、打たれ弱いことの裏返しでしかないことを証明することになる。自己正当化バイアスが強度に働いた結果の自身を正しい場所に置いて、相手を最悪な場所に追い込もうとする意図が見えてくる。

 蓮舫は自身に対するバッシングを、「視聴率とか、反応とか、自分への評価とか、厭らしい資本主義が透けて見えるんだよね」と批判している。東国原やデープスペクター、その他が「厭らしい資本主義」の立場から自分への評価を高め、その先に自らの人気の確保や芸能界での居場所確保を考えてバッシングを行なっていると受け止めているとしたら、蓮舫自身を大物に見立てていることになり、そこには自らを何様と見る思い上がりを潜ませていることになる。

 なぜなら、小物が相手なら、厭らしい資本主義が性格としている利益追求一辺倒の餌食にしたとしても旨味は出てこないからである。もしテレビ局が蓮舫を叩けば、視聴率を稼げると出演者に暗に指示し、出演者がそれに応えて蓮舫を集中的に叩いたとしたら、出演者個人の思想・信条の自由を認めずに全体の利益への奉仕を求める戦前の全体主義への回帰を示すことになって、もし露見したらテレビ局は立ち行かなくなる。

 そのような危険を犯してまでこの手の思想統制を行うことは考えられないから、やはり「厭らしい資本主義」からの蓮舫バッシングだとの思い込みは自身を大物に見立てた被害妄想とまでは言わないが、安っぽい拡大解釈に過ぎないだろう。
 
 長男の村田琳も、蓮舫の自身に対するバッシングをパワハラスメントだとする説に影響を受けたのだろう、世の中にはパワハラを受けている男女はたくさんいる、今回、メディアを使った蓮舫に対するパワハラが出てきた、蓮舫は、いわば大きな看板となるから、それを利用して、私はパワハラと戦います、みなさんも一緒に戦い、解決していこうでありませんかと言えたら、面白かったけどといった趣旨の感想を述べているが、東国原英夫の「蓮ちゃん、生理的に嫌われているから」程度の批判や、デーブ・スペクターの「ヒステリーチャンネル」程度の悪ふざけを参議院議員歴20年にも関わらず、バッシングだとまともに相手にし、それでも飽き足らずに東国原とデーブの発言や行いをパワハラスメントだとなお一層の悪者仕立てに持って行く。

 こういった論理的思考に基づいた合理的判断力を欠いた人物にパワハラ被害の相談を受けて、それなりの対処療法に取り掛かり、個別的には解決することができるだろうが、政治家の立場から取り組むべき意識改革は、先に挙げた松尾あきひろの小学生の娘が大人になったときに昭和のおっさんたちに頭を下げなくて済むような社会を作りたいと訴えた演説が、大人たちの意識改革に持っていく極めて困難な戦いではなく、単に彼らおっさんたちが社会の表舞台から退場する時間の経過を待つだけの戦わない姿勢を指した演説であることが気づかずに、「健全な民主主義」何だと感心する程度の非論理的な判断力しか発揮できないのだから、望むのは土台無理な話だろう。

 今回はここまで。次は最終回。
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蓮舫を叩く:女だからではない、都知事選後の動画配信「常に自分の考えは正しい」の自己正当化バイアス1

2024-12-22 11:10:11 | 政治
 《56歳の蓮舫が後輩・後進を「あの子、この子」と呼ぶ下の者扱いは"個人としての尊重"を置き忘れた何様的な自己正当化バイアス》

Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 2024年7月7日投開票の都知事選で敗北が決まってから6日後の2024年7月13日に蓮舫はインスタライブを行っている。都知事選にまつわる色々と興味深い話を聞けるだけではなく、話の中に蓮舫自身の「自己正当化バイアス」が頻繁に顔をのぞかせているから、拾い出して、複数回に分けて記事にしてみる。勿論、拾い出した個所の当方の言い分の正当性は読者の判断に委ねられる。

 インスタライブに入る前に蓮舫の「インスタグラム」から、その自己紹介を見てみる。

 〈貴女、貴方の声を代弁する。誰もがその生き方を尊重されるために。他人の夢を笑わない社会を創りたいと強く思っています。〉――

 では、現在、総体として「他人の夢を笑う社会」となっているのだろうか。他人の夢を笑う・笑わないは個人性である。他人の夢を笑う個人が圧倒的多数を占めなければ、総体的な意味に於いて「他人の夢を笑う社会」となっているとは言えない。

 蓮舫本人を笑う個人が複数存在する、あるいは相当数存在する、さらに身近にそのような例を散見することになったとしても、それだけで「他人の夢を笑う社会」だと看做すのは自身を中心に据えて自分の考えを常に正しいとする自己正当化バイアスの色眼鏡を通した社会観であって、正当性は認められない。

 大体が他人の夢を笑う個人をこの世から抹殺することができるわけのものではないのだから、「他人の夢を笑わない社会を創りたい」と、さも自分の力でできるかのように言うのは思い上がりと言うものだろう。

 例え他人の夢を笑う個人が多数存在したとしても、そのような行為はあくまでも社会という大きな枠の中で不特定の様々な場所でなくなることなく不規則な断続性を帯びて起こりうる現象なのだから、犯罪と同様、社会から抹殺することなど誰の力を以てしても不可能としか言えない。

 意味もなく他人の夢を笑う個人性よりも他人から夢を笑われても、自らの夢を信じて動じない個人性の大切さをこそ、訴えるべきである。なかなか難しいが、要するに自分は自分だという自己アイデンティティの徹底である。蓮舫のインスタグラムの自己紹介を見ただけで、論理的思考性の欠如を見ないわけにはいかない。

 ライブは長男村田琳相手に行われている。声が太く、ダミ声気味で、聞き取りづらく、最小限必要と思われる個所を何度も聞き返して文字にしたが、あくまでも観察対象は蓮舫の言葉だから、聞き取れなくて、途中で諦めてしまった個所もある。

 蓮舫「1週間経って、結構、気づきました。

 何かねえ、達成感があったんだよねー。あの、確実に選挙戦を通じて、繋がっている人達がいるってのが分かったし、ここぞと応えていたし、それに対してこうだよねとそれを説明していた方もいたし、政治というのは双方向なんだというのが凄く感じて、楽しい選挙でした。

 その後色々と叩かれてるらしいんだけど、見ていないから、分からないんだよね。(マグカップを口に運びながら、「フン」と鼻で笑う。)」

 長男村田琳「言いたいように言っている人いるからね」

 蓮舫「うーん、でも、まあ、それはみんな言われているからね。ただ、蓮舫だから叩いていいんだ的な空気はきつかったけども。今まで思ったのは、私だったら、そいうの我慢できちゃうし、流したんだけど、今回はやっぱりそれを流しちゃうと、次の子たちが流しきれないなということに気づいて、流しちゃいけないんだと、例えば東国原さんとか、デーブ・スペクターさんとか」――

 長男村田琳「デーブさん、ひどかったねえ」
 
 蓮舫「ひどいのには反論してたんだけど、ちょっとひどいのに関してはちゃんとSNSで反論し始めたんですよ。私が流して終わるんじゃないんだってことに気づいたんで、次の子たちがきっとこういうの戦っちゃうと思ったら、きっちり決めなきゃ。だけど東国原さんもデーブさんも連絡ないですね」

 長男村田琳「――(聞き取れない)」

 蓮舫「だけど、私は違うと息子と凄い議論したんだけど、これはもう絶対反論しない方がいいみたいなことを言うんだけど、ここは反論しておかないと、あっ、デーブは何を言ってもいいんだと輪をかけちゃうから、だって、友達でない人が、『蓮ちゃん』とか言われてるんですけど、テレビで。『蓮ちゃんは生理的に嫌われるから』みたいな。て言うか、誰?あたしのことちゃん付けする。私は東国原さんて、そのまんま東さんで止まっているからね、30年前のタケシさんと軍団でいたとき。

 そのあと、(考えながら)県知事になられたときに1回県舎にご挨拶に行って、それから10何年、話したことがない人だからね。携帯も知らなければ、ご飯も食べたことなければ、連絡先も知らない人が『ちゃん』づけだよ」

 長男村田琳「あれじゃない?そういうこと言っていないと、自分がテレビに出ていられない」 

 蓮舫「ある政治評論家はそうだけど、いきなり携帯も連絡先も教えてくれないのに公共の電波で言われたからね」 

 長男村田琳「今まで言っていなかったけど、民間人になったら、言ってますよという理解ですよ、みんな」

 蓮舫「そうですよ。それも人のためと思うし、私ね、本当に名刺のない人から、言われて、どうしようかなと思っているんだけど、それでもいい週刊誌が願ってた、あとのルルちゃん(愛犬)との散歩で、撮影して、朝のルルちゃんとの、愛犬との散歩を撮影しました。『ついては質問にお答えください』と含めておいて。私もう民間人だと思うのに、まだ曝されるんだって思って。何が原因で、どこかで止めておかないと、政治家になる女の子も手を挙げられなくなってくるし、政治家になる男の子も手を挙げられなくなってくる。

 つまり何にも曝さないと、公人になれないっていうのは矢っ張り凄い」(ここまで)


 蓮舫は「達成感があった」、「確実に選挙戦を通じて、繋がっている人達がいるってのが分かった」、「政治というのは双方向なんだというのが凄く感じて、楽しい選挙」だったと都知事選を戦ったことの有意義性を打ち出している。

 本当にそのとおりの選挙だったのだろうか。蓮舫の場合は当選を目指して戦ったはずだ。石丸伸二の場合はどのくらい票を獲得できるか、試してみるという気持ちがあったかもしれない。あるいは小池百合子や蓮舫よりも遅れを取るかもしれないが、どのくらい迫るかことができるかといった考えもあったかもしれない。ところが蓮舫は基本的には頂点を目指したはずだ。

 各マスコミとも序盤情勢は現職小池百合子が一歩リード、蓮舫が続き、石丸伸二が激しく追い上げる展開とほぼ似た論調の報道となっていた。中盤情勢は小池百合子一歩リードは変わらず、蓮舫が続いているものの、石丸が猛追となり、終盤情勢は小池百合子一歩リードは同じで、蓮舫と石丸が共に追い上げる展開へと変わってきている。いわば蓮舫と石丸は肩を並べたとも解釈できる。

 この時点で蓮舫は2位は獲得できるだろうと踏んでいたとしても、次点では意味を成さないから、マスコミの各情勢報道と各街頭演説に集まる聴衆の(と言っても、自身の各所の後援会や都内を選挙区とする立憲所属の国会議員や都会議員、区会議員の後援会からの動員が相当数混じっていたに違いないから、一定程度は差し引いた)熱気との懸隔に人間の自然な感情として疑心暗鬼に駆られていたはずで、内心、相当に必死になっていたであろう。

 そして結果は時点にも届かず、第3位に沈んだ。閣僚も党代表も経験したことのある国会議員約20年の人間が地方自治体市長1期4年のみの政治経歴石丸伸二にも敗れたのである。知名度から言っても、優位に立っていたはずで、それが2位を獲得できる程には役に立たなかった。当たり前の感情としては相当な屈辱を受けないはずはないにも関わらず、屈辱というマイナスの感情ではなく、達成感や楽しかったというプラスの感情を持つに至った。

 もしこれが正直な気持ちだとしたら、人間の自然な感情を超えた強靭な前向きの精神の持ち主と見ることができるが、単なる強がりで言っているとしたら、限りなく不正直な人間と化す。自分だけではなく、他人をも誤魔化すことになる。

 正直な気持ちで言っていることなのか、強がりで言っていることなのか、確かめてみる。

 「確実に選挙戦を通じて、繋がっている人達がいるってのが分かった」と、「確実に」と強調してまでして有権者との"繋がり"を誇っているが、結果的には当選した小池百合子の約292万人、次点石丸伸二の約166万人で、蓮舫は小池百合子とは164万人差、石丸伸二とはそれでも38万人差の約128万人という3番目の"繋がり"でしかなかった。これを以って満足のいく"繋がり"だとしたら、前以って当選に必要な大体の票数を読んでいなかったことになるだけではなく、最初から当選を目指さないままに立候補したことになるが、事実はそうではないはずだから、「達成感があった」、「楽しい選挙でした」はたちまち化けの皮が剥がれて、強がりが顔を覗かせることになる。

 強がりは虚勢を意味し、不正直さが生みの親となる。どこまでいっても自己正当化バイアスを押し立てていく。その不正直さは限界を失う。

 蓮舫は9月9日に自身のXに次のように投稿している。

 〈惜敗した者に対し、面識もなく取材もなきまま根拠なき見解を拡散することは社の記者行動基準を踏み越えています。負けた人には何を言ってもいいことを黙認していては、これから挑戦する人を萎縮させる恐れがあります。

 「権力」「言論統制」との指摘は残念ながらどうでしょうか。私との見解が違いますね。〉――

 この投稿が如何に自己中心の考えに立っているか、一目瞭然であろう。首都東京という大舞台の知事選で、しかも当選を目指したはずであるにも関わらず、3位に沈んだ選挙結果を「惜敗」と位置づけることができる。自己中心の考えに基づいた強がりでなければ、このような自己評価はできない。

 「面識もなく取材もなきまま根拠なき見解を拡散する」と批判しているが、面識がなくても、取材をしなくても、記者会見発言やSNS発言、テレビ発言に対しての批評行為や批判行為は自由に行うことができるはずである。

 それを面識と取材を批評行為や批判行為の許可条件に限定・選別し、それ以外は排除する考えは言論の自由に制限をかける自己基準の絶対化、いわば自己中心の考えを示していて、"意識の上での権力行使"、"意識の上での言論統制"と言えなくもない。

 この自己基準の絶対化・自己中心は「根拠なき見解を拡散する」の文言にストレートに現れている。どこがどう根拠がないのか、内容に関する具体的な例示を行い、周囲の納得を得ることで初めて「根拠なき見解」であることの正当性が証明されるのだが、そういう手続を省略して、自身の基準のみで「根拠なき見解」だと決めつける

 尤も自身の都知事選敗戦を「惜敗」と評価して、自分の中ではそれが公平な判断となっているのだろうから、自己基準の絶対化・自己中心は仕方のないことなのかもしれない。蓮舫はきっと自分を何様に置いているのだろう。でなければ、自分の考えは常に正しいとする自己絶対バイアスは頭をもたげることはない。
 
 蓮舫はXのフォロワーが59万人近くに達する。この多くが蓮舫の自分の考えは常に正しいとする自己絶対バイアスのフィルターを通過させることで論理性や合理性を失って放たれることになる数々の言葉に対しても、いわば真に受けると思うと空恐ろしいことで、エセ宗教の教祖と信者を連想してしまう。

 問題とすべきは批評・批判の中身である。中身が個人攻撃に当たるなら、反論するなり、抗議するなり、裁判に訴えるなりすればいい。あるいは自分は自分だと自己を貫く姿勢に徹して一切を無視し、信じるところの自らの言葉だけを発信し続ける。

 だが、蓮舫は自らが発信する言葉の合理性に気づかない。政治家を20年やってきて、言葉の合理性を獲得できていないのは自分の考えは常に正しいとする自己絶対バイアスが障害となっていること以外に理由は思いつかない。

 結果、蓮舫に向けた批判や批評に対する蓮舫からの反論を、「権力」、「言論統制」だと指摘したとしても、「私との見解が違いますね」の自己絶対バイアスのフィルターを通して反論されたなら、本人にとってはその反論を合理性ある着地点とすることができたとしても、相手にしたら合理性ある着地点は永遠に見い出すことができなくなる。

 本人がどう見立てようとも、選挙戦を通じて意識に受け止めていたという「達成感」にしても、人々と繋がっているという感覚にしても、"政治は双方向"という感動的交流にしても、実質的には当選に向かわせる程には大きなうねりを伴ったわけでも、票として返ってきたわけもなく、第3位という結果を受けた以上、各状況を相対的、合理的に把握して、自身の言葉の発信力不足を素直に受け止めなければならないはずだが、逆に結果を伴わなかった出来事を、その結果を無視して手応えがあったと有意義な方向に持っていくことができる。

 敗者が負けた屈辱を凌いで自己を維持する方法は敗因を冷静、合理的に分析して次の挑戦、あるいは次の人生の舞台の参考材料とするか、こういったことができないままに強がるか、ひしがれて時間の経過による自然回復を待つか、様々にあるだろうが、蓮舫はどのように贔屓目に見ても、強がりを見せることで精神のバランスを取っているとしか窺うことができない。

 事実、強がりであるとすると、蓮舫が抱えている自己正当化バイアスの心理と対応した精神の現われということになり、強がることで自己の正当性を維持し、自らの自尊心を守っていることになる。

 蓮舫の敗選関連の発言が強がりと見る理由は次の点からも窺うことができる。都知事選後、「色々と叩かれてるらしいんだけど、見ていないから、分からないんだよね」と、誰からか「叩かれているよ」と聞かされていて知ったのか、新聞の見出しを直接か、あるいはテレビやネットでチラッと見て知ったのか、叩かれている事実は承知していたが、内容については、みんなされていることだと気にせずに放置していた。

 にも関わらず、「蓮舫だから叩いていいんだ的な空気はきつかった」の物言いは気にしていなかったと放置していたことが実は事実でないことを物語ることになり「見ていない」と言っていながら、内容もしっかりと把握していたことを自分から暴露することになる。

 この一貫性のない発言は蓮舫自身に対する信用性に関係していく。

 蓮舫叩きの空気はきつかったものの、我慢できたし、流していたけどとしていながら、流してしまうと、「次の子たちが流しきれないなということに気づいて」流さないことにしたと言い、流さないことにした対象として東国原英夫とデーブ・スペクターを挙げている。

 そうした理由を、「次の子たちがきっとこういうのと戦っちゃうと思ったら、きっちり詰めなきゃ」と思ったことと、「どこかで止めておかないと、政治家になる女の子も手を挙げられなくなってくるし、政治家になる男の子も手を挙げられなくなってくる」ことに置いている。

 だが、体裁のいいことを言っているだけのことで、この理由に正当性はない。

 なぜなら、地方政治であろうと国政であろうと、男女関係なしに政治家を志す以上、自身に対する批判は、それが不当な批判であっても、例え第三者に助言を求めたり、第三者の方から助言を寄せることはあったとしても、最終的には自分自身の「問題解決能力」が絡む本人が処理すべき問題として任せるべきだからである。

 曝されることを「どこかで止めておかない」と「政治家になる女の子も手を挙げられなくなってくるし、政治家になる男の子も手を挙げられなくなってくる」と危惧することも、いわゆる正当な理由も根拠もなしの"曝し"は止めることはできないし、一人がやめても、次が出てくるだろうから、論理性ある訴えと看做すことはできない。政治家を志す人材に対してのみならず、誰に対しても障害を乗り越える、大多数の人間が正当性あると認める意志の力をこそ、求めるべきだったろう。

 任せることが各々それぞれの政治家としての成長に関係していくことになるだろうし、こういった試練をそれぞれの政治家の問題だと見るべきを、それができずに「次の子たちが流しきれない」などと決めつけて、自身への批判に対する反論理由とすること自体が見当違いそのものの妥当性は何もないこじつけとなる。

 それに東国原英夫やデーブ・スペクターに反論したとしても、その反論に味方する支持者は大勢いるだろうが、その反論で両者の蓮舫に対する批判の類いの口封じができるわけではないし、二人以外にも批判する者は大勢いるだろうから、こういったことを理解できずに口封じが可能であるかのような見当違いの言い回しは世間知らずということだけではなく、強がっているとしか受け止めることはできないし、こういった見当違いは自己正当化バイアスへの踏み込みなくして口を突いて出てこない発言である。

 問題はほかにもある。新たに政治家を志ざす成人男女が例え政治家としては未経験・未熟であったとしても、現行の被選挙権は衆議院議員満25歳以上、参議院議員満30歳以上である大の大人であって、それなりの社会的経歴を持っていて、経歴にふさわしい社会的経験、あるいは人生経験を踏んできているだろうから、自律した存在、あるいは独立した存在として人格上は対等に扱い、個人として尊重すべき対象と看做し、「政治家を目指す次の男性や女性たちが」、あるいは、「政治家を志ざす次の彼・彼女たちが」と呼ぶべきを、「次の子たち」と下の者扱いのニュアンスを含んだ言い回しは例え後輩・後進であろうと個人として尊重する姿勢を蓮舫自身が欠いていることを示しているだけではなく、政治の世界へのあとからの参入者を下の者扱いできる態度は自身を上位と見る何様に置いているからこそできることであって、その対等性を欠いた上下意識を許している根本原因はやはり蓮舫自身が自らに宿している「常に自分の考えは正しい」としている自己正当化バイアスが自らを自己絶対視の境地に何がしか誘い込むことになっているからに違いない。

 要するに閣僚経験や党代表経験もある20年の政治家歴が自身を有能な人物と思い込ませていて、経歴の乏しい政治家を下に見る習性が身についている可能性が指摘できる。

 もしここに自身のような有能な経歴の持ち主は女性政治家としては現在の日本では数少ない稀な例だと少しでも自負しているとしたら、自分で自分を特別視していることになって、ある種の選民思想に陥っていることになるが、そこまでいっていないと思うが、後輩や後進を「あの子」、「この子」呼ぶ下の者扱いは自身を対比的に上の者扱いしているからこそできる。

 例えタレントやアナウンサーをしていた間は後輩を「あの子たち」、「この子たち」と「子」呼ばわりをしていた習慣があったとしても、何らかの政治的主張を持って国政の場や地方政治の場に臨もうとしている人材への同じ扱いは幼稚過ぎるし、国政約20年の人間がその習慣から抜け出れないでいるとしたら、例え政治経験をどれ程に積もうとも、蓮舫自身が真に自律できていない存在、あるいは大人になりきれていないと見るほかない。

 大体が、「次の子たちが流しきれない」からと東国原英夫やデーブ・スペクターの自身に対する批判への反論理由とするのは彼らの(=次の子たちの)利益のためと位置づけてはいるものの、「次の子たち」を下の者扱いしていること自体が彼らを自律できていないヤワな人間扱いし、政治家を志すだけの性根を論外に置いていることになるのだから、「次の子たち」をダシにした自身の反論の正当化に過ぎない。

 このような道理を考えることができずにあれこれの口実を用いて自身の正当性を打ち立てようとする。所詮、自己正当化バイスの衝動に気づかないままに身を委ねているとしか見えない。

 このことは既に取り上げた民進党代表時代当時の岡田克也に対する「一年半一緒にいて本当につまらない男だと思います」の発言、参院政倫審での自身の追及不足を棚に上げて、「政倫審に限界を感じました」と言ってのける責任転嫁等々が証明している道理を無視した自己正当化、そのバイアス(偏見の形)ということであろう。

 東国原英夫の生理的好悪発言に対して「携帯も知らなければ、ご飯も食べたことなければ、連絡先も知らない人が『ちゃん』づけだよ」とどうでもいい関係性を持ち出して、相手への反論の正当性とする。この自己正当化バイアスからは民主党政権時代に閣僚を務めたり、野党代表を務めたり、参議院議員20年も務めた風格は感じ取ることはできない。

 となると、都知事選で体感したとしている"達成感"、"有権者との繋がり"、"政治は双方向の感覚"、"楽しい選挙"等の有意義性は敗北後、様々に叩かれる(不当に批判を受ける)ことになったとしている事態を冷静に客観視できる程の材料とはならなかったことになる。いわば叩かれる事態に距離を置く冷静さを与えてくれる程の有意義性ではなかったということである。だが、本人の受け止めはあくまでも有意義性を訴えて止まない。

 この矛盾を解消する答を見つけるとしたら、やはり強がりを導き出さないわけにはいかない。なぜなら、「蓮舫だから叩いていいんだ的な空気はきつかった」と言っているその"きつさ"を生み出している大方はもっぱら強度の反対派、あるいは強度の不支持者と看做して、不思議でも何でもない当然の風向きだと当然視し、その当然視を補強する材料に、「120万を超える人が蓮舫と書いてくれた」こと、「今まで以上に繋がっている感が凄くあって」と言っている支持者との確かな繋がりや選挙で受けた肯定感・充実感を付け加えれば、叩く(不当に批判する)動きは取るに足らない些末問題に向かわせていいはずだが、当然視もできず、そうはなっていないことは「120万を超える人が蓮舫と書いてくれた」ことも、「今まで以上に繋がっている感が凄くあって」と言っていることも、強がりと見なければ、論理的整合性は取れない。

 また、蓮舫が優秀でも何でもない決定的理由は蓮舫が語る"政治双方向論"に如実に現れている。蓮舫は街頭演説場所に集まった支持者の大きな塊が自身が発信する言葉を受けて放つ熱意や感動だけを受け止めて、政治の実際面を頭に置くことなく、「政治というのは双方向なんだ」といたく感動したに過ぎない。

 政治の実際面ではどのような政党のどのような政治も、あるいはどのような政策も、全ての国民各階層の利益を漏れなく代表できるわけではない。そのような万々歳な政治など存在しない。存在したなら、格差社会だ、貧困家庭だといった現象はこの世に存在しなくなって、厳密な意味での平等社会となっているだろう。

 だが、この世の中は上層社会が多大な利益を上げ、その利益が下層社会に向かって少しずつこぼれ落ちていく政治・経済のトリクルダウン構造となっている。結果、政治が万遍なく双方向となっている国民・階層もあれば、双方向に向かわずに取り残されたままの国民・階層もなくならずに存在する。

 もし蓮舫がどのような政治・政策も全ての国民の利益を平等に代表することは不可能という戒めを頭に置くことができていたなら、「政治は結果責任」という大原則を否応もなしに強く意識することになって、街頭演説に対する聴衆の反応が如何に大きかろうと、常にその先の結果という責任を見据えなければならないのだから、街頭演説に反応する聴衆の熱意や感動に票への手応えを感じることはあっても、「政治というのは双方向なんだ」といった感動に安易に取り憑かれることはなかっただろう。

 要するに"政治は双方向"は「政治は結果責任」と比例し合う。結果責任を果たせば果たす程に"政治は双方向"に向かうが、否応もなしに限界を抱えることになる。だが、蓮舫は「政治は結果責任」に取り掛かりもしない遥か手前で聴衆の反応だけで"政治は双方向"を感じ取った。

その安易な感動は論理的思考力の欠如が素地となり、常に自分の考えは正しいとする自己正当化バイアスなくして成り立たないだろう。そして論理的思考力欠如と自己正当化バイアスが虚勢や強がりを生み出す。

 虚勢、強がりに過ぎないからこそ、その精神的余裕の無さが自身に対する東国原英夫やデーブ・スペクターなどの他者の批判を反論の必要性の選別という合理的判断を経ずに無闇反応してしまうことになる。人との繋がりが何らかの具体的な成果を生み出して、事実「達成感」として跳ね返っていたなら、そのことが与えてくれる精神的余裕は他人の批判を冷静に受け止めることになって、反論の必要性の選別なしにムダな反応を取ることはない。

 だが、反応しなくてもいい批判にムダに反応し、どうでもいいことに立腹している。

 テレビ業界や俳優業界では年齢の近い間柄では年上、年下に関係なしに「ちゃんづけ」で呼び合う習慣があるということを聞いたことがある。同じテレビの世界で育った関係から、「蓮ちゃん」と呼んだのかも知れない。例えそうでなくても、失礼な呼び方でなければ、「ちゃん」付けであってもいいわけで、問題は東国原英夫が親しい間柄でもないのに「蓮ちゃん」と呼んだり、生理的好悪に触れたことよりも、都知事選2024年7月7日投開票翌日のテレビ番組で、「僕は昔から友人なので厳しいことを言うが、蓮ちゃん、生理的に嫌いな人が多いと思う。批判する能力はあるが、首長は包含しないといけない部分があり、その能力に欠けている」と批判したことを、いわば敗因分析したとネット記事が紹介しているが、「批判する能力はあるが、首長として包含する能力に欠けている」とした点にこそ、政治家としての姿勢に深く関係することだから、どの点を指して言っているのか、「後学のために教えて下さい」と具体的説明を求めるべきだったろう。

 だが、そうではなかった。生理的な好悪は誰もが持つ感情であり、好悪を向ける対象に制限をかけることはできない。いわば蓮舫だけに限ったことではなく、小池百合子に対しても生理的に嫌いと捉える有権者は少なからず存在するだろうし、石丸幹二に対しても、東国原英夫本人に対しても生理的に嫌いという人物はそれ相応に確実に存在するだろうから、相対化し、お互い様のこととして取り上げるような問題ではないはずなのに蓮舫は相対化という手段を用いて流すことができずに拘ることになり、首長としての能力に欠けるといった肝心な点については何の反応も示さなかった。

 例えば、「私も東国原さんを生理的に受け付けない部分がありますから、お互い様なんだけど、首長としての能力に欠けるとご指摘くださったこと、具体的にご教示頂ければ、後学の参考になるんですがね」程度に軽くあしらうのが大人の態度と言うものだろう。

 大体が必要に応じて相対化できないこと自体が論理的思考力を欠いていることになる。結果、取り上げなくていい無視すべきことをインスタライブでわざわざ取り上げて、自身の人間の程度を低くしている。

 デーブ・スペクターの方は自身のXに、「蓮舫がテレビ司会者に転身→ヒステリーチャンネル」と投稿したという。蓮舫にヒステリーの気があると見たのだろうが、無視すべきをかなり気が触ったらしく、無視できなかった点にヒステリーの気があると見られても仕方がない理由が出てくる。

 周囲の自身への批判に絡めて「何にも曝さないと、公人になれないっていうのは矢っ張り凄い」とマスコミやその他が政治行為に関係のないプライベート空間にまで足を踏み込んで私生活まで世間の目に曝す行為を批判的に取り上げているが、政治家の方から選挙利用や票獲得を意図してマスコミへの露出を図ることもあるだろうし、マスコミに曝されてなんぼという側面を否応もなしに抱えてもいるのだから、物事にはプラスとマイナスの両面があるということを弁えることができずにプラス面だけを歓迎し、マイナス面には拒否反応で応えるという使い分けはご都合主義が過ぎる。

 大体がマスコミや個人が公共の電波やSNS等を使って否定・肯定の情報のうち何を曝すかは予期できないことで、曝らされることを恐れて、公人になることを諦めるか、曝らされることを予期して、公人になることを選択するかは自身の覚悟に関係する問題であって、政治家20年もやってきて今更のように言うのは批判に対する覚悟を持てていないからで、持てない理由は物事を総合的に見る目を欠いているからで、欠く原因はやはり何事も自分の主張は正しいとする自己正当化バイアスの網に絡め取られていて、自分の考えが正当性を持ち得ているかどうかを一歩踏みとどまって思慮するといった習慣がないからだろう。

 「自分の考えは常に正しい」とする自己正当化バイアスに取り憑かれると、論理的思考力が働かず、合理的思考力も麻痺することになる。

 「中日新聞」がデーブ・スペクターのXへの投稿、「蓮舫がテレビ司会者に転身→ヒステリーチャンネル」に対して蓮舫が、「それはどういう意味かしら、デーブさん。私の闘いや私の姿勢を個人で笑うのはどうぞご自由に。もう数十年お会いしてませんが。私を支え、私に投票してくださった方を否定しないでいただけると嬉しいわ」とリポスト、さらに自身のXに寄せられたフォロワーのコメントの中から、「物言う女を『ヒステリー』と呼び必死で矮小化したい男。言論の中身ではなく印象論でしか言いがかりをつけられない、使い古されたこの蔑視表現が、かつて多くの女性たちの口を塞ごうとしてきた」とする、いわばデーブ・スペクターの投稿に対する批判をリポストに添えたと記事は伝えていたが、デーブ・スペクターの「蓮舫がテレビ司会者に転身→ヒステリーチャンネル」が蓮舫の支持者に対する存在否定であるなら、デーブ・スペクターは意図せずに蓮舫に対しても存在否定していることになるが、蓮舫が当選できるだけの支持者を集めることができなかったからこその(このことは蓮舫が自身に投票した支持者を裏切ったことになる事実を裏合わせしていることになる)両者に対する存在否定であって、当選できるだけの支持者を集めることができていたなら、存在否定は影を潜めるか、それでも存在否定が顔を覗かせることがあっても、蓮舫自身は軽く笑って無視できたはずだ。

 要するにデーブ・スペクターに存在否定を許した責任の一旦は自分自身になくもなかった。そのことを受け止めもせずに「私を支え、私に投票してくださった方を否定しないでいただけると嬉しいわ」とするのは支持者の存在を利用した何がしかの自身の責任隠しとなる。そのためにただ単にデーブ・スペクターと同じ土俵に立った。

 蓮舫はまたデーブ・スペクターのX投稿、「蓮舫がテレビ司会者に転身→ヒステリーチャンネル」に対する反論にフォロワーの、「言論の中身ではなく印象論でしか言いがかりをつけられない」人としているデーブ・スペクターに対する批判コメントを利用するのは、自身が東国原英夫のテレビ番組発言の後半部分を"言論の中身"で問題にすべきを問題とせずに前半部分のみに感情面で反応しただけなのだから、言論上の整合性が取れないことになるが、そのことに気づきさえしないのは、やはり自分は正しいとする自己正当化バイアスに絡め取られていて、合理的思考力が麻痺状態になっているとしか見えない。

 蓮舫は都知事選に立候補を決意した時点で、落選したら、悪意ある批判や口さがない噂を立てられるに違いないと前以って腹を括っていなかったのだろうか。

 それとも当選の自信しかなかったから、そこまで考えなかったのだろうか?例え当選したとしても、当選云々とは関係なしに自己正当化バイアスそのものはハンパなく取り憑いていることに変わりはないことになる。

 デーブ・スペクター自身が事実その通りに「物言う女を『ヒステリー』と呼び必死で矮小化したい男」だとしても、その"矮小化"を誘い込んだのはやはり当選できなかった自身の非力にもあるのだから(当選していたら、"矮小化"は影を潜めるし、アンチ蓮舫は唇を噛むことになるだろう)、その責任を言葉の端に置かない一方的な批判は自らの自己正当化バイアスのみへの拘りとなる。

 インスタライブに見る蓮舫のハンパない自己正当化バイアスは以下続く―― 

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日本国力過大評価と米国力過小評価に基づいた杜撰な対米英戦争計画から見る安倍、高市等の靖国参拝(1) 

2024-12-08 08:55:48 | 政治

 国策に基づいた国民の過去の一定の行為を国家への功績と認めることは過去のその国家体制を肯定していることによって可能となる。その国家体制を否定していたなら、肯定は不可能となる。特にその国策が杜撰な計画に基づいた戦争によって受けた戦死ということなら、国家に対する功績者とは見ずに逆に国家による犠牲者と見ることになるだろう。

Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 戦後の日本で戦前の戦争の性格や内容を考えずに戦死を殉難と位置づけて、その国策もそれを生み出した国家体制をも肯定する国民が多く存在する。しかし日本の陸軍省経理局内に設立された研究組織「陸軍省戦争経済研究班」(秋丸次朗陸軍主計中佐が責任者だったことから秋丸機関と呼称されていたという)が作成したアメリカ国力の調査報告書の内容は杜撰で、過小評価オンパレードとなっていて、杜撰な国力評価に基づいた対米英戦争計画が招いた日本約310万戦死、アメリカ約29万戦死、イギリス約14万戦死の圧倒的差だけではなく、日本約310万戦死のうちの約6割が戦闘死ではなく、圧倒的な戦力の差を見せつけられてジャングルに敗走し、食糧の補給を受けられずに命を絶つ餓死だというから、多くが犬死にに等しい戦死結果だった。

 断るまでもなく、「犬死に」と「殉難」とは意味が違う。「犬死に」は「無駄に死ぬこと」を言い、「殉難」は「国家のために一身を犠牲にすること」を言う。太平洋戦争の日本軍戦死者の本人や周囲は国のための犠牲と思っていても、実質的には犠牲といった雄々しく、尊い振舞いを許される状況下で死に向かったわけではない。米国力過小評価に基づいた戦前国家の杜撰な戦争計画であった上に仮定的な希望的観測を拠り所とした作戦の見通しと合理性を欠いた精神論を主体とした訓練で手に入れた、実戦には役立たない戦闘能力を力に米軍に遥かに劣る物量と軽視された兵站での惨めな戦いを強いられて、それでもほんの最初は勢いは良かったが、日米開戦1941年12月8日から半年後の1942年6月初旬のミッドウェー海戦と同年8月初旬のガダルカナル島攻防戦敗退で日本軍は制空海権をほぼ失い、1943年5月のアリューシャン列島アッツ島の戦いでは日本軍守備隊3000人弱のうち90%近くが戦死のほぼ全滅状態となると、大本営はその全滅を「玉砕」と発表、あくまでも雄々しく勇ましい戦いであったかのように見せかけたが、以降、なし崩し的に敗退の道を突き進むことになった。

 大体が勝つ見込みは陸海軍首脳と政府首脳の頭の中にのみ存在した期待上の計算であって、現実世界とは合致しない架空の計算とは気づかないままに戦争を始め、頭の中に存在させた計算とは異なる現実の展開に立ち止まることはせずに頭の中の計算に縋るのみで勝つ見込みのない戦争を兵士になお押し付けて、結果として犠牲を積み重ねていき、尊い命扱いはしていないのだから、兵士のその死を玉砕としたり、お国のために尊い命を捧げたとするのは実態とは掛け離れた不毛そのものの誤魔化しであり、非生産的で意味を成さない。

 にも関わらず、玉砕と名付けたり、「尊い命を捧げた」国への犠牲とするのは実際には不毛で非生産的な死を国家にとっては意義ある死と思わせることで、国家の価値そのものに有意義性を与える意図があるからだろう。日本軍兵士の勇猛果敢さを演出して、自他に対しての敗退のショックを和らげると同時に日本軍にまだまだ勢いのあるところを見せて国民に安心を与える精神的手当からだろうが、それで追いつかなくなると、大本営は虚偽発表で戦果を補い、日本軍の強さを宣伝することになるが、そういった見せかけとは反比例して兵士の死の実態は玉砕だ、尊い命を捧げるだとは遠く掛け離れた悲惨な姿へと変えていったことを歴史が教えている。

 だが、そのような惨めな戦いを強いられて不本意な戦死を遂げた兵士が戦前国家の杜撰な戦争計画を蚊帳の外に置いたまま靖国神社に祀られ、英霊だ、殉国の志だ、お国のために尊い命を捧げたと称賛の対象とされる。  

 その称賛によって結果として、それが日本の保守的な歴史修正主義者が主張するように例え自存自衛の戦争だったとしても、戦前国家の杜撰な戦争計画に基づいた勝ち目のない戦争そのものであった事実は変えようがないのだが、安倍晋三や高市早苗等、靖国神社参拝の常連政治家はその事実に気づくだけの人間的な共感は備えていない。

 日本軍は1941年(昭和16年)7月29日に現在のベトナム・ラオス・カンボジアを併せたフランス領インドシナに石油や鉱物などの資源、米などの食糧の確保を目的に無血進駐した。本国のフランスは1940年6月にナチスドイツ軍がパリに到達し、6月22日にドイツと休戦協定を締結、国土の北部半分をドイツが占領、南半分はドイツ傀儡政権が誕生し、本国からの支援は望めない状況下にあったことが可能とした無血進駐であった。

 アメリカはこの日本軍の軍事行動に対抗して在米日本資産の凍結、石油の全面禁輸という経済制裁を課した。軍備・編成、国防政策担当の海軍軍務局長の岡敬純(たかずみ)少将が「しまった。そこまでやるとは思わなかった。石油をとめられては戦争あるのみだ」と言ったとの記録が残っていると言う。

 要するに日本軍全体が最悪の事態を想定してそのことに備える危機管理に関わる戦略を機能させることができずにいたことを証明することになる。この証明は、当然、長期的・全体的展望に立った目的行為の準備・計画・運用の方法論としての総合的な戦略の構築にも影響を与えて、どこかに隙や弛み、手抜かりを生じせしめることになる。危機管理意識を欠いた組織に満足のいく総合的な戦略など描くことは不可能だからだ。

 アメリカから石油禁輸を受けた日本は石油、その他の資源を求めて南方の領土掌握を目指すことになる。蘭印(オランダ領東インド―現在のインドネシアのほぼ全域)の占領までを簡単な時系列で見てみる。

1941年(昭和16年)9月6日の第6回御前会議。
 帝国は自存自衛を全うするために対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整すことを決定。
 1941年11月5日の第7回御前会議を挟んで――
1941年12月1日 第8回御前会議
 対米英蘭開戦決定。
1941年(昭和16年)12月8日真珠湾攻撃、対米開戦。
 日米開戦によって、日独伊三国同盟の規定に従い、ドイツとイタリアはアメリカに宣戦布告。  
 アメリカは太西洋戦線に自動的に参戦。
1942年(昭和17年)1月10日日本南方作戦決定。
1942年(昭和17年)1月11日に蘭印(オランダ領東インド=現在のインドネシア)に侵攻。約2
 ヶ月後の3月9日に占領。

 日本はアメリカが太西洋戦線に自動参戦することで、太平洋地域の米軍戦力の分散を想定、自らを優位に立てる戦略に基づいた作戦を組んだ。その戦略どおりに作戦が進んだかどうか見てみる。

 《日本軍政下の南方石油―スマトラを事例として》(金光男:茨城大学人文学部)

 1942年占領の初年度には占領インドネシア現地での日本企業経営の石油生産量は日本とオランダ戦争前のオランダ企業経営の約半分量を回復、2年目にはほぼ開戦前の生産水準に達した。1943 (昭和18)年の原油年産量は約400万キロリットルまで回復。これは当時日本国内の総需要量の殆どを賄うほどの膨大な量であった。要するにアメリカの禁輸措置によって受ける日本のダメージをほぼゼロに戻した。

 石油生産量の回復と共に日本内地への輸送を開始。占領1942年度から1943年にかけて内地還送量が順調に増加したものの、1944年に入ると急落し、1945年(昭和20年)には皆無となる。

 理由は南方での軍•民の消費量の増加からではなく、連合軍による製油所爆撃とタンカー撃沈による消失からだという。要するにアメリカの対独参戦によって太平洋戦域での米軍の軍事力が分散されると予想していたが、軍用艦と軍用機の生産能力に日米間に圧倒的な差があり、軍事力の分散を吸収して、なお余りある軍事的優位を打ち立てることができたからだという。

 要するに日本政府と軍部は米国の軍事物資の生産能力と兵員確保能力を見誤った。当然、アメリカの対独参戦を受けたその兵力分散を想定して打ち立てた戦争計画そのものが最初から欠陥を抱えていたことになり、その欠陥が戦略そのものに影響、無惨な結果を招いたことになる。

 鉄屑の供出は1941年(昭和16年)12月8日の対米開戦よりも3ヶ月も前の1941年(昭和16年)9月1日から実施の「金属類回収令」によって始まり、鉄屑だけに収まらずに現実に使用中の金属製品までが供出の対象となっていったという自国の軍事物資の貧困に追い打ちをかける相手能力の過小評価という問題点を抱えていた。

 日本軍の1940年(昭和15年)9月23日の北部仏印進駐の制裁措置としてアメリカが翌月10月16日に日本への屑鉄輸出を全面禁止した結果を受けての屑鉄の供出だが、このように資源貧国日本と比較してアメリカは対独戦も引き受けることができ、対日戦も引き受けることができる資源大国であり、経済大国であったが、杜撰な戦争計画によって勝算を見込むことになり、その見込み違いによって多くの兵士に犠牲を強いた。

 想定そのものを間違えた戦争で受けた兵士の死は 玉砕とかお国のために尊い命を捧げた、天皇のために尊い命を犠牲にした、あるいは国策に殉じたとは決して形容できない。杜撰で愚かな戦争計画のために尊い命を犬死にさせられたと形容すべきだろう。

 当然、靖国神社を参拝して、その死を、いわばよくぞ戦ったと讃える行為は戦争の実態から目を背け、あるいは戦争の実態を免罪し、逆にその戦争を止むを得ないことだったと正当性を与えて国家を免罪する姿勢と言うほかない。

 杜撰な戦争計画であったことをネットで探した資料を使って証明していく。

 「陸軍秋丸機関による経済研究の結論」(牧野邦昭/摂南大学)に、〈1940年冬、参謀本部は陸軍省整備局戦備課に1941年春季の対英米開戦を想定して物的国力の検討を要求した。これに対し戦備課長の岡田菊三郎大佐は1941年1月18日に「短期戦(2年以内)であって対ソ戦を回避し得れば、対南方武力行使は概ね可能である。但しその後の帝国国力は弾発力を欠き、対米英長期戦遂行に大なる危険を伴うに至るであろう。」と回答し、3月25日には「物的国力は開戦後第一年に80-75%に低下し、第二年はそれよりさらに低下(70-65%)する、船舶消耗が造船で補われるとしても、南方の経済処理には多大の不安が残る」と判断していた。〉とある。

 要するに1940年冬に「短期戦(2年以内)」+「対ソ戦回避」を条件に対米英戦勝利可能説を打ち立てていた。当然、対米英戦争計画はこの可能説に基づいて組み立てられることになったはずだ。

 だが、現実の対米英戦は「短期戦(2年以内)」を机上の空論で終わらせた。対ソ戦回避については、ソ連が日ソ中立条約(1941年4月25日発効、1946年4月24日まで5年間有効)を一方的に破棄して対日参戦したのは対米英戦開始1941年12月8日から3年8ヶ月後、広島原爆投下2日後の1945(昭和20)年8月8日で、最後の最後の場面であるから、形勢逆転のトドメの一撃になったというわけではないだろうが、約1ヶ月という短い期間で満洲国や朝鮮北部の制圧を受けたのは日本軍の主力を南方戦線の守りに回していたからだという。にも関わらず米英の戦力に太刀打ちできなかったのはアメリカの国力を過小評価したからで、過小評価は往々にして自己過大評価の反動として現れる。

 多分、日本の神国思想に基づいた日本民族優越意識が合理的認識能力の目を曇らせることになった可能性は疑えない。だが、天皇の大本の子孫を神として、昭和天皇を1937年(昭和12年)の「国体の本義」で現人神と宣伝するようになり、軍部や政府の天皇に対する実際の扱いと神国思想から発した日本民族優越意識とは矛盾することなるのだが、軍部にしても、政府にしても矛盾なく受け入れていて、日本民族優越意識を自分たちの精神性としていた。

 この軍部、政府の天皇に対する実際の扱いはまたあとで述べることにする。

 ソ連は要するに形勢を見極めた上で勝ち馬に乗ったということなのだろう。日本はソ連参戦で北方四島まで占領されることになり、泣きっ面にハチのトドメの一撃を受けることになった。

 陸軍省戦争経済研究班が行った対米英国力調査がどのように杜撰な内容を取ることになったのか、その杜撰さが多くの兵士を玉砕とか殉死といった勇壮果敢さは微塵もない犬死に同然の無惨な死に向かわせ、悲惨な敗戦という現実を与えることになったのだが、同じ牧野邦昭摂南大学教授の著作(現在慶應義塾大学経済学教授)、『英米合作経済抗戦力調査』(陸軍秋丸機関報告書)から窺ってみる。和数字は算用数字に変えた。

 〈アメリカの経済抗戦力については「第4章 第8節 結論」で次のように述べられている(70ページ)。

 以上の検討よりして我々は米国につきその経済抗戦力の大いさ(ママ)を次の如く判決することを得る。

1、米国は動員兵力250万、戦費200億弗の規模の戦争遂行に充分堪えることが出来る。しかもそれがためには、準軍需産業の転換並びに動員可能の労力1千万中600万人をもつて遊休設備を運転することによつて充分である。

2、米国はその潜在力を十分に発揮し得る時期に於いては、軍需資材128億弗の供給余力を有するに至る。併し之がためには設備の新設拡張を要するから、1年乃至1年半の期間を前提とする。〉―― 

 「1」の想定の妥当性を次の記事から見てみる。

 「レファレンス協同データベース」(近畿大学中央図書館 (3310037) 管理番号 20140418-1)

 〈アメリカ軍が第2次大戦で投入した戦力を総括する統計数値として、1,635万人もの戦時動員数や108万人の死傷者数と6,640億㌦の総戦費などをあげて、アメリカが闘った他の戦争と比較総括した資料が見つかりますが、WWⅡ(「World WarⅡ」(第二次世界大戦)の略)でのヨーロッパ戦線と太平洋戦線ごとに分けた戦力数や、各兵器ごとの総量については見つかりませんでした。〉――

 アメリカ軍が太平洋戦線と大西洋戦線の第2次大戦で投入した1,635万人の戦時動員数と6,640億㌦の総戦費を半分と見ても、太平洋での戦時動員数820万人、戦費3320億ドルとなり、4分の1と見ても410万人、1660億ドルであって、秋丸機関の想定、〈米国は動員兵力250万、戦費200億弗の規模の戦争遂行に充分堪えることが出来る。〉は国力、戦力共に過小評価していたことになるだけだけではなく、もしこれにイギリスが太平洋戦線に向けることのできる戦時動員数と戦費を加えたなら、話にならないくらいの過小評価となる。

 このことは戦時動員数と戦費が戦争遂行上の重要な要素を占める点ということだけではなく、調査・報告がアメリカの諸々の国力から導き出しているはずの関係から、報告書の全体的傾向を示す過小評価の可能性は否定できない。

 自分よりも能力の高い対象と自身の能力を比較しようとすると、相手の能力を自分の能力に近づけたくなる心理が働く傾向が往々にして生じる。

 このような心理が働いたことなのかどうかは分からないが、いずれにして過小評価で成り立たせた勝敗決着の想定であり、その想定に基づいて打ち立てた戦争計画によって多くの兵士を死に向かわせ、靖国神社に祀り、「お国のために尊い命を捧げた」、「国策に殉じた」としていることになるが、他の能力に対する過小評価は自己の能力への過大評価が生み出す心理現象であって、自らの国力を過信した戦前日本国家の過ちに対する指摘、あるいは思いは安倍晋三や高市早苗、その他の靖国参拝からは見えてこない。

 「2」の米国の「軍需資材128億弗の供給余力を有する」時期を「1年乃至1年半の期間を前提とする」と見立てた点についての妥当性は、既に触れているように日米開戦1941年12月8日から半年後の1942年6月初旬のミッドウェー海戦と同年8月初旬のガダルカナル島攻防戦の敗退で日本軍は制空海権を失い、劣勢に立たされ、その劣勢を一度も跳ね返すことなく敗戦に追い込まれていった現実は米国の軍需資材供給余力の数値に関係せずに「1年乃至1年半」を待たずに「潜在力」を顕在化させ、見せつけたのだから、この点からも報告書はアメリカの国力に対する過小評価で成り立たせていたことになり、過小評価からは満足な戦争計画は立てることはできないし、結果としての各戦術も戦略も欠陥を抱えることになる。その答が杜撰な戦争計画ということになったはずだ。

 次に「4」を見てみる。

 〈4、英国船舶月平均50万噸以上の撃沈は、米国の対英援助を無効ならしめるに充分である。蓋し英米合作の造船能力は1943年に於いて年600万噸を多く超えることはないと考へられるからである。〉――

 1941年12月に対米英戦争開始から1943年の2年間を限度とした英米の造船能力は「英国船舶月平均50万噸以上の撃沈」×12ヶ月=600万噸撃沈に対して「年600万噸を多く超えることはない」、いわば英海軍のトン数の原状回復が精々で、その状況での米英海軍には太刀打ちできると計算していた。

 そして米英軍のその他の戦争遂行に必要な能力の準備についても、「1年乃至1年半の期間」と見ていて、「短期戦(2年以内)」なら勝利は見込めると計算したのだろう。

 この計算の妥当性を、『比較戦争経済史―潜水艦と造船の戦いを中心に―』(荒川憲一著)から見てみる。
  
 〈本テーマに関連した先行研究の権威であり、当時の日本の戦争経済の解剖書といわれる「米国戦略爆撃調査団報告書」では、戦時の日本の造船が米国に比較して相対的に停滞した原因を、建造速度に焦点をあて、次のように結論している。日本の造船の建造速度が遅い原因は「日本労働者の平均技量の低い水準による基本的な制約、造船所が使用した窮屈な地域、能力の大きいクレーンと装置の欠如、日本の工業技術と経営が想像力に欠けたこと」にあるとし「労働力の不足には悩まされなかった」としている。〉――

 つまり日本の造船分野は十分な労働力に恵まれていたが、労働者個々の技量の低さや日本の工業技術の低水準、そして活用余地が制約された土地条件や資本設備の貧しさ、全体としての日本の工業技術と経営に対する想像力不足等の影響が日本の造船の建造速度の遅い要因と見ていた。

 この調査団報告書は戦後に行われたものだが、アメリカも日本の国力を調査していたはずで、どう戦うかについてはより正確な敵国力調査が必要となり、調査内容の正確さが勝負のポイントとなる。生産性の低さと技術革新の遅れは日本の造船業に限ったことではなく、日本の工業のほぼ全般に関係している問題点となり、日米全体の国力の差に関係していくことになる。

 では、『日本海軍の防備体制-対潜戦、機雷戦の観点から-』(防衛研究所)の内容に基づいて日本の造船能力を潜水艦建造数の日米比較の観点から類推してみることにする。

 『表3 日米海軍の潜水艦の総数と損失数の割合』

       開戦時保有潜水艦 建造した潜水艦の数  総数   損失数(割合)
 日本海軍     62        117       179   127  (71%)
 米海軍      114        203       317    52  (16%)  

 開戦時保有潜水艦数も新規建造潜水艦数もアメリカが全てに上回っていて、日本の造船能力の米国と比較したその下位性に向ける目を秋丸機関は持たなかっただけではなく、下位性の要因としての造船部門の技術力や生産性の両国差に対しても向ける目を持たなかったことを示す。

 そして日本の造船部門の技術力や生産性の低さと比較した米国の技術力や生産性の高さは既に触れたように造船に限定されるわけではなく、航空兵器の製造部門とも相互影響していることであって、日本の潜水艦の損失割合の高さは米側の航空兵器の生産能力の高さとその結果としての生産機数に海上兵器の数を併せた攻撃力の高さの証明ともなるが、こういった関連性に向ける目も持ち合わせていなかったことになる。

 さらに技術力や生産性の程度は民生品の製造部門にも相互関連していく要素であって、兵士の食糧や軍服等、日常使用の品々の供給にも影響を与えることになり、最終的には日米の兵士の士気の問題にも関係していき、それが主体的姿勢に基づくのか、受動的姿勢に基づくのかによってそれぞれの戦闘能力にも違いが生じる。

 日本軍の兵士の士気は各戦闘がアメリカ戦力の杜撰な調査をベースとした杜撰な戦争計画に則っている以上、主体性の発揮は期待しにくく、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」や「お国のためだ」、「天皇陛下のためだ」いった上からの強制性が一方で働いていたことを受けた精神論に則った機械的な士気の発揮となりがちで、このことも影響した各戦闘に於ける形勢不利であり、杜撰な戦争計画と相互作用し合った結果の理不尽な死の数々ということであろう。

 事実、太平洋戦争での日本軍兵士の死の多くがそういった種類の死であったことは記録にあるとおりで、当然、大方のところで靖国参拝で称えているような死の形は取っていない。戦前国家を肯定している政治家、その他が肯定の先に頭の中で描いている雄々しく、美しい死の形に過ぎないことになる。

 秋丸機関報告書が「英米間の船腹量が弱点」であるとしている点について、『英米合作経済抗戦力調査』(陸軍秋丸機関報告書)の著書の牧野邦昭教授は、戦前東京帝大助教授だったが、1938年の人民戦線事件(反ファシズム・反戦争の民主主義勢力結集運動)で検挙され、退官、戦後東京帝大教授に復職の経済学者脇村義太郎の戦前の日本の造船力に関する証言を取り上げている。

 但し脇村義太郎がどういうイキサツで内情を知り得た証言なのかの解説はない。

 〈最晩年の1995年に日本学士院で行った講演で、「問題は、(アメリカが)生産された軍需品を東洋戦線、ヨーロッパ戦線へ送れるかどうかということに関わるわけですが、これは結局、船の生産がどのくらい出来るかという一点にかかるということになります。その船の生産力がどうかということについて(秋丸機関の)『報告書』のここに書いてあるのは、大体、上述の市原顧問(名前は章則、戦後日本郵船社長)の意見であったと思われますが、市原という人は残念ながら、欧州大戦の記録しか知らなかった人なのです。当時は第一次大戦の記録しかなくて、その後アメリカがどういう状態になっているかということは全然知らなかった。それを有沢さん(東京帝大の助教授時代に人民戦線事件で休職処分を受けていたが、経済学の知識を見込まれてのことだろう、秋丸機関から招聘を受けて、調査員に加わる)と二人で見ていたわけで、お手許に配ってありますように、第一次世界大戦時にアメリカがどのくらい船を造ったかということにもとづいて、第二次大戦時にどのくらい船を造れるかということを書いておりますが、実は造船のやり方について第一次大戦と第二次大戦との間に大きな変化があったということを考えない予想だったのです」〉――

 現実問題としてもアメリカの造船能力を見誤っていたのだから、この見誤りは戦闘機や爆撃機の航空機生産能力も過小評価していることに繋がり、アメリカ国力調査の杜撰さを改めて示すことになる。この杜撰な調査に基づいて想定と実際の戦力の矛盾を抱えた対米英戦争計画を練り上げて、米英に宣戦布告、そのような戦争を戦わされて、想定していなかった戦力の違いで無惨な死に追いやられた日本軍兵士こそいい面の皮だが、その実態は靖国参拝者の目には映し出されない架空のものとなっている。あくまでも国に殉じた、国のために命を捧げたと戦死者を通して戦前日本国家に正当性を付与していることになる。付与していなければ、戦死させられたと解釈することになるだろう。

 著作者の牧野邦昭教授は秋丸機関報告書が杜撰な戦争計画であることを次のような言葉で総括している。

 〈さらに、アメリカを速かに対独戦へ追い込み、その経済力を消耗させて「軍備強化ノ余裕ヲ与エザル」ようにすると同時に、自由主義体制の脆弱性に乗じて「内部的攪乱ヲ企図シテ生産力ノ低下及反戦機運ノ醸成」を目指し、合わせてイギリス・ソ連・南米諸国との離間に努めることを提言している。

 とはいえ、この「判決」で提案されているアメリカに対する戦略は「どのようにそれをするのか」という具体案が全く無いので、率直に言えばただの「作文」といえる。〉――

 この「ただの『作文』」が日本軍人・軍属約230万人、民間日本人約80万人、合計約310万人の死だけではなく、アジアの国々からも膨大な死を招いているにも関わらず、安倍晋三や高市早苗の手にかかると、日本人戦死者に限って、「お国のために尊い命を捧げた」となる。

 高市早苗は経済安保担当大臣当時の2023年4月21日に靖国神社春の例大祭参拝。記者団の問いかけに答えている。

 高市早苗「国策に殉じられた方々の御霊に尊崇の念を持って哀悼の誠を捧げてまいりました。感謝の気持ちをお伝えして、そして、ご遺族の皆様のご健康をお祈りしてまいりました」

 戦死者を「国策に殉じられた方々」とすることで、国策に対しても、戦死、あるいは戦死者に対しても肯定的な意味づけを行っていることになる。

 当然、アメリカの国力を過小評価した杜撰な戦争計画で対米戦争を開始し、多くの兵士を犬死に同然の無惨な死に追いやった歴史的実態は高市早苗の脳裡には影さえも射してはいないことになる。

 国家と国民の関係が戦前型を維持しているから、国家を優先的に鎮座させ、国民を国家の下に鎮座さる国家主体の思考から抜けきれないからに違いない。こういった人物が国民のためと称して国政に携わっている。

 今年2024年10月17日秋の例大祭の靖国参拝では記者団に次のように発言している。

 高市早苗「きょうはひとりの日本人として参拝させていただいた」

 「ひとりの日本人として」とは戦前の戦死者を「国のために戦い、尊い命を犠牲にした」、「心ならずも戦場に散った方々に感謝と敬意を捧げる」等々、戦後の日本人の立場から祀るについての正当性を置いている文脈となるが、祀る事実を作り出した要因は戦前の日本国家とその戦争である以上、この両者に対しても正当性を置いていることは断るまでもない。

 意味のない戦争で意味のない戦死だと価値づけていたなら、「ひとりの日本人として」などと
日本人であることを前面に出して、正当性を持たせた当然の義務とする発想は出てこない。戦前の日本国家を構成した政府や軍部所属の戦前日本人が日本の国力の過大評価を精神的ベースとしたアメリカ国力の過小評価が杜撰な対米戦争計画を招き、その計画のもとの戦争が多くの兵士を犬死に同然の無惨な死に追いやった歴史的実態はその靖国参拝の戦死者追悼の姿からは影さえも見せないのは、戦前国家否定を排除した戦前国家肯定を歴史認識としているからにほかならない。

 要するに靖国参拝に於ける戦死者追悼は戦前日本国家肯定と同時進行で行われていることになる。

 よく知られた事実だが、総理大臣直轄総力戦研究所が行った日米戦想定の机上演習報告でも対米戦敗北を予想していた。「Wikipedia」の項目、「総力戦研究所」を参考に書き起こしてみる。

 総力戦研究所とは陸軍省経理局に置かれていた「戦争経済研究班」、通称「秋丸機関」の機能を引き継いだ機関だと解説している。研究生は各官庁・陸海軍・民間などから選抜された若手エリートたちで、1941年4月1日入所第一期研究生官僚27名(文官22名・武官5名)、民間人8名の総勢35名が1941年7月から8月にかけて、〈研究所側から出される想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済の各局面での具体的な事項(兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携など)について各種データを基に分析し、日米戦争の展開を研究予測した。

 その結果は、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を導き出した。これは、現実の日米戦争における戦局推移とほぼ合致するものであった(原子爆弾の登場は想定外だった)。〉と、対米戦敗戦を予測していた。

 この机上演習の研究結果と講評は1941年8月27・28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』において時の首相近衛文麿や陸相東條英機以下、政府・統帥部関係者の前で報告されたという。

 この予測を覆したのは1941年(昭和16年)10月18日の首相就任3カ月前の陸軍大臣東條英機であった。表記は現代式に改めて、次のように記している。

 東條英機「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君達が考えているような物では無いのであります。日露戦争で、わが大日本帝国は勝てるとは思わなかった。然し勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、やむにやまれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。したがって、諸君の考えている事は机上の空論とまでは言わないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります」

 東條英機は1904年(明治37年)2月8日から同年9月5日までの日露戦争の時代から1940年代後半のその時代に至る兵器の発達と各性能の向上を無視して(日露戦争当時は戦車も戦闘機も存在せず、潜水艦は日露共に実用の段階に至っていなかったという)、40年近くも昔の日露戦争を参考に、"意外裡な事"(意外の裡〈うち〉に入る事=偶然性主体の計算外の要素)に期待、合理性に基づいた戦争の進め方とは異なる気持ちの持ち方が大事だとする精神論に近い訓戒を行った。

 「陸軍秋丸機関報告書」解説の著書牧野邦昭(現在慶應義塾大学経済学)教授が指摘した、秋丸機関の市原章則顧問(戦後日本郵船社長)が第2次対戦前のアメリカの造船能力を第一次大戦当時の造船能力に基づいて予測した時代錯誤な見立てと同じ轍を東條英機は踏んだ。

 だが、東條英機が総力戦研究所の日米戦想定机上演習報告が出した答、"長期戦不可避→長期戦遂行不可能→敗北必至"を避けて、陸軍秋丸機関報告書が出した答、「短期戦(2年以内)」+「対ソ戦回避」を条件に勝機を見込んだ対米国力調査に賭けた経緯は分からないが、後者にこそ"意外裡な事"の偶発を期待したのか、両報告を比較して、より確実な勝機を計算してのことか、色々と推測することはできる。

 だが、陸軍秋丸機関報告書が日本国力の過大評価への傾斜を内心に抱えたアメリカ国力の過小評価で成り立たせた杜撰な調査を内容としていたことは戦争の経緯から見て、軍部・政府の首脳の誰もが理解していなかったと見ることができる。

 やはり神国思想を根にした日本民族優越意識が合理的認識能力の目を曇らせることになった自己過大評価とその地平から見ることになった他者過小評価が災いした国家の戦争暴走といったところなのかもしれない。

 《日本国力過大評価と米国力過小評価に基づいた杜撰な対米英戦争計画から見る安倍、高市等の靖国参拝(2)》に続く
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