A Moveable Feast

移動祝祭日。写真とムービーのたのしみ。

檮原紀行4

2007年05月02日 | 流離譚(土佐山北郷士列伝)
 司馬遼太郎は、宮本常一の仕事を重んじること篤く、宮本についていくつか文章を書いている。しかし宮本が亡くなった翌年に書かれた「檮原街道」には、周防大島から長州大工が檮原にまで来ていたという宮本の話の引用は出てくるのだが、「土佐源氏」の話は全く出てこない。司馬遼太郎は檮原のことを「あこがれの地」とまで賞揚しているのに、奇妙なことだ。注意深く、排除したとしか思えない。宮本常一における「土佐源氏」という存在は、司馬のバランス感覚をどこか乱すところがあって、それを敏感に感じ取ったからに違いない。司馬遼太郎にとっての、檮原は、あくまで「土佐脱藩の道」であった。
 宮本は愛媛側から入り、司馬は高知から入っている。宮本と司馬の方法は、全く対照的である。宮本は、自分で、見て、歩いて、聞いた話の採取という方法であり、司馬は書き残されたエピソードの徹底的な調査である。司馬が尊敬の念を持ったのは、この及びがたい宮本の方法であったのだろう。
 梼原町のホームページを見てみれば分かるが、ここでも「土佐源氏」は全く触れられていない。「坂本龍馬ほかの土佐脱藩の道」は、観光資源になるが、「土佐源氏」は、どう扱ったらいいか分かりかねるということだろうか。
 佐野眞一の文章はいつも調査が行き届いている。彼の本の中に、90歳に近い、妻のアサ子さんが、宮本の思い出を語り、「あの人の話はとっても面白かったし、それに誰に対してもやさしいじゃない。そんなところがよかったのかなあ」という行りがある。妻にこんなことを云われる男は、真からのやさしさを持った人間であったに違いない。
 木村哲也は、若い人だが、彼の本は清新だ。自分の思った方向に、ためらわず前へ前へと進んでゆく、しなやかで若々しい靱さを感じる。「土佐寺川夜話」で、宮本は土佐山中のカッタイ道で、ハンセン氏病患者の旅人に出会ったことを書いているが、宮本自身はそれを発展させられなかった。木村は、若くしてハンセン氏病患者の聞き書きを始める。

「忘れられた日本人」 宮本常一 岩波文庫
「『忘れられた日本人』を旅する」 木村哲也 河出書房新社
「旅する巨人」佐野眞一 文藝春秋
「宮本常一が見た日本」佐野眞一 NHK出版
「因幡・伯耆のみち、檮原街道」 司馬遼太郎 朝日文庫

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