宮本が檮原を調査に訪れたのは、1941年のことで、「土佐源氏」の発表は、1959年だ。その間18年。取材ノートは戦災で失われており、成立ちが分からないのだが、記憶に頼るところが多く、創作に近いものと考えた方がいいのかも知れない。そしておそらくは、そういう創作に宮本を駆り立てる欲求が、当時の彼の心情にあったのだ。
宮本は、根から、善良、誠実で、人によって態度が変わることもなく、会う人がみな彼のことを受け入れてしまうような人だったと云われている。さまざまな証言があって、それについて疑いを差し挟むことはできない。。しかし当時、彼の身辺には、妻以外の女性の存在があった。
佐野眞一の「旅する巨人」から妻のアサ子さんの手紙を引用する。
「長い間お世話になりました」
「進んで仕事の協力できぬ才能のなさにお詫びしてお別れの詞とします」
「私は貴男の何をも信じまいとしています」
「xxさんを得られたことによって全ては補われましょう」
「力の足りないお前の出来ないところをよくできる人が補うのだからむしろよろこべと仰有るのでしょう」
「お二人で召し上がるお弁当は私は造る必要はない!」
宮本の手紙。
「追われるようにして出てきた家。あの家に私の居ることがアサ子の心をくらくする。きっとまた暗くするような事をしてくる。
どうにかして笑いをとり戻したい。併し、私が私の中にあるものを殺さない限り、もう笑いは生まれそうにない。アサ子は今つよくそれを要求している。私の行動の中から他へ向く目を完全に封ずることを要求している。当然のことだろう。」
「ただ生きていれば、いつの日にかお互いがお互いを尊敬しあい、いたわりあえる日の来ることを信じる。そして今は。私のあらゆる心の逃げ場までうばい去ろうとつとめる妻に深いいたわりと申し訳なさを覚えこそすれ、いかりもにくしみも感じはしない。」
「今の妻にとって私は価値のないむしろ有害な存在でしかない。だが私自身もゆとりを取り戻す日のあることを信ずる。現在がすべてではない。」
悪漢小説でなければ吐露できない真実というものもある。おそらく宮本は槌造翁に自分を重ねる気持ちが強かったであろう。妻を裏切り、別の女性と旅を続ける自分。一方では、田舎で畑仕事と子育てをしながら、ひたすら夫を待ち続ける妻。夫は妻の善意、誠実さを疑うことはできないと思っている。煩悶する妻と、それに動揺する夫がいる。
恣しいままにした女性遍歴。一定した職業に就くことなく、妻に生活の安心を与えることなく過ごした人生。自分は、世間では一人前には思われないような存在、何事をなすこともなく過ぎた一個の乞食のような存在と思い詰めたことがあったかもしれない。
妻の善意、誠実さを疑うことが出来ないということは、夫も自分の内にそれを取り戻す契機を見いだしたいと思っているということである。おそらく「土佐源氏」は、宮本の「死の棘」である。引用した手紙の最後の部分は、「土佐源氏」の最後の部分に符合しているといってもいいだろう。
「それで一番しまいまでのこったのが婆さん一人じゃ。あんたも女をかまうたことがありなさるじゃろう。女ちうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持ちになっていたわってくれるが、男は女の気持ちになってかわいがる者がめったにないけえのう。とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情けは忘れるもんじゃアない。」
「目がつぶれてから行くところもないので、婆さんのところへいったら、『とうとう戻ってきたか』ちうて泣いて喜うでくれた。それから目が見えるようにというて、二人で四国四十八カ所の旅に出たが、にわかめくらの手を引いて、よう世話をしてくれた。」
宮本は、根から、善良、誠実で、人によって態度が変わることもなく、会う人がみな彼のことを受け入れてしまうような人だったと云われている。さまざまな証言があって、それについて疑いを差し挟むことはできない。。しかし当時、彼の身辺には、妻以外の女性の存在があった。
佐野眞一の「旅する巨人」から妻のアサ子さんの手紙を引用する。
「長い間お世話になりました」
「進んで仕事の協力できぬ才能のなさにお詫びしてお別れの詞とします」
「私は貴男の何をも信じまいとしています」
「xxさんを得られたことによって全ては補われましょう」
「力の足りないお前の出来ないところをよくできる人が補うのだからむしろよろこべと仰有るのでしょう」
「お二人で召し上がるお弁当は私は造る必要はない!」
宮本の手紙。
「追われるようにして出てきた家。あの家に私の居ることがアサ子の心をくらくする。きっとまた暗くするような事をしてくる。
どうにかして笑いをとり戻したい。併し、私が私の中にあるものを殺さない限り、もう笑いは生まれそうにない。アサ子は今つよくそれを要求している。私の行動の中から他へ向く目を完全に封ずることを要求している。当然のことだろう。」
「ただ生きていれば、いつの日にかお互いがお互いを尊敬しあい、いたわりあえる日の来ることを信じる。そして今は。私のあらゆる心の逃げ場までうばい去ろうとつとめる妻に深いいたわりと申し訳なさを覚えこそすれ、いかりもにくしみも感じはしない。」
「今の妻にとって私は価値のないむしろ有害な存在でしかない。だが私自身もゆとりを取り戻す日のあることを信ずる。現在がすべてではない。」
悪漢小説でなければ吐露できない真実というものもある。おそらく宮本は槌造翁に自分を重ねる気持ちが強かったであろう。妻を裏切り、別の女性と旅を続ける自分。一方では、田舎で畑仕事と子育てをしながら、ひたすら夫を待ち続ける妻。夫は妻の善意、誠実さを疑うことはできないと思っている。煩悶する妻と、それに動揺する夫がいる。
恣しいままにした女性遍歴。一定した職業に就くことなく、妻に生活の安心を与えることなく過ごした人生。自分は、世間では一人前には思われないような存在、何事をなすこともなく過ぎた一個の乞食のような存在と思い詰めたことがあったかもしれない。
妻の善意、誠実さを疑うことが出来ないということは、夫も自分の内にそれを取り戻す契機を見いだしたいと思っているということである。おそらく「土佐源氏」は、宮本の「死の棘」である。引用した手紙の最後の部分は、「土佐源氏」の最後の部分に符合しているといってもいいだろう。
「それで一番しまいまでのこったのが婆さん一人じゃ。あんたも女をかまうたことがありなさるじゃろう。女ちうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持ちになっていたわってくれるが、男は女の気持ちになってかわいがる者がめったにないけえのう。とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情けは忘れるもんじゃアない。」
「目がつぶれてから行くところもないので、婆さんのところへいったら、『とうとう戻ってきたか』ちうて泣いて喜うでくれた。それから目が見えるようにというて、二人で四国四十八カ所の旅に出たが、にわかめくらの手を引いて、よう世話をしてくれた。」