空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

青春の挑戦 4 (小説)

2021-04-30 14:44:10 | 文化


4
松尾優紀は広島で撮った映像詩にみがきをかけた。応接室で映写したのは十五分ほどであったが、完成品は三十分ほどの長さになった。その間、アリサの所に行ってアドバイスも受けた。それから、船岡理恵子との悪魔と妖精の話を伝えたら、アリサは「そういうのは内の寺では、幻と言っているのですよ。あなた自身の中に、不死の仏性という偉大な宝があるのですから、そういうものに惑わされないように」とも言われた。今や、アリサは優紀にとって映像詩の先生であった。彼女がいなかったら、映像にぴったりする音楽を入れることが出来なかったろう。かっての初恋の人という恋慕の情は消え、時々厳しいことを言う師となっていた。彼女の父の住職が言う仏性は難解だった。

土曜日には、優紀は、毎週きちんと工場長の家に通って道雄の家庭教師を熱心にやった。道雄は神を素直に信じる素朴な子であった。
彼は松尾優紀の核兵器禁止を訴える映像詩を見て、感動したと言い、そして目を輝かし自分も平和運動に参加したいということをつけ加えた。その日の夜、松尾優紀は不思議な夢を見た。
夢の中にあらわれた道雄が天使の姿をしていたのだ。
頭の背後に金色の後光を輝かせ、美しい白い羽を蝶のようにひらひらさせながら、優紀の方を見て、神秘な微笑を浮かべていた。
そしてこの世のものとは思えない美しい音楽のような声で語り始めた。
神の使徒として平和の道を人々に伝えるように告げたのであった。
夜中に目が覚めて、その夢の内容をあれこれ考えてみたが、松尾優紀はひどく不思議な気がしてならなかった。優紀にとっては、それはただの夢とは思えず、一種の啓示のように感じられもするのだった。
彼はその夢の内容を道雄に言ってみた。
「僕が天使の姿であらわれたのですか。不思議ですね。でも、松尾優紀さん、僕は神様を信じていますし、あなたのやっておられる平和運動も支持しております。ですから、そうした僕の願いが神様を通じて松尾優紀さんの夢にあらわれたのかもしれませんよ。」
松尾優紀は特定の神を信じていなかったから、道雄のことばをうのみにするわけにもいかなかった。といって、無視することもできなかった。

その頃はよく雨が降った。豪雨になることもあった。気象温暖化も優紀にとって気になることだった。雨が止み、晴れ間が見えたある日、松尾は何かの折りに工場長に奇妙な夢のことを話してみた。工場長は、しばらく考えてから言った。
「うん、前から言っているとおり、僕は君の平和運動を企業サイトで考えたいと思っているんだ。しかし、今の会社の現状では、会社がみんなで協力してその問題に取り組むことは出きない。そこでだな、僕が 勝手に思いついたアイデアなんだが、まず君の平和運動がどの程度会社のイメージアップになるかと いう点で社内で実験したいと思うんだ。もし、これか成功すれば君は宣伝課の方にまわってもらって、会社のピーアールという大義名分のもとに平和運動をやることができる。
どうだね? 会社の社内食堂で、君の啓示について話をし、それがどの程度、会社のイメージアップにつながるか実験したいんだ。」
「私のパフォーマンスと映像詩の二本で行くということですね。それで失敗した場合は、だめになるんですか?」
「いや、よほど失敗しないかきり、君のやる気を示して もらえばいいんだ。そうすれは、僕が君を宣伝課にまわす理由もできるという ものだ。君 がこの工場にいたら、そうし た活動はで きん だろう。つまり宣伝課にまわすための口実をつくるだけだから、君はやりたいようにやってもらえればいいんだ。ただ君がいつも考えていかねはならないのは、平和運動を進めるのはおおいに結構だが、君がうちの会社員であり君の活動が社のイメージアップにつながるように行動してほしいということなんだ。これは、個々の間違いや失敗を許さないということではないから誤解しないように。小さな失敗は、おおいにして良い。僕の言うのは、 君の活動が全体として社のイメージアップにつながれば良いんだ。やってみなさい。君の勇気をためすのだよ」
松尾優紀は、船岡道雄を教えている時、ふとこの工場長の言葉を思い出してみた。道雄が天 使として夢の中に出てきたのも不思議であれば、今ここですなおに自分の教えている内容について真剣に取り組んでいる彼の姿も妙に神 秘的だった。松尾優紀は、頭の中で、思考実験をしてみた。彼は自分をドラマの主人公にしてみた。その主人公は自分をある価値観の啓示を受けた詩人という風に考え ている。
ドラマの主人公は、現代の詩人のような存在としての自覚があるから、当 然のように平和問題と取り組んだ。彼はスペインのドンキホーテを夢想した。そして、新しい価値観の伝道者として出発しようと決意したのだった。
だが、彼が優れた詩人であるのか、それともただの風変りな世捨て人であるのかは、ドラマの中では誰にも分らぬ謎として表現された。
ドラマの中におけるドンキユーキの誕生である。彼はまず世界の平和にについて考えた。核兵器廃絶運動を立ち上げることであった。
これが今世紀最大の問題であると考えたからだ。世界の平和と福祉社会の建設と隣人愛が彼の三本の柱となった。松尾優紀は、こうしたドラマを頭の中で構想し、その主人公になってみたように演技してみようと思った。彼は自分の考えている平和問題がルミカーム工業という会社の問題として社員にとらえられれば、会社のネーム・バリューを使って日本全国ばかりでなく、世界に核兵器禁止による軍縮と平和をうったえる力を持っことになると考えたのだった。
だから、彼は真剣だった。彼は、工場長から言われたように宣伝課に入りたいと思った。そして、工場長の言うように実験を社内食堂でしてみることにした。そして実験してみる日を工場長に予告すると、宣伝課長がその現場に来て松尾優紀の実力を見てくれるように手配してくれるということになった。

その日、彼は心臓をドキ ドキさせな から社内食堂に入った。食堂は、けっこう混雑していた。社員の前には紅茶が出されていた。
「うまい」という声もあった。彼は、自分のつくった映像詩のビデオ作品でその場 にふさわしい ものを選び、食堂に器具を設置した。前のより原爆の悲惨性をリアルに出したものだった。
まず大型のテレビに映写しなから彼は、説明を加えていった。
中には「ハハハ。何だ。あの若造は。まともな広告の才能があるのか」という大きな声もあった。だが、誰かがその声を静止させたのだ。利益だけでなく人権問題を会社の柱としたルミカームの歴史があるという声は小さいがしっかりした声だった。
松尾優紀は平和がわが企業にとってどれほど大切かということをうったえたのだ。食堂にいた多くの社員は、また宣伝課のやつがおもしろい企画をしているというくらいにしか考えなかった。そして社員の多くは、自分達の会社の企画であるゆえにけっこう関心を持って見ていた。
「平和か。そりゃ大切さ。だがそれがわが企業の活動に結び付くのかね」という声も松尾優紀の耳に入ってきた。それに答えるかのように彼は、 マイクを使って話をした。
「みなさん、人類にとって今ほど危機の時代はないのです。まず核兵器をなくすことであります。これによって莫大な金額を人類は福祉にまわせる。その中で、わが社の作っているペット用のロボットも電気製品も売れる。こんな素晴らしいことはないではありませんか。
私は、 アニミズム論者です。いのちがこの世界を支配し、 いのちの運動がこの世界のさまざまな現象をひきおこしているのだと思っております。
科学の立場で言うと、 物質という概念が一番重要なのは、皆さんのご存じの通りです。
ですけど、物質の本質はいのちなのです。いのちが物質になるのです。私は、キリストが神の子と自分を定義したように自分をいのちの子として、 皆さんと一緒に平和問題に取り組むことをうったえたいのです。神という言葉はすでに骨董品として偉大な力を失ない、現代では、物質という言葉が幅をきかせています。 しかし、 この物質はかっての神のような偉大な美しさを今だに出していません。 ダイヤモン トは、 磨けば美しく輝く。 物質も同じです。 物質という言葉は、 磨かれる時かっての神以上の偉大さで輝き、いのちが現れてくるのです。 その時、みなさん、私達はみないのちの子です。自然の子と言うべきかもしれません。いのちの子としての人間の偉大さを 現すためにも私達は立ちあがりましよう。 このことは会社のためにもなるのです」

一人の若いオフィスガールが松尾優紀に近づいて来た。
「あら、 松尾優紀さんじゃないの?まだ平和問題なんかにこっているの?こんな所まで出張してやるなんて大変な度胸ね」
「ああ、 大内さん、 工場からこちらに 来てどうですか?」
「まあ、 おもしろいわよ。それにし ても今日は大変な演説をしに来たのね。きっと、あなたのこと社内で評判になるわよ」
「そうですか、 それは良かった。 それで目的ははたしたというものです。大内さんは、世界の平和について考えたことあるでしよう?」
「そりや、あるわよ。 でもあたし一人じゃ、どうしようもないわ」
「そうなんですよ。 一人じゃ何の力もないから、 みんなで力をあわせてやるのですよ」
「でも、あなたの話、 天使からの啓示だのなんのって、ちょっと考えすぎじゃないの」
「ええ、そうかもしれません。でも、僕は宣伝課に入り、ぜひこの平和問題を会社の営業サイド
で検討し、日本全国のみならず全世界にうったえたいと思っているのです」
「あら、松尾優紀さん、宣伝課に入るつもりなの,・それでこんな風に自己宣伝しているのね。あら、うわさをすれはかげとやら、宣伝課長の木下さんがやってきたわよ」
宣伝課長の木下勝次という課長は、温厚な雰囲気を持っており、色白で少々小肥りの中肉中背の男であった。彼は松尾優紀に近づいてくると言った。
「おお、松尾優紀君、工場長から君の話は聞いた。そして今日の君の活動は隠しカメラで全部見せてもらった。大変面白い。ぜひ、宣伝課で、君をスカウトしたい。人事課長の方にも連絡しておくから、明日からでもこちらの方に出勤してほしい。」
木下課長は、ゆったりした雰囲気の男で部下からの信頼も厚い男だった。その微笑はまるで仏様のようだと言われもしたのだった。松尾優紀も木下課長を見るとなごやかな気分になるのだった。 「課長、平和問題は、わが社のイメージアップになると確信しております」
「そうか、人権問題では、わが社はよその会社の模範となったものだ。平和問題も同じ。君の信念でやりたまえ。君には今度わが社が開発した。アンドロイドロボットを貸してあげるよ。人間に近くなったアンドロイドだ。それを連れて電気製品のセール と平和を訴えた映像詩、両方やってくれたまえ」
「アンドロイドを連れていくんですか?」

「そうだ、知能ロボットでね。名前は君がつけたまえ。人間とある程度のコミュニケーションが出来る、わが社の世界に誇るロボットだ。君が活用してほしいんだ。ロボットを操作するために、技師の田島君を君の協力者としてつけてあげる。まあ、がんばってくれたまえ」
松尾優紀はロボットについては空想もしたことがあるし、工場にある産業用ロボットを見たことはあるが、今、課長の紹介しているような知能ロボットはまだSFの世界の出来事であると考えていたから、び'っくりした。
「いつの間に、 そんな優秀なアンドロイド をわが社はつくっていたのですね」
木下課長は笑って言った。「確かに、わが社の技術の粋をこらしてつくったものだがね。まだ色々不備が多くてね。君に実用になるかどうかためしてもらいたいという気持ちもあるんだ」
松尾優紀はまず学校からまわってみるこ とにした。ロボットには「菩薩」という名前をつけた。なぜそんな名前をつけたかというと、そのロボットを見た時、なんだかひどく愛嬌のある可愛らしい顔をしているにもかかわらず、平和をうったえるのにふさわしいきまじめさと誠実さを持っているような気がしたからだ。
菩薩は小柄な大人程度の大きさで顔も身体も全体に曲線が少なく、かどばった感じで銀色に輝いていた。
松尾は菩薩に電気製品などの商品のパンフレットを持たせ某中学校の校門をくぐった。 秋の陽ざしがそそぐ花壇には、赤い彼岸花が咲いていた。
ロボット技師の田島が運転する車はロポットが乗るのにふさわしい若者の憧れる最新の流行型だった。映写機は優紀が運んだ。学校を最初に選んだのは校内暴力などでマスコミにさわがれている教育現場にのりこみ、中学生に平和の大切さをうったえた いと思 ったからだ。彼は大手の会社、ルミカーム工業のセールスマンということで簡単に職員室に人ることを校長 から許可された。彼は昼食時を選んで入ったので当然のことな から多くの教員 が弁当を食べていた。教師や生徒は ロ ボッ トを見て驚きの表情をしていた。彼は各職員の机の上に「よろしく」と言いながら、商品のパンフレットと自分の価値観を披露した小冊子を置くと全体が見わたせる位置に陣ど った。
                              (つづく )








                            
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青春の挑戦 3

2021-04-24 13:35:34 | 芸術
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理恵子は、ちょっと早口に向きになったような表情でそう言った。彼女に抱かれた猫が大きな目を見開いて、松尾優紀の目を見た。「うむ、不思議な目だ」と彼は思った。
目の奥に一つの宇宙が広がるという詩的なイメージが松尾の心に浮かんだ。
「瞳の奥から、迷い込んできた自然の神秘な光はわが胸を射す」という以前ノートに書き留めた詩句を思い出した。
理恵子の母は上品な微笑を浮かべていた。
「でも、世界をアニミズム的に見る方なんて、今時、珍しいんじゃない。その点では二人は一致しているのよ。」と彼女は娘の理恵子の方を向いてそう言った。
工場長が細い目を大きく見ひらいた。 「そうだな。お母さんの言うようにア二ミズムという点では二人は一致している感じがするね。そのことで思い出したんだが、うちの会社でもロポット開発がさかんになってきているんだが、このロボットのことを考えると君達の考えているアニミズムが 正しいのかもしれないと思う。今のロポットは、まだ自動車工場で使われている程度の簡単なものだが、近い将来は高度なものができるだろう。内の研究所でも研究しているからね。アンドロイドをね。そうするとね、 ロボットに意識が生まれるという風に言っている学者もいるんだがね。かなり先の話だと思うが、話題としては面白い。
機械 が人間と同じような意識を持つのだからね。ある意味で意識というのは別に珍しい現象ではなくて、条件され整えばいくらでも生まれるんだね。とすると松尾君の言う石ころを人間と同じように見る見方というのも納得できる。
人間は他人の意識を見るこ とはできないで、自分の意識の世界しか感ずることができないんだが、それと同じように猫の意識や犬の意識を知ることはできない。だが、猫や犬にも人間に近い意識があると想像できる。ならば、草花や石ころにだって意識に近いものがあると想像するのも面白いね。
意識について一番知っているのは自分だよね。この自分が生きているという感じを 一番大切にしたいと思うんだ。色々のものを見たり 聞いたりしながら希望を持って生きているというこの自分がなによりも意識の証明だね。つまり、それと同じように他人も生きて いる し、猫や犬そして石ころさえも 意識や無意識を持ちながら生きているんだという風に考えれば、さきほど松尾君の言ったアニミズムの考えは充分理解できるし、僕としてもそうした考えに共感できる。さらに話を発展させれば、そうしたすべて のものが生きている生命に満ちたこの世界で死を意味する 核兵器の使用は許せな い という ことだね。
科学は人間の持つ最高の道具である理性が発展させてきたものだが、理性というのも戦争に勝ちたいという自我と結びつくと、とんでもないものをつくる。核兵器をつくり、さらに性能の良い核兵器へと進む。これは人類の死を意味する。だからこそ、会社が生き残り、さらに発展していくためにも平和のための宣伝を世界にむけて率先してやっていく必要があると思っているんだ。
ところがこれには勇気がいる。うちの会社の上層部は保守的で頭のかたい人が多いから、今そういう行動は中々とれない。
しかし、社長は立派な平和主義者だから、僕のこうした考えもいずれ理解してくれ、わが社が世界に向けて平和へのアピールを出す日が来ると思うね。
その時のためにも松尾君にさらに良い作品を作ってもらわなくちゃならんと思っている。いずれ、君を本社の宣伝部に推薦するつもりだ。ところでね、松尾君。
会社の仕事とは別に君に頼みごとがあるんだ。
実はね、道雄の家庭教師をやってほしいんだ。週に一度でいいんだ。
いつ来るかは君の都合の良い日を選んでもらえば良い。
時間は二時間ぐらいだな。
僕はね、この子のことがとても心配でね。
以前にも大学生の家庭教師に何人か来てもらったことがあるのだけれど、どうも僕がそうした大学生が気にいらないんだ。確かに優秀な学生だったんだが、ハートがないんだな。
もちろん彼らだけで今の大学生全部を批評しようとは思わないが、また大学生を頼む気がしないんだ。
誰か、いい人がいないかなあと思っていたのだけれど、君の映像を見してもらった時から君が良いと心に決めていたんだ。教える内容は国語だけで良い。
君の日本語の鋭い感覚をいかしてもらって道雄にいくらかでも豊かな感受性と国語力をつけさせたいんだ。どうだね。僕の頼みを聞いてくれないかね。」
工場長はおだやかな瞳で、松尾を見詰め、返事を待った。
「僕でよろしかったら、喜んでお受けしますよ。
でも、家庭教師なんかしたことないから、僕が教えて道雄君の学力が向上するかどうかはあまり自信がないんですけど」
松尾は工場長がこんなにも自分を好意的に見てくれているのがうれしかった。
「学力が向上するかどうかは道雄の努力にもかかっているのだから、そんなことはあまり気にかける必要はないんだよ。
むしろ、君のものの考え、行動力が気にいっているわけだから、なんらかの影響を道雄に与えてもらえればそれで良いんだ。
ま、気軽に考えてくれたまえ。つまり、道雄と友達になってもらえれば、僕は満足なんだ。姉の理恵子がいるんだが、やはり君に若い男のエネルギツシュな魅力を道雄に見せてほしいんだ。
理恵子も道雄の面倒はよく見てくれているのだが、やはり魅力的な男性を道雄の友達にしてあげたくてね。君が受けてくれるということで、僕は君に感謝するよ」
奥さんもうれしそうな表情をして言った。
「あたしからも、お礼を言わせて下さい。母親として、この子がたくましく生きていく力をつけてほしいと願っているのですけど、やはり、すぐれた指導者が今の時期にはこの子に必要なんですわ。松尾さんなら、この子も喜びましようし、あたし達も大喜びですわ。毎月のお礼も充分さしあげるつもりですから、よろしくお願いしますわ。で、 いつ来ていただけますの ?」
松尾は、結局毎週土曜日の夕方、 道雄の家庭教師として船岡家に通うことを約東したのだっ た。 理恵子が二人の会話が終わるのを待っていたかのように、言った。
「ねえ、松尾さん、 又、議論をふきかけるみたいで悪いんですけど、このことはぜひ、あなたの御意見をうかがいたいんです。あなたは、悪魔の存在を信じていないようだけど人間として生まれ、 人間として活動しているということじたい何か悪魔と手を結んて遊んでいるような所がありませんかしら。私は最近そんな気がしてならないのですけど、こんな感じ方異常かしら?
パウ ロも言っておりますわ 。善をなしたいと思 ってもその欲している善はすることができず、悪ばかりやると言って嘆いているパウロの気持が、 私には わかるような気がしますの。たとえばですよ。あなたの着ていらっしやる洋服は、洋服屋でつくったものでしようし、それは立派な布地を使っているのでしょうけど、もしも、その洋服が悪魔の変身だとしたらどう でしようね。あたし達は、悪魔にたぶらかされているのかもしれませんよ。あたしがあなたを素敵な男性と思ったのも悪魔のたぶらかしかもしれませんしね。悪魔は、色々なものに化けますから用心するにこしたことはありませんわ。見えるものにばかり変身するとはかぎりませんし、本当に悪魔は気紛れだと思いますよ。ですから、空気の中に入り交って私達の胃の中に人り、血液から脳の中にまで人り込む かもしれませんよ。パウロの言うように、 あたしは自分が悪魔に支配されているのかと思って、ぞおっ とすることがありますわ。でも神を信じることはできない。神様を昔の人のように素直に信じれたらどんなに幸福でしよう。この心の中の悪魔を神様は決してお許しにならないでしようし、きっと追い出してくれますわ。でも、こんな奇跡は信仰のない私には無理なこと。どうです、松尾さん。私の話はあまりにも夢物語のようで面白くありませんでしよう」
松尾は、 理恵子の話を聞きながら、彼女の話が現実にあてはまるのか疑いながらも、 そんな風に周囲を見てみる実験をするのも悪くないと考えた。応接室のシャンデリア風の豪華な飾りをつけた螢光燈の 黄色い光から小愛魔のような小さな小人達が飛び出して船岡家の人々 と松尾の頭上で小悪魔の村の祭りで楽しい舞踏を始めているという風に。松尾は、 そんな風に周囲を見た自分を不思議な生き物のように感じていた。
「いえ、大変おもしろいです。妖精について考えたことはありますが、悪魔について深刻に考えたことはありませんので、大変勉強になります」

「それはあなたがロマンチストだからですわ」

「 ファウストだって、「罪と罰」のラスコニーコフだって常に悪魔と結託しているではありませんか。人間って誰にもそんな所があるんですよ。松尾さんだってそういうことにそろそろ気づいてもらわなくちゃ。良い作品は生まれないんじゃありませんかしら」
松尾は、彼女の話が自分に善と悪の問題について考える切っ掛けをつくってくれたように思った。工場長の家でタ食まで御馳走になり、 色々と歓談したあと帰りの道で、深刻に彼の思考に肉薄してきたのは、この善と悪の問題であった。



彼は広島の原爆の恐怖を映像にしてビデオ作品を製作し、 それを人々に公開することにより平和を訴えようと行動を始めていた。これは善としての行動であると思われた。だが、 はたして彼は善人であろうかと彼は自分を疑ってみたのだ。善人としての行動の裏に功名心がないであろうかと考えてみた。絶対にないとはいえない自分がなさけなかった。しかし一方で、なぜ自分は善をなしたいと思うのだろうか。
そして又、今まで 自分はどれほど善をなしたであろうかと思ってみた。もしも善を他人とのかかわりあいの中で他人への思いやりのある行動、他人への救いの手を伸ばして あげることという風に定義するならば、過去における松尾優紀の行動は、あまりにも本物の善が少なかったのではあるまいか。
しかし人はなぜ悪を反省し、善を求める必要があるのであろうか。昔ならば善をすれば天国か極楽に行け、悪をなせば地獄に行くという風に考えれば良かった。しかし、現代人でそんな風に考えることのできる人は少ないだろう。だとするならば天国も地獄もないと思い この地上と科学的理性だけを信じる現代人が善を求める理由は何か? 個人の立場から言えば、悪をなしたっていいじゃないか、それは個人の勝手という風に考える人達が生まれるのもある種の必然であるかもしれない。 松尾は徹底的に悪人としての生活を貫きとおす人物の姿を思い浮かべ てみた。だが、彼自身は反対の方向を考えていた。つ まり善をなしたいという欲望が彼の心の中に高まっていくのであった。これは不思議な感情だった。弱い人を助けたい、悪い奴をこらしめたい、これは欲望というよりは地下水からこんこんと湧き出る泉のような愛と慈悲の感情だった。彼は帰りの道々、人類愛に似た感情が彼の心を圧倒し、目から涙があふれ てくるのをどうすることもできなかった。その理由は彼にもわからなかった。
工場長の家には、土曜日ごとに行った。家庭教師のあとの夕食の雑談を繰り返していくうちに、会社の上層部でかなりの内紛があるということを松尾は知るようになった。 工場長が、 どうもその主役であるらしかった。 工場長は、重役にはなっていなかったが、 才気があり会社への貢献度で重役を圧倒しており、 社長の信任が厚かった。 工場長の会社への経営についての提言を社長がどんどん取り入れていくので、大株を持っている重役を中心に工場長への不満と圧力が強まっていたらしかった。工場長が重役になれないのは、重役の中に船岡を敵視する者がいたということかもしれない。
<<会社の株は、 森下家と藤沢家の二家が半分近く所有しており、 この二家が経営陣の採用には大きな力を持っていた。しかし、 この二家は昔は一緒に事業をやった仲であるにもかかわらず、 最近ではひどく仲が悪くなっていた。現社長は森下家の信任が厚く、重役陣の中には藤沢家の子息が入りこんでいた。 この程度のことが松尾の耳に人ったわけだが、 この二つの勢力が会社の経営についてどんな風な相違があるのかよくわからなかった。
ただ、 わかったのは、 工場長が松尾の平和運動に大きな関心を持っていることであり、 この平和運動も会社の営利事業の中に組み込んで いこうという考えがあるらしかった。もともと大株主の森下家は、理想家肌の人が多いのに対し、藤沢家は実務家肌の人が多いとも聞いていた。社長や工場長にとって他の重役はこわくなかったが、 藤沢常務か面倒な相手であった。藤沢常務はロポットとAI導入による合理化によって、 労働者首切りを主張していて、労働者の生活よりも会社の利益と内部留保を優先するような人物だった。 であるから、組合側も社長に対しては好意的であり、藤沢常務に対しては警戒色を 強めるという感じであった。熊野は、松尾の親しくしている先輩でもあり組合活動家として強力な指導力を持っている若者であるだけに、藤沢常務に対する悪感情は露骨に松尾の耳に披露されたものだった。

秋も近くなったある日のことだった。工場の近くに、森林公園があった。久しぶりに、熊野と松尾は二人で昼食後に、噴水があるその公園に散歩に出た。沢山の小鳥のさえずりや青空の白い雲やそよ風が心地良かった。相変わらず、セミの声は樹木の間から、聞こえてきたが、ツクツクボウシの声はどこか弱弱しく秋を告げているように思われた。


二人はベンチに座ると、熊野は図太い声で、会社の話をした。
「ねえ、松尾君。藤沢常務みたいにロポットを導入して労働者を首切り 、利潤ばかり追求していく会社が日本にどんどんふえていくとしたら大変なことになるよ。企業は、もっと社会的責任ということを考えるべきだよ。 藤沢常務は大株主だから、会社を私物のように考えているようだがとんでもない話だ。あの優秀なロボットの入った最新鋭の工場はみんなのものだ よ。 ロポットを導人することは僕も結構なことだと思っている。人間が危険なことやひどい重労働をする必要がなくなるからね。 これからの企業は、もっとアイデアを出して工場で働く人々の創意工夫による色々な生産活動があって良いと思うんだ。特に我が社は、ロボットや電気製品を多く売っている会社で消費者と密接に結びついている。アイデアさえあれば、我々の日常使っている電気製品は驚くほど豊かになり、生活は芸術的にすらなると思うよ。例えば、ロボット、これは工場だけのものでなく、やがて家庭で使うペットのようなロボットが出てきても良いと思う。松尾君が工場長の家でやっている家庭教師のような仕事のできるロボットもあって良いと思う。もちろん、これはすぐにできることではないが、ロボットは我々の生活を豊かにするために、使うべきだし、だからロボットはすべての労働者の共有物なんだ。それを藤沢常務は何を勘違いしたのか、私物のように考えている。全く馬鹿な常務だよ。その点、うちの社長の方がずうっと話が分かる。内の組合は今の段階では、社長をある程度支援して藤沢を追っ払う力に加担するのが得策だろうね。もちろん我々の組合が社長や大株主と利害が完全に一致するということはありえないから、その点ではいつも経営に対しては警戒の手をゆるめてはならないし、戦いは進めていくべきなんだが、最終的には労働者の代表を経営陣の中にいれなければだめだろうね。そうすれば、君の核兵器反対の映像詩は会社のイメージアップにもつながるということが大声で主張できると思うよ」
それから、熊野は一息ついた。
その間に、松尾優紀はそばの花壇に咲いているホトトギスを見た。白に赤紫のまだらが彼の興味をひいたのだ。
その後すぐに、熊野はちょっと強い調子で言ったので、優紀ははっとした、
「そうすれば、多くの国が核兵器禁止条約を批准し、発効しはじめたというのに、被爆国の日本が批准しないという愚かなことを辞め、批准する方向に前進できる筈だ。」
ふと、森の方の小鳥のさえずりの中に、ホトトギスの声が聞こえたような気が優紀にはしたのだった。

【つづく】








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青春の挑戦 2 【小説】

2021-04-17 13:10:43 | 芸術

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松尾がそこまで言った時、工場長はち ょっと厳しい表情になって話始めた。
「松尾君と いったな。 確かに君の言うとおりだ。 核戦争を避けることは、人類史的な大問題だ。だがね、 わが社は営利会社なんだ。政治のことに口だしする立場にはないんだよ。会社の利益につながらないことで、会社は行動することはできな い仕組みになっているのだ。君が ビデオで平和を訴えることにより、何か良いイメー ジが会社につながるのなら良いんだがねえ。これは、中々むずかしい問題だなあ。
確かに、わが社と平和が結びつくことは会社の宣伝効果としては良いだろう。しかし、世の中は複雑で色々な考えの人がこの平和については、色々な角度から意見を言っているんだ。 わが社が積極的に平和をとりあげることにより、それかプラス になるかマイナスになるかは簡単には即断できない。君はただ、わが社の応接室を借りたいだけだ と思 っているかもしれないけど、工場長としては、そんな単純にことを進めるわけにはいかないのさ。会社の部屋を 貸し、従業員に見せるとすると、 そのことが会社にとってプラスになるのかマイナスになるのか、 大きな視野から考察する必要があるのさ。今の私も即答できない。ただ君の熱意には脱帽するよ。 ところで君に聞きたいのだけれど、最近、わか社で会社の営利活動の足を ひっばるような組合運動が一部におきていると いう風 に聞いているのだが、君はそういう人達と、 つきあっているのかね?」

松尾優紀は工場長の誠実な話の仕方に感動していた。
「名前を具体的に言っていただかないと返事のしようがないのですけど。でも、工場長はおそらく熊野さんのことを言っておられるのでしよ うから、そのことについて僕も言っておきたいことが あります。熊野さんとは親しくしておりますが、僕は彼を大変尊敬しております。ですから、彼が会社の営利活動を妨害しているなどという悪口を耳にはさみますと、僕は腹が立つのです。彼は、会社で働く人のためになると思っていつも行動しているはずです。彼は、自分のことよりもまずみんなのことを考えます。困った人がいると助けようとします。現代社会では、自分のことしか考えない人間 かふえているのに彼は、そういう意味でまれな人間です。」
「そうか、わかった。君の気持はよくわかった。しかし、君は実におもしろい人間だね。核戦争なんていう問題を会社の仕事を扱うように持ってくるんだから。僕は、最初君の話を聞いた時、少々めんくらったね。 でも君の勇気には感心した。熊野君のことも考えてみよう。まあ、じや、僕も忙しい身だから今日はこの辺で。返事は課長を通じて君に伝えるから、 いいね、」

その翌日、松尾優紀は課長からビデオ試写の許可を 言い渡された。彼は、この黒木という名前の課長をすいていなかっ た。黒木は皮肉な笑いを浮かべ松尾に言 った。
「君は、随分常識はずれのことをやる男だね。工場長に直接かけあうなんて。そういった問題は、まず私に言うのが筋じゃないのかね。それに内容も内容だ。原爆と平和のテーマのビデオだって。私には工場長が何で許可したのかわからんよ。会社とは、まるで関係ないことじゃないか。そんなことは、君が私的な立場でやればいいことだ。まあ、ともかく工場長が許可したのだから勝手にやりたまえ」
松尾は、黒木課長に注意めいたことを言われても、 そんなに腹も立たず、許可を受けたことを素直に喜んだのだった。
その当日、多くの従業員が見ただけでなく、工場長まで来て、試写か終わったあと、わざわざ松尾の所へ来て感想を述べていったのだった。感想は、ほめ言葉と技術的なことについてのアドバイスであった。そして、工場より本社の宣伝部の方がむいて いるのではないかというよう な ことも言われた。その頃、2003年。ネットが盛んになり、熊野はアメリカでユーチューブのような動画配信サービスが近い内に起きる可能性は高いし、それが日本に入ってきたら、個人が作る映像詩の発表の場が生まれると指摘した。そうなれば、気象温暖化の問題や核兵器廃棄の提案のような映像詩も掲載できる日がくるから、そうなればそうした映像が世界に飛び立つこともできるかもしれないとも言った。


その日は日曜日だった。熱中症など、いのちにかかわる暑さが警告される酷暑の到来が予告されていた日だった。
松尾が朝食をとるために近くの喫茶店に行こうと思って下宿で着替えをしている時、工場長から電話が入った。内容は工場長の自宅に遊びに来ないかというものだった。工場長から、直接、自宅に電話がかかるなどどいうことは前代未聞のことだったので、松尾はびっくりした。
松尾は電話をおいてから工場長の真意をはかりかねていた。遊びに来ないかという単なる誘い以外のことは何も言われなかったので、松尾はそれを単なる好意と受け取るほかなかった。彼は工場長室で、話をした光景を思い浮かべ、よほど馬があう仲なのかもしれないという風に考えるのだった。松尾は近くの喫茶店で、朝食をすましてから、出かけることにした。

陽ざしが強く、彼は豪雨を思い出し、再び、地球温暖化という言葉を思い出さざるを得なかった。

工場長の家 は、松尾のいる尾野絵市から電車ですぐの所にあった。町の郊外から少し入った閑静な住宅地にあった。庭が広くスぺイン風の二階だての家でちょっと目立った存在だった。白ぬりの壁と工夫をこらした窓は、 芸術的ですらあった。庭には、バラが咲きみたれていた。松尾が玄関のベル を押すと大学生風の娘が出てきた。あとで聞くと短大一年生ということであった。美人ではないが非常に魅力的な女性であると松尾は思った。
小柄で色の白い細面の顔に宝石のようなやさ しい瞳が輝いていた。松尾は頭の中で島村アリサと比較した。理知的な瞳の輝く丸顔のアリサが明朗で活動的な魅力を持っていたとすれば、船岡理恵子という工場長の娘は静寂な雰囲気を持っていた。アリサは誰の目にも美人と映るタイプであったが、 理恵子は美人型の顔立ちというわけではなく清楚な美しさが顔から服装まで漂ってい て人をひきつけるのだった。そしてアリサは短かい髪を好んだが、 この日、松尾の見た理恵子は腰にまで届きそうな長い髪をしていた。

松尾は、理恵子に案内され応接室のソファーにすわっ た。しばらくして工場長と奥さんが出てきて挨拶した。 そして理恵子がコーヒーとケーキを持ってきた時、彼女の後ろにほっそりした小柄な中学生ぐらいに見える男の子がついてきた。 工場長の家族 は、 この四人で あることは工場長自身が松尾に家族のこと を色々と詳しく紹介してくれたことでわかった。利口そうな目をした末の中学二年生の男の子は、 町の郊外の里山から植物や昆虫を集めるのが趣味で、学校は好きでないようだった。奥さんは、娘と同じようにほっそりし ていておちついた気品のある瞳 と威厳のある唇を持っていたが、やはり四十を少々過ぎた年を感じさせる顔の皮膚には、 しわが時々目につくのだった 。

「いや、本当によく来てくれた。実を言うとね、僕は君のビデオに感動して しまったのだよ。よく、あのような立派な作品をつくってくれたと思ってね。原爆と平和の問題、 これこそ現代人にとって最も緊急に 解決しなけれはならぬことだよ。そのテーマに君が映像という表現形式を使って取り 組んでくれた。すばらしいことだ。僕はね、 松尾君。終戦の時広島にいたんだよ。僕は、その時、五才でね。ちょっ と事情があって広島の親戚の家にあずけられていて東京から離れていたんだ。親戚の家は、広島の郊外にあったので原爆による直接の被害は受けなかったけと、 死の灰は少々か ぶったと思うね。 そんな ことより、原爆が 落ちてから三ケ月ほどたって叔父に連れられて広島の町を歩いた時の衝撃は生涯忘れることはできぬ。君か原爆資料館で見たものを、僕は広島の町の中に見たんだ。こうした恐ろしい事実を世の人に伝えたいという気持はあっても、僕のように大会社で忙しい身になってしまうと、中々 思うように動きがとれない。本当に君のような青年を見ると実にたのもしく思うし、それに君の作品は、見る人に訴える力もある。才能もあると思う。がんばってくれたまえ。ところでテープを持ってきてくれたかね。家内や子供達も見たがってね」
松尾は持 ってきた黒い鞄の中からビデオテープを取り出した。奥さんが、微笑を浮かべながら言った。
「それは、 しばらく貸していただけますの?」
松尾が肯定の返事をすると奥さんは、再び言った。
「それなら、あとでゆっくり見せていただきますわ。 主人はもう見たのでしようから。 あたしと子供達、それに場合によっては近所の人達も呼んで見るかもしれませんわ。映像の魅力があるというのですから、 単に反戦というだけでなく、私達の胸に感動すら与えてくれるか もしれませんわ。私達が、のんきに毎日をくらしている間に戦争の準備がどんどん進んでいってしまわぬためにも、私達の反戦の決意を高揚させていく必要がありま すものね。そのためにも、そうした映像は一見の価値があると思いますわ」
松尾は、工場長から思いの外の称賛の言葉を聞いたり、 奥さんの高い期待にふれたりして、ちょっと困惑していた。将来的には反戦の芸術作品をつくることが目標ではあるが、今回の作品の出来についても彼自身は決して満足しているわけではなかったからだ。反戦の色合いは相当出てはいるが映像の魅力ということになると、まだ改善すべき余地がたくさん残されていると彼は考えていた。それでも急いで公表に踏み切ったのは 、未完成であってもともかく核兵器廃止運動は緊急を要すると考えているからに他な らなかっ た。
それに昼間の職務をやったあとの編集なので完成品をめざしているとまた 相当の日数を必要と すると思われたからだ。
「やあ、奥さん、そんなに期待をかけられるとがっかり致しますよ。私のせい一杯つくった作品ではありますが、まだ色々と不満足な点か 目立つんですよ。でも核兵器の恐ろしさと反戦の気持は充分でていると思いますが。映像の魅力ということになると自信はありませ んね。 でも映像が、 こうした問題に深人りする必要があると思っているんです。 月や花がどんなに美しくたって、そのすばらしい神秘性を感じる 人間が減びてしまうことを考えたら、 やりきれませんからね。
この宇宙にある 、あり とあらゆる美しさを芸術作品を通して表現していくことも大切です が、 一方で 、そうした美しさを無意味にしてしまうような悪魔の力を警戒しなけれはなりません。この悪魔を映像の中に登場させ悪魔の力を弱めるためにはどうしたら良いか、考えてもらう材料を提供するのも映像の重要な役割だと思いますね」

松尾がそこまで言うと今まで黙っていた理恵子は、母親に似た微笑を浮かべて、 な めらか な明るい声で言うのだった。「松尾さんのおっしやること、ごもっともですわ。芸術至上主義では、現代人を満足させること はできませんわ。でも、満足しないくせに芸術も政治も捨ててクリスタルに生ぎるなんてい う のか流行して いるのですから、とても残念ですわ。ク リスタルって水晶のことでしよう。天使も悪魔も知ろうとせずに 人生の一番透明な所だけ通過して、事足れりとする流行は我慢がなりませんわ。あたしは松尾さんのおっしゃる通り悪魔が人間を支配しようと、やっきに なって いると思いますの。そんな 時、クリスタルに生きるなんて許せませんわ。松尾さんは悪魔を信じますの?」
「そういうものが現実にいるとは思いませんね。しかし、人間の心の中に悪魔と いって形容して 良いほどの野獣 性や逆に天使のような美しい心が同居していますからね。そうした一人一人の野獣性が社会という集団になった時、悪魔が現実にいて人類を支配して いるかのように見えることはあ りますね」
「それはちがいますね。悪魔はいるんですわ。歴史は進歩しているはずなのに、ありとあらゆる災難が人類を待ちかまえているのを考えてみて下さい。膨大な核兵器はそのシンボルですわ。
気象温暖化もそうですし、今は2003年ですけど、おそらく二十年以内に大地震や何かとてつもない怖い病気がはやるということもありえますわ」
松尾は理恵子の言葉が強い調子で断定的に言うように変化したのでびっくりした。理恵子の母親が横から口を出した。
「すみませんね。松尾さん。この子 は、ちょっと激しやすい性格で してね。会話の最中によ く興奮してこんな強い調子になるんですよ。」
工場長は笑った。
「理恵子はね。 真剣に徹底的にものを考えるんですよ。親の口から 言うの もなん だか私がび っくりするほと本も読んでいますね。 でも思想的にはノンポリで、ちょっとキリスト教に興味を持っているということかな。最近は 、悪魔にこってい る よ うだね。、妖精だの天使だのって、ちょっと 中世か古代の人 のよ うなことを言 うんで 私も戸惑いますよ」


工場長は、 うれしそうに徴笑 していた。


「松尾さん、私の会話の調子が母の言うよ うにまずいものでしたら、ごめ んなさいね。私の性格の欠点は、自分でもわかっているのですけど感情の起伏が激し い ことね。外見は、おと なしそうに見えて言うこ とはきつ い って時 々言われますのよ。これは努力してなおすように しますわ 。それはそれとして今の私は、神様や悪魔や天使や妖精を信じていますの」
「僕は、この世界にいのち以外のもの はないと思っている んです。ただ理恵子さん の おっしや る よ うにいのちが悪魔や天使の形となって僕達を動かすということはあるかもしれませんね」
「それ、 どういう意味かしら?私にはあなたのおっしやる意味が理解できないわ。 もう少し詳しく説明してくたさいませんか。」
理恵子は用心しながら言葉を連んでいるようで、 ゆっ くりした調子であったし口もとには徴笑をたたえていた。 工場長が松尾の方をむいて言った。
「厳しい質問だが、僕も聞きたいね。僕は物質が世界を支配しているのだと思うよ。 その物質の法則をあきらかにする科学こそ現代において最も信頼すべきものだと 思うがね。 でも宗教を否定する気持はないんだ。 ただ科学と宗教とが心の中でつながらないんだね。 君のさきほどの発言だと悪魔や天使が科学の対象になるように聞こえるんだが、 そこの所を説明してほしいね」
「僕は、 花も石も人間もいのちの現われだと思うんです。つまり、僕は石ころを人間のように見る見方が好きなんてす。石ころは生きているんです。 こうした感じは、僕の子供の頃からありました。 そりや、 石ころを生きているなんて言ったら生物学者にしかられるかもしれません。君は生きているという言葉の意味を厳密につかんでいないねとかいう風にね。
僕も工場長と同しように科学を信じます。 ですから生きているということで人間と石ころを同列にならべれば、 非科学的だと言われる くらい承知しております。そういうことを知っていながら、 あえて石ころは生きて いるという風に言いたいんです。 な ぜなら、そんな風に子供の時代から僕は感じていたんです。 人間だけが生きて いるんではないんだ。山も川も花も昆虫も生きているんだというのは、僕の実感なんで すね。 ですから、 森の 中に妖精がいるなんていう考えは、 僕は好きなんですね。山の中にはいって、風と樹林がすれあう時、 ざわざわ音をたて ますね。 あの音はまるで妖精が合唱しているみたいですよ。 風と樹林の会話は音という生き物となって森の中を動きまわるんです。これを妖精と呼んだってい いじゃありませんか。さきほどの悪魔だって同じことです。 人間の心の中にある汚いものを 、 心理学という科学の力を借りて欲望 だのエゴだのと分析しなくたって、 これを悪魔と言ったっていいじゃないか と思うんです かね」
理恵子は笑った。その笑いは本当におもし ろくてしようがないという風に陽気に部屋の空気を震動させるのだった。

「あなたは、結局、アニミズムの信奉者なのよ。そして、あたしは観念論者というと ころかもね。 パパと ママはその中間ね。
道夫君はどうかしらね。神様を信じているという所かしら。」
船岡道雄はさきほどから松尾達の会話をおとなしく黙って聞いていた、ひどく行儀がよく無言でみんなの会話を聞いている様子は幼児のようにあどけなかった。
身体も中学二年生の平均的体格から見るとひどく見劣りがして、片足がよくきかないらしく歩く時はどうしても身体が傾くのだった。

それで、クラスでいじめられることあるらしく、それも母親の悩みの種だが、本人の心は意外に強く、植物や昆虫を集めて標本にしていると、全てを忘れるようだった。
その道雄が理恵子の呼びかけにびっくりしたような顔をして、実に美しい声で言ったのだった。
「僕、神様、信じているよ。松尾さんのお話なんだか、よく分からない。でも、神様がいらしゃることは、間違いないことだと思います」
工場長が笑って道雄の肩を軽くたたいた。
「道雄はどこから、そんな確信を得たのかね。私は無信仰だし、お母さんはどちらかというと、仏教の方だから、やっぱり姉さんの影響かね」
奥さんが口をはさんだ。
「理恵子はキリスト教を信じてないくせに弟には神様やキリストのことを教えて時々、聖書まで読んで解説したりするんですよ」
工場長は笑った。
「ミッションスクールだから聖書の勉強もしなくちゃならんだろうからね」
「そうよ。でも聖書を読んで礼拝に行ってもキリスト教の神様は、よく分からないわ。すなおに信じられる人は幸福よ。どちらかというと、私の家は仏教的色彩が強いのよ。
そうした雰囲気の中で育ちながら、短大に入ってから急にキリスト教にふれても、よく分からないのが正直な所よ。
同じ神様でも古代ギリシャや古代日本の神話に出てくる神様なら、なんとなく親しみやすく、わかるしそんな風な素朴な神様なら、むしろ素直に信じちゃうんだけど。
というよりは信じているのよ。
悪魔や天使や妖精と一緒にそうしたアニミズムの世界に生きる神様なんて面白いわ。
でも、あたしが一番関心あるのは悪魔なの。
あたしの心にも悪魔はやってくるし、人間の歴史を動かそうとたくらんでいるのも悪魔であるような気がするの。核兵器をつくるように、背後から人間をあやつったのも悪魔だと思いますわ。もしかしたら気象温暖化もね。
今は核兵器が強国にあるのが当たり前になっていますよね。悪魔の悪知恵はたいしたものですよ。多くの人はその状態にまひして、何も言わなくなっている。核兵器反対なんて普通の市民が言うと、単細胞の連中が騒ぐのも、背後に何がいるか想像つくじゃありませんか」
理恵子の母が手を口にあてて笑った。
「理恵ちゃんの考えと、さきほど松尾さんのおっしゃた考えとまるで、そっくりじゃありませんの。きっと気が合うかもしれませんわよ」
「あら、どこが似ているのかしら。アニミズム世界観ね。でも、あたしと松尾さんは同じ妖精を見る場合でも随分違うわ。松尾さんは妖精はいのちだっていうし、あたしは悪魔とはまるで違う心の綺麗な世界の住人だと、答えるし」
そこに妖精とでも形容して良い丸い顔をした黄色い美しい顔の猫が来て、理恵子のそばに座った。
彼女は猫を抱っこして座り、「この子はあたしの妖精よ。でも、石のことまで、考えたことはないわ。三毛っていうの。可愛らしくまるで私の気持ちが分かるように、私の心を慰めてくれるし、とても綺麗な猫でしょ。これこそ、あたしの妖精のシンボルだわ」



(久里山不識より)
1 胃の調子は 一時随分悪く心配しましたけれど、歩くことに熱中して少し改善されてきましたが、油断するとまたあの不快で重苦しい状態が復活すると思うと、憂鬱です。
敵は 運動不足と一合以上の酒、それからストレスや不眠です。

2 それから、ブログの内容は 小説です。ですから、登場人物になりきって、その登場人物
なら、どんな風に考えるか、どんな風に言うか想像して書きます。シェクスピアとハムレットが別人物であるように、私と私の小説の登場人物とは別人物です。
書く方の私の気持は子孫のためにも、今の内に気象温暖化の解決や核兵器の廃棄をめざしたいという思いから、書いています。そんなことは不可能だなんて言われそうですけど、一人一人のそういう思いが世界中に、特に若者に広がれば、前へ進めるという希望を持っています。
現代社会は複雑です。はっきりしていることは格差社会であるということです。
これは是正して、市民が余裕のある生活を営めるように、することが大切なのではないでしょうか。余裕がないと、大切な本も読めません。考える時間も持てません。それでは、政治を見る力も衰えてしまいます。今の日本は全体として見た時、この余裕に欠けていると思います。だから、くだらない噂を広める人が出て、簡単にその噂を信じてしまう人が多くなるのです。
競争が激しいからでしょう。これを直すには、福祉を充実させることだと思います。
労働時間をできるだけ、縮小させ、生活できる給料が支給されることだと思います
私は今、少し改善されたとはいえ、全体として体調が悪く、無理は出来ませんが、時間はあります。その時 思うのはやはり核兵器の恐怖です。コロナは多くの医療従事者の献身的な努力によって、いずれ時間が解決の方向に向かうと思いますが、核兵器は昨年の夏でしたか、国連の事務次長が危険な状態に進んでいると警告しているように、危ないと思ったときにはもう遅いのです。今から軍縮に取り組むしかないと思います。それは気象温暖化にも言えると思います。

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青春の挑戦

2021-04-10 20:19:07 | 文化


松尾優紀が広島から、帰った日は豪雨だった。梅雨の予報では、梅雨開けは近いと聞いていただけに、この突然のような豪雨には驚いた。
広島にいたのは三日間でその間は曇り空で降らなかったし、初日は晴れ間さえ見せていたから、彼も気象庁の言うように、梅雨開けは近いと思っていた。
三日目の昼頃から、雨が降り出した。前日の予報で雨が降る予想はしていたから、雨具を手に持って、夕方広島を出れば尾野絵では多少の雨にやられる程度と思っていた。
けれど、昼を食べた頃から、ニュースの気象庁の予報は今、広島に降り出した小振りの雨は夕方には豪雨になるという風に変わったので、驚いた。
広島の町を移動中は曇り空が多かったから、三日目の小雨が豪雨になるという話はにわかに信じがたかったが、夕方までいる広島の予定を三時までと変えたのは、この予報だった。
三時に電車に乗ろうと、駅に向かった時は既に折り畳みの傘が役に立たないほどのひどい振りだった。
駅の中に入った時に、松尾の頭に浮かんだのは「地球温暖化」だった。広島では、原爆でピカッと光ったあとの廃墟になる街の様子が頭に描かれるほどになっていたのに、今度は豪雨かやれやれと、優紀は思った。それから、ふと放射能に汚染された黒い雨のことを思った。
電車の席についた時に、頭に大きなイメージでひろがったのはあの原爆の惨劇だった。
気が付いたら、崩れた瓦礫の中に埋まり、手から血がだらだら出ていても、痛みは感ぜずに、ハンケチで覆い、しばると、そこから血が這い出してくる。自分のいる建物が壊れているのは当たり前でも、その向こうの街のビルや店が全部、破壊され、あちこちに死体がちらばり、
立っている人の顔は髪も焼かれ、顔の皮膚がただれ、衣服は燃えたのか、あちこちから、焼かれた皮膚が出て、幽霊のようになっていた。「水、助けて」とよろよろ歩く人が何十人と町の道なき道を歩いていた。地獄だ。
この地獄の様子と放射能の混じった黒い雨のことが松尾優紀の頭に何度も何度も繰り返しイメージとして現われ、電車に乗っている彼の心を苦しめた。

尾野絵の町に帰ってくると、豪雨はさらにひどくなり、風もあり、傘をさすことが出来なかった。
翌日は雨が上がっていたので、会社に出社し、挨拶をしていつもの自分の仕事に没頭し、家に戻ると、またいつもの生活が始まった。
その間、
松尾優紀は夢の中で島村アリサに出会うことがある。まるで観音菩薩のような清楚な姿をして、彼女は草原の木陰で楽器を弾き、歌を歌っている。それはこの世のものとも思えない美しさだ。その彼女の顔が中島静子に変わることがある。それは街にいる普通の女の子である。このように、顔が観音菩薩のようなアリサから、静子へ、それから観音菩薩へと変わる。そんな夢を見てから、二人に電話をかけたことがある。
アリサは座禅道場で、座禅をしたあと、執筆活動をしているようだった。
広島の話をすると、島村アリサは「どんな作品にするの」と聞いた。
「今、考えています」と松尾優紀は答えた。映像作品にするならば、音楽の応援をしてあげるわと、アリサは言った。
静子からは「長崎の鐘」という映画、見たかと聞かれた。その映画のことは知らないと答えると、DVDを送ってあげるわと言ってきた。
彼女がそういう映画を持っているとは驚きだった。その時、松尾は静子がかなりの映画をDVDで見ていることを知った。
松尾は送られてきた映画を見て、大変、感動した。
研究室で白血病にかかった医師が自分の寿命はあと三年だと妻に告げて、病院に出勤したその日、原爆が落とされた。医師は自分の病気や深い傷にもかかわらず多くの人を助けた。家に帰ると、家はがれきの山となり、妻は骨となっていた。
このような高貴な魂になぜこのような残酷なことが生じるのか。
松尾優紀はノートに書きこんだ。
「もし、神の摂理というものがあるならば、
私は問いたい
何故ですか。」


すぐに松尾優紀は 原爆と平和をテーマにした映像を作ろうと決心した。
「長崎の鐘」のようなものを作るには、俳優がいるし、今は準備などで、無理だということは分かる。取り合えず、彼は広島で撮影してきた沢山の映像を巧みに組み合わせすることを考えた。人に見せられるようにするには、どう撮影したら良いかということは、広島にいる間、ずーっと考え、そうしたプランの中で、撮影してきた。
確かに、このやり方は誰でも短期間に出来る。組み合わせという編集のやり方によっては、人の心を引き付けることが出来る筈だと思った。彼自身のナレーションや彼の創作した詩も編集の中に入れた。会社から、帰ると、そうしたビデオ制作に没頭する毎日が続き、日曜日にはアリサに会い、音楽の入力を手伝ってもらった。それがある程度、満足した形で出来上がった時、彼はそれをどこで放映したら良いか迷った。
今回の広島での作品は どこか公共の場所を借りて、試写することに決めた。
彼の頭に浮かんだのは、 会社の応接室であった。
しかし、あそこを使うにはルミカーム工業の工場長の許可がいる。
その許可がもらえるかということについては、自信がなかった。
工場長にかけあってみるということは、一般的には勇気のいることであった。
しかし、松尾優紀は工場長と交渉してみようという気をおこしたのだった。

梅雨が明けた。久しぶりの熱い陽ざしが、工場の窓を通してそそぎこんだ。工場での勤務が松尾優紀にとって、快適に過ぎ去ったように思われるある金曜日の夕方、彼は工場長室の前に立った。
受付の若い女がけげんそうに優紀を見詰めた。
「工場長に会わせていただけないでしょうか」
松尾はそう言いながら心臓がドキドキした。
工場長とは、入社の時に声をかけられた以外は言葉をかわしたことがなかった。
頭の髪の毛に白い毛がまじっているように思えた、四角い顔の背が低く、かっぷくの良い工場長は一種の威厳を備えていた。
その威厳がどこから出てくるのか、工場長を遠くからしか見ていない松尾にはよく分からなかった。
「どんなご用件ですの」
美人型の受付の女の子は用件が明確でないかぎり取次ぎしないぞという決心でもしたかのように、強い語調とひきしまった表情で応対するのだった。
「用件は工場長に直接会ってから、お話いたします」
松尾優紀は心の動揺から自分の言葉が、しどろもどろという風にぎこちないのを感じていた。
「工場長から、用件を聞いてお取次ぎするように言われているのですけど、」
受付の女の子はそう言うと突然なりだした電話を取り、てきぱきした調子で応対したあと、再び、松尾を見詰めた。
「ものすごく重大な内容なんですよ。ですから、直接、工場長に言わなければならないんです」
受付の子は、しばらく思案したような表情をしたあと立ち上がった。
「それじゃ、そういう風に言って見ますわ」
受付の子が入っていった工場長室の物言わぬドアを見詰めて、松尾優紀は心臓が高鳴るのをどうすることもできなかった。
しばらくして出てきた彼女が「どうぞ、中にお入り下さい」と言った時は、ほっとしたのだった。
広い部屋の中に入ると、花模様のじゅうたんがしきつめられた奥の窓側に工場長が左手に書類を持ち、ペンを握った右手は机の上に休めた姿勢でこちらを見詰めていた。右手に置かれたとっくり型の白い花瓶にはハイビスカスの赤い花が一本、今を盛りに咲いている。
「重大な用件とは、なんだな」
工場長は眼鏡の奥に鋭くひかるまなざしを松尾優紀に向け、声は低い調子で言ったのだった。
「はあ、実は  」
松尾優紀はそんな風に切り出しながら、目の前に座っている工場長に不思議な親しみを感ずるのだった。
工場長と目を合わせていると、何かこう楽しくなるような気分すら感ずるのだった。
どうしてそんな風になるのかよく分からなかったが、松尾優紀は多分、馬が合うのだろうという風に解釈し、それはこういう交渉の際には有利な武器になると内心思うのだった。
「はやく言いたまえ」
工場長は 松尾優紀がためらっているのを見て、いくぶんやさしい声を出してそう言った。
「はい、実は、僕のつくったビデオを会社の応接室で試写したいと思いまして。
それで、工場長の許可をもらいたいと思って来ました。
内容は 原爆と平和をテーマにしたものですけど、みなさんに喜んで見ていただけるように、工夫して見ました。
僕たちの会社も平和があってこそ、発展していくのですから、平和の問題は、みんなにとっても強い関心事のはずです。
ことに、最近、核戦争の危機が叫ばれている折りでもありますし、みんながこの恐ろしい戦争を回避するために僕のつくりました映像を見てもらい、平和について真剣に考えていただきたいと、思いまして。ぶしつけなお願いとは存じますが、そんな風な気持ちでまいりました。」
松尾優紀はさきほどまでの動揺が不思議なほど、落ち着いた雰囲気と軽快で明朗な語調で言ったのだった。そのあと、優紀はハイビスカスの花の突き出ためしべと黄色いおしべを見ていた。
しかし工場長は、すぐには返事をせずに、左手の書類と右手のペン を 机の上に置き、 両手を組み、あいかわらず優紀をじいっと見つめるのだった。松尾は、それでもいやな気持にならないどころか、逆に明るいうきうきした気分になり、自分の思っていることをしゃべりまくってしまいたい誘惑すら、 かられたのだった。
「工場長、僕はつい最近 広島に行ってきまして原爆記念館を見てきました。正直言いまして、そのあまりにも恐ろしい原爆の実態に圧倒されてしまいました。まさに地獄というのは、あんな光景を言うのでしよう。工場長、もしも核戦争かおきればわが工場も破滅です」
【つづく】




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