空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

映画「THe Birds」と詩

2020-12-30 10:34:01 | 映画「The Birds」と詩


 ヒッチコック監督の「The Birds」という映画を見たことがある。何故、見たか。私が鳥が好きだということと、前にヒッチコック監督の映画二本ほど見て、面白かったからである。
鳥が好きということに関して言えば、カラスが好きで、カラスを題材にして短編小説を書いたことがある。「森の青いカラス」というタイトルでアマゾンで百円です。カラスの大集団は、まだ東京の大きな公園で見ることが出来る。
それから子供の頃、伝書鳩を飼ったことがある。カモメは松島に行って船に乗った時、後ろの席にいたのだが沢山のカモメが船を追ってくるのには驚いた。顔は可愛いが、ケッコウ乱暴な所のある鳥らしい。
それでも、最近、ネットで多くの方が撮られる小鳥を見て、市街地に私の見たこともない可愛らしい小鳥が沢山いることに、感激したことがある。「銀河アンドロメダの猫の夢」という小説の最初に、登場させたカワセミは、二年前ぐらいに東京スカイツリーのそばの梅の木にとまっているのを見て、その素晴らしい小鳥ぶりが印象に強く残って書いたのである。

さて、映画の「The Birds」は見た方も多いと思うが、やはり優れものである。やはり、世の中には予想外のことが起きるものである、ということを感じさせる。
第一次世界大戦だって、最初はすぐ終わると、多くの人が思っていた。それが、フランスとドイツの塹壕戦だけで、二百万人の若者が無残な死に至る恐ろしいことになると、誰が予想したろうか。あの時点で、それまでのヨーロッパの素晴らしい文化を支えていた価値観の根幹が破壊されたのである。
私の生涯で、それに近いのは東北大地震と福島の事故。それに、今回のコロナだな。報道を見ているだけで、体調の悪いこともあって、死のイメージがちらつくこともある。免疫力をつけようと、なるべく散歩して歩くように心がけている。コロナが来るずうっと前に、カミュの「ペスト」という小説を読んだことがある。あれは優れた小説である。

さて、肝心の「The Birds」
面白い。アメリカの海に近い田舎町で起きた異様な出来事。お嬢さん育ちのメラニーという女がペットショップで弁護士と知り合う。彼の屋敷に、密かに小鳥を届けた女はふいに舞い降りてきたカモメに額をつつかれる。

メラニーが弁護士の近くにいる女友達が小学校教師をやっているので、学校のそばで待っていると、ジャングルジムに最初は数羽のカラスがとまる。メラニーが物思いにふけりながら煙草を吸っていると、カラスが次々とジムに止まり、いつの間にジム一杯になって、初めてメラニーは気がつく、その時の驚き。さすがのカラス好きの私もあんな沢山のカラスを見たら、たじたじであろう。
そのあと、小学生たちが外に逃げるのを多数のカラスが襲うのだ。



要は恐ろしいほどに数の多い鳥に人間が襲われ、死者まで出るというお話だ。
レベッカのような人間社会のサスペンスだと、なんとなくありそうな感じがするのだが。こういう話はやはり、まさかそんなことが起きる筈はないと思いながら、興味につられて見てしまう。そして、もしかしたら、ありうる話かもと思わせてしまうのがヒッチコック監督の映画の凄いところ。

想定外の、自然の人間への逆襲。 「鳥」という映画を見て、そんなことを感じる。人間が自然を支配できるという十九世紀の西欧に流行したと思われる考えが、今も生きている主流の考えのようだが、それは違うと言われたような感じがした。気象温暖化もそうかもしれない。私の若い頃、夏はあんなに暑かっただろうか。
私は壮年の時は血圧で悩まされ、今は胃と前立腺などがかなり悪いのだが、大学では柔道をやっていたから、ご存じのようにあの暑い時に、厚手の柔道着を着てやる。終われば、ぶらぶら散歩しながら帰る。つまり、その前後は印象的で記憶に残っているのだが、暑さに苦しめられた印象はない。夏は柔道の合宿があり、マラソン、三時間ぐらいの練習もあったが、暑いのが嫌だということは記憶にない。
豪雨もそうだ。最近のように、テレビのアナウンサーがいのちにかかわるという形容詞を使った気象異変は感覚的にも最近のものという印象がある。
ある日、気が付いた時は、地球に大変な異変が起きているという不安を感じさせる最近の気象状況である。


想定外のことが起きる可能性がある。環境問題。核兵器。原子力発電所。
そうした意味で、現代は人類の危機という感じを持たせる。こうした危機を感じている人は多いと思う。ただ、普段は毎日の生活に追われているから、なるべくそういうことは考えないようにする。 そこで、半分娯楽の映画を見て、リラックスしながら、そういう危機感を感じる映画と言えば、「西部戦線異状なし」であげたい。古い映画であるが、これは名作である。知っている人も多いと思うが、もう一度見て欲しい。長い塹壕を挟んで、ドイツ軍とフランス・イギリスなどの連合軍が戦う。小説ならヘミングウェイの「武器よさらば」だろう。「武器よさらば」の映画は薦めない。
繰り返して恐縮だが、フランスでは死者の数は第二次大戦よりはるかに多いと言われるのがこの塹壕戦である。両軍がにらみあって、銃を持って大勢の兵士が進んでも、前には敵兵が塹壕から機関銃や銃を発射するのだから、突撃といっても、死ににいくようなものである。映画ではそれが恐ろしい形で描かれている。日本でも旅順の戦いをテレビ映画で見たが、確かにあれも死体の山を築き、与謝野晶子が反戦の歌を歌ったことでも有名だが、テレビの映画の日露戦争は英雄に焦点があてられるので、戦争の悲惨さを感じるにしても、何か格好の良い戦士が心の中に残ってしまう。そこへ行くと、西部戦線異状なしは大人に鼓舞された十九才の学生達が志願して、ドイツ軍の前線に向かう。死者の数も旅順の戦いよりもはるかに多く、何でこんな愚かな戦いをしなければならないのかと、登場人物と共に庶民の立場で考え込んでしまう。何故なら、戦争で死ぬのは沢山の庶民なのだ。
私は禅の立場で考えるが、仏教は人は無明にあるという。要するに宇宙の真理に暗いという。お釈迦様によれば、すべての人は仏性を持っているのである。その視点で、現代の問題も考えていかねばならない。人類は生き残って、この地上に平和を築き、次の世代に美しい地球をバトンタッチしなければならないのだ。
宇宙の中で、これほど美しい惑星は少ないだろう。この地球を汚くしているのは誰であろうか、考えるべきである。
文明とは、仏教的に言えば、煩悩の所産だ。エゴとエゴが衝突する、これが戦争だ。
オバマ大統領は核兵器をなくす方向に世界を持っていくと宣言した。日本はその先頭に立つべきなのではないのか。世界の平和を何よりも願っているのは日本人ではないのか。軍事力のバランスを考える理屈も分かるが、長崎、広島を経験した日本こそ、世界平和への提案をどしどしすべきなのではあるまいか。今は人類が生き残れるかどうかの瀬戸際なのだと思う。日本が先頭にたって、平和へのイニシアチブを取らなければ、どの国がとるというのか。
「西部戦線異状なし」という映画を見れば、沢山の若者が何のために戦うのか分からずに、戦争の無意味さを知って死んでいったことだと思う。その点で、与謝野晶子の「ああ、弟よ、君を泣く」という旅順の戦いに反戦の意思を示した詩も何度も、ぜひ読むべきだ。あの詩は日本人が世界に誇る偉大な芸術だと思う。彼女は当時、非国民扱いされたのである。しかし、今、我々は与謝野晶子のような素晴らしい人が日本の歴史に登場したことを誇りに思うべきなのだ。

最近は想定外のことは人間にも起きている。人間による事件である。秋葉原事件などは有名だ。それに、地下鉄サリン事件の犯人には、多くの秀才がかかわっていたことは驚きだった。
最近では、沢山の障碍者を元職員が襲った例がある。この人達は必要ないという自分勝手な理由である。無茶苦茶な悪魔の理屈だ。座間の事件も異常。
それから、最近では、ネット中傷が問題になっている。匿名を良いことに、自分が快感を得るために、見知らぬ市民を攻撃する。悪質である。見知らぬ相手に対する嫌がらせは集団ストーカーとして、ネットでも、この間の都知事戦でも、立候補者の中にそういう問題を大きく取り上げた方がいた。
集団ストーカーはまさに、法律の想定外のことなのだ。だから、取り締まる法律がない。しかし、これは法哲学的にかなり悪質な犯罪と言えるのだ。見ず知らずの人を後ろから指差し悪口を言う人はそう言っている本人が怪しい人物であることを周囲は知る必要がある。

こうしたことを克服する道はお釈迦様の大慈悲心とキリストの愛、そうした宗教哲学的な愛と大慈悲心がこれからの、人類に必要なのではないか。
全ての人は仏性を持つ、お釈迦様の言われたことは本当だと思う。そこを原点として、すべてのことを考えなければならないのだと思う。
              
法華経には「善男子、善女人は如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に座して、それからまさに、四衆のために広くこの経を説くべし。如来の室とは大慈悲心である。~」と書かれている。だからこそ、道元は座禅と同時に、愛語を大切にしたのだと思う。
新約聖書のパウロの言葉には 愛がなければ、一切は空しいと書かれている。
「コリントの信徒への手紙13賞」
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。





満月 【poem】

我、満月を見て
詩をつくろうと、ペンをとろうとするも
満月は笑う
我、そなたはいいなあ
悠然と秋の空を歩き、美しい地球を見るのだろうか
我々は歩くのにも車にぶつからないようにしなければならない
あなたが笑うのも分かるよ
さきほど入ったわずかの酒
胃が悪いのに、このほんのり気分で
たわむれに、君と散歩するために酒を入れた
今はいいが明日になれば、この胃どうなるのか
君の飲み物はこの澄んだ大空か

僕は地球の想定外の危機を論じているのだぞ
満月君、君は何を考えているのかね
僕はヒト族がこのまま繁栄をしていくのか心配なのだ
気象温暖化のこともね
核兵器のこともね
人間は理性というものを宝にしているけれども、君はどうだね
悠然と大空を歩き、悠然と進むのか
それで、酒を飲む気もおこるまいね。
ヒト族は科学文明をうまく使いこなせるのかね

満月君
君は千年も前のことを覚えているだろう
おみなえしが道長と式部の間に
あった千年も前のあの夜のことを
この千年の間に色々なことがあった
何億という人生があった

偉い人も出たし、くだらないことをする人も出た
今はどうなのかね
人はこれからも、栄えるのかね

ヒト族が死んでしまうと
君にとっても友達がいなくなるだろう
ヒト族が死んでしまうと、
君は消えていなくなるという噂もあるのだけれど
そんなことはあるのか
そんな時もきっとこの大空を一人散歩するに違いない

そして僕みたいな胃の悪い人間でなくて
ナポレオンや信長のように勇ましい馬上の姿を思い出すのか
それは君の好みではない
されば、心を揺さぶる芸術家か

いや、待てよ
君はもともと僕のような胃の悪いのと友達になるのだから、

ひっそりと多くの人が
つつましく生きた人生
喜びと悲しみに満ちた人生を懐かしく
思い出すに違いない

そして、美しい地球を大切にしなかった人類を
あわれに思うのだろうか



【参考】
詩の中の「おみなえしが道長と式部の間に」は 紫式部日記を思い出した詩句である。
朝、供を連れて藤原道長が歩いて来る。紫式部に気が付き、庭のおみなえしを折って、式部に見せて、返事の和歌を要求した場面。

【久里山不識からの連絡】
胃などがかなり悪いので、外見は良さそうに見えても、本人の体調は悪いです。それで、掲載はゆっくりペースになると思います。よろしくお願いいたします。



荒城の月 唄:鮫島有美子 & センベイ・タソガレ

「黒いオルフェ」と詩

2020-12-24 13:45:55 | 文化


映画「黒いオルフェ 」
この映画を見る前には、どうしても、コクトーの「オルフェ」を思い出してしまう。ある有名詩人が死んだ奥さんを異界に入り、現世に引き戻そうという話である。
鏡から、異界に入り、奥さんを連れ戻そうとするが、奥さんの顔を見てはいけないという条件で、異界の裁判官の許可を得る。そして、我々の世界に引き戻そうとするが、約束を破り、後ろを振り返り、失敗してしまうという話だったと思う。
これは、ギリシャ神話にヒントを得た話らしが、どちらにしても、死んだ後のあの世があるということが前提になっている。あの世があるかないかは、今の科学では分からない。しかし、科学者であの世を見たという人がいる。スエデンボルグである。この人の名前は「霊界日記」で知られている。
この本が出版され、ヨーロッパで話題になった頃、1750 年の頃、カントという哲学者がいたのはご存じの方も多いかと思われる。
その頃、カントは金が十分にあるというわけでなく、それなりの精神的苦痛を感じながらも、大枚をはたいて全部読み、「視霊者の夢」を書き、「この本に書いてあることは妄想だ」と断じたらしい。カントは日本の学者等に影響を与えたのだが、私にも思い出がある。
学生の頃、親しい友達がカントを持ち、私は「ファウスト」を持ち、海の見える町にまで、小旅行をしたことがある。五日間民宿みたいな所に泊まって人生を語ったのである。友人の語る言葉は当時の私には外国語のように響き、私はファウストの言葉に魅かれた。ファウストはあらゆる学問を研究したが、真理は分からないと嘆く最初の方で、名高い。
このように、カントは今だに影響力を持っているのだが、スエデンボルグ側の方は、スピリチュアリズムという、さらに進化した形で勢いを増大させていることは、ネットでも散見するから、霊界があるこを信じている人も増加しているのかもしれない。霊界があるということになると、霊媒もあるということで、この黒いオルフェにも登場するのが現実味を帯びてくる。
このように、死に関しては、今も「そんなものない」という人と「分からない」という人と「霊界がある」という人に分かれて決着がついていない。


まず、「黒いオルフェ」の筋書きを書いてみよう。
 舞台はブラジルのリオデジャネイロ。ここは貧しい庶民の住宅が並ぶ中で、黒人のオルフェは市電の運転手。快活で、ギターを弾き、皆の人気者でミラと結婚することになっている。
その古いギターを持った者が代々、オルフェを名乗るのだと言う。
明日がカーニバルという時に、黒人の娘ユリデイウスがやってくる。彼女は死の仮面をかぶった男に付け狙われていると言うが、明日はカーニバル、彼女の好きな男が仮装しているのだろうと、受け取られる。



黒人のオルフェは、隣の家に来た彼女と出会い、ユリデイウスという名前を聞いたことで、昔のギリシア神話の連想から、恋人の約束をする。オルフェの情熱と軽薄さがあとで悲劇を招く伏線になるのだろうか。激しい嫉妬に燃えるミラ。

カーニバルでは、死の仮面をつけたストーカー男にユリデイウスは追いかけられる。ナイフを持ったオルフェが死の仮面をつけた男の前に立ちはだかって、彼女を救う。彼女を守って、夜を過ごすと、翌朝、ミラはオルフェに会い、激しい嫉妬の感情をむき出しにする。
カーニバルでは、美しい衣装を競い、町の中でリズムに富んだ踊りの人々であふれる。その中で、ミラはオルフェとユリデイウスの二人を見て、嫉妬する。
沢山の踊り狂う人々の中に、死の象徴のドクロの仮面をつけた男が姿を現わす。その間にも、ミラはユリデイウスを見つけ、彼女に「殺す」と言って乱暴をする。
ユリデイウスは市電の車庫に逃げるが、その高圧線に手をかけ死んでしまう。


オルフェはユリデイウスを求めて町を彷徨うが、ある老人に導かれて、祈祷師と霊媒が儀式を行って、死者の魂を呼んでいる場所に行く。オルフェは祈るように、呟くようにユリデイウスの名前を呼ぶと、ユリデイウスの声が聞こえる。二人は会話をするが、振り向いてはいけないと、言われるが、姿を見たいと言い、ユリデイウスの声に振り向くと、そこに霊媒の女がいる。オルフェはだまされたと思い、そこを飛び出す。
ユリデイウスの親族の許しを得て、ユリデイウスの死体を霊安室に引き取りに行き、そこから、ユリデイウスを抱いて、オルフェが町と海を見おろす崖ぷちのあたりに来ると、ミラが狂ったという声が聞こえ、放火された家が燃えている。ミラはユリデイウスの遺体を抱いたオルフェを見ると、彼めがけて、大きな石を投げ、それがオルフェの額に当たってしまう。二人は岸壁から墜落し、二人の遺体は大きな緑の植物の中で、重なる。



霊媒という生身の人間が登場する「黒いオルフエ」の方は少し発想が違う。
あの世のメッセージは生身の人間にしか通用しない。
東大医学部の元救急部部長の医師によれば、霊媒を使って、死んだお母さんと話したと言う。
最高の現代医学を修めた方が言っているのである。重く受け止めるべきである。


「黒いオルフェ」に登場する死の仮面をつけた男は現実的に解釈できる。カーニバルにことよせたストーカーだと。死因は、ストーカー男に追いかけられ、ユリデイウスは市電の車庫に逃げるが、その高圧線に手をかけ死んでしまう。
現実の世界においても、こういう不可解な事故で、人は死ぬことがあることはニュースなどでも、耳にするから、このこと自体とりたてて言うことはない。
要は、人は年齢にかかわらず、いつも死ぬことにさらされた危うき存在だということである。
死と生は隣りあわせ。
しかし、我々は生の世界にいる限り、死の世界を見ることは出来ない。
その生と死を合わせたような世界、つまり仏教的な言葉を使えば、「空」の世界を見たものは、主客未分を見た者、全世界は一個の明珠を見た者、仏性を見たもの、お釈迦様の言う不死の世界を見たものということなるのではないか。
その不死の世界では、あの世とこの世は一つになる。
これを一如という。真如とも言う。

生の世界とか、死の世界というのは不死の世界から見れば、分かれた世界。つまり、迷いの世界。死後の魂の世界も迷いの世界ということになるのではないか。つまり、輪廻というのも迷いの世界。
お釈迦様の目指した世界は、迷わぬ不死の世界。浄土というのはそういう所ではないか。
「黒いオルフエ」は死後の世界を前提にして、この迷いの世界での男女の悲劇を表現しているのではあるまいか。


【参考】
映画「黒いオルフェ」
  監督  マルセル・カミュ
  Cast ブレノ・メロ
      マルベッサ・ドーン
      ルーディス・デ・オリペイラ
       レア・ガルシア
      アデマール・ダ・シルバ
  
1959年  フランス=ブラジル作品





光【poem】


この満月の元
どこからか吹く風が花を揺らしている
ならば、何故その風は人の心の闇を追い払い
いつになったら、人の世の争いを無くしてくれるのか
ああ、陽ざしの柔らかな春の日に美しい風がふく
ならば、いつになったら死の暗いイメージを追い払ってくれるのか
カントとスエデンボルグの衝突はいつまで続くのか
我々は晴れて異界を知り、
死は大きな旅の一里塚と知ることが出来るのか
カントの理性も孫悟空の如意棒のごときもの
我らは仏性の手の平にある。


僕には沢山の夢のような思い出がある。
ある晴れた秋の日より、僕は歩いて旅をし、
友人に巡り合い
そこで、酒を飲んだ。
友人は絵を描きながら、諸国を回っている。
諸国にはいい奴もいる、悪い奴もいる
周囲は山、そこは小さな町だった。
町には黄金のような花が咲いている。

花は風に揺れて、異界の存在を示していた。
異界の入り口はどこにあるのかと、僕はその友人に聞いてみた。
分からないが、その入り口から、サタンが現われ
権力を持つ者の心を迷わし
庶民を苦しめることがあるという


如来はどこにおられる
善の異界だ
それは人の心の中にある
しかし、そこに入るのはサタンの入り口に入るよりも難しいという

しかし、ひとたび、如来の入り口を見つければ
そこから、浄土に入れる
曼荼羅華の花が大空から降り
さわやかな風のような歌が聞こえ
美しい平原には絶えず宝石のようなせせらぎが流れている

友人と別れる時
どこへ行くと聞いた。
「俺か? 俺はしばらくこの娑婆世界を描く、お前は」
人の世の争いをなくすために、良い町づくりをしている町を探す

どんな町がいい
経済格差の少ない社会がいい
政治の不正のない所がいい
ハラスメントや中傷のないような町がいい
花や清流のある町がいい
全ての人に住宅が保証され
子供達が安心して住める町がいい。


車を持つ友人が言った
「俺は大自然の中を歩いてみたい。
遊歩道の周りには川や滝、鳥のさえずる声がある。
君の言う町は平凡で心にしみない
本物の大自然にはいのちの息づかいが聞こえる

それで、我々は別れた。僕は友人の心が理解出来る
僕には移動手段が足と電車しかない
どうして友人の言う大自然を見る
それに、好きな街の中に浄土の入り口を発見したら
平凡な公園も大自然のいのちに満ちた世界になる。
光の中に浄土を見る。
その時、軍拡競争をやることの愚かさが見える
コロナで連帯への努力があるように、ここでも手を結んで
ふくらむ膨大な金を削ろうと世界に叫ぼう、福祉にまわせ
















たそがれ清兵衛

2020-12-06 11:14:43 | たそがれ清兵衛


映画「たそがれ清兵衛」の見どころはやはり、たそがれ清兵衛が藩命により、果し合いに行く直前だと、私は思います。


その日の夕方、お蔵奉行がやってきて、堀将監家老の元にきてくれという。この奉行は人間はよさそうである。しかし、堀家老はひどい奴というのが、人相にも言葉にも出ている。
江戸で謀反があり、幕府に知られずに、上意討ちで始末したことは知っておるなと、清兵衛は言われる。
そのさい、切腹を命ぜられた善右衛門は 忠勤をつくしてきた自分が切腹するのはおかしいと抗議して、屋敷にたてこもり、追手としてきた目付を一刀のもとに切り殺してしまう。
なにしろ、善右衛門は藩内に敵なしという一刀流の達人である。
清兵衛は、善右衛門を明日、打ち取れと言われる。これは藩命であると。断ると、お役御免、藩外追放であるとも言われる。
しかし、清兵衛は昔は少しは剣の使い手と言われたこともあるが、今は生活に追われ、剣の道に励んでいないから、無理であるから、ほかの方にこの仕事はまわして欲しいと言う。
しかし、お上は駄目だと言う。
それでは、せめて一か月の剣の道の鍛錬の期間が欲しいと清兵衛は言う。
家老はそれもならぬと言い、怒り出す。
この辺りは、命令は絶対という、つまり現代のブラック企業を思い起こす。
仕方なく、清兵衛は引き受けて、彼のことを心配するお蔵奉行がもし万一の場合は、認知症の母と、二人の娘のことは藩が面倒を見ると言う。清兵衛はそれを聞き、安心しましたと覚悟を決める。
まあ、ひどいものですな。
下級武士の生活の貧しさもひどいが、無理難題の命令も藩命となれば、断ることは出来ない。


そして、翌朝、清兵衛は現場に向かう。そのわずかの間に、幼馴染の朋江を呼び、兄からの縁談を引き受けなかったことを謝り、無事に帰還したら、自分の妻になって欲しいと今までの思いを打ち明ける。しかし、朋江は数日前、会津のご家中との縁談があり、引き受けてしまったと告白する。
その時、玄関に迎えの役人が二人来ている。
「どうかご無事でお帰りください」と言い、清兵衛が果し合いのために、玄関を
出る場面、これは名場面でしょうね。
藤沢周平の小説にはこういう結ばれない愛というのがクローズアップされるようだ。
「蝉しぐれ」もそうだったと記憶している。


清兵衛は出ていく。現場には役人が数人いて、「相手はけだものみたいな状態になっている」と言う。玄関さきに目付の死体がころがっている。
「ごめん」と清兵衛はその貧乏屋敷に入る。
中に、男が酒を飲んでいて、「やはり清兵衛か」と言う。この一刀流の使い手とたそがれ清兵衛のやりとりは面白い
「まあ、酒を飲め」と言われた清兵衛は「藩命により、あなたを殺しに来た。刀を抜いて下さい」と言う。しかし、男は刀を抜かず、清兵衛を人情話に持っていく。どれほど自分は藩のためにつくしたか、分からないのに、藩の抗争の犠牲になって、こうやっている。清兵衛は禄高いくつだと言われ、清兵衛は「五十石」と答える。
それでは食うのがやっとだなと言われ、清兵衛もつい剣に訴える気持ちを失い、自分の貧しい生活を披露して、実は父から譲られた大刀も売り払い、これは竹光なんだと言う。
男は驚き、「俺をそれで切ろうとしたのか。俺を馬鹿にしたな」と怒る。そうではないと弁解する清兵衛のことを聞かずに、男は大刀で切りかかる。清兵衛は逃がしてやりたいという気持ちを持つようになったせいか、中々刀を抜かず、
抜かないで、相手が大刀を家の中で振り回すのをよける。
しかし、大刀は家の中では意外に使いにくい。清兵衛は小太刀で勝負を挑もうとしていたのだ。何故なら、清兵衛は小太刀の名人だったのだ。ついに清兵衛はその小太刀を抜く
清兵衛も傷つき、危なくなる。
ついに、一刀流の善右衛門は 家の中で大きく太刀を振り回し、清兵衛に切りかかる

しかし 大刀は家の天井のかもいにはばまれる、その瞬間 清兵衛の小太刀が
一刀流の男の腹を切る。



そして、家に戻ると、子供たちが待っていた。右手で下の子をかかえる。まだ余裕の勝利者の安堵感。
そこに上の子の呼びかけで、朋絵が出てくる。
彼女は言わずとも、先の義務の婚約を破棄して、死んだかと思っていた清兵衛を待っていたのだ。これは感動的だ。

そのあとは上の娘が語り部になり、幼馴染の朋江が清兵衛の妻となり、語り部の母となった幸せは三年と続かなかった。
そのあとにきた、戊辰戦争で賊軍となった藩の兵士として、父は官軍の銃で撃たれて死んだという。
その後の明治維新では、出世した友人が、「たそがれ清兵衛」は不運な男だったというが。娘の私はそうは思わない。きっと幸せであったに違いないと、清兵衛と朋絵の眠る墓で語り部の長女、今は初老の女が田舎の風景の中で墓に一人ひざまづく。

見終わった時の、静かな感動と人生の不思議さ、多くの人生の中の一つの魅力ある人生が散ったことを一輪の美しい花が散ったのであろうか、それとも、美しい音楽が鳴り響き、消え去っていく寂しさがわが心に風のごとくふきすさんだのであろうか。




さて、「たそがれ清兵衛」とみんなから、清兵衛が言われた由来をちょつと言っておこう。そうすれば、この清兵衛の見どころにまで行く、そのクライマックスにのぼっていく、物語の雰囲気がよくわかると思うので。

映画では、藩内の争いは平侍の清兵衛には殆ど無関係に、遠い世界の出来事として、噂として清兵衛の耳に入るという風に見える。


映画の最初の方では、お蔵役の仕事を終えた清兵衛を同僚が酒に誘うが、それを断り、たそがれ時になると、ひたすら家路に急ぐ姿が紹介され、家には労咳で死んだ妻の後に残されたのは二人の幼い娘、それに認知症の母が待っている。母は清兵衛の顔すら、時々忘れる。
「どなたですかの」
「井口清兵衛でがんす」
ああ、息子の顔を忘れてしまうとはと嘆く清兵衛。
現代の高齢化社会の認知症の問題を意識的に山田監督がとりあげたのであろう。

映画では、認知症の母と二人の幼い娘という生活をみかねた叔父がやってきて、縁談を勧めるが、清兵衛は断る。


この幼い娘が映画での重要な語り手になっているのだが、彼女の話によると、川に魚釣りに行くのが楽しみではあつたが、その頃、凶作で飢え死にしたお百姓の死体がよく流れてきたと回想している。

清兵衛は京都から帰ってきた親友の飯沼と話をする。飯沼は京都の騒乱ぶりを話し、いずれ天下は動くと言い、京に行かないかと誘う。しかし、清兵衛は武士で駄目なら、百姓になると言い、清兵衛を見込んでいる飯沼から変わっていると言われる。その妹の朋江が千二百石の大家に嫁いだが、その相手がひどい酒乱で、なぐる蹴るという暴力を朋江にするのだった。兄の飯沼は、見かねて、離縁させ、今は、彼の家にいることを清兵衛に打ち明ける。

清兵衛が家に戻ると、家には、その幼馴染の朋江が来ていた。久しぶりの歓談のあと、清兵衛は朋江を兄の家に送って行くと、家の中では、その酒乱の元夫が朋江との離縁のことで、兄を非難し、せめたてている。
清兵衛は見かねて、口出しし、喧嘩になり、成り行き上、果し合いを引き受ける。飯沼から死闘はご法度だと言われた清兵衛は考えてみると言って、帰る。



さて、翌日の果し合い。棒切れで相手をする。相手は大刀。そして、相手に傷を負わせずに、清兵衛が相手をたたきのめすという見事な勝ち方で終わる。この話は、清兵衛の方で沈黙していても、どこからか噂としてもれる。

そんな清兵衛の元に、朋江はよく来るようになり、子供たちも楽しみにするようになる。
語り手の娘の話によると、一緒にお祭りに行った時の楽しさは忘れられないと。

武家は商人や百姓のお祭りに参加しないという習わしがあったが、朋江は関係のない顔をしていたし、武家の暮らしはお百姓の暮らしがあって、成り立っているということを娘に教えてくれたそうだ。


さて、ある日、釣りに出た飯沼と清兵衛。飯沼は、藩主が一か月前に亡くなったと告げる。三男を擁立しようとしていた堀将監一派が大きな力を持つ可能性があることをほのめかす。江戸に行く前に、飯沼は親友の清兵衛のもとに、妹の朋江を再婚させようと説得する。

しかし、清兵衛はこんな貧しい暮らしに朋江は耐えられないと言って断る。川には、凶作の犠牲者の死体が流れているのを見た清兵衛たちは釣りをやめる。
それから、朋江は来なくなる。不思議に思う子供達の心を語り手が伝えてくれる。

その内に、家老、堀将監が江戸から戻り、藩主の死を伝える。改革派と堀将監の抗争は噂になるが、平侍の清兵衛達には関係のないことで、藩主の死が伝えられたその日は早々と仕事を終えて帰宅する。
ある日、清兵衛は飯沼の家を訪ねるが、朋江の姉が出てくる。
江戸おもてでの飯沼の様子を聞く。江戸では家老が変わり、切腹だの斬首だのということがあったので、清兵衛は心配していたが、手紙では何事もないようですと聞くと、安心したと姉に言う。清兵衛が帰ると、奥の部屋から出てきた朋江がおいかけてご挨拶をしなければと言うと、姉は「若い女がひとかどの侍と立ち話をするなど、みっともないことだ。それにあんたには縁談がすすんでいるのだから」と叱られる。

清兵衛の家では、内職の苦しい様子が紹介される。虫かごをつくり、商人から五百五十文と言われると、手間賃をあげてもらえないだろうかと頼む清兵衛、親方に話だけはしておくという商人。



このあとに、この映画の見どころ、清兵衛と一刀流の使い手、善右衛門との果し合いとその勝利、そして幸せではあるが、短い家庭生活が訪れるというわけである。

映像も素晴らしい。貧しさの中にもその独特の映像美が輝く。しかし、本当は映像でなくても、我々の日常の至る所に、美はころがっている。それを気づかせるかのように、平凡な暮らしの中に美を表現している。ともかく、良い映画であると思う。




【参考】
監督  山田洋次
真田広之、宮沢りえ、田中泯、小林稔侍、岸恵子、丹羽哲郎

日本アカデミー賞最優秀賞

原作   藤沢周平

【久里山不識より】
アマゾンより「霊魂のような星の街角」と「迷宮の光」を電子出版
【永遠平和を願う猫の夢】をアマゾンより電子出版





いのち

2020-12-04 14:32:43 | 
白い花の咲く頃(昭和25年)鮫島有美子 Cover


いのち 【poem】
       1
人間の身体にある免疫細胞の働きを知るということは
いのちの神秘を知ることになる
マクロファージがどん欲に菌を食べてくれる
身体を守るために、多くの善の細胞が非自己を区別し
悪い菌を退治するために、働いている
がん細胞なんてものもしょっちゅう出来ても、
免疫細胞が働く
我々人間の命令がなくとも、ちゃんと働いてくれる
もっとも意志が必要だとすると、我々は大変忙しいことになる。
菌やガン細胞を退治するために、たえず見張っていなければならぬ
そんなことにならないように、免疫細胞は勝手に見事に動いてくれる

宗教では、我々は生かされているということがある
手一つ、足一つ、自分の意志でつくったものはない
生まれて、歩き出したら、ちゃんと足も手も目も鼻もある。
不思議と普段思わないが、考えると不思議である。
理屈は科学が言っている。四十兆近い細胞で出来ている、
細胞の中にミトコンドリアがあるとか、遺伝情報ののっかっているDNAがあるとか
それでも何故、そうした全てのものが一人の人間を守るために、見事に動き、
見事に必要なものを取り入れ、不必要なものを吐き出すのか

       2
町だってそうだ
腹が減れば、レストランがある
ラーメン屋もそば屋もある
多くの人が働いているからだ
どこかへ行くのに、服装が必要
そうした衣服は誰か労働者と器械が一緒になってつくったものだ
こうしてみると、自分で作ったものなど、ほとんどない
それにも拘わらず
ビルはどんどん立つ
道はつくられ、飛行機は飛ぶ
店の中には、新しい商品が並べられ
食べ物は店で売られている
これこそ、偉大な生命の力ではないか
路地には花が咲いている。猫がいる。
あそこの猫に一つ。こちらの犬に一つ。そして自分にも一つのいのち。
そういう風に生命を分けて考えがち
そういうのも良いが、たまには地球に働いている宇宙生命のことも思うと良い
我々は死ぬと、そういう宇宙生命に飲み込まれ、
いのちの祭りの日に、復活する
私はいのちであり、復活である【キリスト】
臨済の真実の自己、無位の真人を見つけよ 【釈迦の自灯明】
そして、永遠の大悲の仏

       3 
今から七十年前に戦争が終ろうとする頃
原爆が広島と長崎に落とされた
沢山の人が死んで
やがて一つの映画が出来た「長崎の鐘 」
日本の都市は空襲で、焼け野原になった。
第一次大戦でも、ナチスとの戦いでも若者が死んだ
いのちは何千万と無惨に殺された。
平和な時には、緑と花と森と川で美しいのに、
狂うと、地獄になる。
外見は粉々にされた肉体から美しい霊が立ち上るのだとしたら
我らは救われるのに
このことは秘密にされている。
おそらく、
この世界はいのちの海だ
水が温度によって少しずつ変化するように、
氷が水になり水蒸気になるように、
いのちの海は人のいのちの行動によって相転移する
煉獄になったり、
浄土になったり娑婆世界になったり時には地獄になる


この世に悪があるというのに、
花は美しい
この世に地獄のような所があるというのに、
月も天の川も美しい
この世に悪と地獄があるというのに、
愛と大慈悲心がある

青空にすくっと立つ塔が一つ
その上できらっと輝くものがある
希望という名のUFOが
大宇宙のどこかから舞い降りてきた

満月の夜、どこからか、太鼓が響き
やがて静まり
森の中の祭りのように
どこからか、ヴィオロンの音色が響く
愛と希望というように、
弦の響きは神秘な神々の音色のように
わが胸に壮大な物語が広がる
福祉を大きくして
軍備縮小を世界に働きかける