空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

ハムレット詩

2020-05-30 13:08:06 | ハムレット詩

荒城の月 Koujou no tsuki (倍賞千恵子 Baishou Cheko)ローマ字歌詞付き(With Lyrics in Romaji)

 

ハムレット詩

 

ぞっとするような冬の寒さの深夜
デンマーク城は星と暗闇と静寂で、凍り付いたようだ。
天の川が天の花壇のように
ホレイショ―の瞑想のように流れていた。
そして、彼はハムレットより呼び出しを受けた。
王子は悲しみと苦しみの表情だった。ホレイショ―は友として同じ苦しみを味わい、涙を流した。
ついこの間、亡くなられた先王の亡霊が現れるとは。
ホレイショ―には亡霊を信じる哲学はない、にもかかわらず王子の真剣な眼差しは彼の心を動かした。
しかも、深夜、王は驚くべきことに、かって生きておられた凛々しい武人の姿で、ホレイショ―の前に現れた。
ハムレットを呼びつける声もかって生きておられた父王の迫力のある響きと情愛がこもっていた。

「行きなさるな」ととめたが、ハムレットは剣を抜き、邪魔をするなと言った。
ホレイショ―は退き、茫然としていた。しんしんと冷え行くデンマーク城の深夜、
亡霊が王子に語った言葉「緑の庭で昼寝をしていた、その時に、実の弟の手がしのびより、わが耳に毒をそそいだ。命ばかりか、王位も妃も、奪い去られた」

本当だろうか。亡霊がそんなことを言うのだろうか。ホレイショ―は今だ半信半疑だった、日ごろからのハムレット王子の聡明さは知っている。それに
ホレイショ―も亡霊を見たではないか。

それ以来、王子は狂気を装った。
彼の狂気を装う必死さはホレイショ―に大いなる不安を誘った。

ある時、劇団がやってきて、ハムレットの支持通りに劇をやる、
叔父の王も王妃も大臣もみなこの劇に注目した。
劇中の悪が劇の中の王に毒をのませる。

その時の王の様子を見ておけというハムレットのご指図。
王が動揺すれば、間接証拠を握ったことになり、亡霊の言ったことは確かなこととなる。
そうすれば、あとはハムレットの胸中にまかせるのみだが、復讐という恐ろしいこともありうる。

 

ハムレットの冷たい言葉で、恋人のオフィーリアが狂い川に落ち、花に囲まれてそれは美しい死の姿であったという話を聞いた。
友の悲しみを思うばかり。何という悲劇。
「小川のふちの緑の柳の木が、澄んだ水の鏡に映り、乙女は周囲のいくつもの美しい花で花輪をつくり、それを小枝にかけようとして、よじ登った幹が細かったのか、ぽきりと折れ、花輪もろとも水の流れに落ちて、水の中に美しい衣服で浮かんだオフィリアの夢のような汚れのない聖なる姿。

 

ハムレットはオフィーリアを愛していたのに。
ハムレットは狂気を装うために、わざとオフィーリアに冷たい言葉を浴びせた。
オフィーリアに誤解され、彼女は狂い、事故を招いた。
小川の周囲には緑の柳がいくつも生え、多くの花と燃えるような緑は水に映る

思えば、ハムレットが王になれば、もしや妃になるとホレイショ―が夢見たうるわしき乙女の華やいだ声と笑いが大空に響いてくる。


それにしても、ハムレットは長いこと、狂気を装い、イギリスに遊学させられ、
また運よく戻ってきた。

「To be or not not to be。That is the question。」ああ、このハムレットの言葉。
生きるべきか死ぬべきか
あれかこれか。どちらをとるか。
その悩みは人類の悩みでもある。
ホレイショ―の哲学によれば、友情を愛し、平和を愛し、亡霊の言うことなど信じることはなかった。
だから、この結末の悲劇が予感され、恐れていた。
しかしだ。ハムレットは父王の亡霊の言うことを信じている。


何かが決行される。叔父の王の独白は罪に満ちたものだったと、ハムレットは言った。
今や、異界に行かれた先王が昼寝している折に、弟が次の王位につきたいために、
兄の耳に毒をそそぎこんだという告白を聞いたハムレットは真っ青だった。

そして、ついにやってきた悲劇。
オフィーリアの兄はオフィーリアの死も父の死もハムレットのせいという現国王にだまされ、思い込み、ハムレットに剣の試合を申し込む。
しかも、王の指示により、剣の先に毒をぬったのだ。

ああ、王と王妃と大臣がいる席で
オフィーリアの兄とハムレットの剣の試合。

そのあと、王族がばたばたと死んでいく様子はこの世のものとは思えぬ。
今わの際のハムレット曰く 「あとを継ぐノルウェー王子に告げよ。
国が豊かになっても、礼節を忘れるような国にするな。ハラスメントなんてとんでもない」

城にひそむ病とは何だったのか
長い歴史の中で繰り返された権力闘争か
それともハムレットの狂気が招いたことか
ホレーショは異界へと魂を遊ばせ
ハムレットの元に行き
王子と会う 夢を見た。
これからは言論によって、国民の意思による新しい権力がつくられる
それをシビリアンコントロール
法の支配という
しかし、それでもデータのねつ造をする者が出るという予言めいたお言葉
そう言って、王子は消えた

【久里山不識のコメント】
ハムレット日記という中編小説を日本の小説家、大岡昌平が書いている。
小説で許されるならば、これを詩にする試みも許されるのではないかと無謀な思いを抱き、試みにやってみた。
その動機になったのは 最近、杜甫の楊貴妃の死の悲しみを歌った詩を読んだからだ。唐の玄宗皇帝と楊貴妃の恋愛と、それで玄宗が政治をしなくなり、それが元で国が乱れ、反乱がおき、皇帝は地方に落ち延びて行く途中で、部下の突き上げで、部下が楊貴妃を殺してしまうという悲劇をもとにした白居易の物語詩、長恨歌は、私の場合、高校時代の漢文の時間に習ったものであるが、杜甫も同じようなものを書いていることは知らなかった。
日本では白居易の雄大な筆致で有名だから、こちらの方が色々な観点から軍配が上がるのかなと単純に思っていたら、杜甫の短い詩の方が中国では評価が上と知り、ますます興味を持って読んだ。確かに白居易の半分ほどの詩だから、物語詩というものをこんな風に書けるなら面白いと思い、いつぞや見たハムレットで試みてみようと夢みたいなことを考えてみた。
まあ、へたくそとは思ってみたけれど、書いてみたからにはブログに出してみようという気になった。
読者の広い心を期待しないと、とても出す気にはなれないのだけれども、


{To be or not not to be。That is the question。}というハムレットの有名な言葉はいろいろな方が訳されているがここに一つだけご紹介しておきます。

「このままでいいのか、いけないのか、 それが問題だ。
どちらがりっぱな生き方か、このまま心のうちに
暴虐の運命の矢弾をじっと耐えしのぶことか、
それとも寄せくる怒涛の苦難に敢然と立ちむかい、
闘ってそれに終止符をうつことか。 死ぬ、 眠る、
それだけだ。」 【小田島雄志氏の訳】

 

 

 

 

 

 


映画「恋するシェイクスピア 」

2020-05-24 13:20:20 | 恋するシェイクスピア

ロミオとジュリエット-A Time For Us- ~covered by 中井智彦~

シェイクスピアは劇詩人と言われている。会話が優れた詩になっている。
セリフが優れた詩になっているというべきか。私の好きな文句は若い頃、英文で暗記したこともある。しかし、今は多くは忘れた。劇場に集まってくる当時の民衆の人達の耳に心地よく、うっとりさせて物語に引き込まなければならないのだから、シェイクスピアは楽しく、時には必死で書かねばならなかったであろう。その様子がこの映画によく表現されている。
例えば、一つ素晴らしい詩を書いてみよう。ロミオが町を離れなくてはならない朝の場面

ジュリエット  もういらっしゃるの 朝はまだまだこなくてよ
あれはナイチンゲール ヒバリではなくてよ
あなたのおびえていらっしやる耳に聞こえるのは
毎晩鳴くの 向こうのあのザクロの樹にきては
ほんとうよ ほんとうにナイチンゲールだったのよ
ロミオ    あれはヒバリ 朝の到来を告げるさきぶれだった。
ナイチンゲールではない  ごらん  あの東の空
意地悪な光の縞が雲の裂け目を縁どっている
夜空のまたたく燈火は燃えつき 楽しげな朝が
霧に浮かぶ山々のいただきに爪先立ちしている
もう行かねば 生きるべく とどまれば死ぬのだ
ジュリエット あれは朝の光ではないわ ほんとうよ
あれは夜空にときどきあらわれる単なる光
今夜 あなたの松明持ちになって
マンチュアまでの夜道を照らそうと思っているのよ
だからまだここに。まだいらっしやらなくてもいいのよ
ロミオ    ぼくは捕らえられてもいい 殺されてもいい
それが本望だ きみがそう望むならば
そう あのうすあかりは朝日のまなざしではない
月の女神の額からのほの白い照り返しだ
頭上はるか 大空いっぱいに鳴り渡る
あの調べは あれはヒバリの声ではない。【小田島雄志氏の訳 】

私があえて、沢山ある有名な場面の会話の中でこれを最初に取り出したのは
最近、カメラで鳥をとる人のプロ並みの腕に感動したからかもしれない。
鳥に興味がなかったわけではない。子供の頃は鳩を飼ったこともある。カラスの面白さには以前から興味があり、カラスを題材にした短編小説をアマゾンで電子出版している。しかし、小林一茶のようにスズメの可愛らしさに興味を持つようになったのは最近のことだ。それから、「銀河アンドロメダの夢」に登場させたカワセミは京都の哲学の道を歩いていたら、背の高い男の人が「カワセミだ」と興奮して追いかけていくのを見た時から、興味を持った。 最近では、メジロ、 セキレイ、 スズメ、カモメという風に興味が広がっている。
カモメは大分前の話になるが、子供と一緒に、松島に行って船に乗った時に、沢山のカモメが追ってくるのが面白く夢中でカメラをかまえたことがある。【今回、ヒバリとナイチンゲールの写真が用意できなくて、残念です】

東京スカイツリーの川のそばの梅の木に幾羽ものメジロを見て、沢山の人が夢中で写真を撮っていた。その時、私も撮ったのだが、その時ほど、鳥の美しさに魅かれたのは珍しいだろう。
あれは梅の花の満開の時だった。美しくもかわいらしい緑のメジロを見て、生命の素晴らしさに感動して、夢中で撮った。ここのシェイクスピアの場面に出てくるナイチンゲールは、残念ながら知らないけど、この詩を読むとナイチンゲールの鳴き声が聞こえるようだ。
【そのあと、ふとネットでナイチンゲールを見れないかと思いつき、見てみたら、ユーチューブで何と鳴き声も聞くことが出来るのだ。これには驚いた。なにしろ、高齢になってから、パソコンを始めたから、ユーチューブ歴も浅い。ナイチンゲールの外見はカワセミやメジロほどではないが、鳴き声は実に美しい 】

 

さて、映画に話を戻すとしよう。「ロミオとジュリエット」という名作がつくられた時に、シェイクスピアはどんな環境のもとに生きどんな経験をしていたのかという空想がこの映画にはあるのだろう。
勿論、エリザベス女王の時代のイギリスが大英帝国の階段を上っていく時に生きたシェイクスピアの生活環境というのは綿密に考証されているのだろうから、この映画を見る楽しみの一つはそうした舞台背景にもある。
しかし、なんといっても全体を見て中々 楽しめる良い映画に仕上がっているのはやはり、下地に「ロミオとジュリエット」という優れた劇が織り込まれているからだろうと思われる。よくある、有名な小説の映画化とは違う。これがこの映画のアイデアであり、面白い企画だと思う。
つまり、この映画では本物のシェイクスピアが登場する。そして、彼が真剣に愛した女性が登場するのだ。ただ、この女性はどうも架空の人物と考えられる。だいたいシェイクスピアの様な天才がどんな生涯をおくったのか詳しいことは分かっていないと聞くが、それでもあれだけの劇を書ける人にそれ相応の恋愛が実際にあったと空想する方がむしろ自然だ。


1953年のロンドン。芝居熱が花ひらき、二つの芝居小屋がはりあっていた。
一つはシェイクスピアが劇作家として所属していたヘンズロー設立のローズ座。テムズ川の対岸にあった。もう一つは人気役者バーベージのいるカーテン座。ここにはシェイクスピアと才能の上では肩を並べる天才マーロウがいた。彼は若くして死ぬ。一説によると、酒場の喧嘩にまきこまれた不慮の死とも言われる。
ローズ座は資金難で、シェイクスピアの次の作品が期待されていた。この映画に出てくる
シェイクスピアの恋人役 ヴァイオラ嬢は 大商人の娘。芝居好きで、役者になりたいと思う程。ある日 トマス・ケントと男の名を名乗り、観客のいないローズ座に顔を出し、詩を朗読していると、シェイクスピアが影でそれを聞いていて、ケントに声をかける。
ちょうど、役者が不足していた時で、シェイクスピアはケントが少年と思い、後を追いかける。
当時 女は役者になれず 声がわりをしていない少年が女の代わりをした。シェイクスピアは ケントを追いかけて、町からテムズ川に、そして、舟でケントの館つまりヴァイオラ嬢の家にたどりつく。
ヴァイオラ嬢のパーティーに出席してヴァイオラ嬢を見初めて彼女とダンスを踊るところなど ロミオとジュリエットの出合いの場面そっくり。
シェイクスピアはこういう体験をもとにして、あの劇の場面を書いたのだと見る者に想像をかきたてる。シェイクスピアは真剣にヴァイオラ嬢に恋しているのに、彼女を巨大な持参金つきの美しい娘として、ある貴族が父親と勝手に話を進め、女王の許可のもとに妻としてしまう。ここにシエイクスピアの恋の悲劇がある。その貴族にパーティの場面でナイフを首につきつけられて、パーティを追い出される。

私はオリビア・ハッセーがジュリエット役の映画の仮面舞踏会で歌われる歌をふと思い出した。私の心に響いたあの歌は忘れることが出来ない。
歌詞はシェイクスピアのソネットによく出てくるテーマにある若さと無常である。光陰は夢の如く過ぎ去る、若く美しい花はやがて色あせて散っていく。甘い青春の香りが漂う美しい季節がきたら、乙女よ恋をしよう、そこでこそ人のいのちを燃やし、愛の花を開花させることが出来るという様な印象の歌はこの劇の全編を貫く神秘な糸である。
さて、シェイクスピアは 館のバルコニーに出る。あれこそ、有名な名作のバルコニーの場面を再現したのだろう。
ヴァイオラ嬢は「ロミオ、ロミオ」とつぶやき、「ヴェローナの若者」と言い、「シェイクスピアの喜劇」と独り言を言う。{そうだ、最初は喜劇として書かれようとした台本がいつの間に悲劇に変っていく}
そして、下で聞いていたシェイクスピアが「ヴァイオラ様」と答える。会話はかなり違うけどあの有名な場面の会話を思い出す人は多い筈。シェイクスピアはヴィオラ嬢の乳母に大声をたてられ、一目散に逃げ、自分の部屋に戻ると一気に筆が進む。「ロミオとジュリエット」の完成に向かって。 
 Shakespeare In Love
監督 ジョン・マツデン
主演 グウイネス・パルトワロウ
       ジョセフ・ファインズ

 

ロミオとジュリエットの有名なバルコニーの場面。この場面はこの「恋におちたシェイクスピア」という映画の様に、もしかしたらシェイクスピアがヴァイオラ嬢との恋を経験して、創作したのかもしれない。
さて、本物のではこうなっている。{ 訳は坪内逍遥から、ただし、ごく一部に読みやすくした所があります}
Romeo. But soft , what light through yonder window breaks?
や、待てよ! あの窓から洩るる光明は?
It is the east and Juliet is the sun!
あれは 東方 なればヂュリェットは太陽じゃ!
Arise fair sun and kill the envious moon
ああ、昇れ、麗しい太陽よ、そして嫉妬深い月を殺せ、
Who is already sick and pale with grief
That thou her maid art far more fair than she.
あいつは腰元の卿の方が美しいのを悔しがって、
あの通り、青ざめている。
Be not her maid since she is envious,
あのやきもち屋に奉公するのはよしゃれ
Her vestal livery is but sick and green
あいつの衣服は青白い嫌な色ぢやゆえ
And none but fools do wear it. Cast it off.
あほの外は誰も着ぬ 脱いでしまや
It is my lady, O it is my love!
おお、 ありゃ 姫じゃ。 恋人ぢや!
O that she knew she were!
ああ この心を知らせたいな
She speks, yet she says nothing . What of that?
何やら言うている。いや、何も言うてはいぬ。 言はいでもかまわぬ
Her eye discourses, I will answer it.
あの目が物を言う あの目に返答しよう
I am too bold. ' Tis not to me she speks.
ああ こりゃあんまり厚かましかった 俺に言うているのではない
Two of the fairest stars in all the heaven,
大空中で最も美しい二つの星が
Having some business, do entreat her eyes
To twinkle in their spheres till they return.
何か用があってよそへ行くとて その間 代わって
光ってくれと姫の眼に頼んだのぢゃな。
What if her eyes were there, they in her head?
もし眼が星の座におり、星が姫の頭に宿ったら、何とあろう!
The brightness of her cheek would shame those stars
姫の頬の美しさには星もはにかまうぞ
As daylight doth a lamp. Her eyes in heaven
日光の前のランプの様に。しかるに天へのぼった姫の眼は
Would through the airy region stream so bright
大空中を残る隈もなく照らそうによって
That birds would sing and think it were not night
鳥どもが昼かと思うて さぞ さえずることであろう
See how she leans her cheek upon her hand.
あれ 頬を掌へもたせている
O that I were a glove upon that hand,
That I might touch that cheek.
おお あの頬に触れようために あの手袋になりたいな
Juliet Ay me.
ああ ああ
Romeo She speaks.
物を言うた。
O speak again bright angel, for thou art
おお、今一度 物言うて下され、天人どの! 
As glorious to this night, being o'er my head,
頭上にこの夜 光り輝いておいやる姿は
As is a winged messenger of heaven
羽のある天の使いが
Unto the white -upturned wondering eyes
驚きあやしんで 目を白うして
Of mortals that fall back to gaze on him
後ろへ下がって見上げている人間共の上に
When he bestrides the lazy-puffing clouds
静かに漂う雲に乗って
And sails upon the bosom of the air.
虚空の中心を渡っているよう
Juliet O Romeo,Romeo,wherefore art thou Romeo?
おお、ロミオ、ロミオ! 何故 おまえは ロミオじゃ。
Deny thy father and refuse thy name. 
父親をも、自身の名も棄ててしまや。

 


映画「ミツバチのささやき」

2020-05-22 09:16:53 | 映画「ミツバチのささやき」

川井郁子ヒマワリ

愛に包まれたアナ


映画『ミツバチのささやき』の紹介文に、「愛に包まれたアナ」とタイトルをつけたのは理由があります。あとで、書くように、アナとフランケンシュタインとの出会いは人間の持つ不幸に原因しているので、そちらに目を奪われると、この映画の素晴らしさを見失うからです。アナという少女が1940年ころ、スペインの田舎町に、姉イザベルと両親と家政婦と共に古びた邸宅に住んでいました。

しかし、アナを愛する人達は怖ろしいスペイン内戦によって、傷つけられていたのです。内戦では百万人の死者がでています。人民戦線側の政府とヒットラーの応援を受けたフランコ将軍との戦いで、人民戦線側は敗北しました。これはヘミングウェイの小説「誰がために鐘はなる」を読んだり、映画を見た方は、おそらく恋人を逃がした主人公の男がフランコの大軍と一人で銃撃戦をするラストシーンを思い出すかもしれませんね。

この映画のアナの父はかなり老けており、母は若いが、おそらくは人民戦線側の敗北した側の人間でしょう。それでも、かなり裕福で恵まれた階層の人であったということは映像で分かります。大きな邸宅。ミツバチを飼って、哲学的な思弁をノートに書きつける父、フエルデイナンド。
アナの母は、生きているか死んでいるか分からない昔の恋人に手紙をかくことがあります。幸福だった昔の人達と内戦で別れて、多くのものが失われたと嘆き、届くがどうか心配しながら、平原の小さな駅に滑り込む機関車のポストに投函するために自転車で行くことがあるのです。

さて、最初の場面で、移動巡回映画が村の公民館にやってきます。
映画の「タイトル」の「フランケンシュタイン」を見ただけで、監督の意図が見えるような気がします。舞台に説明に立つ初老の男は「この映画は人類創造の神の御業を忘れ、人間をつくりだそうとした科学者の話です」と紹介しています。
大人も子供も見に来ています。

主人公の女の子アナはこの映画に出てくるフランケンシュタインが小さな女の子を殺す場面にひどくひきつけられます。
両目の上のおでこがひどく突出している以外は中年の男の顔、歩き方がロボットのようにぎこちない。
花を愛したフランケンシュタインが何故そんな怖ろしいことをするのだろうという疑問にとりつかれたのです。

二つ並ぶベッドの上で、アナは眠そうにしているイサベルに向かって言います。 
「さっきの映画のお話しして。何故、怪物はあの子を殺したの。何故怪物は殺されたの」と質問するアナは真剣です。
イサベル 「怪物もあの子も殺されてないのよ」
アナ     「なぜ 分かるの。何故、死んでないと分かるの」
イサベル 「映画の中の出来事は全部ウソだから。私、あの怪物が生きているのを見たもの」
アナ    「どこで」
イサベル  「村はずれに隠れて住んでるの。ほかの人には、見えないの。
  夜に出歩くから」
  アナ   「お化けなの」
 イサベル  「精霊(spirit)なのよ」
アナ   「先生がお話ししていたのと同じ」
イサベル   「そうよ。でも、精霊は身体を持っていないの」
アナの頭に、フランケンシュタインが精霊であるという姉のイサベルの言葉は驚きであり、怪物という怖ろしいイメージがある種の魅力的なイメージに急展開したのではないでしょうか。人間とは違う神秘な存在ということで、幼いアナにはもっと知りたいという気持ちが起きたかもしれません。
【大人にはフランケンシュタインが悪い怪物だから、そういう怖ろしいことをすることが当たり前であっても】
当然、精霊にも色々あるのかもしれないという連想が湧くかもしれない。アナの頭は「精霊」という言葉の魅力とそれでは「あのフランケンシュタインはどういう精霊なのか」という気持ちが起きるに違いないのです。

アナ    「映画では身体があったわ。腕も足も」
イサベル「それは出歩く時の変装なのよ」
アナ  「夜しか出歩かないのに、どうやって話したの」
イサベル 「だから、精霊だって言ったでしょ。
    お友達になれば、いつでもお話しできるのよ。目を閉じて、彼  を呼ぶの。私はアナですって」
 
 
フランケンシュタインの内容はご存知の方が多いと思うが、簡単に言えば、人造人間です。
最初は良い人のように思えましたが、醜い顔のために、皆に嫌われ、段々と人間が悪くなり、犯罪を犯すようになるのです。

なぜ、映画監督は 最初の映画に「フランケンシュタイン」を持ってきたのでしょうか。

スペイン内戦では、人々が百万人死にました。
人口が今の日本の三分の一ぐらいで、スペイン人どうしの戦いで百万人の死者
という数字がどれだけの膨大な犠牲者がでたかということを考えてみる必要もあるでしょう。


というわけで、この童話的な映画の最初に出てくるフランケンシュタインは人間の二面性、善と悪、それが葛藤を引き起こし、行く方向を見失った時に起きる、凶暴性の象徴ともとれるかもしれません。

 

アナとイサベルという姉妹の精霊の話のあとの映像では、父親が自分の部屋でミツバチの考察をして、ノートを広げている。

「このガラス製の ミツバチの巣箱では  蜂の動きが時計の歯車のようによく見える。巣の中での蜂たちの活動は絶え間なく神秘的だ」という言葉は
おそらくスペイン内戦後の息苦しい人々の生活を思わせるものがあるに違いない。
「乳母役の蜂は蜂児房で狂ったように働き
他の働き蜂は生きた梯子のようだ
女王蜂はらせん飛行」という言葉は人々が自分というものがなく、ただ道具のように萎縮して働き、時には過労死することがあるのに、
独裁者フランコだけは生き生きと素晴らしく動いているということだろうか。

「間断なく 様々に動き回る
蜂の群れの 報われることのない過酷な努力
熱気で圧倒されそうな往来
房室を出れば眠りはない」という言葉もやはり、スペイン国民の過酷な労働と眠りのない生き方を強いられている有りさまの象徴か。
「幼虫を待つのは労働のみ
唯一の休息たる死も
この巣から遠く離れねば得られない
この様子を見る人は驚き ふと目をそらした
その目には悲しみと恐怖があった」
この映画がつくられたのが1973年。フランコが亡くなったのは1975。まだ、体制を直接的に批判することが出来なかった。映画がとりうるのは象徴的技法によるレジスタンスです。検閲をくぐるためにも、間接表現が映画には必要だったと思えます。


翌朝、学校では太った中年の女の先生が黒板にドン・ホセという男の人体を貼り付け、生徒に心臓 肺 の場所と機能を教えています。

先生がアナに、顔の大事な所を質問すると、後ろのイサベラが「目」と小声で教える。先生はアナに聞いているのよと言う。アナは「目」と言い、目の形をした紙を顔に張り付ける。


映像の画面が変わって、地平線まで続く荒野。小屋以外には何も見えない平らな平原に草が生えているだけ。
「あの井戸のある小屋に行ってみる」とイサベラがアナに問いかけます。
二人で行ってみます。

次はアナ一人でやってくるのです。
パオ―と井戸に向かって大きな声をするアナ。
井戸に向かって石を投げつける。
一人で小屋の中を見ます
何もない
外で大きな靴の足跡を見つける
その足跡に自分の足をあわせ自分の倍近い足跡を確認する
周囲は何もない荒野
アナの頭には何か精霊のイメージがもしかしたらあって、無意識にでしょうか。会って、話してみたいという気持ちがあるのかもしれませんね。

数日後、パパとイサベルとアナは林の中を散歩して、きのこを見つけます。
「ここにもある」
「きのこ」
「いいキノコ」
「いいキノコだ」というパパ。
「でしょう」
「名前を知っているか」

「キノコをとつたことないの」とイサベルがパパに質問。
「ない。何故か、分かるか。おじいさんに教えられた。毒かどうか分からない時はとらないこと。間違って毒キノコを食べたら、キノコもお前の命も何もかもおしまいだ。分かったか」
「はい」

「おじいさんは食べるより、探す方が好きだった。一日中でも。疲れなかった。山をごらん」と言うパパ。
低い山が見える
「おじいさんはキノコの園と呼んでいた」
「行かないの」
「遠いんだ」
いずれ連れてってやると子供たちに約束するパパ。
立派なキノコを見つけ、毒キノコだと言う。見かけはいいが、危険なキノコだ。「食べたら必ず死ぬ」

 

場面は変わって、朝、アナがママに髪をとかしてもらう場面。
ママ「精霊って、何だか知っている」
「精霊は精霊よ」と答える母。
「いいもの、悪いもの」
「いい子にはいいし、悪い子には、悪いもの」と言う母。
「お前はいい子ね」
「ママにキスして」
抱き合う母とアナ。素晴らしい親子の愛情の交換の場面です。どちらにしても、この場面はアナの頭に、精霊のイメージがふくらんで、それがいいものかどうか興味しんしんという気持ちが現れた母子の会話ととれますよね。

この「ミツバチのささやき」の映像の中に登場する「家族と学校」のごくありふれたお話の流れの中に、アナの重要な問いかけが美しいポエムのように流れているのではないでしょうか。
つまり、精霊とは何か。人は死ぬが、精霊は死なないとはどういうことか。
生きるとはどういうことか。死ぬということはどういうことか。そういう素朴な疑問を持つと同時に、いつか、自分も精霊に会える日が来るのだろうかという心が働いているのかもしれません。
できれば、フランケンシュタインに会って、色々聞いてみたいとアナは思っているのかもしれませんね。


数日後ベッドにいる姉のイサベラはベッドにいる黒猫をかかえてなでて、可愛がっている。途中から黒猫の首を絞めるのです。猫は怒って、イサベラの指をかみついて逃げ出します。血がついた指をなめ、唇に血をまるで口紅でもつけるようにして、鏡を見ながらつけるイサベラ

アナがタイプを打っていると、キャーという叫びが聞こえる。
アナは立ち上がり、広い廊下で死んだ振りをしているイサベラ
戸口から外の日差しの明るさが見える部屋の中で横たわるイサベラ
「イサベラ。起きてよ。ウソなんでしょう」と言うアナ。

 

ある時、荒野のなかにある小屋に一人の若者がころげこみます。彼は怪我をしています。ピストルを持っています。もしかしたら、人民戦線側の兵士だったのかもしれません。

そこへ、アナがやってきて、男を見ます。男は人が来たので、銃口を向けたが、相手が少女だと分かり、銃を引っ込め、やさしくほほえみます。少女も果物をさしだし、二人は助け合う仲となるのです。父のジャンバーを持って来たり、そのポケットの中にはオルゴールのある時計が入っていました。

しかし、数日して、そこへフランコの軍人がやってきて、男を射殺して、死体を始末してしまいました。

軍はアナの父親を町に呼び、男の遺体の顔を見せ、ジャンバーと時計を返します。

 

そのあと、男に会えることを楽しみにやってきた少女はその小屋に彼がいない。
何故、いないのだろう。現場にある血など見て、直感的に悲劇を察したのでしょう。

父親はその小屋の入口の所で、アナを見つけ、時計のオルゴールをならす。
アナが怪我をした若い男に持ってきてやった上着に入っていた父親の時計です。
アナは発作的に小屋から飛び出します。
父親は「アナ」と呼ぶが、彼女は見つからなくなってしまうのです。
皆で探します。アナは夢のように、森の中に彷徨い、フランケンシュタインに出会います。
その間の、アナの家族の心配は大変だったことでしょう。若い母は映像の最初の場面で、スペイン内戦の心の傷を背負いながら、生きているのか死んでいるのか分からない昔の恋人との手紙のやり取りをしていた場面がありました。
アナの失踪で、大きなショックを受けた母は、今ここで彼女にとって一番大切なものは何かと悟り、手紙を破り、火で燃やしてしまう場面があります。
幸い、翌朝、父親はアナを見つけました。アナは無事だったのです。

私の感想としては、アナは両親を中心に愛に包まれた聡明な少女です。でも、アナは愛に包まれ、精霊の謎を解きたい気持ちにかられていたのでしょうけど、周囲の社会はスペインン内戦の直後で、多くの大人達は傷ついていたのです。姉のイサベラはある程度、大人の社会が分かっていて、何も知らない妹のアナを愛しながら、無知の彼女を面白がっているようなところがあります。イサベラはフランケンシュタインを大人と同じように悪い奴と考えていますが、アナはイサベラのついた嘘、「精霊である」を信じているようなところを楽しんでいるようにも思えます。その中で、殺すとか殺されるとかいう不条理、生と死の秘密を知りたいと思い、フランケンシュタインという精霊を追い求めたのかもしれません。

これほど、深く愛に包まれた少女のアナが周囲の傷ついた大人達に向ける視線には人間の奥深い神秘が感じられます。そういう美しい神秘な瞳を感じさせる映像で、それがこの映画を素晴らしい魅力的なものにしています。


【参考】
映画  ミツバチのささやき

監督   ビクトル・エリセ
出演   アナ    アナ・トレント
     イサベル(姉) イサベル・テリェリア
     フェルナンド(父)   フエルナンド・ゴメス
1974年  スペイン映画作家協会賞  最優秀作品賞

【久里山不識より】
アマゾンより「霊魂のような星の街角」と「迷宮の光」を電子出版
【永遠平和を願う猫の夢】をアマゾンより電子出版

水岡無仏性のペンネームで、ブックビヨンド【電子書籍ストア学研Book Beyond】から、「太極の街角」という短編小説が電子出版されています。

 

 


魂【poem】とエッセイ

2020-05-16 09:34:22 | 文化

           魂(ポエム)

     1
魂という町があって
そこに、澄んだ青い湖と濁った池があり
青い湖の周囲には、美しい花が咲くが、池の周りには石ころばかりだった
偉人が言うには、湖には美しい魂が来て、池には濁った魂が来る
今、コロナで人は困っているけれども、
良い行動の人は湖に来て、魂を清め、悪いのは池が誘うという
湖で見つけた赤い花の美しいこと
池で見つけた汚れた水草
偉人が言うにはこの湖のさらに美しい所を行く人
池の汚い所にさらに進む人もいるとか
そして湖と池の間を行ったり来たりする人もいる

僕は魂という町の掲示板を見た
掲示板には池には行ってはいけないと書いてある。
僕は新聞を読み、ニュースを見た。
このコロナの恐ろしい中で、湖に行く人、池に行く人が出ていた。
皆が協力して、このコロナ退治をしている
皆が美しい花束を集め、
もしかしたら、皆、愛と大慈悲心に目覚め、
コロナを退治したら、良い社会が出来るという希望を持っていた。
それが、ニュースで汚れた池に行く人がいると知ってがっかりした。

魂という町があって
僕がそこでコ―ヒーを飲みながら、
偉人の本を読み、
魂が下から上昇するということはあるのではと思った
人を中傷したり、
コロナでも、自分勝手な判断の私的制裁があったり
親が子供を虐待したり、これはひどい
車のあおり運転があったり
人の迷惑を考えない人がいる、
朝の九時頃だったろうか、あのドアの音もひどかった
真夜中の夢か、コロナ体操か、足音が長く響く
汝 ブルータスもか

魂という町があって
その夕日がとても美しくて
僕はうつとり夕日を見ながら
森の中で撮った綺麗な湖と汚れた池に聞いてみた、
どうですか、最近の出入りは
湖は言った。
沢山、いい人が来ますよ
コロナはいずれ退治されますよ
池は言った
最近は奇妙な人も入ってくる
本来、湖を好む筈の人がちらほら、こちらに来るのですよ

ある夜、黄金の満月がこうこうと照っていて
湖は喜びに震え、池は寒さに震えるかのように、震えていました
僕は天の川の一つの星を指さして
あれが、地球だよ、僕の星だ
偉人が言うように、魂の修行場だそうだ。
偉人は言った。魂の星なのです。生きているのです

           2
ああ、僕はたえず歌う魂でありたい
絶えず、湖のそばを歩き、ある時は愛を誘う竪琴をならすがごとく歌おう
時には戦場の池の近くをさまよい、「戦争をやめろ」と歌い
ある時は戦争に反対する魂のごとく歌おう
絶えず、貧しき人々の崩れかかった古い家並みのあたりを徘徊し
ある時は病気に倒れた絶望する人を助けるための救いと祈りの歌を歌おう
そして、子供達を救えと叫ぼう
こうして歌いながら、僕はその歌によって
魂の無仏性を伝えよう
絶えず温かい街角を彷徨いながら
生命をたたえる歌を歌いたいものだ

 

 

【エッセイ 】
空海には魂は修行して上昇し、上まで行けば真理をつかむという思想があるようだ。
それをテーマにして、つたない詩を書いてみました。
私も若い頃はそんな考えに見向きもしませんでした。
しかし、長い年月を経てきて、色々の人をみて、小説を書くには自分の心も観察しなければ
なりません。
若い頃には今の日本にムードとして広がっている、唯物論が正しいと思っていました。
それはそうですよ、少なくとも、高校まで日本の偉人の教えを学ぶ機会が多くの人にはないのですから。良寛の和歌なんか宗教教育にならないのに、教えられないのですから。
空海、最澄、法然、親鸞、道元、日蓮、良寛、白隠まだまだ素晴らしい方がおられますよ。

唯物論を徹底的に考えていく人はやがて般若心経の「色即是空。空即是色」
に行きつくのです。今の物理学の状況もそれを裏付けています。
お釈迦様は菩提樹のほとりで、悟りをひらかれた時、決して今の科学の土台になっている理性で真理を悟られたのではありませんね。菩提樹のほとりで、座禅をして、主客未分の世界に入り、この世界を直観的に、お悟りになられたのだと、思います。それは言葉で表現できない、理性だけで考える人には理解できない世界なのだと思います。
それは、優れた教典や正法眼蔵などを読むと、真如は分別で理解できないということが分かります。
最近、新約聖書のヨハネ伝を読んでみて、仏教と同じことが書かれていて感動しました。

 初めにみ言葉があった
み言葉は神と共にあった
み言葉は神であった
み言葉は初めに神と共にあった。
すべてのものはみ言葉によってできた。
できたものは み言葉によらずに
できたものは、何一つなかった。
み言葉の内に命があった。
この命は人間の光であった。
光は闇の中で輝いている
闇は光に打ち勝たなかった。

 

「み言葉」をロゴスと訳しているのもあり、ゲーテはファウストの中で、「ことば」という訳は間違っていると言っています。【新約聖書はギリシャ語で書かれていました】
それはともかく、仏教で言えば法身ということです。
お釈迦様がなくなる時におっしゃった「自灯明」「法灯明」の「法」です。

          久里山不識


寅さんの愛

2020-05-13 14:21:51 | 寅さんの愛

白い翼 ナターシャ・グジー /  White Wings by Nataliya Gudziy

 

寅さんの映画を見て、ふとドストエフスキーの作品と星の王子様とドンキホーテを思い出す。これはおそらく、私の心の癖なのだろうと思っていた。
内容的にはまるで違うのだから。それでも、何故か、四つに共通点のようなものがあるような感じがふとすることがある。そういう感じになることはかなり以前からあったのだが、深く考えたことは全くなかった。ブログを書くということで、少し考えてみたいと思った。その共通点から何か見えてくるものがあるかもしれないと思ったからだ。

ドストエフスキーのムイシュキン公爵と寅さんはまるで違う。当たり前である。それに、ドストエフスキーの作品はみな深刻な人生の問題を扱っている。ムイシュキン公爵のセリフ「人は何故このように傷つけあうのだろう」という嘆きの言葉に象徴される。
そこへ行くと、寅さんはそんな深刻な話があるようでも、たいてい寅さんの人格で笑いを誘う。時には観客は大笑いとなる。まるで、落語を聞いている時のように、そういう場面は沢山ある。例えば、「口笛を吹く寅次郎」

妹の旦那の父の墓のある岡山の町で、お墓参りをして帰ろうとすると、坊さんが下の階段から上ってくる。マドンナ役の竹下景子が父の坊さんに「だから、お酒飲みすぎるからよ」と言う。
その時の会話の風景。
お坊さんが風呂敷を落とす。それを拾う寅さん。
あ、どうも とマドンナ
「え わたくし 持ちます」と寅さんは言うのも親切のようで、そのあとの遠慮ぶりと合わないのが何か滑稽で寅さんらしい。
「それじゃ、遠方から」
「はい 東京から」
「あら」
「そりゃ 又 遠くから  ちょっと寄っていきなさい」と坊さんが言う。
「でも、急ぎますから」
「でも、お茶の一杯ぐらい」とマドンナ。
「ご迷惑ですから」
「お茶の一杯くらい」
「そうですか。それじゃ本当に一杯だけいただいて、すぐ失礼しますから」
この間の寅さんの微妙な表情の変化が観客の好意ある微笑を誘う。

法事があったが、坊さんは二日酔いで行けない状態。たまたま一晩泊まったあと、出かけようとして玄関でマドンナと話している寅さん。法事の出迎えの車がそこへ来る。そこで、寅さんが臨時の応援ということで、坊さんの代わりに行く。
九十二才て亡くなった人の法事を無事にこなした寅さんの評判はよく、結局、お寺の手伝いをするようになる。そこへ柴又にいる筈の寅さんの妹さくらの旦那とその家族がやはり、法事でその岡山の寺にやって来る。寅さんが坊さんの真似事をしているのでびっくりする。
葬式仏教と悪口を言われるようになってから、久しい。寅さんが坊さんの真似事をして、本物よりも評判が良いとは。だが、ここではそんなに深刻に考える必要もない。ただ、笑えば良い。そういう風にこの場面はつくられている映画なのだと思う。さくらと旦那の博の驚き、それを見ているたけで楽しい。
その内に、ある日、風呂に坊さんが入っていて、マドンナが風呂のかまどに、たきぎを加え、父親の坊さんが風呂の中から娘に話しかけている。そこに寅さんがふとやってくる。
「そろそろ、嫁に行ったらどうだ。お前、この間、言っていたじゃないか。もうインテリはこりごり。今度、結婚するなら、寅さんみたいな人がいいって」
これをマドンナの横にいた寅さんも聞いてしまう。
さあ、このマドンナの謎の言葉をどう受け取ったら良いのか。寅さんは置き手紙を書いて、坊さんになれるかどうか相談に葛飾柴又の「とらや」に帰っていく。そこで、おいちゃん、おばちゃんそれにタコ社長、さくらと博さん達に、坊さんになるにはどうしたら良いかと話をする。
皆、坊さんになるには大変な修業がいるとかなんとか、寅さんにはとても無理と言う。

これは私の独り言になるかもしれないが、寅さんなら、立派な坊さんになれると思う。
ここで、マドンナと一緒になって、多くの人の悩み事を聞く寅さん夫婦。そうすると映画の続きがなくなる。それに、寅さんのような人は坊さんになれないと言う「とらや」の皆さんはいい人達だけれど、やはり世間のつまらない約束事にしばられている。

仏教の神髄は知識ではない。寅さんは仏教の神髄を身体で表現しているように思われる。だから、坊さんになれる。知識など、時間をかけて勉強すればなんとかなるものだ。
ところが世間は駄目だと言う。それが世間というものだろう。
寅さんはいつもそうした世間とは違う道を歩いている。それが魅力なのだろう。江戸時代の良寛のようなものだ。良寛は寺は持っていないが、本物の坊さんで、抜群の才能と仏教の神髄を把握して、なおかつその知識も当時一流であった。しかし、外見的には寺を持たない乞食坊主と見られることもあった。日本にはこうした偉人がいるから、寅さんのような人が受け入れられのかもしれない。現代は、金銭至上主義の世界になったと嘆く多くの人がいる一方で、このことは日本には別の価値観が出てくる潜在能力があることをうかがわせて、頼もしい。
そこへ行くと、ムイシュキン公爵は「落ちぶれたりとは言えども、公爵」と親戚の御婆ちゃんに言われるように「公爵」である。貧相な恰好をして、スイスからモスクワに帰り、親戚の将軍の家を訪ねたが、その純粋な性格とこの「公爵」というブランドがセットになって、周囲の金銭をめぐって起きるグロテスクな世間に大きな波紋を広げていく。
星の王子様は美しい童話で、世界中の人から愛される作品であるし、ドストエフスキーのような難しく複雑な人生模様は勿論、ない。
だけれど、その「精神の純粋性」と「王子様」のセットという所は不思議にムイシュキン公爵と一致する。
ドンキホーテはどうであろう。彼は騎士道物語を読み過ぎて、少し頭がおかしくなって、正義のため、悪をこらしめるために、遍歴の旅に出て、色々な事件を引き起こし、多くの人の爆笑を誘う。ハイネというドイツの大詩人はドンキホーテを読んで、涙を流したという。
見方によっては、世間のグロテスクに立ち向かう騎士道の高貴な精神になるためには、狂気にならないと突き進むことはできないとも取れる。
さて、ここで四つの物語に共通に出てくる世間というのは夏目漱石も草枕に言っている。
「とかくに人の世は住みにくい」

仏教的に言えば、この世界は娑婆世界である。この娑婆世界には色んな約束ごとがある。
約束ごとには大切なものとそうでないものがある。例えば人のものを盗んではいけないというのは昔からあった大事な約束ごとで、今では刑法の条文に書いてある。
しかし、ムイシュキン公爵の時代のロシアでは、政略結婚や金銭がらみの結婚みたいなものが貴族や金持ちの世界では常識だった。ムイシュキンはそれに反発する。日本の江戸時代には身分制度というものがあった。そういうのはくだらない約束ごとと今では思われている。寅さんの時代、つまり現代には、そうしたものはないのか。いつの時代でも、何かしら人をしばるものは沢山ある。その点、寅さんはそこから自由である。そこに寅さんの魅力があるのかもしれない。観客の多くは世間にしばられている。寅さんを見ることにより、その自由な純粋性に思わず笑う。ここで笑う所に、日本の文化の伝統の深さを感じる。
ここに日本人の精神の深さを感じる。今の日本は、確かに価値観の中に金銭至上主義が大きな幅をきかせている。しかし、底に流れている美しい流れが日本にはある。それが寅さんの精神ではないか。又、又、禅から見た人間観になってしまったか。
人間無一物。そこにこそ、仏性というダイヤモンドがひそんでいる。新しい価値観がこの伝統の中から、つくられるべきであると思うがいかがであろう。

四つの物語の主人公に共通するかと思われる「純粋性」の日本の伝統的な偉人 良寛の漢詩と和歌を調べ、寅さんに符号する作品を探してみた。中々難しい。
一つ、ご披露しよう。これがぴったりとは思わないが、たまたま見つかった純粋性の白眉。
 ひさかたののどけき空に酔ひ伏せば
    夢も妙(たえ)なり花の木の下

良寛の次のような漢詩も思い出す。

生涯 身を立つるにものうく
とうとう天真に任す
のう中三升の米
炉辺一束の薪
誰か問はん迷う悟の跡
何ぞ知らん名利の塵
夜雨草庵の裏
双脚等閑に伸ばす 【Soukyaku Toukan Ni Nobasu 】

【生計をたて、官に生きるのが下手で、のほほんのほほんと、木地のままでいる。托鉢袋には、三升の米があり、炉のそばに、薪が一たばある。迷いとか悟りとか、他人のあしあとを気にせず、浮世の名利など、何の関係もない。草屋根をうつ、夜半の雨音をきいていると、二本の脚が思わず前にのびている。   】(柳田聖山訳 )

良寛と言えば禅である。彼は悟りの境地に達して、和歌や漢詩を書いていたのだが、それを理解した人は当時の江戸時代には、ごくわずかだったようだ。
さて、禅では、究極の悟りは心身脱落であるが、結局、自我が抜け落ち、宇宙と一体になる。