空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

ヨーロッパ 【ショートショート 】

2023-04-19 21:05:06 | 文化


ヨーロッパ【ショートショート 】
           
 ローマに到着すると周囲の急激な変化に気持ちも紛れた。バチカンでルネサンスの芸術に宗教的な衝撃を受けた。ここではすべてがキリスト教一色になっていた。露野は西洋の深さが東洋の崇高な仏像の祈りと繋がっていると思った。ミケランジェロの到達した美と仏の賛歌は真理という深い海に船出する二そうの黄金の船に違いなかった。同時に彼は真理発見と実現のためには西と東が手を結ぶことが必要なのだと思い、道元の説く仏性への目覚めの中でこそ 理想社会が実現されるのだという確信を強めたのだった。
 そしてフローレンスへ。町全体が芸術品だった。
 彼はそこで『文芸の街角』という文芸雑誌をつくるアイデアを心に浮べた。ビデオカメラを持って行ったので彼は花の聖母寺やドゥオーモ広場の魅力的な町角をとった。そしてこれを編集しなおして、公害のない芸術的な町を公害に満ちた日本の町と対比した形で映像を創造してみたりあるいは雑誌づくりに役立てようかと思った。その時 明珠の町を思いだした。IC工場の進出という話などあったがそれも今の所 食い止められ 目立つ公害もなく 大変な魅力がある。しかしこの明珠の魅力には何かが欠けていたのではないかという気が今はする。それは芸術ではないか。たしかに美術館も映画館もあり、高倉電気のしょうしゃな建物もあったがフローレンスに比べると貧弱だ。
 自由な雰囲気の中で真理を知り、そこから芸術を創造する町こそ彼の理想の町だと思った。
 フローレンスの夕暮れ。西の空に茜色の雲が荘厳に棚引き、彼は町を歩きづくめた昼間の足の疲れを休めようと、広場にあるレストランに入った。客は店の半ばほど占めていたし、外に出してあるテーブルについている者も多かった。彼は外の木陰に席をとり、ワインと少々の食事を注文した。そして彼は昼間 見たアルノ川やミケランジェロ広場から見た町の風景それに数々の美術品に思いをはせていた。あまり沢山の絵を見たので少々混乱していた。彼はそれに整理をつけ、明日 丹念に見るものを頭の中でピックアップしていた。
 
              
  その時、楽団が出てきて彼等の向う側の女神の彫刻がある所に陣取って演奏の準備を始めていた。
 いつの間に演奏が始まった。
楽団は露野の座っている所から、少し離れていた。そのあたりの人はそれまでの会話をストップしないで、話し続けている者もあれば、音楽に耳に傾ける者もいた。
露野のすぐ横の席に座っているすらりとした白人の女が「素敵ね」と英語で言った。
「素晴らしいわ」と細面の日本人のような顔立ちをした女が言った。
彼女たちは音楽について話している。
アメリカ人と一目で分かる白人のがっちりした男が音楽の持論を早口の英語で喋っている。
すらりとした女はピアノソナタのような美しい笑い声をする。
細面の女は露野の方に時々顔を向ける。露野にとって、かっての恋人を思い出させるような
魅力のある風貌をしている。
「いい音楽だね」露野は何気ない気持ちで英語で声をかけてみた。
「ヴィヴァルディーの『調和の霊感』でしょう」と細面の女が言った。
「そう、『四季』の方が有名だけどこれも中々の傑作だ。中世の水の都ヴェニスの風景が目に浮かぶ様だ」と露野は言った。
「へえ、そうかしら」
「僕はヴィヴァルディーの明るい所が好きなんだ。中世のヴェニスが貿易で繁栄し、ビルの間の静寂に包まれた運河をゴンドラが行きかう所をどこからかこの音楽が泉のごとく流れてくるなんて想像することはとても楽しいね」と露野は言った。
「ふうん、ロマンチックなのね。でもあたしはフローレンスの方が好きだわ」
「どうして?」
「たいして理由はないけど、ここにはルネサンスの香りがふんだんにあるからかしら」
「なるほどね」
 細面の女のブルーの服の胸には調和と美を誇るブローチが飾られていて、それが彼女のアジア系のつつましい知性のある顔を際立たせていた。
 それで、露野はぼんやり、若い頃 郷里で知り合った恋人の京子を思い出した。そのあと直ぐに彼女は交通事故で死んでしまった。彼女の思い出は強烈だったからその後 何年も彼の脳裏を支配した女は京子であって時の経過につれて彼女の影像が遠くなり、殆ど彼女を思い出すことが少なくなっていたが、フローレンスの広場でありありと鮮明に思い出されたことが不思議だった。
 春の夕暮れは美しかった。そして『調和の霊感』は彼の胸に染み渡った。その時、ふと黒いカバンの中に入れてきた仏教の文句を思い出した。
 『人々がこの世界を大火に焼かるると見る時でも、わが浄土は安穏にして神々と人間達にみち溢れるのだ』
 どうしてこの文句が思い出されたのか彼にも分からなかった。ただヴィヴァルディーの音楽の源泉である『調和』と『浄土』がどこかで符合している様な気がしていた。バッグの中にはそれ以外に新約聖書や道元、空海の本が何冊かあった。これらの宗教が啓示している真理の泉から、もしかしたらその様な素晴らしい音楽が流れ出てくるのかもしれないとふと思った。
「源氏物語、読んだことありますか?」とすらりとした白人の女が露野に顔を向けて唐突にそう聞いた。彼女はジーンズのズボンにブルーのシャツを着ていた。胸は薄く乳房の面影はなかった。
 「現代語訳で少し、読んだことがある」と露野は答えた。
「あら、日本人なのに全部読まないの?少しならあたしだって読んだわ」
「日本語で?」露野はちょっと意外という表情をして聞いた。
「勿論、英語よ」              
「おもしろかったかい」
「結構おもしろかったわ」


「優れた文化は時代や社会を越えて人の心の琴線に触れるものがあると思うわ。源氏の魅力は愛欲の葛藤だけではないのよね。自然描写の素晴らしさとか男と女の心理描写が凄いわね」とすらりとした女がそう言った。
その時、白人の男が彼女に何か話かけた。すると彼女は笑った。
「珍しい人」と彼女は英語で言った。露野は何が珍しいのかよく分からなかった。
「ビーナスの誕生がカンバスから飛び出たみたいね」とアジア系の細面の女が言った。
よく見ると、白人の男が雑誌を広げてその中のヌード写真について何か言っているらしかった。露野は昨日見たボッティチェリの二枚の絵を思い出した。貝から生まれたままの姿で立つ気品が印象的だったし、『春』という絵も豊かで官能的な肉体の美しさが目に焼き付いていた。



彼はちょっとの間、回想に耽っていた。その時、白人の男が露野にもそれを見せた。
「人間は神の贈物なんですよ。それを粗末に扱うことは許されないです」と露野はそれを冗談とも真面目ともつかない気持ちでその様に言った。その写真はひどく官能的で刺激的なものだった。彼はよく見たいと思ったが抑制した。露野の言葉に細面の女が笑った。その笑いがあまりに美しかったので露野は見とれていた。まるで箱に入ったダイヤモンドやルビーなどの宝石がテーブルの上に一度にちりばめられた様な笑いだと彼は思った。
「あたしは仏教に興味を持っているの。西欧では、 今や、キリスト教は衰退して若者で神なんか信じている人は少なくなっているのに東洋人の貴方が信じているとしたら興味深いですわ」と細面の女が言った。
「僕の神様は美しいと思う所に現れてくるのです。貴方達の様な乙女の姿には神は好んで顔を見せます。夕日が美しければそこに神は現れるでしょうし、花や家具などの調度品にも現れます。僕達東洋人はこの神様のことを仏性といっているのです」
彼は手帳を取り出し、『仏性』と漢字で書いた。二人の女がそれを見た。白人の男はそれを横目でちらりと見た。
細面の女は微笑して言った。
「面白そうな神様ね」
「大自然や人間の中に普遍的に存在する永遠のいのちです」
「永遠のいのち?」と言って彼女はちょっと不安そうな顔をした。
「そう。大自然や人間はこの仏性という永遠のいのちが自らの姿を現わしたものともいえます」
「そんなもの、科学が否定しているのではないかね」と白人の男が横から口を出した。
「否定しておりませんよ。それは科学の誤解です。さっきも言いました様に物質の中に普遍的に流れているものについて人間は直感的に知ることが出来るのです。この普遍的なものは永遠のいのちを持っているものであって、これを道元は仏性と呼んでいるのですよ」
「道元?」すらりとした女は魅力的な笑いを浮かべ、「興味あるわ。でも、難しいわね」

露野は日本の鎌倉時代に活躍した曹洞宗の開祖、道元について少し解説した。
「禅のことね。素晴らしい話ね。」と細面の女が言った。
そのあとの仏教や禅の説明についても彼女達は熱心に聞いていた。
 
細面の女が言った。「あたしはアメリカの日系人なのよ。それもあって、日本語を勉強しているの。源氏物語だけでなく、日本の文芸にはとても興味を持っているのよ」と日本語で言った。
ヨーロッパに来て、初めて聞く日本語に、露野は新鮮な美しさを感じた。
男は「俺たちはれっきとしたアメリカ人だ」と英語で言って、すらりとした女の肩を抱いた。すらりとした女は笑った。露野は言われなくても見れば分かると思って、微笑した。

「ええ、ところで、日本語の文学、勉強しているなら、日本語の詩を読みますか、たとえば
松尾芭蕉とか萩原朔太郎とか」
「松尾芭蕉は読むわよ。萩原は名前ぐらいしか知らないわ」
「ところで、僕は詩を書くのですよ。見てくれますか」
露野は書き留めたノートを広げて、最近 書いた詩を見せた。



人をおとしめる快楽を感じる悪人のメフィストよ
オセロウを見たかそなたのいきつく先はどこか
機械が発達しても、花一輪の美しさに勝てると
思っている連中よ。愚かな。
キリストの言われた野の百合はソロモンの栄華よりも美しいという意味が本当に分かっているか
大自然の美しさは機械のおよぶ所ではない
一見 便利になった世の中
魂が堕落する人が増えてはいまいか
キリストのいう美は 宇宙の神秘だ
人の心にもある神秘で
花からも人の表情からも突然飛び出してくる神秘の美
おそらくは真如を感づいた人でないと見れない美がこの世にある
泥沼の中にハスの花が咲く
足を泥沼につけていても、真如を見る人は
このキリストのいう花の美を見る
この花の美しさは奥が深く
おそらくは無の深淵に行き着くのだろうか
そこで、法を説く仏を見る
そこで、真実の自己を知る
大自然を愛する人よ あなたこそ仏性に目覚める人だろう
おお、今は つつじの色が美しい時期だ


露野は花を見て、悟った禅僧がいることを思い出していた。
「キリスト教と仏教の教えが詩に入っている。」と日系人の細面の女が驚いたような顔をして、日本語で言った。その表情は美しいというよりは神秘な感じがした。この神秘な表情は死んだ昔の恋人京子にも見たものだ。


 彼女はギリシャの彫刻の様に彼の目の前に微笑している。人は何故 衣服を着るのか?この当り前とも言うべき疑問が彼女の豊かな髪、なめらかな小麦色の肌に流れる曲線美を感じた時 湧いてきた。寒さを防ぐためとか身を飾るためとかいう紋切型の答えでは何かつまらない気がした。彼女は健康な美しさに満ちていると思った。
 露野はこの女の野性のままの姿を写真におさめたいという誘惑にかられた。だが、それは無理だろうと、思った。

「写真を撮らして下さい」
「いいわよ」と日系人の女は日本語で言った。


 身体の中にめらめらと燃えてくる情欲の炎。しかし一方で岩村夫人の像が鮮明に彼に蘇ってきた。それはほとんどプラトニックな愛の憧憬を含んだ悲しみというようなものを伴っていた。
「ここで撮ってもモデル料はいりますか」と露野は冗談半分に言った。
「いらないわよ」 ナーラと名乗った細面の日系人の女は目を輝かした。
「源氏物語の国の男にしては随分とナイーブなのね」 すらりとした女は微笑してそう言った。
露野は彼女達への快楽を失ったことに対する哀惜の念と同時に岩村夫人の精神的な美しさが心に鮮やかに蘇ってくるのだった。一体、何がこんなに彼をひきつけるのか?海外へ出掛けてきたのはしばらくでも彼女を忘れるためにという意味もあったのではないか?
 
モーツアルトの演奏が終わって少したつと、彼等は別れた。白人の男はおおげさな身振りで露野の手を握って、握手した。女達は手を振った。


露野はそのあと、ヴェニスに向かった。
しかし、それもヴェニスの運河を見た時、薄らいでいた。。彼はそこでは全く 孤独だった。周りは殆ど東洋人はいなかったし、ゴンドラに乗ったり、車のない町並を隅々まで歩いた。確かにフローレンスもヴェニスも美しかった。しかし美しいだけでなく明珠市と同じように謎がある。外国人の彼にはそれが何であるか指摘することは出来ない。サンマルコ寺院を見てもゴンドラに乗って古い建物の間を潜っていっても一向にその謎は分からない。歴史の重みの中でその謎は一層 進化しているに違いない。
 露野は日本を思い出し、明珠市は露野を恋愛や事件に引き込むブラックホールをうちに持っていたのだろうか?

 
露野は「夢のゴンドラ」という詩を書いて、ノートに書き留めた。

春の日差しのふりかかる舟の上。
大男の船長は悠然とオールを漕いでいる
ナーラはパレットに絵具をなすりつけている
ゴンドラはゆったりと動く
ここはヴェニスか蘇州か、それとも夢の中

ふと美しい蝶がゴンドラの上にとまる
金色の素晴らしい羽をゆっくり動かす
いのちは花も小鳥も昆虫もそれぞれの形を変えて現れる
ゴンドラはゆっくりと周囲の風景を変えながら、進んでいる
いつの間にか、月の光が照っている

川の向こうに明珠の街角が見える
ビルの窓には、可憐なバラの花が咲いている
夢見ごこちで見る、ナーラの微笑そして町の静けさ

ああ、その時、青空の街角で
パパ、ママと言う兄弟の泣き声がする
上の子の表情は悲しみと苦しみに満ちている
何がかくも悲惨な表情を作り出すのか
ああ、救え、この悲しみをこの地上からなくせないのか
戦争がある、地震があると耳元で、ささやく声がある

川の向こうに古典的な古い美しい廃墟の城が見える
遠くで稲光がした。
しばらくすると、空に黒雲が続き
稲光と雷の来襲と共に、夜のように、暗くなった

やがて、一瞬の暗闇に光が射すと、
天から聞こえるように
先ほどの緑に満ちた美しい街角で
再び、パパ ママと泣き叫ぶ声がする
雷が天から地に落ち、空間を引き裂くように
その表情に痛ましいものはなかったか
天と地にひそむ神々の心をゆるがすものはなかったのか
ああ この平凡なゴンドラの上で
いのちの神秘を知り
ああ、パパ、ママと叫ぶ子供たちにほほ笑みと食料を渡し
どうしたのと優しい言葉をかけようではないか

大男の船長はゴンドラをとめ、
「坊や、どうした」と声をかける
その満面の笑み
それが子供達を救った
ああ、子供たちの美しい笑い声
誰もが慈しみあっている町になった。
そこは、永遠の今が見える広場になっている。
おそらく、そこで、コーヒーを飲む時、永遠が舞い降りてくる
そのような時、どこからともなく祭りの太鼓 祭りの笛が聞こえてくるものだ

そうした夢のような幻想からはっとして、ナーラに呼びかけられているのに気付く
ナーラの絵には、青色の川と河岸のビルや広場や森が描かれている


      
その後、露野はスイスに向かった。
   彼はスイスの国境近くまで来た時、些細な事件に遭遇した。かなり酔っ払った車掌が彼のいる列車の部屋に入ってきて切符を見せる事を要求した。その時はすでに夜の十時を過ぎていた。酔っているため早口でだらしないイタリア語は露野を面食らわせた。しかし自分が遠い異国の旅人であることを思って彼は愛想笑いを浮かべた。
 車掌はぺらぺら喋りまくる。露野は相手が何を言っているのか分からなかった。
 切符は国境までの分しかなかったのでジュネーブまで買わねばならなかった。小銭のない彼はおつりを貰おうと思って大枚を出した。車掌はちょっと卑しい笑いを浮べながら、酔いに任せてイタリア語をしゃべりまくる。そしておつりを渡して出て行ってしまった。露野は狐に包まれた様な気持ちでその釣銭の硬貨をしばらく見詰めていた。そのうちに釣りが著しく足りないことに気がついた。彼は急に怒りが込み上げてきて部屋を飛び出ると廊下の向こうの端にいる先程の車掌の所に掛け合う為に急いだ。車掌はうさんくさそうに彼を見る。露野が英語を使って釣銭の大幅な間違いを指摘する。車掌は意地悪そうな顔つきをしてやはり早口に喋りまくった。その時 車掌の顔が死んだはずの青林の顔に見えた。露野は驚愕し、金を取り返すことは忘れて呆然と彼は車掌を眺める。背が低くこぶとりで丸顔の車掌をスクリーンにして精悍な青林の青白い顔が映っている。
 英語とイタリア語ではまるで会話にならず、露野は諦めてコンパートメントに戻った。そして先程の青林の幻を思い浮べた。錯覚であることは分かっていたが彼は多大な不安を感じた。異国の深夜の列車の中でのトラブルという異常な雰囲気の中で青林の亡霊が隙を狙って忍び込んだ感じがした。そうしたことに対するある種の恐怖と大量の釣銭をごまかされた悔しさが入り交じって彼は一人 物思いに耽った。窓の外にイタリアとスイスの国境の山々が暗黒の夜の中にうっすらと流れていくのをぼんやり感じていた。
 いつの間に列車はスイスに入り、小さな駅に到着した。そこに警察官が入って来て、露野にパスポートを見せることを要求した。
 露野は絶好のチャンスと思い、先程の車掌とのトラブルを英語で説明した。そのスイス人と思われる男はカーキ色のきちんとした制服を着ていて、穏やかなまなざしで話を聞いた。酔っ払った車掌が地獄の使いとすればこのスイス人は実に見事な紳士で天国の使者のようであった。
 警察官は自信を持って客の苦難を取り除く職務を遂行するという堅い決心を微笑に含ませてオッケーと言い、出て行った。
しばらくするとさっきのイタリア人の車掌が酔いを覚まし、申し訳なさそうな顔付きをしてお釣りを返しにやってきた。
 露野はこの出来事を思い出すたびにフローレンスやヴェニスの様なユートピアを持つ伝統ある国の緩みを感じた。ゴンドラを思い出し、ゴンドラの船長のおおらかな目と美しい
笑い声が水路の行きかうビルの間に響くのを、ふと思い出した。
 
天国と地獄の交錯する所で人間世界の謎や面白さが味わえるのであろうか。楽園に住むイブに蛇が誘惑をかけた様に楽園に罠があるのは案外、神の配慮かもしれぬ。地獄にしてもそこに至る道程には甘く美味しいデザートを備えて客人を歓迎するものだ。退屈は人を大変 苦しませるというパスカルの指摘を彼は思いだしていた。
なつかしの明珠も美しく優雅であったが故に様々の罠があったのであろうか?絢爛たる薔薇には鋭い針があるとは言い古されたことではないか?



【久里山不識】
詩「夢のゴンドラ」は 前に書いた詩を少し直して、ショートショートの中に入れました。






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道元とマルクス

2023-04-07 14:42:11 | 芸術
道元の考えの核心に触れるには正法眼蔵を読まなくてはなりません。私が四十年前に書いた小説の中に、そういう場面を発見し、自分でも驚いたのですが、少し直しても読者に分かりやすくなっているのか、疑問です。この場面をさらに、面白く読めるようにこれからも、座禅をして正法眼蔵を読み、この場面をさらに面白く読めるように、工夫しなければと思いましたが、今は退院したばかりということで、このレベルで掲載しました。



道元とマルクス 【ショートショート】

「彼女はマルクスの資本論も読んでいる様な女性だからね。頭の良い女だと思うよ。人間は面白いがあの莫大な資産が彼女を駄目にする」
 その時、露野はキリストの言葉を思い出した。金持ちが天国に行くのは駱駝が針の穴を通り抜けるよりも難しいという昔 覚えた文句だ。これは真の信仰生活には莫大な財産が邪魔になることを教えたものであろう。しかし岩村の言葉はそうした宗教を否定するマルクスの立場から言われたものなのに不思議にこのキリストの言葉と一致することが露野にある新鮮な驚きを与えた。
「そうかね」
「君の思想のその曖昧さは困るな。エコロジストにはそういう曖昧さがあるね。資本主義というのはやはりマルクスの指摘したように資本家と労働者の対立というのがあるのさ」その岩村の言い方にはちょっとトゲがある様な気が露野はした。岩村の強い性格から自然、ほとばしりでたのだからそこに悪意はないのは分かる。しかし、露野のことをエコロジ
ストと断定したのはちょっと不愉快だった。彼はその様な形で自分が分類されてしまうことを警戒した。確かに科学技術の発達よりも大自然との調和の中でこそ、人間らしい生活が出来るのだといい地球の環境保護を声高らかに叫ぶエコロジストの主張には共鳴する所が多い。しかし、そういうことは今や多くの人達の声になっているのであって、ある特定のグループだけの言い分ということでもないと思う露野はちょっと不服だった。
「確かに君の言う通り、政治経済的には対立があるかもね。でも仏教が教える様にあらゆるものに仏性があるということから考えれば人間としては平等だし、そこでは対立もなく慈愛によって結ばれねばならないのでは?」
露野はそう言いながら仏性とは何かという難しいことを説明しなければならないという予感がした。
「僕はこの頃思うのだけれど道元左派を自分の信条にしようかと考える様になっている。どう思う?」
露野にとって禅の大家、道元は近頃しだいに尊敬の対象になりつつあった。
「何だい?その道元左派というのは?」
「つまり 十八世紀のドイツにヘーゲル左派というのがあってここからマルクスが出てきたよね」
「ああ、それは知っている」
岩村はヘーゲルの逸話をうろ覚えであったがふと思い出した。後世に影響を与えた哲学書を執筆している時、窓の外を通る馬上のナポレオンを見て、あの人物こそ神の様な絶対精神の現われだとヘーゲルが考えたという話である。何かの本で見た馬上の凛々しいナポレオンの姿が岩村の瞼に浮かんだ。
 露野の方は自分の信条を説明することで頭が一杯だった。
「つまり僕は日本の鎌倉時代に出た禅宗の偉大な思想家である道元にマルクスを結合させたら良いと思ってね。これをヘーゲル左派を真似して道元左派と呼んでみたのだ。というのは今の日本で道元を熱心に勉強している人達には政治的に保守に傾く傾向がある。
これはおかしなことだ。道元は権力を嫌ったことでも有名なのだ。
それで僕はあえて道元にマルクスをプラスすることによって道元の様な禅宗の思想から政治的には革新を生み出したいのだ。
へーゲルの絶対精神の考えも、道元の「物は仏性の現われ」というのと似ている。似ていないのは仏性という実体はない。無と言っているところだ。そこのところを「無仏性」と道元は言っている」
 露野はこれこそ真理に至る道であると思う様になっていた。先程のキリストの文句が再び彼の心に響いた。確かに人はこの世の名誉、財産を捨て 逆境に耐えぬくことによって真理発見のチャンスに恵まれる。真理とは仏性であり、神仏であり、法である。
仏性とは輪廻転生して、多くの人生の中で修行して仏になる性質というそれまでの、考えを捨てたのが道元である。座禅した姿がすでに、この世で、仏であるという革命的な考えを打ち出したのである。
『幸いなるかな。心の貧しき者、その人は天国を見ん』というキリストの言葉が突然 理解出来た様に露野には思えた。人はその人の生きている位置によって人生の見方が変わるのだし、貧しさと逆境こそ真理に最も近いというというのは 案外本当かもしれないと思った。
 彼は応接室のソファーで近頃 花瓶に飾られた石竹の花を見た。あの時は気付かなかった美が今 哲学談義に移ろうとした時、不思議な美の光線をまきちらしたようだった。心の状態が変わると花も違って見えると思った。

「それは面白い。しかし僕には禅宗というのは分からない。説明してくれよ」
「道元は人間というのは本来 永遠のいのちである仏性が現われたものであると、言っているのだと思うがね」
「その永遠のいのちである仏性というのが分からない」
「僕だって分からないさ。ただ座禅していると何か自分というものが永遠なものに繋がっているという感じが朧気ながら掴めるような感じがしてきた」
「永遠なものね。芸術家の君としては分かることかもしれないが実務家の僕にはそういうことを理解するセンスが残念ながら欠けていてね」
露野はその通りと言いたかった。岩村の知性は鋭いが目に見えないで感じられるものには全く無能力であると思った。彼は『星の王子様』という童話で目に見えないものの中にこそ人生の素晴らしい宝があるのだという様な会話がなされているのをふと思いだした。そして岩村にはそれを感ずる能力がないのだと思った。岩村の反論を予想しながら露野は言った。
「永遠のいのちである仏性というのは最近思うのだが無ではないかと思うようになったよ」
「無って何も無いことだろう。ということは永遠のいのちも無いのではないのかね」
 岩村はそう言って皮肉な笑いを浮べた。露野は岩村にも一理あると思った。無というのは確かに考えれば考えるほど分からなくなる。無にはおそらく素晴らしい秘密があって人間の知性が介入することを拒んでいるのに違いない。目の前の石竹の花もその赤と白の斑の色とかれんな花びら以上の何かを語っている。つまり秘密がある。薔薇の中に神を見ると言った詩人がイギリスにいた様に記憶しているが無の中にも神仏あるいは法としかいいようのない存在がおられるのではないかという考えを露野は持つ様になった。確かに、この無は理解しにくい。ただの何もない無ではなく、この森羅万象を生み出す生命エネルギーを秘めているのだから。


「こう考えてみたらどうかな?無というのはプラスの無限のエネルギーとマイナスの無限のエネルギーが結合している状態なのだ。結合しているから何もない状態で無としかいいようがない。男と女が合体して法悦状態になっているのが宇宙の無の例えとして面白いのでは?」
 露野はにやりと笑った。たとえが少し適当でなかったという思いと良いたとえだという満足感が交錯した。そしてふとロミオとジュリエットの映画を思い出した。敵同士の名門貴族に生まれた二人が大きな障害を乗り越えて愛によって結ばれた朝の印象的な場面だった。朝を告げるひばりが鳴いているとロミオが言うとジュリェットがあれは夜 鳴くナイチンゲールだと言う。敵を殺したロミオにとって昼間になれば捕らわれ、死刑にされるかもしれないので逃げなければならない。ジュリェットは恋人を永遠に引き止めておきたい。窓の外で鳴く小鳥の声がひばりなのかナイチンゲールなのか会話する二人の愛が激しい
だけにそれを引き裂こうとする運命の力も衝撃的だ。ロミオとジュリエットが愛で結合している時は殆ど無を味わっているといっても良い様な幸せの絶頂であろう。その無に亀裂が走る。朝が来て、ひばりが鳴く。悲劇の始まりだ。そして人生の創造でもある。まさに宇宙も無から神のような力によって創造されるのだと露野は思った。
「そして男がそのほうえつ状態から起きだして朝の窓の外を見ると外には森や池の金魚が目にうつり小鳥がざわめいている。女は着替えをし、朝の食事の用意をする。そして一日が始まる。ちょうどその様に宇宙の無もプラスかマイナスかがこの無の法悦状態から何かの拍子で動きだす。そしてこの波紋は大爆発となる」
「君は独身なのにそういう例えがうまいね」
岩村は静かに笑った。


「僕はマルクスを信奉する者だからこの無限のエネルギーを持った無というのは物質と考えても良いのかね」と岩村は露野の瞳をのぞきこむようにしてそう言った。
「無は無限のエネルギーを持っているのですからね」
露野は難しく厄介な問題だという気持ちになって、ベートーヴェンに影響を与えたと思われるスピノザの言う「神」を思い出し、黙りこくり羊かんを口に入れた。少しの間 その沈黙が続いた後、露野は視線を羊かんから岩村に向けた。岩村は微笑していた。
「そこが難しいんだよ」と露野はちょっとおおげさに声を張り上げて言った。「無は意識の中にもあるのですよ。むしろ意識こそ無の存在の生き証人ともいえます」
露野はそう言い終えてから、自分の『無』の説明では聞いている相手に何がなんだか分からない気持ちを与えるかもしれないと思った。『無』よりももっと適当で良い言葉が見つかればと考えた。
「そうした考えは意識に魂の様な特別の地位を与えることで僕は納得できない」と岩村は言った。意識や心というものに宇宙の中心的役割を与えることは死の恐怖に対する一種の逃避であると岩村は考えていた。大自然こそ主人公であり、人間の意識はそこから作り出されたものであるという考えに彼は立っていた。しかし露野は心と大自然の奥底に同一の無という土俵があるのだと考えているようだった。岩村はその考えに好意を持たなかった。露野は宗教という罠にひっかかっているのだと思った。しかしこれは永遠のテーマで露野の考えを間違っていると断定する勇気は岩村にはなかった。
 

露野は多くの知識から解放され、明珠市の自然のような無垢の魂を漂わす岩村理香子夫人の感触を思い出した。あの時、彼女と自分が一体になった様な一瞬があったと思われた。夫人も自分も仏性の現われであるけれど、二人が分離されている時は仏性としての無を体験することは出来ない。二人が深い愛によって結ばれた時 宇宙と一体になり 神や仏性を知る。神は愛なりというではないかと彼は思った。 これは相手が恋人でなく、花や蝶や星でも良い。薔薇の花を見る。花を自分とは違う存在として乱暴に扱っている時は神や仏性は分からない。花を愛し、精神的に一体になると花と人間という風に分離されているものが克服され、その時 仏性や神が現われるに違いないと思った。


「結論めいたことを言うと、道元はね、人間を含んだ全ての物、花や蝶 星そして光にもこの永遠のいのちである仏性があると言ったのだよ。つまり無があるとね」
「ちょっと待ってくれ。こだわるけどそこの所が大変 理解しにくい。無があるという君の言い方に矛盾がある。無は何もないのだろう。それをさっきから君は無限のエネルギーを持つ無だの、永遠のいのちという無があるだの言っている。おかしな矛盾した言い方であるような気がする」
「ハハハ。なるほど僕も分からなくなってきたよ。ともかくこの道元とマルクスを結びつけて道元左派の文学をつくろうと考えている所なんだ」
「分かったよ。君の言いたいことは朧気ながら掴めた。そうした文学を創造したいという君に敬意を表するよ。今晩は少し、飲むか」
露野は目をあけて酒を誘う岩村を見た。
「そうだな」
 露野はそう言って淡い後悔の様な胸の痛みを感じた。夫人と離れねばならないことを思い出したからかもしれない。
「よし、今晩の夕食にはたっぷり酒を出そう」
岩村がそう言った時、露野はほっとした。


 露野 耕三は岩村夫人に対する複雑な感情の整理がつかないままに出ていく気になれなかった。といってこの館のこの部屋にこれ以上いるのは彼の心の罪の意識が許さなかった。夫人に対する恋慕の情は今や彼の罪の象徴だった。館にこれ以上とどまることは毎日、この罪に心身をさいなまれる様な気がして耐えられない気持ちだった。。
 彼はそこでかねての予定通り明珠市の中心地にあるマンションを借りてそこに住むことにした。そこは聖ハレルヤ教会の裏通りに面した通りにある2LDKの赤い色をした小型のマンションだった。二つある部屋も居間もスペースが広く、彼は満足だった。三階にあるため、窓から教会の敷地がよく、見える。その向こうに寺院と青空の会の本部の建物も見える。
 そこに住んだのはやはり理香子が教会に日曜日 来ているのだから、会えるチャンスも多いだろうという期待も働いていた。
そこに住んでから半月ほどしたある土曜日の夕方、夫人が突然マンションを訪ねてきた。彼はびっくりして中へ通した。
「これから聖書研究会が始まりますの?いらっしゃいません」と夫人は言った。先週の土曜日にも来たのだけれど留守だったということも夫人は付け加えた。
 露野はかなりどきまぎしていた。
「特定の宗教を信ずるのではなくて、東西の思想の融合の中から、新しい哲学を見出だすという青空の会の方に共鳴していますから、そういう場に出席するのはなにかひやかしに行くみたいでよくないと思うので」
彼は自分がひどく緊張しているのを感じていた。殆ど機械的にそんな風に喋った。
「土佐 五郎さんも毎週いらしてますのよ」
「五郎君が?」
露野は意外な感じがした。
「五郎さんが今度お父様のあとをついで、社長さんになられて私どもの方に御挨拶に来ましたのでその時、私が教会の方にいらっしゃる様に言いましたらさっそく半月ほど前から通うようになりましたのよ」
露野は五郎の社長就任については知っていた。ここのマンションに来てから十日程して、挨拶に来たからだ。
理香子は窓の所に立って「見晴らしがいいわね。教会の敷地がよく見える。時々、来ようかしら」と言った。そして軽く笑った。その心地よい笑いはピアノソナタのように部屋の中に響いた。
「はあ、どうぞ」
そうは言ったものの、彼はどう考えてよいのか見当がつきかねた。これは誘惑なのだろうか。キリスト者として厳格なしつけを父君から受けたと言った人の言動とは思われない。とすると、自分をためしているのだろうか。それともその両者の中間の所でスリルを楽しんでいるのであろうか。彼は彼女をまともに見るのが怖い気がした。胸の膨らみや赤い唇が彼を酔わすことを恐れた。
「ねえ、露野さん、今度新しく来た牧師さんはフィリピン人なのよ」
「フィリピン人?牧師が変わったんですか」
「そうなの。そしてとても変わったお説教をするのよ。あたしは詳しいことはわからないけど、なんでも『解放の神学』とかいってとても魅力的な話をする方よ。露野さんならきっと興味を持つと思って」
「解放の神学ですか。興味ありますよ。僕もちょっと本などで得た知識しかありませんから」
 露野は急にその牧師の話を聞く気になった。
彼は彼女の白い首筋を一瞬 見たあと、「行きましょう」と言った。
彼女は目を輝かした。
彼が窓を閉めたり、電気を消したりする間、彼女は台所や書斎を興味深かげに見ていた。 彼女の案内で正門から花壇に取り囲まれた石畳を通り、一番大きな建物の脇の道をぬけて小さくしょう洒な建物の中に入った。
時計は五時少し前で既に十五人近い人が椅子に腰かけて円陣を作っていた。露野はすぐに五郎と目があった。  
 露野は土佐の横にあいていた席に座った。夫人は左側の少し離れた空席に座った。
「ここに来るのは始めてですか」と土佐は言った。
「うん、始めてだ。岩村夫人に誘われてね」
「マンションの住み心地はどうですか」
 土佐はこの前、社長就任の挨拶に来た時も同じことを言ったと露野は思った。
「うん、良いよ。所で社長の仕事の方は順調に行っているかい」
「ええ、社長といっても十人ほどしか従業員がいないんですから」
その時、正面にいた牧師が声を上げた。
「皆さん、そろそろ時間になりましたので今日の聖書研究会を始めたいと思います」
上手な日本語ではあったが明らかに外国人だと分かるなまりがあった。露野よりは十ほど年が上の感じがした。見事な口髭をはやしており、目は温和であったが、底の方に光るものは何か鋭いものが隠されているようだった。

 牧師は露野を紹介したあと、露野を意識したのか解放の神学の核心に触れた所を話した。集まっている聴衆の中では自分が一番年上の様な感じがしたが一人だけ自分に近い中年の紳士が会社帰りなのか背広姿のまま出席していた。
 露野は牧師の話が内容が高度であるけれども、既に自分が考えたり本を読んだりしてきた範疇に入っているもので特に目新しいものはなかったがフィリピンの故国に触れた所はさすがに迫力があった。
 『さいわいなるかな。心の貧しき者、その人は天国を見ん』というキリストの言葉がその牧師の話の核心だった。何も所有しない貧しい者こそ地上に天国を築く使命が神によって与えられると彼は熱弁をふるった。ラテンアメリカやフイリピンなどカトリックの強い所で信者達は新しい理想社会を夢みて、貧しく虐げられた人々の解放に立ち上がっていると話す牧師の目は輝いていた。



【久里山不識】
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