空華 ー 日はまた昇る

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水車のある散歩道

2017-03-10 15:09:42 | 水車のある散歩道

 


 水車とユリは私の好きなイメージである。水車は、トルストイが「生命について」というエッセイの中で、生命のシンボルとしても使われているようで、興味深い。


日本でも、アメリカでも水車というと、粉をひくということをしてきた伝統があると思われるが、水車の回転で生じたエネルギーを粉をつく棒に伝えるかわりに、発電機に伝えれば、発電できる。日本のように雨の多い地域では、この雨のエネルギーを小規模な水力発電に使って、日本の多くの町や村に設置すれば、脱原発の自然エネルギーの象徴としても、水車の牧歌的な癒しの効果もあるような気がする。


そんなことを考えている折、水車にまつわることで心温まる話を発見した。今日はいつもと、ちょつと趣向を変えて、アメリカの小説家オー・ヘンリーの「水車のある教会」をご紹介しようと思う。


  


『水車のある教会』


 水車にまつわる大変感動的な話です。


 


アメリカの平凡な避暑地レイクランズに「鷲の家」という宿屋があったが、その近くに水車小屋のある教会があった。それは世界でただ一つのベンチとパイプオルガンのある水車小屋なのだそうである。


ここにエイブラム・ストロングと呼ばれる人物が毎年、秋の初めころに「鷲の家」に来る。


彼はエイプラム神父と呼ばれていた。


彼は大都会でいくつかの製粉工場を持っていた。


 


ところで、二十年近い昔、レイクランズの教会がまだ純粋に水車小屋であった頃、ストロング氏はここの粉屋の主人であった。この粉屋の生活の喜びは小さな娘アグレイアであった。


幸福に暮らしていた水車小屋の夫婦と娘。しかし、その娘が四才の時に、森の中で消えてしまったのです。


もちろん、アグレイアを探し出すために、あらゆる努力が払われました。


そのうち娘を見つけ出す望みも消えてしまった。失望した夫婦は北西部へ引っ越して行った。


それから、ストロング氏は近代的な製粉工場の所有者になったが、夫人は心の痛手から、世を去ったのである。


 


優れた経営者になったストロング氏はレイクランズと古い水車小屋を訪れた時、水車小屋を教会に改造しようと思い立った。


このようにして 古い水車小屋はアグレイアを記念するために、かって彼女が住んでいた村人たちにとって、神のめぐみを授かるありがたい場所に改められ、ストロング氏は神父にもなったのである。


 


ある年、この地方に不況の波がおそってきた。どこでも作物のできが悪く 全然収穫のない土地もあった。


このことを耳にすると、エイブラム・ストロング氏はただちに命令を飛ばした。小さな鉄道がレイクランズに「アグレイア印」の小麦粉をおろしはじめた。小麦粉は「旧水車小屋教会」に貯蔵しておき、教会に出席したものには、それぞれ一袋ずつ無料で持ち帰らせるように、というのがストロング氏の通達だった。


 


それから、何年かして、「鷲の家」に二十才のローズ・チェスターという若い女性が来ていた。彼女はアトランタのデパートに勤めていて、今回、休暇旅行で来たのだ。


そこで、エイプラム神父とチェスター嬢は出会い、たいへん仲良しになった。


チェスター嬢が 話相手として あるいは友人として エイプラム神父と知り合ったことはしあわせだった。彼によって、彼女は松林のなかの ほの暗く木々におおわれた小道の神々しい美しさ、むき出しの岩の荘厳さ、水晶のように大気の澄み切ったさわやかな朝、そして神秘な静寂さに満ちた夢のような黄金食の午後を知るようになった。こうして彼女の健康は回復し、気持ちも明るくなってきたのである。


 


ある日、チェスター嬢は 宿泊客の一人から エイプラム神父の行方知れずになった娘の話を聞いた。


 


【ここから、あとは物語のクライマックスになりますので、全文引用します。これまでは、このクライマックスに至る簡略化した粗筋です    】


 


フィービー嬢はライラックの枝の模様の更紗のドレスを身につけ、耳の上にきちんと小さな巻き毛をたらしていた。彼女はエイプラム神父にむかって膝を折って丁寧に挨拶し


チェスター嬢には軽く巻き毛をふって儀礼的に会釈した。それから助手の少年と一緒に急な階段をオルガンのある桟敷へのぼって行った。


階下の深まってゆく夕闇のなかで、エイブラム神父とチェスター嬢は、なおも立ち去りかねていた。二人とも押しだまっていた。おそらく、それぞれの思い出にふけっていたのであろう。


チェスター嬢は頬づえをついて、どこか遠いところに目をすえていた。エイプラム神父は隣のベンチのあいだに立って、外の道や朽ちかけた田舎屋を思いをこめて眺めていた。


すると、たちまちあたりの風景が一変し、二十年も前の過去に彼を連れもどした。


というのは、トミーがポンプを押していると、フイービ嬢はオルガンに入った空気の量を調べるために、いつまでもオルガンの低音部のキーを押しつづけていたからである。


エイプラム神父にとっては、教会はもはや存在していなかった。


この小さな木造建築をゆるがす深い震動音は、彼にとってはオルガンの音ではなくて、低くうなる水車の音であった。


たしかに昔の上射式水車がまわっているのだと彼は思った。


昔の山の水車小屋の粉だらけになった陽気な粉屋に逆戻りしたように感じた。もう夕方で


あった。まもなく アグレイアが黄色い巻き毛をなびかせながら、よちよちと道を横ぎって夕食の迎えにくるのだろう。


エイプラム神父の目は田舎家のこわれた扉の上に じっとそそがれていた。


そのとき、もう一つ不思議なことが起こった。


頭の上の桟敷には、小麦粉の袋が いくつかの長い列になって積み重ねてあったが、たぶん鼠がその一つを食い破ったのであろうか、とにかく強く鳴りひびくオルガンの音の振動で、桟敷の床の隙間から小麦粉が流れ落ちてきて、エイプラム神父を頭から足のさきまで真っ白にしてしまったのである。すると、年老いた製粉工場主は、ベンチの通路へ出て行って、両腕をうち振りながら、あの粉屋の歌をうたいはじめた。


    水車がまわれば


      麦粉がひける


       粉にまみれて粉屋は楽し


そして、このとき、残されていた奇跡が実現した。チェスター嬢がベンチから身を乗り出し、粉のように青白い顔で、白日夢を見ている人のように、大きく目を見開いてエイプラム神父をみつめた。彼が歌いはじめたとき、彼女は両の腕を彼にむかってさしのべた。


唇がふるえた。夢みるような調子で彼女は呼びかけた。


「お父ちゃん、ダムズをお家へつれてってよ!  」


フィービー嬢はオルガンの低温部のキイから手をはなした。しかし、彼女は立派に役目を果たしたのであった。彼女が鳴らした音が、閉ざされていた記憶の扉を叩きこわしたのである。エイプラム神父は、一度はうしなったアグレイアをしっかりと腕に抱きしめた。


    【大久保康雄訳】    【ダムズはチェスター嬢の幼い頃の愛称 】


 


 そう言えば、「森の水車」というような歌がありましたね。


1  緑の森の彼方から  陽気な歌が聞えます


   あれは水車のまわる音   耳をすましてお聞きなさい。


   コトコト  コットン  コトコト コットン


   ファミレドシドレミフア   コトコト  コットン


   コトコト  コットン  仕事にはげみましょう


   コトコト  コットン コトコト コットン


   いつの日か  楽しい春がやってくる


          【作詞 清水みのる  作曲 米山正夫 】


 


 


 森には色々な花があり、自然の音が聞えてくるものです。


 


日曜日にはときどき、風向きがいいとリンカーンやアクトンやベッドフォードやコンコードの鐘が聞えてくる。それはかろやかな、甘い、いわば荒れ野にもちこむだけの価値のある自然のメロディだ。森をこえて十分な距離をとると、この音はまるで地平線の松の葉がハープの弦であるかのように、一種のヴァイヴレーションのかかったような音になって聞こえる。  どんな音でも、最大限の距離を置くと、同じ効果がうまれる。


それは宇宙の竪琴のヴァイブレーションといってもよさそうなもので、ちょうど空気が遠くの山々をスカイブルーに染めて目を楽しませてくれるのと同じなのだ。


この場合、空気が漉(こ)し 森のあらゆる葉と針と語り合ったメロディ、つまり鐘の音のうちで自然がとりあげて変化をつけ、谷から谷へとこだまさせた部分がぼくの所まで来るわけだ。


こだまはある程度までオリジナルなサウンドで、そこには魔法と魅力がある。それは鐘の音のなかのくり返す価値のあるものをただくり返しているのではなく、ある部分は森の声なのだ。森の精がうたうことばやメロディと同じものなのだ。


【略】


 


ほかの鳥がしずかにしているとき、みみずくがうたをうたい、悲しみにくれる女性のようにウールールーとなく。その陰気な叫び声は本当にべン・ジョンソン風だ。


賢い夜中の魔女 !  それは詩人たちのあからさまでぶっきらぼうなホーホーという鳴き声ではなく、冗談など少しもないもっともおごそかな墓地の歌であり、地獄の森で神の愛の苦しみと喜びを思い出す自殺した恋人たちの慰めあいなのだ。それでも、ぼくは彼らの嘆きや悲しみにしずんだ返事で森がふるえるのを聞くのが好きだ。


それは、ときには音楽や小鳥の歌を思わせる。それはまるで音楽のもっている暗い、涙にあふれた側面、歌われることを願っている後悔とため息といったようなものだ。それは霊でもある。   【略】


 


ぼくは、ふくろうのセレナーデも聞く。まぢかに聞くと、それは自然のなかでもいちばん悲しみにくれた音にも聞こえ、まるで自然が人間の死のうめきを定型化し、永遠のものにしようとしているみたいだ。         


 【ワールデンの森より、  真崎義博 訳 】


 


【管理人より】


もう一つの私のブログで、「不思議な長老」という物語を掲載しました。


 


 

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