空華 ー 日はまた昇る

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エッセイーアダモ Adamo「雪が降る 」の思い出と私の解釈

2020-02-04 09:00:40 | エッセイーアダモAdamo「雪が降る」

エッセイ

この歌は私が二十代の時に、勤め先のそばに下宿していた時に、近所のレストランでよく流していた歌でその頃のことは記憶が鮮明である。ともかく若くて独身だったから、あの歌はよく胸に響いたものである。そのアパートには五年ぐらいしかいなかったから、必然の結果として、それ以来、この曲は聞かなくなった。

それが、最近ユーチューブで、アダモのこの曲を発見して、感動したものである。若い時に胸に来たあの曲は、やはり凄い名曲だったという思いが感動を呼び起こした。

しかし、中身を受け取る、歌詞の解釈は相当違っているのである。

若い時は、孤独な青年が恋人によびかけるせつない男女の思いが詰まっていると思ったのであろうと思う。しかし、今の解釈は仏教の「法華経」の解釈が入ってくる。

禅の勉強は三十ぐらいから、始めた。私の出た東京都立大学法学部は東大と並ぶ法律の一流の教授が多かったが、その頃、学界で強い力を持つていたマルクス主義の影響力が大きかった。マルクス主義は唯物論である。神だの仏だのという言葉は博物館入りのものだったのである。だから、「法華経」なんか友人の間で話題にもならなかった。おまけに、私の死んだ父が内村鑑三のキリスト教を崇拝していたから、子供の頃はキリスト教の話ばかり、聞かされていた。そのおかげで、私は三十ぐらいまで、「法華経」にふれることのない無宗教で生きていた。

ところが、三十くらいから、禅を勉強し、家のベッドの上で座禅するようになった。それから、道元の「正法眼蔵」を読むようになり、良寛の素晴らしさを知るようになった。ところが、道元と良寛が法華経を尊重していたのである。おまけに、「銀河鉄道の夜」の作者が法華経信者だった。それで、いつ頃だったか、「法華経」を読むようになった。

無宗教で唯物論を支持し、科学こそ真理を明らかにすると思い、そういう本を読みあさっていた私が何で禅をやるように、なったのかは色々あるのだが、今は長くなるので触れない。

法華経の中で一番有名な所は「如来寿量品」であると思われる。

この中で、「お釈迦様は死んだことになっているが、それはそうでない。仮にお隠れになったので、仏様の生命は永遠である。なぜお隠れになるのか、それは人々にお釈迦様への恋慕の情を引き起こすためである。」

ここまで書けばお分かりになると思うが、「恋慕の情」があの、アダモの「あなた」に呼びかける心に隠れている。こんな解釈が出てくるのは私が高齢者になったせいもあるかもしれないが、歌をどう聞くかは人それぞれで、自由で楽しめばば良いのだが、私はこの法華経の「仏への恋慕の情」というのがこのアダモの歌の奥にあるという解釈が気に入っている、だから、深い感動が来るのだと勝手に解釈している。

下記にその有名な場面を書いて起きます。

仏様の言葉です「我れ常にここ住すれども、もろもろの神通力をもって 顛倒の衆生をして 近しといえどもしかも見ざらしむ

衆我が滅度を見て 広く舎利を供養し、ことごとくみな恋慕を懐いて  渇仰の心を生ず」

 

禅では、自分の心にある目で、独自の解釈を打ち出すことが尊ばれる伝統があるようです。それで、私のアダモの独自の解釈を披露したわけです。下記のユ―チューブのアダモを聞いてみて下さい。

 

アダモ Adamo/雪が降る Yuki Ga Furu (Tombe La Neige) ― 日本語盤 (1969年)

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