空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

いのちの海の夢 【散文詩】

2019-08-31 09:36:14 | 文化

 私は奇妙な夢を見た。

 私は地下鉄に乗っている。その時、私は海の中にいるような気持ちになった。座っている人もいる。吊革につかまりながら立っている人もいる。その人達はみな色々な魚が衣服をつけているようだった。奇妙な錯覚だ。その時の私にとって地下鉄は深い海だった。その深さのためか、魚も眠る時があるせいか、ひどく静かである。背広を着た魚というのは妙なものだ。隣の魚とビジネスについて喋っているらしい。

ゴトコドと変な音がかすかに聞こえる。私には遠い海の外で嵐が吹きまくっている激しい波の音のようにも聞こえる。

 突然、電車が駅にとまった。人々は駅に吐き出される魚の群れの様だった。同時に、衣服を着た魚の群れが入ってきた。この駅の構内は深い海の洞窟の中の宮殿の様だった。 私の前に座った魚は眼鏡をかけた中年だ。彼は新聞を広げると熱心に読み出した。隣に座った魚は若い女だ。人魚の様につるつるとした足をだしている。 そこに年取ったお祖母さんが入ってきた。私は故郷にいる祖母を思い出した。席をかわってあげたいが、ちょっと気恥ずかしいので躊躇している。

 

 私は勇気を出して、おばあちゃんに声をかけて、逃げるように海の中を泳いで隣の車両に移って行った。私は深海を泳ぐ魚のようなものだ。泳ぎにかけては誰にも負けないつもりだ。

私はいつかスキ-に行ったことを思い出した。あの銀世界は全てが真っ白な色をした、実に不思議な海だった。銀色に輝く雪の海だった。宇宙人の様な魚はみんな長い板を履いていた。まるで熱帯魚の様に実に様々な色とデザインのウエアを着て、その泳ぐ動きの早さは格別だった。 それにあの細長いスキー板はよく出来ていた。なにしろ、転ぶと直ぐに外れるから怪我はしない。そして、直ぐにワンタッチで履ける。

 

 リフトで山を上る時の景色は素晴らしい。雪で真っ白になった樹木が無数にはえている。斜面は雪の結晶で宝石の様に輝いている。まるで天国の坂道の様な感じがした。あそこが銀色の海のように思えたという私の夢は楽しかった。     

 しばらくして、私は 次の駅でおりようと足早に出口に向かった。そしてうっかり、座っている若い男の足を踏んでしまった。彼は鮫の様な顔をしていた。口が大きかった。そして、大きな白い歯は鋭く切れそうだった。おまけに細い目が左右に長かつた。黒い瞳はどんよりよどんだビ-ダマの様で、私をにらみつけた。私ははっとして、謝ろうとしたが、その男が鮫そっくりの顔をしていたので、あっけにとられていた。私はしばらく彼の顔をまじまじと見つめていた。

「痛いですね」とその若者はにこりと微笑した。私は鮫の様な男がいかにも上品な紳士の様な雰囲気で言ったので二度びっくりした。そして、すみませんと私は頭をさげた。そして、私は冷や汗をかきながら、駅のプラットホ-ムに出た。

 駅名に漢字で『海』と書いてあった。私は確か、大手町に来た筈だと思って、立ち止まった。しばらくぼんやりその海という文字を眺めていた。私はのどがかわいていることを思いだし、新聞を売っている叔母さんの所に行き、缶入りのアイスコ-ヒ-を買った。

「ここは大手町ですよね」と私は質問した。まぐろの様な女はけげんな顔をして、「ここは海ですよ」と答えた。

私は不信の目で彼女を見詰め、コ-ヒ-を飲んだ。ああ、そのおいしかったこと。 

 

  昔話に出てくる竜宮城の素晴らしい飲み物もこれ程おいしくはあるまいと私は思った。私は缶をゴミ箱に捨てると、しばらく竜宮城のことを考えた。それから、天国とか極楽とか四次元の世界とかについても私は考えてみた。そのように、私は何かとてつもない異次元の素晴らしい世界を夢見た。しかし、ここは深い海の通路の様な所だった。大理石の様にすべすべした肌色の壁や天井が見える。私には深い海の広い洞窟に思えた。私はエレベ-タ-に乗った。海の外の青空を早く見たい気持ちで一杯だった。私はゆっくりゆっくり泳いで上昇していく様な気分だった。

 上に出ると、改札口がある。今度は長い長いトンネルの様な所に出た。トイレからは恐ろしくも大きな蛸が出てくる様な気がした。私は青空を見たいと切に願いながら、ひっそりと泳いだ。

 途中で腰にピストルをさげている二人の男が喋りながら私を見ている。彼らはイルカの様な魚だった。彼らは黒い帽子をかぶって、私の方を見ていた。突然、イルカの背の高い方が、「もしもし」と声をかけてきた。 

「宝くじを落とされたようですけど」とイルカの警察官は微笑しながら言った。

私は半月ほど前 買って、ポケットに入れたまますっかり忘れていたのだ。先ほど歩きながらハンカチを取り出した時に、落としたのかもしれない。私は軽く礼を言って、宝くじ五枚程 手にしたまま歩き出した。背後から、イルカの警察官が言った。

「もしかしたら、その宝くじ当たっているかもしれませんよ。僕の記憶によれば、確かその数字だったと思います。早い内に調べた方がいいと思いますよ」

私はどきりとした。宝くじが当たっていたら、大金持ちになれると私は思った。向こうからぞろぞろ鮭の様な顔をした紳士が歩いてくる。この暑いのにネクタイをしめている。

 

  東京駅の外は青空だった。私はついに海から顔を出した魚の様に飛び跳ねた。目の前の蛸の様なおっさんが目を丸くして私を見た。私はうきうき、わくわくしながら外に広がる夏の光を見た。光の海だ。暑い。生命の喜びと苦悩がここにはある。凄い勢いで走る車は鮫か? それともシャチか。それとも鯨か。変な臭いのする排気ガスを出す所はきっとたちの悪い奴に違いない。第一、ぶつかると死にそうだ。恐ろしい。私のめざす所は本屋なのだ。

 広い道路と広場。全ての物と青空が溶け合う所のようだ。溶け合う。何て素晴らしい言葉だろう。車のシャチや鮫。行き交う背広を着た魚。美しい肌をさらした女の魚。塔の様にそびえるビルはどこかの島の様に見える。

そして、広場に歌を歌う、若者の集団があった。

 歌はこう言っている。

太陽と海の重なる水平線に向かって、私はうっとりと泳いでいこう。赤を中心としてあらゆる色に変化する西の空に向かって、私はまるで温泉にでも入っている様な気分で泳いでいこう。 白いかもめが飛びかい、海の波のささやきの聞こえる所、その天国の様な無垢の色の広がる所、めがけて泳いでいこう。

 

  そして、時に不安が横切る時に、私は泳ぎながら歌うのだ。

わたしの肉体は海の放つ香りと美しき流れにのろう。魂からほとばしりでる喜びと悲しみの二重奏がすべての人の魂を生命の海の永遠の流れに運び去る。 わたしの生命は霊と水によって復活する。汚れた魂を心地よいシャワ-で浴びるようにして、洗い清め、美しい生命の流れを見る。

清らかな天使の歌声のごとく、海の風、海の波、夕日の沈む色の変化、鳥の鳴き声、魚の泳ぎ、それらはみな音楽となり、いのちの交響曲となって泳ぐ者の頭上に響く。 

憂いある者よ、憂いを去れ。悲しむ者よ、海の神秘を見よ。幸福を感じる者よ、全てが海のいのちのたまものであることに感謝せよ。こうして、海には霊の風が吹く。                詩人よ。ありとあらゆる美の誘惑の手口を使って すべての人の魂に、ここに泳ぐこのいのちの海こそ天国であり、極楽であることを知らせよ。

あちこちには熱帯魚の様な美しい色をした魚が泳ぎ、海水は太陽の差し込む位置により、千変万化の色となり、蜃気楼の様に大空に咲く巨大な花が浮かぶ。そして、どこからともなく、軽やかで楽しく、それでいて深遠な歌が聞こえてくる。        

ここがどこであろうと、ここは生命の海なのだと。地下鉄の中であろうと、太陽の照る広場であろうと、雪の原っぱであろうと、秋葉原の電気街であろうと、アパートの部屋の中であろうと、どこであろうと、ここは生命の海なのだと。永遠のいのちは虚空のようで物に応じて姿を現わすのだ。 

私は胸が震えた。感動に震えながら、泳ぐように本屋にむかった。

あそこには未知の宝庫がある。そして、そこの喫茶室で、飲み物を飲める。私の耳にはその美しい歌が響いている。ここは生命の海だ。ここは不生不滅のいのちの海だと、歌は唄っている。

 その時の私はもはや宝くじのことなんかどうでも良かった。このいのちの海の発見こそ宝の山の発見以上のことに思えたのだから。

           【了】

 

 

  

 

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核兵器をなくそう

2019-08-16 14:00:02 | 文化

 

         広島平和宣言

 今世界では自国第一主義が台頭し、国家間の排他的、対立的な動きが緊張関係を高め、核兵器廃絶への動きも停滞しています。このような世界情勢を、皆さんはどう受け止めていますか。二度の世界大戦を経験した私たちの先輩が、決して戦争を起こさない理想の世界を目指し、国際的な協調体制の構築を誓ったことを、私たちは今一度 思い出し、人類の存続に向け、理想の世界を目指す必要があるではないでしようか。

特に、次代を担う戦争を知らない若い人にこのことを訴えたい。そして、そのためにも1945年8 月6日を体験した被爆者の声を聴いてほしいのです。

当時5歳だった女性は、こんな歌を詠んでいます。「おかっばの頭(づ)から流るる血しぶきに 妹抱きて母は阿修羅に」。

また、 「男女の区別さえ出来ない人々が、衣類は焼けただれて裸同然。髪の毛も無く、目玉は飛び出て、唇も耳も引きちぎられたような人、顔面の皮膚も垂れ下がり、全身、血みれの人、人」という惨状を十八歳で体験した男性は、「絶対にあのようなことを後世の人たちに体験させてはならない。私たちのこの苦痛は、もう私たちだけでよい」と訴えています。生き延びたものの心身に深刻な傷を負い続ける被爆者のこうした訴えが皆さんに届いていますか。一人の人間の力は小さく弱くても、一人一人が平和を望むことで、戦争を起こそうとする力を食い止めることができると信じています」という当時十五歳だった女性の信条を単なる願いに、終わらせてよいのでしようか。世界に目を向けると、一人の力は小さくても、多くの人の力が結集すれば願いが実現するという事例がたくさんあります。インドの独立は、その事例の一つであり、独立に貢献したガンジーは辛(つら)く厳しい体験を経て、こんな言葉を残しています。

「不寛容はそれ自体が暴力の一形態であり、真の民主的精神の成長を妨げるものです」

現状に背を向けることなく、平和で持続可能な世界を実現していくためには、私たち一人一人が立場や主張の違いを互いに乗り越え、理想を目指し共に努力

するという「寛容」の心を持たなければなりません。

そのためには、未来を担う若い人たちが、原爆や戦争を単なる過去の出来事と捉えず、また、被爆者や平和な世界を目指す人たちの声や努力を自らのもの

として、たゆむことなく前進していくことが重要となります。そして、世界中の為政者は、市民社会が目指す理想に向けて、共に前進しなけれはなりません。

そのためにも被爆地を訪れ、被爆者の声を聴き、平和記念資料館、追悼平和祈念館で犠牲者や遺族一人一人の人生に向き合っていただきたい。

また、かって核競争が激化し緊張状態が高まった際に、米ソ両核大国の間で「理性」の発露と対話によって、核軍縮に舵を切った勇気ある先輩がいたという

ことを思い起こしていただきたい。

今、広島市は、約7800の平和首長会議の加盟都市と一緒に、広く市民社会に「ヒロシマの心」を共有してもらうことにより、核廃絶に向かう為政者の行動を

後押しする環境づくりに力を入れています。

世界中の為政者には、核不拡散条約第 6条に定められている核軍縮の誠実交渉義務を果たすとともに、核兵器のない世界への一里塚となる

核兵器禁止条約の発効を求める市民社会の思いに応えていただきたい。

こうした中、日本政府には唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いをしっかりと受け止めていただきたい。

その上で、日本国憲法の平和主義を体現するためにも、核兵器のない世界の実現に更に一歩踏み込んでリーダーシップを発揮していただきたい。

また、平均年齢が八十二才を超えた被爆者を始め、心身に悪影響を及ぼす放射能により生活面で様々な苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、

その支援策を充実するとともに、「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。

本日、被爆74 周年の平和記念式典に当たり、原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠

を捧「(ささ)げるとともに,核兵器禁止、核兵器廃絶とその先にある世界恒久平和の実現に向け、

被爆地長崎、そして思いを同じくする世界の人々と共に力を尽くすことを誓います。

 

令和元年(2019年)8月6日    広島市長 松井 一実

 

 

 
   
 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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戦争と平和(映画と小説)

2019-08-10 09:42:05 | 戦争と平和

 


 「戦争と平和」、このトルストイの長い小説は若い頃、読んだことがある。今回、アメリカ映画の「戦争と平和」を見てみた。あの長い小説を読んだということで、映画の方は甘くみていたところがある。ところが、見てみると、中々よく出来ている。


あそこでトルストイは何を語っているのか、大雑把な軸を言うと、ナポレオンがフランス革命の自由、平等、博愛の精神をヨーロッパに広めていく救世主として、ロシアの一部の若い人達にも共感されていたのが、やがて戦争となり、その悲惨な戦い、祖国を蹂躙されることに対する怒り、ということで、ナポレオンに対する怒り・憎しみということに変質していくのである。


これはベートーベンの有名なエピソードでも知られるではないでしょうか。交響曲「英雄」は最初、ベートーベンがナポレオンを賛美していた気持ちの現われから作曲されていたが、ナポレオンの権力欲を見て、激怒したとか。


物語でも、戦争の愚かさと貴族の生活のありのままが描かれている。


 


 「オードリーヘプバーン」がナターシャという少女、伯爵家の天真爛漫な令嬢の役をしている。どうも女性ではこの人がかなり重要な役らしい。


もっとも、一番主要な人物となると、ピエールとアンドレイであろう。二人は最初、ナポレオンを心の中で賛美していた。二人は仲が良いが、ピエールは戦争ぎらいだった。アンドレイ公爵はナポレオンのロシア攻めに対して、祖国を守る戦争に出かけていく。


 


私が思うには、最初は貴族たちの生活は描かれているのだが、彼らは宮殿に住み、毎日、何をするでなし、パーティだの女遊びだの賭博だの、そして貴族の田舎の領地には、農奴がいた時代だったのだ。多くの民衆は食うや食わずの状態だったに違いない。トルストイ自身も伯爵で、広大な領地を持ち、この物語に出てくるピエールはトルストイ自身がモデルだと、耳にしたことがある。トルストイは貴族の生態をありのままに活写したのかもしれない。その描写力は凄い。


しかし、それにしてもこの格差。現在でも、この格差はどこの国でも問題になっている。しかし、それ以上の大きな格差社会がここにはあった。


 


それはともかく、アンドレイは史上有名なアウステルリッツの戦いに参加する。小説では、この戦いについて、詳しく書いてある。ロシア軍の皇帝賛美と士気の高さ。オーストリア軍との合同作戦会議で、ロシアのクトゥーゾフ将軍が居眠りをしていたとか。ナターシァの兄ロストフが偵察に行った時に出会った場面など。例えばロシア近衛兵のフランス騎兵に対する突撃。あやうく味方のロシア兵と衝突しそうになったとか。結局はロシア軍が負けて、烏合の衆と化していく様子が書いてある。ロストフの目を通して見た、負けたあとのロシア軍の悲惨さはすさまじい。


 


その点、映画はシンプルだ。大平原でのナポレオン軍との戦い。アンドレイは旗を持って、突撃していくが、深手の傷を負い、倒れているが意識はあり、色々な考えが浮かんでいる。


 


 小説では、このアンドレイの心理描写が細かく書かれている。


「 『これはどうしたのだ?  おれは倒れるのか? 足をすくわれたようだ 』 こう思いながら、彼は仰向けに倒れた。彼はフランス兵たちと味方の砲兵たちの肉弾戦がどのような結果に終わったか、赤毛の砲兵が刺し殺されたかどうか、 『略 』見たいと思って目を開けた。しかし彼には何も見えなかった。彼の頭上には、空の他には――灰色の雲がゆるやかにわたっている、明るくはないが、やはり無限に深い、高い空のほかは、もう何も見えなかった。『なんというしずけさだろう、なんという平和だろう、なんという荘厳さだろう、おれが走っていたときとは、なんという相違だろう』とアンドレイ公爵は考えた。


【略】  どうしておれはこれまでこの高い大空に気がつかなかったのか? 


やっとこの大空に気がついて、おれはなんという幸福だろう。そうだ!  この無限の大空のほかは すべて空虚だ、すべてが欺瞞だ。この大空以外は、何もない、何ひとつ存在しないのだ。だが、それすらも存在しない、静けさと平和以外は、何もない。おお、神よ、栄えあれ!   」-【工藤清一郎 / 訳】


吾輩が思うに、「ここの所はアンドレイ公爵が神のような虚空に気がついたと書いてくれれば、仏教を知っている東洋人には分かりやすかったのではないか」と。しかし、アンドレイはギリシャ正教という文化の中にいるので、「無限の大空」と「おお、神」という表現になったのではないか。


 


 そこに、馬に乗ったナポレオンが通りかかり、「見事な戦死だ」と言ってから、「おや、生きているではないか。助けてやれ」と言う。こういう風にして、アンドレイは無事に帰還することが出来る。しかし、妻のリーザがお産で赤ちゃんを産むが、それで死んでしまう。


そのあと、アンドレイはひきこもりがちになる。


 


ピェールは私生児であったが、父が病死する時、父の遺言で、伯爵家を継ぎ、莫大な財産も得るが、それを目当てにした美貌のエレンと結婚する。しかし、エレンはモスクワでドローホフ大尉と不倫の関係になり、噂が広まる。宴会の席で、ピエールはドローホフ大尉に侮辱的なことを言われ、ドローホフ大尉の顔に酒をぶっかける。そこで、雪の中を決闘ということになる。どちらかが謝罪すれば、決闘は回避されるらしいが、そのまま決闘となる。ピェールはピストルの使い方すら分からない人だったが、ひょっとした動作の偶然から、勝ち、ドローホフ大尉は傷を負うが、命に別状はない。


あの頃は、よく決闘で死ぬ人がいたと聞いている。ロシア最大の詩人プーシキンがそうだし、天才的な数学者 ガロアも決闘で死んだ


 


それはともかく、この決闘での自分の罪について悩むピエールに対して、ナターシャの一家であるロストフ家が田舎に行こうと提案する。


モスクワとは違い、森林と広い草原があり、そこで馬を乗り回すロストフ一家の貴族たち。


確かに健康的ではある。当時の貴族の田舎生活は優雅なものだ。一度はああいう風に馬を乗り回して、あのようななだらかな美しい平原を乗り回してみるのも悪くないと思わせる映像である。


 


 ある日、ロストフ家の人たちが馬に乗って、狩りをしていると、丘の向こうに馬にまたがったアンドレイがいる。ナターシァの兄ニコライは父に許しを受けて、アンドレイを誘う。


ナターシャは「狩りは楽しい。狼もとれるかも」と言う。


アンドレイは浮かない顔をしていたけれど、一緒に狩りをする。雄大な広々した草原の中を走り回る。そして、ロストフ家で、ピエールとアンドレイは会話をする。


「そんなに引きこもっているのは身体によくない」とピエールは忠告する。


 


アンドレイは栄光ばかり目指していて、早死にした妻に申し訳ないという気持ちと、戦争での指揮官としてのミスを悔やんでいる。


ふと、気がつくと、ナターシャが窓のベランダの所で、ばあやとの会話をしている。


「眠れないもの」


「あんなに楽しい時を過ごしたのですもの」


「ねえ、見てよ。お月さまが素晴らしい」


アンドレイ様は黙って座っているだけ。裁判官みたいにほとんど笑顔も見せない。時々、      微笑している。


ここの場面はまるでシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の会話が優れた詩になっている有名なバルコニーの場面のようである。


 


 ただ、小説では、少し趣が違う。庭園の樹木や植物がこんもりと茂っている中に、射す月光の描写が緻密である。トルストイがシェイクスピアを意識して書いたかどうかは分からない。ただ、映画では、監督が確実にあのロミオとジュリェツトの場面を意識してつくっているという感じがする。


 


そして、舞踏会。収穫がないとぼやき、アンドレイのことが気にかかっているナターシャのもとに、アンドレイ公爵とピエール伯爵が現れる。アンドレイとナターシャは踊り、アンドレイは彼女と結婚しようと思うが、父親に反対される。


 


皇帝とナポレオンの間に条約が結ばれる。そこでのアンドレイの仕事をきちんと終えても、彼女と再婚を考えるなら仕方あるまいという父親のメッセージに逆らえず、アンドレイは出発する。


1807613日  ナポレオンとロシア皇帝は握手をする。


 


オペラを見るナターシャと彼女の一家、ロストフ家の人々。その隣に絶世の美女、ピエール伯爵夫人がいる。その夫人の所に、夫人の兄のアナトールがやってきて、ナターシャに声をかける。アンドレイとのことが噂になっているにも関わらず、横取りしようというアナトールの評判はよくない。


それでも、アナトールは強引にナターシャに求愛する。そして、ナターシャも本物の愛と錯覚して、二人で駆け落ちしようとする。雨の夜、ピエール伯爵が現れ、アナトールが外国に妻がいることをナターシャに告げ、この恋愛ごっこは無効であることを告げる。このことは噂の種になり、アンドレイ公爵の耳にも入り、かっての愛は冷めてしまう。


 


やがて、休戦しようというロシアのアレクサンドル皇帝のメッセージを無視して、ナポレオンはロシアに進軍する。モスクワでは大変な騒ぎ。ロシア軍のトップであるクトゥーゾフ将軍は何をやっているのだという声も聞かれる。


 


ピエールは戦争とはどういうものであるか、頭の観念でなく、実物を見ようとして、戦場のアンドレイ公爵に会い、大平原で押し寄せてくるナポレオン軍を見る。


まあ、戦争を見学しようなどいうのはやはり貴族の考えることと、思われる。戦争は悲惨なものというのは決まっている、やめるべきだというのは現代の多くの人が考えることだと思うが、昔は違っていたのだろう。


知恵ある人間はどうも体験しないと、その戦争の悲惨さが分からない人達がいるということであろう。


戦争は悲惨であり、平和を守ろうというのは歴史から学んできたことであり、つまり学習したことであり、過去の歴史を見ると人類はさんざん、戦争をやってきた。軍人の美しい軍服を見て、恰好いいだの、戦争に行く姿を見て、勇ましいだのというイメージを持ったのは当時のロシアも同じ。だから、戦争ぎらいのピエール、戦争を見てみて自分の考えを確認したいというピエールは当時の貴族でも異端者であったらしい。


フランス軍を大砲と銃で待ち構えるロシア軍。


「怖くないですか」と兵士に言われて、見物しているピエールは「面白い」と言う。


確かに、映画で見ていて、あの場面だけでは、第一次大戦のように兵器がそれほど発達していなかった時代の平原での戦いの前哨戦は優雅であるとも言える。しかし、これが恐ろしい罠なのである。


ナポレオンの大軍の先頭には音楽隊までいて、士気を鼓舞するために音楽を演奏する。


整然と、綺麗な隊列を組んで、多くの兵士が前進していく。


この物語の最初の方でも、若い人達は立派な服装をした勇ましそうな軍人に憧れを抱く。しかし、これは悪魔の罠なのだと思われる。


 


ロシア軍はフランス軍をぎりぎりまで自分の方に引き寄せてから、大砲と銃を放つ。総崩れになるフランス軍。しかし、そのあとから、フランスの騎兵隊がロシア軍に襲いかかる。見物人ピエールの前に展開する戦いは、血みどろの修羅場となり、悲惨をきわめ、死者と負傷者であふれかえる。


ピエールの心は「面白いという興味」から「怒り」と「戦争に対する恐怖と絶望感」に満ちたことであろう。


 


ロシア軍は退却し、ナポレオンが攻めてくるとなると、ロシア軍は戦略上、首都モスクワを捨て、後方に退く。ニコライ家も馬車でモスクワを去ろうとする。そこに多数の負傷兵。馬車の荷物を捨て、負傷兵を連れて、ナターシャのロストフ家は去っていく。


そして、民衆も貴族も一緒に退くが、ピエールはモスクワに留まろうとする。


モスクワに侵入するフランス軍。そして、火の手があがる。モスクワから遠く離れた所の僧院に避難したナターシャ達貴族や民衆は自分達の首都が燃えているのを見る。


 


やがて、ナポレオンは冬将軍を恐れ、モスクワを撤退する。ヨーロッパ大陸を退却していくだけでも大変なのだ。雪の中を何十万という多くの兵士は歩いて、隊列を整えて、フランスに向って行進する。そこをロシア軍が背後から襲うのだ。


ナポレオン軍は壊滅的な打撃を受ける。ここで、何十万という兵士が死んだのだ。


 


やはり、この小説は反戦の文学であると痛切に感じる。小説からも戦争の愚かさ、戦争に向っていく人間の愚かさが伝わってくるではないか。


 


 


脱原発とも関係がある。もっと早くから自然エネルギーの方に投資していれば、このような結果【福島の事故や、五十二基という原発の今後の問題 】にならなかった。莫大なお金が「もんじゅ」などについやされたのだ。原発は単なるエネルギー問題ととらえる向きもあるが、違った声も聞こえる。少なくとも最初、あのように増やしていく意図には、核兵器を潜在的に持てる国家という国家戦略があったのだという声も聞こえる。


 


アメリカでは、大統領も手こずるほどの勢力、産軍共同体があると、アメリカ国民にアイゼンハワー大統領が退任の挨拶でも言っているのである。


オバマ大統領が宣言したように、人類は核を放棄しなければ、真の人類の明るい未来は築けないのだ、その考えに、私も賛同する


勿論、原発はトイレなきマンションというように廃棄物の処理が解決できない。核のゴミを処理できない。それに日本はひどい地震国なのだ。そういうことを総合すれば、脱原発の多くの識者が言うように、私もそちらに賛同の旗を振る。


 


今は人類の危機である。最近の猛烈な台風、災害なみに酷暑などを見ても、温暖化の危機は目に見えるようになっている。PM2.5などの空気の汚染を見ても、公害の問題は深刻化している。原発の問題もそれ以上に深刻。世界に核兵器は沢山ある。こういう中で、今の日本がどういう方向に進まなければと、考えないといけない。我々は過去の歴史で学習した筈である。十九世紀そして二十世紀半ば頃までと同じような、思考方法では、人類は滅びると、私は思うのである。今主流になっている、競争、金銭、格差とは違う新鮮な価値観が必要とされている。争いを必要としない価値観である。寛容な価値観である。愛と大慈悲心による価値観である。


地球の自然は宇宙の奇跡のように、美しい。この美しい地球を守ろうではないか。


 


 


 


           【久里山不識】

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