空華 ー 日はまた昇る

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カラマーゾフの兄弟

2019-05-17 14:21:27 | カラマーゾフの兄弟


  主人公アリョーシャの父カラマーゾフは経済力はあったが、女にひどくだらしない男である。兄弟は二人いる。母は違うが、長兄のドミートリ―。母の同じ次兄のイワン。親父は一代で財産家になった人物だが、女にだらしないだけでなく、金銭面でも人間関係でも全てに不誠実な男である。


最初の妻も次の妻も既に死んでいるが、この小説では、息子のドミートリ―と女を奪い合うという性的にふしだらな所がクローズアップされるし、それが物語をクライマックスに導く。そんな男でも、「神はいるのか」と息子のイワンやアリョーシャに問う。そういう時代であり、土地柄なのだろう。イワンは秀才で通した男。「神はいないと答える」


アリーシャは修行僧の見習いで、皆に好かれる誠実な青年でまだ十八才。「神はいる」と父に答える。なにしろ、アリーシャの心服しているゾシマ長老というのがまるで浄土真宗のような語り口で宗教を説く語り口は迫力がある。


「全ての人は全ての人に罪がある。人々はもっぱらお互い同士の羨望と、色欲と、尊大さのためにだけ生きている」


 


このゾシマ長老が死ぬ際に、奇跡が起きると多くの人が期待していた。アリョーシャもその一人だった。


しかし、奇跡は起こらず、長老の遺体は匂いを周囲に放ったのだ。


現代ではこんなことは当たり前のこととして受け止められるだろうが、なにしろ百五十年前のことであるかんら、それほどゾシマ長老が崇拝されていたということだろう。


もちろん、このあたりの描写で、信仰する人々の中での不気味な対立が表面化されていたことも注意すべきだろう。


アリョーシャもショックを受けた一人だが、それで神への信仰が崩れたということはなかったが、グルーシェンカの所に行って微妙な立場に立つ。


 


グルーシェンカこそ、魅力のある若い女ではあったが、一方で悪の存在を心に抱えている。しかし、彼女の魅力はこの自分の悪を自覚していたことであろう、アリョーシャのような純粋な男を誘惑しようという気持ちを持ちながらも、それは抑え、彼を賛美する。


ところが、この女はアリョーシャの兄ドミートリ―と父カラマーゾフが自分の結婚相手として、夢中になっているというのだから、驚く。


ドミートリ―は金はないが、陸軍大尉で腕力に優れている。カラマーゾフは初老であるが莫大な財産を持っているというわけである。


 


 もう一人上流の若い女にカテリーナが登場するが、この女の父はドミートリ―の上司であったが、ドミートリ―に言い寄られても、鼻にも引っかけなかった。ところが、父が金銭の問題で破局に追い詰められた時に、ドミートリ―は当時かなりの金額を持っていて、さっさと彼女の父を援助したのだ。カテリーナはそれを恩義に感じ、ドミートリ―と結婚しようとするが、ドミートリ―の方が


カテリーナから去り、グルーシェンカに夢中になって、三千ルーブルの金があれば、グルーシェンカを自分のものに出来ると思いこむ。カテリーナは知的なイワンに心惹かれる面もあったのだ。


 


しかし、ドミートリ―はこの時、金が一銭もなく、ピストルを担保に十ルーブルの金をつくり、上流婦人のホフラコフ夫人に三千ルーブルを借りに行く。


この時の二人のやりとりはまるで漫画である。


夫人は彼を歓迎し、金鉱を掘り当てる人材が来たと言い、それが出来れば、三千ルーブルどころか莫大な金が入り、婦人問題で色々な役割を担いあなたは国家的な人材なると持ち上げる。


 


 ドミートリ―は直ぐにも夫人から三千ルーブルを貸してもらいたいし、夫人がそんな金はすぐにも手に入れることのように言うものだから、最初は感激するのだが、夫人の頭は金鉱と婦人問題のことで頭が一杯で、それが解決すれば、ドミートリ―には素晴らしい令嬢が来ると言う、要するに現金はないというのだから、貸せない。ドミートリ―は外に飛び出し、男泣きする。三千ルーブルが手に入らなければ、身の破滅とすら考える。【カテリーナのことも頭にある】


 


その間にも、グルーシェンカが親父の所に行ったのではないかという疑いが生じる。


 


ドミートリ―は親父の屋敷に行くが、スメルジャコフは病気かも知れぬから、と思い、堀を越え、庭に入った。


 


このスメルジャコフというのが、この物語では重要な人物である。この屋敷の使用人に育てられたのだが、使用人の実の息子ではなく、捨てられていたのを拾われるようにして育てられたのだ、料理の才能があり、カラマーゾフ家でコックとして働いていたが、彼はてんかんの持病があった。【ドストエフスキーという大作家のてんかん発作も有名である】


 


ドミートリ―は庭から見える屋敷の中に親父のそわそわした姿を認め、グルーシェンカがいるのかいないのか観察していた。


 


 丁度、その頃使用人の老人のグリゴーリィが目をさまし、スメルジャコフがてんかんでぶっ倒れて、寝込んでいることもあり、屋敷の中のことが心配になり、パトロールすると、走り抜ける男がいる。男が堀を飛び越えようとするとする所を、グリゴーリィは必死になって、ドミートリ―の足をつかむ。しかし、腕力のはるかに優れたドミートリ―に彼のポケットに持っていた杵を振り下ろされてか、大けがをして庭に血だらけになって倒れてしまう。あとで分かることだが、彼は怪我ですんだ。


 


カラマーゾフは屋敷の中で死んでいた。


誰しもドミートリ―が犯人と思うし、ドミートリ―がグルーシェンカと陽気なパーティーをやっている所を捜査当局がドミートリ―を拘束する。


しかし、犯人は別人なのだ。それが犯人の口からイワンが聞くことになるのだが、このあたりがミステリー小説のようだと言われ所だと思われるが、これ以後はあえて書かない。犯人を知って、読んでは面白さが半減するからである。


ただ、この小説は単にミステリー小説というにはあまりにも心理描写が克明で、


神がいるのかいないのかという宗教哲学的な大きなテーマが全編を貫いているので、世界の大文学の一つとされるのだと思われる。


  


さて、このアリョーシャというカラマーゾフ家の三男はこの物語の主人公であり魅力ある人物ということになっていると、言っているが、イワンのように哲学があるわけではない、ドミートリ―のように腕力と情熱の塊みたいな男でもない。ゾシマ長老を尊敬する青年僧つまり見習い僧に過ぎない。小説の中でも、それ程会話や、激しい動きをしているようには思えない。


この小説の主人公にした程、何が魅力なのか、読んで考えて欲しいとドストエフスキイは最初に言っている。


体格はロシア人としては普通であろう、外見も人が接した印象も穏健である、ニ十才になろうとする青年として、グルーシェンカは彼を信頼し、相談相手とする、誘惑する気持ちもあったようだが、アリョーシャのもつ人格の何かがそうさせない。


アリョーシャが坊さんの卵だからだろうか。それもあるかも、知れない。


彼のことを知るエピソードを紹介しておこう。


 


 コーリャという少年がいる。この少年は母子家庭の一人っ子で甘やかされて育ち、才能も並外れてあったせいか、母親を愛していたが、いうことは聞かない乱暴なことを平気でする子供に成長した。あるとき、彼の先輩との会話で、列車の下に寝そべって、列車の通りすぎるのをやり過ごす豪胆さを持っていることを吹聴すると、先輩連中が嘲笑ったので、実行してしまう。これは町中に有名になり、乱暴の子だから、両親からあの子と付き合うなと、命令される子供も続出するが、そのなかの子で内緒でコーリャが行くイリューシャの家の話。


そこにはアリョーシャもいる。イリューシャが瀕死の病人なので、コーリャの仲間は既にずっと早くから見舞いにきている。イリューシャが病気になったのは自分の飼っていた犬にいたずらで物を飲ませて、その犬がいなくなってしまったという罪の意識からくる心の病だった。イリューシャの父親は退役大尉だったが、アリョーシャの兄ドミートリ―に公の場で侮辱されたといういきさつがあり、イリューシャが通りがかりのアリョーシャに石を投げたという過去がある。アリョーシャが気になってイリューシャの家を訪ねた時にはイリューシャは病気だった。コーリャはいなくなった犬を偶然拾い、回復させ、見舞いに仲間より日にちがずっと遅れて、行ったのだが、ここでは、青年アリョーシャと少年コーリャの会話は見ものである。まだ、十四才に日にちがあるこの少年の大人びた話、誰かからしいれた社会主義の話、それに対して、世間的には大人とみなされていたアリョーシャは沈黙と時々言うたしなめる言葉と、少年コーリャの生意気な言葉を紳士の話のように聞く。


ここでも、アリョーシャは積極的に自分の話はしない。


アリョーシャの兄のドミートリ―と女にだらしのない父の間を行き来するグルーシェンカという魅力はあるが、男にだらしない女の相談相手になった時のやりと似ている。それはいけないとか、違うとか結論めいた意見ははっきり言うが、言葉かずは少ないから、アリョーシャの内面は分かりにくい。


それに対して兄のドミートリ―やイワンの考えは明瞭である。


 


特にイワンは哲学者である。


この大小説のヒントはあのイワンのつくった戯曲に集約されているともいえる。


キリストと大審問官


大審問官はその町の宗教的な権威である。


しかし、こういう話は新約聖書にあるのではないか。つまり、パリ才人とキリストとの対決。新約聖書ではキリストはおおいに真理について話をし、当時の権威であり、知識人であるパリ才人を批判をする。


しかし、ドストエフスキーの戯曲では、大審問官がキリストを一方的に批判する。何で、今頃【ヨーロッパの中世】に出てきたのか。


お前は千年前に全て喋ってしまい、あとは我らに託したのではないのか。


今頃出てきても、迷惑きわまりない。


このキリストと大審問官の話は映画ではカットされている。映画と小説の共通点は「神がいるかいないか」という点である。


 


 私個人としては日本人であるから、天地創造の神【God】がいるのかいないのかという問いはたてない。そういう習慣がない。それよりも、わたしの肉体が滅びても、滅びない不死の仏性があるという仏教にひかれる。それで、その不生不滅の仏性とは何かということが一番の関心事になり、道元の「正法眼蔵」を三十年前から読み始めた。


こちこちの唯物論の方はそんなものはないとおっしゃるかもしれないが、科学の最先端を行くと思われる東大医学部で座禅を医学的に研究した方もおられ、その本を私も拝読したことがある。それから、インド哲学科の玉木幸四郎先生のような翻訳とは違う場所で、つまり東大医学部の研究室で「正法眼蔵」を翻訳している本も出ているのである。


ただ、仏性は顕微鏡や数学で見つけるものではない。座禅して、心身脱落して悟るものなのだろう。言葉では表現できないものを道元は後世に伝えようとして、あのような分厚いものを書いたのであろう。


 


ただ、ドストエフスキーが追及した神はキリスト教会の神というよりは、やはり、東洋の仏性の方に近いという感じを持つ。小説「カラマーゾフの兄弟」の


舞台がロシアだから、神がいるかいないかという風に伝統に足をおいた形で言うのだろう。


                         久里山不識


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