空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

映画「奇跡の丘」と東洋

2020-06-12 15:39:39 | 文化

AVE MARIA _ Nataliya Gudziy ナターシャ・グジー

この映画の感想を言う前に、私の宗教に対する姿勢を述べておきたいと思う。
私の好きな優れた小説「復活」を書いたトルストイは「アリストテレスなどの哲学者よりも宇宙の真実をきちんと教えているのは多くの民衆の信じる世界に広がる大宗教である」というようなことを言っていたと記憶している。
パスカルも言うように、誰でも人は自分が自分として生まれ生きているというのは不思議であり、謎なのである。
これを解決するために、私は個人的には学生時代、スピノザ、サルトルなどの西洋の哲学者を文学と一緒に読んだのであるが、今はトルストイも一目置いていた仏教を勉強している。
キリスト教は少年時代に触れたので、今も時々新約聖書を見ることがあるが、仏教との類似性に驚くことは 「正法眼蔵」の翻訳家としても禅の大家としても著名な玉城康四郎氏の言う通りだと思う。
私の仏教の勉強法はこの玉城康四郎氏の「正法眼蔵」に始まるのであるが、今は空海、最澄、道元、法然、親鸞、日蓮、白隠、良寛と広がっている。
何故なら、現代二十世紀は宗教戦争をやめて、その共通点を見出し、より深い宗教的立場、「愛と大慈悲心」を共通の基盤として、宗教哲学を打ち立てるべきだと思うからだ。
【よく言われるが、頂上は同じなのだが、のぼる道のりが違っているから、違う宗教のように見えるだけのこと、それはキリスト教も同じ】
ただ、私の個人的性格から、道元や良寛の禅や空海のようなスケールの大きな人物に魅かれるということは、あるが、姿勢としては、上に上げた偉人を平等に勉強したいと思っている。【一人でも、難解なのにと思う方には、こう言おう。一人か二人の教えが分かれば、他の方は同じ仏教なのだから、相当理解しやすくなるということはありうるということである】
大切なのは、自分で、これが宇宙の真実だと思うときがくると思う。宗教の核心をつかむ時だ。イメージとしてはつかんできたと思っても、禅的に言えば
心身脱落しなければ本物はつかめないと考えている。
私のやっていることは、小説を書くことが中心なのだから、それで良いと思っている。

金銭至上主義の価値観の社会は行き詰っているのでは。福島の原発事故もコスト削減が優先された結果、被害を大きくしたのではなかったか。


さて、映画の話にもどろう。
キリストの生涯が映像化されている。

日本人の多くは十二月のクリスマスのお祝いぐらいにしか、キリストの名前を思い出すことがないのではあるまいか。しかし、欧米の文化を理解する上では、キリスト教をぬきにして語ることはできない。文学は勿論、経済に至るまで。そして、最近では、中国に数億人のキリスト教徒が生まれている。かって、太平天国の乱などというキリスト教徒の事件が歴史に大きく刻印されていることを思うと、何かしら不思議な気がする。そして、中東のイスラム国と欧米などのキリスト教国の対立。こうした風に俯瞰してみると、やはり、
世界を見る時にキリスト教の知識は必要と言わざるを得ない。
文学の上では、タイトルがキリストの言葉のものもある。ノーベル文学賞を取ったジイドの「狭き門」はキリストの「狭き門より入れ」からである。
ドストエフスキーでは、どん底のソーニャが新約聖書の「ラザロが復活した」場面を読む時は感動的である。
わざわざ、こんなことを書いたのは、この映像「奇跡の丘」がキリストに全く無関心な人が見たら、それほどの興味をひくか疑問に思ったからである。映像技術としては大変高い評価を受けているし、音楽も確かに素晴らしい、それでも物語の流れや白黒の場面場面は、大変地味な映像なのである。
理由の一つは新約聖書マタイ伝を忠実に描いて、余計なものを排除したことにもあると思う。


キリストは馬小屋で生まれたという。
このあたりのことも丁寧に映像化されている。
「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」
いわば、有名な処女懐胎である。

今の人はそれは西欧の神話だと言うかもしれないが、東洋にもこういう話はあるのである。
禅の初祖は達磨であることはご存知の人が多いと思われるが、四祖、五祖のあたりになると、どうでしょうか。ところが、道元の「正法眼蔵」の中に、五祖の生誕に「処女懐胎」と似たようなことが書かれているのです。四祖が通りかがりの優れた風貌の老人を見て「あなたに禅の奥義を伝授したいが、あなたはあまりに年をとりすぎている。生まれ変わってくるなら、私は待っていよう」と言う。そこで、老人は周氏の家のところに行って、宿をたのむと言った。そこの娘が両親に聞いている間に、老人はいなくなっていた。不思議なことに、娘は妊娠した。【 ? ―ここは伝説であるから、本によっていくつかの表現の違いがあるようです】 母親となった娘は驚いて、川に赤ん坊を捨ててしまったが、その子が死なずに、健気に逞しく生きようとするのを見て、育てようと思い、拾い上げる、そして、その赤ん坊がやがて七才になった時、四祖と出会い、「お前は何者だ」と質問される。
後の五祖になる七才の子供は「仏性です」と言ったそうです。


「占星術の学者たちが帰っていくと、主の天使がヨセフの夢に現われて言った。
「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデ王が、この子を探し出して殺そうとしている」
ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。
映像では、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させる場面が映っている。

「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で 宣べ伝え 『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。」

天の国。つまり、天国であろう。
最近の日本人は亡くなられた方に対して「どうぞ天国で安らかに眠って下さい」というように、「天国」という言葉を使うことが多いようである。
日本は仏教の長い歴史があるのだから、「浄土」とか、「極楽浄土」とかそういう言葉が使われるのかと思うと、あまりそういう所はみかけない。「天界」というのがあるが、これは浄土の手前の所で、まだ輪廻の段階だから、いつ滑り落ちるかもしれないという話である。
私は仏教の本を読んでいて、浄土は沢山あるもので、阿弥陀仏がつくった極楽浄土はそのうちの一つということであると理解しているので、キリスト教の天国も浄土の一つと考えてみると、仏教もキリスト教もそれほど違った宗教とは思えないのである。

「イエスはヨハネから洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった。」

これを禅の悟りと対比される方がおられるのを聞いた記憶がある。悟りはよく主客未分の世界と、禅でいうことを聞く。我々は日常、主観と客観を分けて、主観の認識能力を使って、客体を見て、分析して概念を組み立てている。
その二つに分かれている世界の境界を取っ払ってしまうと、一元の世界になるというのであろう。これが主客未分の世界で、悟りへの第一歩なのであろう。キリストに神の聖霊が舞い降りるというのは、この禅の初歩的な悟りをさらに奥に進めたものという解釈も成り立つと考えている。

そして、キリストは 四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
すると、誘惑するものが来て、イエスに言った。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。
イエスはお答えになった。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてある。

「心の貧しい人々は幸いである。
天の国はその人たちのものである。

心の清い人々は幸いである。
その人たちは神を見る
平和を実現する人々は幸いである
その人たちは神の子と呼ばれる」

ここのイエス・キリストの言葉は山上の垂訓として有名な所である。
映画では、山の下で聞いている筈の観客が見えず、イエス・キリストの独演場のようである。
流麗で,詩と音楽が一緒になって流れるように響くイタリア語の言葉。
人類へのメッセージともいうべき宝石のような言葉の数数が少し早口に、
途切れることなく、ある厳しさを持って語られていく。

「心の貧しい人」は、今の日本ではあまり良い意味には使われない。言っている中身がまるで違うのである。
禅で言う「無心」に近いと考えるべきであろう。空っぽの心、これは何もないのだから、貧しいとも言える。そういう無心の方が神が見えるということだと思われる。
現代人は沢山の知識で一杯である。生きていくために必要な知識。真理の指標となるような聖なる知識。科学の知識。そういう良い知識だけなら良いが、どうでも良いくだらない知識もあふれている。
そういう色々な知識で一杯の心には、神聖なるものは近づかないと思われる。やはり、キリストの言われる「空っぽ」の心、無心の心になる時、聖なる神仏が感じられるのではないだろうか。
それから、道元について言えば、道元は幕府に象徴される権力を嫌ったとされる。
そして、人生そのものを真理発見の場として、只管打座の修行を一番大切なこととした。この点も世間的成功よりも信仰を重視するキリストと似ている。

「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない。」

ファリサイ派については色々言うことはある。
当時のユダヤ教徒の間で、宗教者のエリートだった人の考えではないか。
どんな時代、どんな国でも、こういった一群の人達がその国を支配しているということはよくあることではなかろうか。
例えば、キリスト教で言えば、免罪符を出して、庶民から金をまきあげていた教会、ガリレオに対しては自説を引っくり返させ「それでも地球は回ると」言わしめた権力を持つ教会。
江戸時代、身分の高い者が言うことには下の者は反論できなかったこと、それでも、上の者が立派な人の場合は救われるが、愚劣な人が高い所にいると、下の者は救われない。最近では、優秀な原子力村の人達が反対派の人達の有益な意見に耳を傾けなかったことで、悲しい怖ろしい福島の原発の事故を大きくしてしまったこと。

ファリサイ派は当時のユダヤ教徒としての風俗習慣を守るように強く主張するそれが神を信仰する者の道だと。

それに対して、イエス・キリストは革命的なことを言う。本当に神を信じる人は 富と神、両方に使えることは出来ないから、富は捨て、神に従えと言う。
こういう教えの中から、資本主義が生まれてきたのは不思議だが、その研究で有名なのには、マックス・ウエーバーの「プロテスタンティズムと資本主義の精神」がある。


「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。
あなたがたのうちだれが 思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」

ここは、新約聖書の中でも最も有名な文章の一つではある。大自然の運行は自然そのものの法則で動いていく。鳥が飛び、野の食物が太陽の光と水のおかげで美しい花を咲かすのも、人間のような労働とは違って、自然そのままで、動いている。ニュートンもライプニッツも「全能の神」の力と信じていた。

 


映像における、キリストのファリサイ派の人々に対する批判は凄まじい。もちろん、マタイ伝の中に書かれていることだが、映像では何か少し強調している気がする。
もしそうだとすれば、監督はそこに現代人が汲み取る何かを示そうとしたとも考えられる。少なくとも現代の牧師が信徒に説教をたれる時のような穏やかなものでなく、凄まじい。
それ故にこそ、キリストの予言のごとく、キリストが捕えられ、侮辱され、十字架につけられて殺され、三日後に復活するということになるのではないか。

最後の復活の場面は、数秒しか映写していない。神話としての復活なのか、幻としての復活なのか、監督は現代に多い唯物論者というから、民衆の言い伝えとしては、確実に復活はあるということなのであろうか。

仏教では、浄土に行くということは仏になるということと同じように考えられている。復活も浄土に行って仏になると考えると、それほどの差はないように思える。

そして、神を見る者は、幼子のごとく素直でなければならないと説く。
神を愛し、信じることを説く。信仰の重要性。


まるで現代と反対ではないか。競争。競争で勝ったものは勝ち組。負けた者は負け組。そして格差。金銭至上主義。
キリストの言葉はどこにも入りようのないことではないか。

キリストの言葉に取ってかわったのは、科学。
我々の文明が発達するためには、キリストは十字架で死なねばならなかったのだろうか。


この宗教から離れたガリレオ以来、全能の神の代わりに、科学は 今や「超ひも理論」に至って、素粒子も無限に小さな紐の振動とか、これが神のごとき数式の理論で、宇宙の全ての説明がつくような勢いで天才たちがこの仮説にいどんでいるという。
しかし、もう二十年近くも立つのに、実験によって、その正当性が証明されていない。それでも、天才たちは数学の魅力によって、挑戦していく。
ちょうど、孫悟空の如意棒のごときものではないか。


それから、数々のキリストの奇跡。
パン五つと魚二匹しかないので、それを増やす奇跡を起こし、五千人の胃袋を満足させた。あるいは、湖の上を歩くキリストの姿。そして復活


科学の目から見れば、こうしたキリストの奇跡は神話に過ぎないのだろうか。
それとも、この宇宙は数学の網にひっかからない奇跡をいくつも持っているのだろうか、そんなことをこの「奇跡の丘」という映画は真剣に考えさせてくれる。

 

1964年 製作  監督はピエル・パオロ・パゾリーニ

 

コメント

南京のキリスト【小説と映画 】

2020-06-05 19:48:31 | 南京のキリスト【小説と映画】

トッカータとフーガ 二短調 BWV565(バッハ)

「南京のキリスト」という芥川龍之介の短編はやはり不思議な感動をともなう物語である。これほど、どん底の貧しい生活を巧みに描きながら、これほど清潔に文章を運び、人間の魂の高貴さを浮き彫りにする物語はドストエフスキーの「罪と罰」ぐらいしか思い浮かばない。芥川龍之介はやはり天才だと思われる。

 

主人公は宋金花という少女。「罪と罰」では、ソーニャという少女。いずれも今なら、相手になる男は逮捕され、国によっては、終身刑になるかもしれない年頃の娘なのだ。
そして、二人ともキリスト教徒。宋金花はカトリック。ソーニャはギリシャ正教。
二つともキリスト教の最も良質の宗教心を浮き彫りにしている。
こういう純粋な宗教心の場面はイギリス文学で有名なジェンエアの孤児院での幼い友人が死ぬ時の場面にも出て来ることを記憶している。
純粋の宗教心。キリストも言われた「この幼子のごとくならずんば、天国に入ることあたわじ」


仏教でも法然も親鸞も万巻の経典を読み、真理を求めたが、結局「南無阿弥陀仏」だけで極楽往生できると言い切った。他の知識は一切、無用と言ったのである。道元の禅は「只管打座」である。
ここに人間の不可思議がある。

 

最近の物質文明は知識社会を生んでそれはそれで素晴らしいことではあるが、マイナス面も指摘されている。
魂というレベルで考えると、物語に出て来るような昔のあの純粋の宗教心が懐かしくなる。
ハイネが歌った「Du bist wie eine Blume.  汝花の如く」という魂の気高さを,
歪められた知識競争社会と悪の情報が絶滅に近い状態に追いやってしまったと思うのは考え過ぎか。

ちょつと、芥川の文章を見てみよう。
【そう言えば今年の春 上海の競馬を見物かたがた 南部支那の風光を探りに来た、若い日本の旅行家が、金花の部屋に物好きな一夜を明かしたことがあった。その時彼は葉巻をくわえて、洋服の膝に軽々と小さな金花を抱いていたが、ふと壁の上の十字架を見ると、不審らしい顔をしながら、
「お前は耶蘇教徒かい」とおぼつかない支那語で話しかけた。
「ええ、五つの時に洗礼を受けました」
「そうしてこんな商売をしているのかい」
彼の声にはこの瞬間、皮肉な調子が交じったようであった。が、金花は彼の腕に、鴉髻の頭をもたせながら、いつもの通り晴れ晴れと、糸切り歯の見える笑いを洩らした。
「この商売をしなければ お父様も私も飢え死をしてしまいますから」
「お前の父親は老人なのかい」
「ええ――もう腰も立たないのです」
「しかしだね、――しかしこんな稼業をしていたのでは、天国に行かれないと思やしないか」
「いいえ」
金花はちょいと十字架を眺めながら、考え深そうな眼つきなった。
「天国にいらっしやる基督様は、きっと私の心もちを汲みとって下さると思いますから。
――それでなければ基督様は姚家巷の警察署のお役人も同じことですもの」 】

この金花が後に梅毒にかかって、キリストへの信仰から奇跡的に治るのがこの小説の一つの大きな流れ。なにしろ、梅毒という病気はあの天才哲学者ニーチェの晩年を発狂に追いやった恐ろしい病気だ、事実 金花が基督と信じた男はのちに梅毒にかかって発狂したと物語にはある。

「南京のキリスト」の映画の方はどうだろう。これは香港と日本の合作である。
1995年で作品であるから、香港が中華人民共和国の特別行政区になる少し前の映画ということになる。

小説の印象とかなり違う。当時の中国の風物は情緒があって、旅情を誘う。しかし、映画は日本の男と中国の女の恋物語が中心になっている。男は岡川という名前で、中国語が堪能な芥川龍之介風の文筆家で、日本に妻子がいる。
小説では単に旅行家と書いてあるだけだ。

映画では、中国の秦淮に新聞社の視察員として、岡川という男は来る。最も、俳優は中国人のレオン・カーフェイがやっているから、遊び人の男達が集まる所で、中国語ぺらぺらで中国の物悲しい音楽が流れる中で食事をし、男も女も子供のような遊びにふける、そういう中で岡川はそこへ来たばかりの新鮮な金花と出会う。
そこで働く若い女は、そこにたまたま父親から頼まれ金を借りにやってきた金花に「あの日本人は、あなたを好きみたいよ。結婚すれば、マダムからお金を借りなくて済む」と言う。
一方、創作に行き詰っていた岡川はこの出会いで生き返ったような気持ちになった。
十字架を壁に飾り、真剣に祈る金花を見る岡川。「すべての人は貴いものだ。それは、何ものにも代えがたい一瞬の感動である。彼女について知っていることはこれだけだった」と岡川は独り言を言う。

金花にとって、実質的な結婚のあと、「どうしてここに来ていたの」という岡川の問いに「家族が飢え死にしてしまうからよ。あなたのお金を届けたら、喜んでたそうよ」と金花は言う。
秦淮で楽しく暮らしていた二人に、岡川の親友がやってきて、「日本の奥さんに子供が生まれた」ことを不用意に言ってしまい、金花は重婚だと激しく怒る。
長男の誕生の喜びと金花の苦しみを見た岡川が悩んでいる所に、父の死の知らせが届き、どうしても、日本に帰らなければならなくなる。帝大出の親友に金花を頼むと言って、南京から列車に乗り、一路日本に帰る岡川。

桜のもとで岡川は日本の家族と過ごしている。
金花は故郷の農家に帰るが、その悲惨な食糧事情に、食糧がわずか配給されるというような中で、彼女は行く所がなく、岡川の出会いの場所に戻ってきたと親友が手紙で日本に知らせて来る。

金花については、―― 芥川はこの話を書く時に、ドストエフスキーの「罪と罰」を意識したかどうかは分からんが、映画監督は「罪と罰」のソーニャをイメージしているような気もする。殺人を犯した大学生ラスコー二コフが貧しいソーニャに出会い、ソーニャが新約聖書の「ラザロの復活」を朗読する場面を思い出す。迫力では、ドストエフキーの方がこの物語より上だが、
 

女は不本意な客と接し、途中であの天才ニーチェがかかったという梅毒になり、肌が汚くなるということでは、小説と同じ。
病気を移すと、治ると言われているという風に周囲の者は勧めるが、病気を人に移してはいけないとこばむ。公開処刑があり、その血を飲むと治るというのをためしてみようと思った金花はその血をパンにつけて食べる。その場所にいて、彼女のことを密かに心配している小僧が、僕にうつしてくれと言うが断られる。
一時は狂乱状態になったので、医者が来て、診察するが梅毒も心配だが、肺も相当やられていると言う。
そして金花の夢みごこちの耳に聞えて来る聖歌。

「主は命を捨てて
私の罪を清めくださり
天国の門を開いて
私を招いて下さる
主キリストは私を愛して下さる
聖書は主の愛で満ちています」

そして必死になって祈る彼女。死ぬしかない、人に病気を移すくらいなら、死んだ方がましだと思っている金花の所に、西欧人風の客がやってくる。金花はどこかで見た顔だと思う。
「私は病気なの。移ってしまうわ」
言葉が通じない彼はお金でしぶっていると勘違いして、四ドルから九ドルという風につりあげていく。
そこで金花が見た部屋の中のキリスト像。
「見覚えがあると思ったら、キリストさまなのね」
「直してくれるのね」
「これで、岡川さんとも治って、会える」
その西欧人風の男を基督と間違えた金花は小説では、梅毒が綺麗になおってしまうという奇跡が起きるが、映画では、一度信仰とそれによる軽い奇跡によって、彼女の病気が少しよくなるのだが。
映画でも、ここに不思議な感動がある。金花は西欧人風の男を錯覚して、キリストさまと信じてしまって、そこに歓喜が走る。しかし、見る者にもこれは間違いと分かるのに、感動がある。何故だろう。
芸術は「虚実皮膜の間にあり」は近松門左衛門の言葉だ。金花の信じたことは間違いと分かっても、金花の信仰が我々の心に感動という奇跡を起こす。それが芸術だろう。
ドンキホーテを読んで涙したというハイネという大詩人。似ていないだろうか。

日本にいる岡川は愛を貫き、「金花にしてあげることは、彼女を日本に連れてきて、治すことだ」と決心する。

岡川が中国に来て、「ひげ面の外人をマダムが通したの」「それを金花はキリストさまと思っているわ」と金花のいとこの女の話を聞く。
親友の男は「どこかの特派員で、君も上海で会った筈」と言う。
その混血の西欧人風の男の記者がそばにいるということを聞き、岡川は彼と取っ組み合いの喧嘩をすることなり、そのことが金花の知るところとなる。そして、彼女の肌は元の梅毒の汚い斑点が出てきて悪化すると同時に、肺も進行する。
岡川は「僕が中国に来なければ、金花はキリストの夢を見続けられたんだ。その方が彼女は幸せだったかもしれない」と嘆く。
親友は「自分をせめるな」と忠告する。そして、家族のためにも日本に帰った方がいいと説得するが。
岡川は苦悩しながらも、金花を日本に連れて帰り、病気を治そうと決心し、彼女を説得しようとする。
「明日の船で、一緒に帰ろう。信じてくれ」
しかし、彼女は中々、それに応じてくれない。
「私はキリストさまを待つわ。この先もずっと」
それでも、やっとその気になった時の彼女は病気がかなり進んでいたのだろう。
帰り道、鉄道線路の所で、息絶えた彼女を抱く。
映画ではあの天才ニーチェがかかったという梅毒という病気と戦う彼女の心が描かれ、金花はどこかに基督にたよっているところがある。
しかし、岡川はそれよりも日本の医学で直そうとする。
その二人の葛藤が強く描かれている。

 

金花が死んだことにより、絶望した岡川は日本で自殺してしまう。このあたりは芥川龍之介の自殺と重ね合わせているのがセリフで分かる

映画を見ていると、あの中国の風景に何故かキリストが合う。私はメルヴィルの「白鯨」に出て来るアメリカ初期の教会や西洋の教会を見慣れていたが、秦淮の風景と何故かキリストと合うのは発見だった。今、キリスト教徒が中国に何億人とふくれあがっていると聞く。映画を見ると何故かうなづける感じがした。

 

再び、小説に戻ってみると、相当印象が違う。映画の主人公の岡川は単なる語り手の旅行者で初めと終わりに出て来るだけ。
それよりも、金花が基督と間違えた西欧人風の男との出会いを克明に描いている。実は語り手によると、この混血の男は実は悪い奴で、金花に金を払わないで、逃げてきたことを他の仲間に得意そうに喋っていたが、彼は梅毒にかかって失明してしまう。

金花の方では、たまたま自分の首から落ちた十字架のキリスト像とその悪い奴が似ているということでキリストと錯覚し、キリストと信じてしまう。その初めて知る恋愛の歓喜とそのあとの夢の中での天国の様子が丁寧に描かれている。天国でもその悪い奴は基督で、素晴らしいご馳走と基督の優しさに彼女は包まれる。
目をさました彼女は不思議な気持ちのまま、考え事をしていると、ふと自分の身体に奇跡が起きたことを知る。病気が治ったのだ。
彼女はやはり、あの方は基督さまだったのだと思う

芥川龍之介の自殺の枕元には、聖書が置いてあったという。彼は基督を信じたいという気持ちはあっても、彼の理性があまりに強く、基督のなした様々な奇跡を信じることはできなかったのではなかろうか。それが作品に反映されているような気がする。

 


ここで私の結論の感想を言うと、小説では、若い日本の旅行家はほんの少ししか出てこない。この人に妻や子供がいるのかどうかが書かれていない。
ところが映画では、日本に立派な家族があるのである。奥さんと子供二人。この場面も映画では、長くはないが撮影されている。特に問題のある家庭ではなく、少なくとも外見的には幸福そうな家族である。

芥川龍之介の作品は信仰の問題に焦点があてられているのに、映画では不倫になってしまっている。これははたして純粋といえるのか、疑問が残る。芥川が自殺したのは精神の病気という疑いがあると思うのに、この映画では、不倫で自殺というのを美化しているような結論になっていると受け取られる恐れがある。

どちらにしても、この物語では、金花という貧しい少女の信仰が重要な役割をしている。これはドストエフスキーの「罪と罰」のソーニャも極貧の家の娘であるということと不思議な符合がある。
ソーニャが新約聖書「ラザロ」の復活を読む場面を思い出す。
このように宗教というのは人の心を救うものである。深い思いやりの心であり、慈悲心であり、愛であり、人を感動させるものである。人を傷つけようとしたり、悪口を言ったりするのは宗教の道ではない。
ローマ帝国の中で、キリストは貧しい人を救おうとした。日本の法然も同じように貧しい人を救おうとした。
今では、こういう貧しさは国家が救える筈である。
ワーキングプアをなくし、格差社会をなくし、平和な世界をつくることこそ、こうした物語が指し示す方向ではないのだろうか。

 


【参考】
映画【南京のキリスト】

キャスト
岡川  レオン・カーフェイ
金花  富田靖子
スタッフ
  製作 大里洋吉  レナード・ホー
  プロデューサー   チャイ・ラン  森重 晃
  監督       トニー・オウ
  脚本       ジョイス・チャン
  撮影       ビル・ウイン
  原作        芥川龍之介

コメント