空華 ー 日はまた昇る

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ファウスト

2019-06-08 13:07:02 | ファウスト

 


 今回、テーマが「ファウスト」ですから、漫画と映画のファウストの両方を見てみました。


 原作のゲーテの「ファウスト」は学生時代に、何度も読んで好きでした。


筋の大枠はゲーテのものですけど、細かい内容となると、漫画と原作がかなり違うのは良いとしても、映画を見た印象があまりにも違いすぎるということで、驚きました。


  


映画の悪魔メフイストフェレスが金貸しというのは現代を皮肉ったのか。私でも現代の社会を金銭至上主義で、日本の伝統ある仏性論などの価値観を復活させたくなるのだから、監督がこういう設定をしたのはよく分かる。


最初から、人間の解剖を見せ、人間の内臓を見せる所は、ゲーテの美しい詩文から受けるよりは はるかにグロテスクである。このグロテスクな場面は現代を洞察した時に得る哲学の象徴かもしれない。


現代はみかけは人工的な美しさで綺麗に着飾った風景を見せているが、中身はどうだろうか。経済格差は広がるし、地球温暖化は進むし、戦争の火種はくすぶっている。


最近では、素晴らしい自動車は誕生するが、悲惨な事故に心痛める。


 


 物語のあらましはこうである。時は十九世紀のドイツ。主人公はファウスト博士。


ゲーテの原作では、当時のありとあらゆる学問を学んだ博士が老人になり、「結局、真理は分からないのだ」と絶望して、毒杯を仰ごうとすると、美しい教会の鐘の音が聞こえてきて、思わず、杯を落とす。


 


有名な書き出しなので、最初の所を引用しておく。


【いやはや、これまで哲学も


法律学も、医学も、むだとは知りながらも神学まで


営々辛苦、究めつくした。


その結果はどうかと言えば


昔と比べて少しも利口になってはおらぬ【略】


 


人間、何も知ることはできぬということだとは。


なるほど俺はそこらの医者や学者、


三百代言、坊主などという、いい気な手合いよりは賢いし、


そこで俺は霊の力やお告げによって、


ひょっと秘密のいくらかが知れはすまいかと思い、


魔法の道に入ってみた。】


 


  


手塚治虫の漫画ではここの所はかなり忠実に描写している。


漫画のファウスト博士という老人も「やれやれわしは世界中の学問という学問はかたっぱしからみんなひと通りやってみたのに、まだこの広い天地の大秘密を知ることができないなんて、まったくなさけない」と言い、地の精霊を呼び出す場面がある。そのあと、犬になった悪魔に魔女の住む洞窟に案内され、若返りの薬の上等なやつをつくってもらい、ファウストは飲んで青年になる。


 


映画では、ファウスト博士の弟子が  解剖をしながら「魂はどこにあるのか」


と探している場面で始まる。ファウストは魂の存在を研究していたのだ。それから金に困り、飢餓状態にあるファウストが金貸しの所に出かける。


そこの主人がどうも悪魔らしい。


 


ファウストが絶望している所は原作と似ているが、映画では飢餓というのが加わる。正直、言って、あの当時のドイツがあのような貧しい状態だったのかと、強い関心を持つ。


毒ニンジンを食べたのに、死なない金貸し、悪魔の本性が最初に出てくる所だ。悪魔に興味があるというファウスト。


金貸しの悪魔はファウストの望遠鏡を見て、月にサルがいると言う。


 


悪魔の金貸しとファウスト二人で、公共洗濯場と浴場を兼ねたような所に出かけ、金貸しの老人が裸になると、男なのに、前がなく、後ろに尻尾のようなものが出ている。


マルガレーテは洗濯をして面白そうに見ている。ここで、ファウストは純粋な魂を持つ乙女マルガレーテと話をする。


 


【手塚治虫の漫画はともかく面白く読めるようにつくられていて、天使は神によって、ファウストを悪魔から守れという命令を受けて、地上のお城のお姫さま、マルガレーテとして生まれ、育ち、犬になった悪魔と一緒のファウストと出会い、恋をする。】


 


  


さらに、映画では、酒場に行くと、若い連中が終戦祝いということで、ワインで酔っている。悪魔が壁にフォークで穴を開けると、そこからワインが吹き出て、皆が喜んで群がる。


  


そして、飲んでいる連中のところで、悪魔がマルガレーテの兄と言い合いになる。


その中で、ファウストは悪魔のフォークを持たされ、アルコールに酔った兄と三人がもみあっている間に、兄がつかみかかろうとして、勢いあまって、ファウストが持っていたフォークで腹をさしてしまう。ファウストはただ、持っていただけなのに、悪魔の計略によって、ファウストはマルガレーテの兄の殺人者となってしまう。


 


ファウストはマルガレーテの兄に対する罪の意識と悪魔に対する怒りから、悪魔にマルガレーテと病気がちの母の二人を助けたいと言う。悪魔はしぶる。


 


マルガレーテの家を訪ね、大木の影から見ていると、マルガレーテは洗濯物を干している。そこに、兄の死体がかつぎこまれる。遺体は家の中に。


それを見ていたファウストは「彼女のために金を用意してくれ」と悪魔に言う。


「仕方ない。いざという時の金がある」と悪魔が答える。


「そうしてくれ」


悪魔のとっておきの金貨を母親に渡す。


そのあとの棺を乗せた馬車の葬式の列にファウストは参列する。


「参列はやりすぎだ」と悪魔は言う。




 


  


葬式の帰り、マルガレーテの母と金貸しの悪魔は話しながら帰る。そこから見えない程度に離れて、乙女マルガレーテはファウストと話しながら、歩く。


どんな植物がお好きですかという会話。周囲には凄い大木がある。


「本当に教授ですの」と問うマルガレーテに対して「学位だって、持っています」と言うファウスト。


「先生のご専門は」と問うマルガレーテに対して、「世界秩序、惑星の軌道、そして錬金術」と答えるファウスト。


「学問って、何ですの」と言うマルガレーテに対して、「空しさを埋めるものです。あなたは刺繍をするでしょう。学問は刺繍と同じです」


 


ここの所は原作の「ありとあらゆる学問はしたが、分からない」というニュアンスと少し違うように思える。学問は真理探究の筈だが、真理がつかめない、分からないという悲しみみたいなものが原作にはある。


 


映画ではかなりさめた言い方をしていて、ニーチェを思わせる。実際、学問で、空海や道元や親鸞が発見した真理など分かる筈がない。




 


 


マルガレーテが町の中を歩いている所を、ファウストの弟子ワーグナーが追いかける場面も奇妙でエキセントリックだ。


ワーグナーは「私が本物のファウストだ」と言い、「私は成功した」と言う。


「アスパラガスとタンポポの精油とハイエナの肝臓を混ぜ、人造人間が出来たので、見て欲しい」とマルガレーテに迫るワーグナーは狂人じみている。滑稽でもある。


マルガレーテがもみ合いながら逃げると、ワーグナーは人工生命体の入った瓶を落とし、瓶は割れてしまう。中にいる小さな人造人間は血だらけになった顔で、うごめいている。


 


 


ここの所もゲーテの原作と違う。原作の人工生命体は小人【ホムンクルス】であるが、ちゃんと喋り、理性もあり、お伽の国の美しい人のように見える。ゲーテが科学者として一流の人で、当時の楽観的な科学観が見える。


  原作の実験室の様子は次のよう。


ワーグナー  鈴の音が怖ろしく鳴り響き


       すすけた壁が震動する


       もうそろそろ、真剣勝負の極まりも


       つきそうなものだと思うが


       もう曇りが少しずつ薄らいできた。


       レトルトの真ん中には、


       燃える石炭の火のような


       いや、すばらしいルビーのようなものがあって、


       それが闇を貫いて稲妻のようにきらめく。


       強い白光が出てきたぞ。


       今度こそはぜひ成功させたいものだが、


       なんだ、何が扉をがたつかせるのだ。


悪魔     何事ですか


ワーグナー  人間が出来上がろうというところなのです。


 


これに対して、映画では、原爆をつくり、遺伝子工学に不安を感ずる現代人のさめた科学観がニーチェ的な衣装を着て、登場した感じがする。


 


 


乙女マルガレーテは兄を殺した犯人はファウストだと聞いて、ファウストを訪ね、ファウストに「兄を死なせました?」と聞く。「ええ、死なせました」と答えるファウスト。


 


ファウストはこの事件がばれたことを悪魔に告げ、マルガレーテと一晩ともにすることを手伝えとせまる。ここで二人の契約書が交わされる。それは魂と引き換えに、その望みをかなえるという内容のものだ。それもファウストの血で署名される。ここも原作とはまるで違う。


 


ゲーテの原作では、最初の方で悪魔メフイストフェレスと契約して、ファウストは若返り、青年としてマルガレーテに出会うという風になっている。


 


 ファウストの死後の魂を悪魔が自由にするという所は同じだが、映画では最後の方で、この契約そのものをファウストは破棄して、悪魔を岩に閉じ込め、荒野に一歩、一歩確実に歩みだすシーンで終わる。この契約破棄という所も、キリスト教の旧約聖書にある神と人間の契約を無視するという風にとれるので、まさにニーチェのキリスト教批判に通じる。


 


無の中で逞しく生きることを推奨するニーチェ。ただ、禅などの仏教の考えはニヒリズムを超えて、仏性という永遠の生命を見出すことにあると思うので、ニーチェよりさらに人生肯定的である。


 


ゲーテの原作と映画の芸術での違いは結局、当たり前のことであるが、詩文の美と映像美の差であろう。映画「ファウスト」は至る所に、独特の映像美がある。「映画」はゲーテの【スピノザ的】汎神論をニーチェの無神論に置き換えたような印象を持つ。この映画のニヒリズム的書き出しには驚いたが、現代への皮肉とか警告ととると、面白くなる。




 


  


御覧、緑にかこまれた農家が


夕映えを受けて輝いている


太陽は次第に沈んで行って、一日は今まさに終わろうとしている。


ああして西に没した太陽は また新たな一日を促すのだ。


翼を得て、この地上から飛び立ち、


あの跡を追って行けたらどんなにいいだろう。


そうしたら、永遠の夕陽を受けた静かな世界が


己の脚もとに横たわって、


丘は燃え輝き、谷は静まり返って


白銀の小川が黄金の大河に注ぐさまは見られよう。


そうなれば、深い谷 を擁した荒々しい山も


己の神の如き飛行を妨げることはできまい。


水のぬるんだ入江のある海が


己の驚嘆する眼の前に早くも開けてくるだろう。


しかし陽の女神は遂に姿を消してしまったようだ。


とはいえ己の中には、今新しい衝動が目覚めている。


己は女神の永遠の光を飲もうとして


昼を前に、夜を背後に


空を頭上に、大海原を眼下に翔けて行くのだ。


          【略】


          高橋義孝訳


 


 


【参考】


  映画 「ファウスト」


   監督・脚本 アレクサンドル・ソクーロフ


   ファウスト   ヨハネス・ツアイラー


   マウリツィウス・ミューラー【高利貸】 アントン・アダンスキー


   マルガレーテ   イゾルダ・ディシャゥク


 




【久里山不識より】


アマゾンより「霊魂のような星の街角」と「迷宮の光」を電子出版


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水岡無仏性のペンネームで、ブックビヨンド【電子書籍ストア学研Book Beyond】から、「太極の街角」という短編小説が電子出版されています。