空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

満月の映る湖

2024-06-01 20:46:21 | 文化
 満月の映る湖
      1
湖の波に映った月は
揺れるように、震えるように
君はあの森をざわめかす風の強い湖に映っていた。
そうだ、君は光のような可憐な瞳で、私の心に入ってくる
何よりも深い湖に金色の瞳を浮かべて

カワセミが魚をくわえて飛ぶ湖で
満月は全ての森羅万象を照らし、自らは湖に姿を現す
悲しみも苦しみも
やがて見る浄土の喜びの前触れではないか
何故なら、わが胸の奥に住みたる月は
とてつもなく美しい透明さで、
花のように、生き生きとして
青空に浮かぶ白雲のよう
森から見る広大な湖のよう

おお、胸の奥にありし月よ
今は水中に映っておられる
満天の星のまたたく大空の中に浮かび
地上の森羅万象を照らす、
生き生きと輝く慈悲の灯となって
この街角にたたずむ私の全身を照らす

おお、胸の奥にありし満月よ
私は今はあなたの光を心に取り込み
君は沢山の花や街角となり、
私は君の愛のささやきを耳にする

おお、桃源郷にいるような満月の味は
どこかの浄土の花びら落ちる里山の風景にもまさる
そこから、見るどんな優しい風景よりも
たとえ、山に落ちる夕日のようでも
たとえ 古い街角の澄んだ水路のようでも
神社や寺院も包み込むような風景でも
君の満月の美はまさる

どこからか聞こえてくる祭りの喜びの声
祭りの最中のような生き生きとした歌が
私の胸に今はおさまった満月に
生きる歓喜を与えている

月を見詰めている青年がいる
核兵器があるために、この自然が消えさる日が来ることを危惧する
彼は立ち上がり、
緑の森の中に入り、巨大な金色の鐘をつくり
それを鳴らし、神仏に祈った
全世界から、核兵器をなくそう


さすれば、胸の中の月の苦しみもやむだろう

街角にミサイルが飛び交うこと自体が異常で
いのちこそ いのちこそ 尊いという満月の旋律を
人類は忘れてしまい
武器の開発ばかり、夢中になっている

おお、胸の奥にありし満月よ
わが悲しみも苦しみも終わる時が来る
森から見る広大な湖のよう

それは慈悲が一番、平和が一番
高らかに喜びの鐘が鳴り
森と湖に喜びの鐘が鳴る 
小鳥はさえずり、澄んだ湖は生きる歓喜を歌い上げている

2
満月と湖。その時、満月と湖があるように思う。
満月が湖に映る。
その時の満月こそ、真理。

森羅万象が湖に映るとき、森羅万象と湖の二者があるように思うのでなく、
水中に映る月こそ真理だ

夕日が海の水平線に沈み、全てが溶け合った世界は
永遠という真理を示すように、

この世とあの世があるのかないのか、議論がある。
しかし、実はあの世はこの世に浸透している

我々の娑婆世界に聖なる場が浸透していて、一なる世界があるのみ。
これを全世界は一個の明珠であるという。


煩悩があるために、娑婆世界だけが見え、聖なる神仏の世界は見えない。

スピノザによれば、我々の娑婆世界はつまり森羅万象は神という実体が変身したものなのだ。

全てが神仏。
煩悩があるために、それが分からない
道元も同じ。座禅して、あちら側と思われる仏性がこちら側の森羅万象にあると悟るように、修行すると思われる。
仏性は既にこちら側にどっぷり一枚になってあるのだが、煩悩のために気がつかない。

湖に映る満月よ
君こそわが胸に秘めたる神仏の化身



furin.jpg

【久里山不識より】
1 この詩は 道元の言葉と道元の尊重する法華経の如来寿量品をヒントに書きました。
実践面では、「如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心、是れなり。如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり、」が重要になると思います。キリスト教のパウロの言葉にも似た言葉があります。
「たとえ、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ山を動かすほどの信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」
2 頭が西洋科学に染まっている人は 量子力学の天才、ボーアやシュレデインガーが東洋思想に傾倒し、アインシュタインが
スピノザを尊重していたことを思い出してほしいと思います。

3 小説「森に風鈴は鳴る」は パブ―(puboo)で電子出版されています。




 

大自然

2023-05-16 21:05:49 | 文化





蘇軾【そしょく】という詩人と白楽天という詩人をふと思い出した。
蘇軾は大詩人であり、山に入り、滝の音を聞いて悟ったという。白楽天も大詩人と評価され、当時のエリートでもあった。その白楽天が仏教の奥義を優れた禅僧にたずねた所、その禅僧は「悪いことをしないで、良いことをすることだと」答えたそうだ。それで、白楽天は「そんなことなら、三才の子供でも言える」と言ったという。この白楽天の話を道元はとりあげ、「白楽天は仏法」について何もわかっていないとこき下ろした。
そんな話を聞き、詩を書くのに優れていることと、
禅で悟りの世界を直感することは別次元のことだと言えることが分かるではないか。この話は現代にも応用が利く。
どんな優秀な専門家でも、その道に詳しくても、禅の悟りの世界には無知ということはありうる。悟りの世界。つまり、科学とは違った霊的世界というのは特別の修行を積んだ人しか分からない。

その修行を最高度に積んだ禅僧に道元がいる。その道元の「正法眼蔵」は欧米でも高く評価されているという。
私は三十年以上前から、道元の本を沢山買い、読んできた。そこで、理解したことを私の想像力で補い、それがどんな世界かイメージしてみようと思う。それを肯定するか、否定するかは、読者の自由である。

大自然そのものは仏の説法なのではあるまいかと思う。全てがそうだと思われる。街を行きかう空の雲も春の風の訪れも、満開の桜の花も、チューリップもすみれの花も、薔薇の花も小鳥のさえずりも、全てが仏の説法。
仏が我々に顔を見せているのである。しかし、残念ながら、我々はそれに気がつかない。この場合、仏とは何か。本来、言葉で指し示すことが出来ない。
形もない。色もない。目に見えない。しかし、我々を生かしている究極の不生不滅の大きないのちの力とでも形容したらよいだろうか。宇宙生命とよんでも良いかもしれない。純粋生命とよんでも良い。神とよんでもいい。ただ、「一なる生命」と呼ぶ人もいるかもしれない。
西洋医学は、その仏が生命エネルギーとなり、物質化した人間の形の部分を扱い、生命がどのようにして、形となり、六十兆の細胞がどのような連携をして、独りの人間をつくりあげているかを探求している。
しかし、科学は人体を動かしている目に見えない「一なる生命」そのものを扱うことは出来ない。何故なら、それは神仏で、目に見えない、つまり、計器にひっかからない、科学の網にひっかからない、「一なる生命」そのものであるからであろうかと思われる。
こういう実験からも明らかでないだろうか。 最近の科学の報道によると、何千ものES細胞を、培養液の中で培養させていき、それなりの器官になるように誘導すると、自然に細胞どおしが連絡しあって、その器官になっていく、つまり、細胞は自然に自己組織化するというのである。

色を見る、音を聴く、つまり、風景を見る、音楽を聴く、これは「一なる生命」そのものなのではないだろうか。つまり、空即是色。空とは「一なる生命」。つまり、全世界は一個の生命。全世界は一個の明珠。
それが色(しき)となる。森羅万象の世界が現象するのである。

そもそも、主観と客観が分かれた時に、物質世界が現われ、我々人間は科学をすることができる。
主観と客観が一致した所、つまり、主客未分の世界、つまり「一なる生命」の世界は分析を得意とする科学では分からない。何故なら、科学は主観と客観が分離して、物質世界となった現象を探求する学問であるから。

「一なるこの生命」の世界つまり、不生不滅の生命は自我の忘却を目指す瞑想か、座禅による主客未分の世界に入らなければ直観できないのであろうかと思われる。
「一なるこの生命」とは「空」とも言われる。 「空」は座禅という「行」が行われなければ、直感されないのではないかと思われる、人間にこの宇宙の神秘は開示されないのではないか。
「行」は座禅だけとは限らない。宮沢賢治のように法華経を読むことを「行」とした人もいるし、良寛のように道元の本を読み、それなりの悟りの境地を開き、そこに漢詩を創作することを「行」とした人もいるのです。「空」を直感するにはこの様に「行」が必要なのです。長い人生と、善と慈悲に至る道程が「行」になることもあるでしょう。
「空」は永遠に創造する生命そのものなのです。だから、「空」そのものは物質的に存在するものではないのですから、あるとかないとか言えるものではありません。「空」は華の中に自らの命を表現するのです。華が「空」なのです。「空」は生命そのものですから、華として咲くのです。これが東洋の到達した真理ではないでしょうか。この様に、森羅万象の華を咲かせます。これを空華というのだと思います。さらに言えば、「空」そのものは 人間そのもの{身体と心の両方を含めて}にあらわれているのだと思います。だからこそ、キリストは「私は復活であり、命である」と言ったのではないでしょうか。復活とは永遠のいのちを約束したことです。クリスマスがきたら、キリストとは釈迦のように真理に目覚めた人と思うのも、それなりに正しいように思われます。

盧(ろ)を結んで人境(じんきょう)に在り、而(しか)も車馬の喧(かまびす)しき無し
君に問う何ぞ 能くしかると、心遠ければ地も自(おの)ずから編なり
菊を採る東りの下、悠然として南山を見る
山気 日夕(にっせき)に佳し 飛鳥 相いともに還(かえ)る
この中に真意(しんい)あり 弁ぜん欲してすでに言を忘る
【東側の垣根に咲く菊の花を手折り、ゆったりと見上げると遥かに廬山の姿が目に入る。山に漂う気は夕方がすばらしい、鳥が連れだってねぐらに帰っていく。ここに天地万物の真実があるのだ、だが、それを説明しようとした時もう言葉を忘れてしまっていた。】【陶淵明      ―半ば以降の訳は下定雅弘氏の訳を少しお借りしました】


* 久里山不識の現代詩
 琥珀色の麦茶の湖面に
 突然 幻の様に 町が現れる
そして、祭りの太鼓や笛の音、それに賑やかな人々の声がしばらく続く
そして、再び静寂が訪れ、
いつの間に 町が消えている
そして又、幻のごとくに赤と黄色い薔薇の花が咲く
 花瓶の小さな口から、かすみの様な霧が現れ、
深い霧は薔薇を包む

霧が晴れると、薔薇は南国の街角に変化する
そこには人々の笑い、泣き ざわめく音が
森の梢のささやきの様に聞こえる
 私は故郷に帰ってきた人のように
この町の部屋で呆然と時計の音を聞く
音は波のごとく、カチッといって消え、又 カチッという 
そういう風に音が聞こえる時は静寂そのものだ。
 その時の世界は 何かをほしがっている時の自分とは
違う静かな不思議な世界だ。
テーブルの上のあらゆる物は様々な色をなして、
まるで沈黙している生物のようだ。
 窓の外で、カラスが鳴く

全てが変化し、色彩に富み、音に満ちて、森羅万象をなしているのに、
私の感じるのは一つの音、一つの色、一つの大きな無だ。
それは一つの生き物に違いない。
 その生き物が星となり、惑星となり、山となり、川となり、私となる。
テーブルには猫がいる。
 猫がにゃあっという
「色即是空、空即是色」と私の耳に聞こえる
 幻聴だろうか
夢なのか、この世界は。
私は生きている。
だから、星も山も川も町も何もかも生きている
               
                          
              坐禅と虚空
    今ここで座禅をしている時というのは今の科学時代に生きる人にとって無味乾燥なものにうつるということは充分 考えられる。しかし はたしてそうであろうか。
我々人間が外界を見て行動する時、外界というのは様々な物質が存在している三次元の空間という認識がある様な感じがある。それがニュートンのいう絶対空間という風に整理されてしまつたあとでは、人の感覚はそうした絶対空間という様な観念にしぱられて身動きできなくなってしまったようである。二十一世紀になっても人はニュートン的な感覚を手放そうとしないというのが真相ではなかろうか。
そうした感覚で座禅を見ると、まさに座禅はせいぜい健康法として良いという程度のものに思われてしまう。しかし、もしそうであるならば禅宗の歴史の中で優れた僧が座禅によって悟ったというのは何かの錯覚だったと言われてもしかたあるまい。
しかし、真相は我々の日常の感覚の方が自然を正しく把握していないのである。その卑近な例は大地は動くことはないという日常の感覚に反して、地球は太陽のまわりを一年かけてめぐり、一日の中では自転しているというのは今では小学生でも知っている事実である。 【原子も素粒子も絶えず動いているようですから、止まっているものなどないということになります 】
とすると、昔の優れた禅僧は座禅によって、我々現代人の感覚以上の何かを感じ取っていたということは充分 考えられる。最近、私が思うには人間が座っているその空間に対する洞察が禅僧の場合はことのほか深いのではないかということだ。

私のイメージが真実に近いということがもしあるとすれば、人は座禅をすることにより、あのニュートン的な空間感覚から脱出して、深い深い空間それも自己の心身と一体になった神秘の空間の中に足を踏み入れているのではないか。 それがいのちに満ちた虚空ではないか。
単純化して言えば我々の生きる世界は物質の世界と永遠のいのちの霊的世界があつて、その二つの世界はコインの裏表の様に一つになっているとも思えるし、二つの世界は浸透しあって見分けがつかないようになっているとも言える。それなのに現代人の傾向として、物質の世界しか、認めず、常に物を対象化し、分析し、数学的なモデルをつくり、それが実験と符号した時に世界の真相を科学的に理解したとして、それ以外の世界は幻想とみる。
しかし、人が座禅をして、もう一つの永遠の生命の世界【虚空といういのちの世界 】に触れた時に、禅をやる人なら、不死の仏性を悟ったというのかもしれない。
欧米人なら、もしかしたら井戸のそばで女と話しているキリストの様に「この井戸の水を飲む者は又 すぐに渇くが、されどわが水を飲む者はとこしえに渇くことなし」とつぶやくのかもしれない。
深く考えると、キリストの言うことと、仏教の教えは似通っている所が沢山ある。 
西洋の人が東洋の思想に興味を持つのもそのためがあるかもしれない。
量子力学の天才ボーアが易経に興味を持ち、電子の振る舞いを現わした方程式を書いた天才シュレーディンガーがインド哲学に興味を持ったことは有名な話である。
私のささやかな経験でも、真言宗の高野山に行って、僧房に泊まった翌日、金剛峰寺 のすぐ近くに座っていたら、白人の若い男女が来て、「金剛峰寺」はどこにあるのか」と聞かれた。
私が指さすと、彼らは狂喜したように、足早にそこの玄関に入っていたのは印象的でした。                               


【久里山不識】
1 上の文章は以前に書いた文章の中でも、今も強調したいものを拾って、少し直し、まとめたものです。
2 後期高齢者になると、健康法として、よく散歩が良いということが言われます。
それで、散歩はよくします。昔、柔道で鍛えた足が、今の私を助けてくれます。
二時間ぐらいの散歩の途中にはたいてい、ベンチがあります。そこで、休みます。
その日の体調によって、長く休むこともあり、短く休むこともあり、という具合です。花に出会うと、嬉しいものです。
ブログでも、今までも、何回か休んでおりますが、こうやって散歩のように休み休みやるのが長続きするような気がします。
しばらく休みますので、今後ともよろしくお願いします。





武器よさらば 【エッセイ】

2023-05-06 14:05:47 | 文化




この間のショートショートは舞台がイタリアが多かったですね。
若い頃、ヨーロッパ旅行に行ったことはありますが、出発点はローマでしたね。
バチカンは見る芸術品が圧倒的に多いだけでなく、ミケランジェロを始めとする深みのあるものが多く、時差ボケで二日間で見るには無理があったようです。
ホテルの一室を二人で借りたのですが、列車を取材に来た記者の方と一緒になり、大変良い方だったので、夜、二人で散歩しました。
二人とも外国の夜は慣れていないので、一緒が良かったのでしょう。バーで一緒にアルコールを入れ、ローマを楽しみましたけれど、何と言っても、短い時間でしたからね。
次のフローレンスとヴェニスへの旅が楽しみでした。しかし、それからは一人旅ですから、英語に自信があるわけでないし、イタリア語はまるで知らないのですから、大変です。若さで乗り切るしかありませんでした。

乗った列車が満員電車で、真中へんに立って吊革につかまっていたのですが、小用に行きたくなりましてね。周囲の人に聞いたのですよ、この電車にトイレがあるのかと、勿論イタリア語が出来ませんので、何か言ったと思いますよ。どうもあるらしいということで、移動を開始したのですが、この移動が大変で、それよりも、小さな駅に止まったので、飛び降りてしまいました。
トランクとミノルタのカメラと三脚持って、田舎の広広した駅の構内に飛ぶようにして行き、用をすますと、地獄から天国に行った人のようなうきうきした気分で、駅の前のカフェーの椅子に座り、コーヒーを飲み、写真を撮っていたら、十名ぐらいの若者が集まってきましてね、一人初老の人がまじっていましたけれど、私のカメラに興味を持つのです。
身振り手振りの会話はしましたけれど、日本のカメラの素晴らしさに感心し、譲ってくれるとありがたいといわれたようですけれど、これは旅に必要だと言って断りました。そのあとは、フローレンス行きの電車に飛び乗ったという印象でした。
フローレンスでも、ヴェニスでも、これと似たいくつかのエピソードを交えながら、芸術品を楽しんんだわけですが、そのあとはスイスへいきました。電車では、北イタリアの風景が見えました。
【 映画「武器よさらば」にも、北イタリアの描写があったと思います。】
美しい景色を車窓から楽しんだと思います。なにしろ、若い頃の旅なので、記憶も遠いものとなっていますので、細かいことは忘れてしまいました。
列車の中では、若い夫婦に声をかけられ、旦那は英語が駄目なので、奥さんと長いこと、話したことを覚えています。【今は英語はすっかり忘れてしまいましたけれど、】
それから、スイスに入り、フランスのグルノーブル、リヨンと行ったわけですけど、ヘミングウエイの「武器よさらば」の最後は船で湖をボートで、イタリアからスイスに逃げる所が大変な冒険で、素晴らしい描写でしたね。映画も良かったと思いますよ。以前、掲載した感想文で、恐縮ですけど、
下に書いておきました。

【小説の魅力はなんと言っても文章である。北イタリアの風景の緻密な描写は素晴らしい。だから、主人公の中尉フレディック・ヘンリーとイギリス人キャサリン・バークレイの恋愛はその風景の中に綺麗におさまってしまう。
そこへ行くと、映画は二人の話がクローズアップされているせいか、何かメロドラマ風になってしまっている。
ロミオとジュリエットは素晴らしいが、メロドラマ風というのは、小説のようなしっかりした反戦映画を期待している私を少しがっかりさせる。それでも、映画では、中盤のドイツ軍に攻撃されたイタリア軍の敗退と民衆が逃げる様子は沢山の人間が戦争の悲劇にまきまれていく様子が映像化されていて、迫力がある。

さて、「武器よさらば」は、反戦の文学である。第一次大戦を扱っている。「西部戦線異状なし」ではドイツ側から描いた戦争の悲劇であるが、「武器よさらば」はイタリア側から見た戦争である。最初はイタリアとオーストリアの戦いの描写がある。

イタリア軍に占領された戦場の町が美しかったというのは、私は不思議に思うのだが、ヘミングウェイの筆によると、町も、主人公の住む家も綺麗ということである。背後には川が流れている。背後の山々はまだ敵の手中にある。オーストリア軍は戦争が終わったあとには、またこの町に帰ってくる気持ちがあるらしい。そのために、彼らはこの町を本格的に大砲で破壊することを避けているようだった。

こういう合間に、ヘンリーは病院の看護師の女に手を出し、キスまでしてしまう。もっとも、こう平凡に書いたのでは、文豪の素晴らしさは消えてしまうので、そんなことがあったというにとどめる。この場面は出会いから、キャサリンが美人ということで、ヘンリーは楽しんでいるだけで、戦争の合間の一幅の休憩という感じで、この恋愛の最初の幕が開けられようとしている。

そして、前線に行く。
ところが、ヘンリーは前線に出てしばらくして直ぐに、迫撃砲で足に大けがをしてしまう。
そして、ヘンリー中尉は、前線からミラノにある病院に送り返される。ここで、ヘンリーと看護師キャサリンは再会し、あれほど彼女と恋に陥るまいと思っていたし、ほかの女性との恋も望んでいなかったのに、彼は、キャサリンを恋してしまい、ミラノの病院の一室のベットに横たわることになってしまうのだ。手術は成功だった。
新聞によると、戦争はまだまだ続きそうな状況である。西部戦線では、まだどちらの側も相手を叩いていない。最初はみんな直ぐ終わると思っていた戦争。

たった四年間で、若者が二百万人死ぬ戦争とは最初、誰も考えていなかったが、結果としてそうなっていく様子が小説にも映画にも描写されている。愚かな戦争である。知恵を誇る人間の歴史にこのような戦争があったとは、不可解と思わざるを得ない。この愚かさを小説も映画も見事に描写している。

やがて、前線に戻るヘンリー中尉。
「さようなら」
ヘンリーは雨の中に踏み出すと、馬車が走りだした。馬車、いいね。これは町がまだ自然の色を残したロマンチシズムにあふれた面影を感じさせる。そこへ行くと、今はどうでしょうか。高速道路が風景をぶちこわしていたり、京都のように寺や美しい庭園の多い所でも、主要な道の多くでこのロマンチシズムは消えてしまっている。残念なことである。


それはともかく、二人の別れである。キャサリンが身を乗り出し、その顔を灯火が照らす。彼女は微笑して、手をふる。
こうして、ヘンリーは再び、前線に戻るのだが、すさまじい戦闘のあと、退却がはじまった。ドイツ軍とオーストリア軍が北方の戦線を突破し、山岳地帯の渓谷を下って、進撃しているらしい。ドイツ軍は中尉の言葉を借りると、ぞっとするほど強いようだ。

この退却も大変なものだ。しまいに、乗っている車の車輪は空転するばかりで、前に進めなくなる。「命令だ。小枝を切ってこい」と軍曹に命令するヘンリー中尉。しかし、軍曹二人は逃げていく。ヘンリーは拳銃を引き抜き、口数の多かったほうの軍曹に狙いを定めて、引き金を引いた。

この場面は映画にはない。私の好きな主人公、ヘンリー中尉は命令に違反したということで、一人の兵士を射殺しているのだ。戦争とはそういうものなのだろう。恐ろしいことだ。

夜明け前に、ヘンリー中尉の一行は川の岸辺に着き、増水している川沿いに進んで、あらゆる車両や人馬が渡っている橋までたどり着く。
そこで奇妙で恐ろしい事件に遭遇する。
みんな年齢が若く、救国のヒーローを気どっている憲兵が待ち構えているのだ。第二軍は川の対岸で再編成され、その一環として、彼らは原隊を離脱した少佐以上の階級の将校たちを銃殺しているのだ。彼らは同時にイタリア軍の軍服を着たドイツ軍のゲリラたちを即決裁判で処分している。

映画では、一応、年配の大佐を始め、裁判官らしい年令の将校が裁判席に座り、ヘンリーの親友の軍医リナルディ少佐に銃殺の判決を下し、ヘンリーもイタリア語になまりがあるということで、疑われる。危機一髪で、ヘンリーは即決裁判の場所をけちらし、逃げ、川に飛び込むのである。小説では、川に飛び込み、銃弾を避けるために、川の中をもぐっていく描写を細かく描いている。
この場面は小説でも映画でも、ヘンリーにとってまさに危機一髪、銃を持った何人もの憲兵がいる中を逃げるには、余程の運動能力と体力と運がなければ無理だろうと思われる。ともかく、ヘンリーは逃げ切る。

やがて、列車にたどりつく。飛び乗り、貨車の床に、ヘンリーは野砲と並んで横たわる。早朝、まだほの暗いミラノの駅に汽車がゆっくりと侵入したとき、彼は飛び降りた。線路を渡り、コーヒーを飲みにカフェーに入ってみる。

その後、彼は馬車に乗り込んで、友人シモンズの住所を御者に伝えた。シモンズは、このミラノで声楽を学んでいる男だった。彼の家を訪問すると、ヘンリーは友人として大歓迎を受け、こう言われた。

「君が欲しい服があれば みんなあげるよ。だから、服は買う必要がない。君の服装を見れば、立派な男だと思うように、いくらでも服装を整えてあげるよ」
さすが、芸術家である。それにいい友達だね。今の日本はどうだろう。絆が叫ばれているのは良いことだが、絆がなくなっていく裏返しのような感じもする。こういう人間関係を日本に復活させたいものだと私は切に思う。それはともかく、声楽家はイタリア軍の監視のある町で、脱走兵ということで、追われるヘンリーを友人として助けるのだ。

それから、戦争ぎらいになったヘンリーは、ホテルで、事実上の妻である恋人キャサリンと会う。その後、彼女と一緒に、嵐の中、湖をボートで漕いで、スイスに逃げるのだ。距離は三十キロ以上はある。キャサリンはおなかに、赤ちゃんがいるのに、むしろ彼女の強い意志のもとに、逃げる。
風を顔に受けながら、暗闇の中を漕いでいく。彼は一晩中 漕ぎつづけた。


このようにして、スイス領に入る。これで赤ちゃんを無事に産めば、この物語はハピーエンドになる筈だったが、ラストは私の期待に反して、おかしなことになってしまう。スイスは二人を歓迎してくれ、その点では申し分なかった筈なのに。

このラストシーンは書かないで、興味を持った読者がご自分で確認した方が良いと思うので、あえて書かない。人生は不条理なものだ。それだけ言っておきたいと私は思う。

何故、「武器よさらば」に感動するのか。戦争の悲惨さの中で、愛があるからではないか。この娑婆世界は仏教の教える所によると、無明におおわれ、真理に目覚めていない衆生が多く住んでいる。つまり忍土である。その中で、一条の光を見た時に、人は感動する。

その光とは「愛」である。恋愛の愛はエロスで、欲望の延長線にあるから無明におおわれているのだが、まれに、一瞬の間、そこにキリストの愛のような光がさすことがあるのではないかと私は考える。それは肉親の愛でも、猫と人間の間の愛でも同じことである。
そういう愛を神であると思うこともできるのではないか。
何故なら、そこに不生不滅のいのちの発見があるからである。仏教的に言えば、無明の娑婆世界に浄土の発見がある。
人生はこの娑婆世界で、この不生不滅のいのちの発見をすることに意味があるのではないかと、ふと思うことがある。】




【コメント】
詩を書くのも、小説を書くのも、絵を描くのも創作という点では 同じです。
  公園で、絵を描いている人の邪魔をする人はいません。
しかし、私の場合、小説を書いているだけなのに、中傷する人がいるのに困ることがあります。人を困らすには中傷以外にも、嫌がらせというのがあります。
おそらく、憲法九条を守るを看板にしているからでしょうね。
民主主義の基本を知らない人が結構います。【私は学生の時、一流の法哲学の講義を聞くことがよくありましたので、よく分かります】
ボランチア活動、助け合う精神、SDGsの精神など、良い動きをする人も増加する一方、ジェラシーで、得意の「出る杭は打たれる」という合唱に加わって、その人が困るのを見て、喜ぶ卑しい価値観が少しずつ広がっているような気がします。SNSのいじめなどもそうでしょう。
どうでしょう。皆さん。道元や空海そして親鸞を勉強してみませんか。そうすれば、世界情勢を武力だけで、解決しようなんていうのは 愚かであることが分かります。
話し合いです。文化の交流も必要です。そのために、憲法九条が必要なのではないでしょうか。
国を守るために、武力を強くするという人の意見も分かりますし、尊重します。
でも、それで軍拡という風にいくとすると、始めたら、第一次大戦のように、最初は小さな武力衝突で、すぐ終わると思っていたのが、西部戦線だけで、二百万の若者が死に、戦争をやめられなくなり、大戦へと発展していったことを我々人類は学習したのに、又大きな戦争を始めてしまうということになりませんか。
ウクライナ戦争でも、はたして人類は歴史を学習したのかと疑問になります。
悲劇的で、やめられない戦争をしないための話し合いの方法を政治家だけでなく、皆が考えることが大切なのではないでしょうか。   
そのためにも、憲法九条は必要なのではないでしょうか。

くどいですが、日本の武力を強くして、日本を守るというのも自然な日本人の気持ちだと理解します。特に北朝鮮の状態があのような状態で、それがテレビを通じてお茶の間に入ってくるのですから。
ここで、国論が二分されますけど、互いに非難しあうのは意味がないことです。皆、心配なのです。平和を願う気持ちは同じです。
国会で、充分議論して結論を出すべきです。そのためにも、ネットなどでも一般の市民が声を上げるべきです。
脱原発の時も、そうでしたけれど、互いが互いの意見をもう少し聞き、尊重していれば、大地震のあとの福島の原発事故はもう少し、小さいものに出来たのではないかと、想像します。

これからは、SDGsに「核兵器を廃棄しよう」を加えることも大切だと思います。
私の小説「森に風鈴は鳴る」は平和産業をつくるがテーマになっていて、民間企業がそんな政治的なことに口出しするなんて、非常識と思った方がおられたら、SDGsの内容が温暖化阻止とか貧困阻止とか今までの企業の常識とは違うことを言っておりますよね。
もう利潤追求だけでは、企業そのものもやっていけない時代が来たのです。
私が学生時代に学んだ法哲学の理念では、公害反対運動の中からだと思いますが、企業の社会的責任ということが言われるようになったことを覚えています。
水俣病なんかが一番有名ですね。会社の工場が水銀を海に流したために、多くの人が被害にあったのです。私の長編小説では、IC工場のトリクロロエチレンが地下水を汚すということが問題になっていた時に小説を書いたので、地下水で有名な所を見学に行って現地の人の声を聴いたこともあります。そのあとに、脱原発を書くようになったのです。
こうしたことは地球温暖化などを含めて、国連で問題になり、その延長線上にSDGsの取り組みが始まり、今や日本のマスコミにも登場するようになって来ているわけですから、SDGsの延長線上に「核兵器をなくそう」を入れるのは自然の成り行きです。
ただ、今、ロシアとウクライナが戦争をやっていますね。これを早く停戦に持ち込まないと、この「核兵器をなくそう」のテーマは現実的ではないですね。まず、停戦。それから、軍縮というのが世界の声になる必要があると思うのですが、そしてSDGsに「核兵器をなくそう」を入れようということでしょうか。

それから、日本は中国ともっと話し会い、文化交流を進めないと、いけないと思いますね。
道元や空海を勉強すれば、あるいは漢詩や平安文学を見れば、中国と文化土壌が同じではありませんか。その中国と、武力で対峙するというのはおかしな話です。

マルクス主義というのは学生時代に哲学をかじった人ならば、分かると思いますが、【私の学生時代には、マルクスを勉強しないのは、大学生とは言えないという人が周囲にいたぐらい、マルクスの影響力があった時代です、今はソ連の崩壊で、まるで違ってきているようですが 】  人類の理想国家を夢見た思想を集めて、つくられたものなんだと思います。だから、世界中に影響したのではないでしょうか。ただその通りに、つまり哲学通りに人間は動かないというのが分かってきましたが。
【極端な例では、ソ連の例のように、看板と中身がまるで違ったということがあるから、そう楽観視してはいけませんが、】
中国が軍拡をして、我々日本人が不安なのですから、もう徹底して話し合うしかないと思います。中国が戦争をして、人類危うしの方向にもっていく筈がないと信じたいです。

あるとすれば、日本を含めた西側諸国の接触の仕方にも問題があるという反省が必要なのではないでしょうか。
憲法九条を持ち、文化外交で、話し合いが始終、なされる必要が中国にはあると思います。
互いの不信感を取り去る必要があるのです。
まさに、今やこういう風に良い方向に前を進めないと、人類危うしだと思います


【久里山不識】
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「猫のさまよう宝塔の道」
「永遠平和とアートを夢見る」
この二つのブログもよろしくお願いします。



ヨーロッパ 【ショートショート 】

2023-04-19 21:05:06 | 文化


ヨーロッパ【ショートショート 】
           
 ローマに到着すると周囲の急激な変化に気持ちも紛れた。バチカンでルネサンスの芸術に宗教的な衝撃を受けた。ここではすべてがキリスト教一色になっていた。露野は西洋の深さが東洋の崇高な仏像の祈りと繋がっていると思った。ミケランジェロの到達した美と仏の賛歌は真理という深い海に船出する二そうの黄金の船に違いなかった。同時に彼は真理発見と実現のためには西と東が手を結ぶことが必要なのだと思い、道元の説く仏性への目覚めの中でこそ 理想社会が実現されるのだという確信を強めたのだった。
 そしてフローレンスへ。町全体が芸術品だった。
 彼はそこで『文芸の街角』という文芸雑誌をつくるアイデアを心に浮べた。ビデオカメラを持って行ったので彼は花の聖母寺やドゥオーモ広場の魅力的な町角をとった。そしてこれを編集しなおして、公害のない芸術的な町を公害に満ちた日本の町と対比した形で映像を創造してみたりあるいは雑誌づくりに役立てようかと思った。その時 明珠の町を思いだした。IC工場の進出という話などあったがそれも今の所 食い止められ 目立つ公害もなく 大変な魅力がある。しかしこの明珠の魅力には何かが欠けていたのではないかという気が今はする。それは芸術ではないか。たしかに美術館も映画館もあり、高倉電気のしょうしゃな建物もあったがフローレンスに比べると貧弱だ。
 自由な雰囲気の中で真理を知り、そこから芸術を創造する町こそ彼の理想の町だと思った。
 フローレンスの夕暮れ。西の空に茜色の雲が荘厳に棚引き、彼は町を歩きづくめた昼間の足の疲れを休めようと、広場にあるレストランに入った。客は店の半ばほど占めていたし、外に出してあるテーブルについている者も多かった。彼は外の木陰に席をとり、ワインと少々の食事を注文した。そして彼は昼間 見たアルノ川やミケランジェロ広場から見た町の風景それに数々の美術品に思いをはせていた。あまり沢山の絵を見たので少々混乱していた。彼はそれに整理をつけ、明日 丹念に見るものを頭の中でピックアップしていた。
 
              
  その時、楽団が出てきて彼等の向う側の女神の彫刻がある所に陣取って演奏の準備を始めていた。
 いつの間に演奏が始まった。
楽団は露野の座っている所から、少し離れていた。そのあたりの人はそれまでの会話をストップしないで、話し続けている者もあれば、音楽に耳に傾ける者もいた。
露野のすぐ横の席に座っているすらりとした白人の女が「素敵ね」と英語で言った。
「素晴らしいわ」と細面の日本人のような顔立ちをした女が言った。
彼女たちは音楽について話している。
アメリカ人と一目で分かる白人のがっちりした男が音楽の持論を早口の英語で喋っている。
すらりとした女はピアノソナタのような美しい笑い声をする。
細面の女は露野の方に時々顔を向ける。露野にとって、かっての恋人を思い出させるような
魅力のある風貌をしている。
「いい音楽だね」露野は何気ない気持ちで英語で声をかけてみた。
「ヴィヴァルディーの『調和の霊感』でしょう」と細面の女が言った。
「そう、『四季』の方が有名だけどこれも中々の傑作だ。中世の水の都ヴェニスの風景が目に浮かぶ様だ」と露野は言った。
「へえ、そうかしら」
「僕はヴィヴァルディーの明るい所が好きなんだ。中世のヴェニスが貿易で繁栄し、ビルの間の静寂に包まれた運河をゴンドラが行きかう所をどこからかこの音楽が泉のごとく流れてくるなんて想像することはとても楽しいね」と露野は言った。
「ふうん、ロマンチックなのね。でもあたしはフローレンスの方が好きだわ」
「どうして?」
「たいして理由はないけど、ここにはルネサンスの香りがふんだんにあるからかしら」
「なるほどね」
 細面の女のブルーの服の胸には調和と美を誇るブローチが飾られていて、それが彼女のアジア系のつつましい知性のある顔を際立たせていた。
 それで、露野はぼんやり、若い頃 郷里で知り合った恋人の京子を思い出した。そのあと直ぐに彼女は交通事故で死んでしまった。彼女の思い出は強烈だったからその後 何年も彼の脳裏を支配した女は京子であって時の経過につれて彼女の影像が遠くなり、殆ど彼女を思い出すことが少なくなっていたが、フローレンスの広場でありありと鮮明に思い出されたことが不思議だった。
 春の夕暮れは美しかった。そして『調和の霊感』は彼の胸に染み渡った。その時、ふと黒いカバンの中に入れてきた仏教の文句を思い出した。
 『人々がこの世界を大火に焼かるると見る時でも、わが浄土は安穏にして神々と人間達にみち溢れるのだ』
 どうしてこの文句が思い出されたのか彼にも分からなかった。ただヴィヴァルディーの音楽の源泉である『調和』と『浄土』がどこかで符合している様な気がしていた。バッグの中にはそれ以外に新約聖書や道元、空海の本が何冊かあった。これらの宗教が啓示している真理の泉から、もしかしたらその様な素晴らしい音楽が流れ出てくるのかもしれないとふと思った。
「源氏物語、読んだことありますか?」とすらりとした白人の女が露野に顔を向けて唐突にそう聞いた。彼女はジーンズのズボンにブルーのシャツを着ていた。胸は薄く乳房の面影はなかった。
 「現代語訳で少し、読んだことがある」と露野は答えた。
「あら、日本人なのに全部読まないの?少しならあたしだって読んだわ」
「日本語で?」露野はちょっと意外という表情をして聞いた。
「勿論、英語よ」              
「おもしろかったかい」
「結構おもしろかったわ」


「優れた文化は時代や社会を越えて人の心の琴線に触れるものがあると思うわ。源氏の魅力は愛欲の葛藤だけではないのよね。自然描写の素晴らしさとか男と女の心理描写が凄いわね」とすらりとした女がそう言った。
その時、白人の男が彼女に何か話かけた。すると彼女は笑った。
「珍しい人」と彼女は英語で言った。露野は何が珍しいのかよく分からなかった。
「ビーナスの誕生がカンバスから飛び出たみたいね」とアジア系の細面の女が言った。
よく見ると、白人の男が雑誌を広げてその中のヌード写真について何か言っているらしかった。露野は昨日見たボッティチェリの二枚の絵を思い出した。貝から生まれたままの姿で立つ気品が印象的だったし、『春』という絵も豊かで官能的な肉体の美しさが目に焼き付いていた。



彼はちょっとの間、回想に耽っていた。その時、白人の男が露野にもそれを見せた。
「人間は神の贈物なんですよ。それを粗末に扱うことは許されないです」と露野はそれを冗談とも真面目ともつかない気持ちでその様に言った。その写真はひどく官能的で刺激的なものだった。彼はよく見たいと思ったが抑制した。露野の言葉に細面の女が笑った。その笑いがあまりに美しかったので露野は見とれていた。まるで箱に入ったダイヤモンドやルビーなどの宝石がテーブルの上に一度にちりばめられた様な笑いだと彼は思った。
「あたしは仏教に興味を持っているの。西欧では、 今や、キリスト教は衰退して若者で神なんか信じている人は少なくなっているのに東洋人の貴方が信じているとしたら興味深いですわ」と細面の女が言った。
「僕の神様は美しいと思う所に現れてくるのです。貴方達の様な乙女の姿には神は好んで顔を見せます。夕日が美しければそこに神は現れるでしょうし、花や家具などの調度品にも現れます。僕達東洋人はこの神様のことを仏性といっているのです」
彼は手帳を取り出し、『仏性』と漢字で書いた。二人の女がそれを見た。白人の男はそれを横目でちらりと見た。
細面の女は微笑して言った。
「面白そうな神様ね」
「大自然や人間の中に普遍的に存在する永遠のいのちです」
「永遠のいのち?」と言って彼女はちょっと不安そうな顔をした。
「そう。大自然や人間はこの仏性という永遠のいのちが自らの姿を現わしたものともいえます」
「そんなもの、科学が否定しているのではないかね」と白人の男が横から口を出した。
「否定しておりませんよ。それは科学の誤解です。さっきも言いました様に物質の中に普遍的に流れているものについて人間は直感的に知ることが出来るのです。この普遍的なものは永遠のいのちを持っているものであって、これを道元は仏性と呼んでいるのですよ」
「道元?」すらりとした女は魅力的な笑いを浮かべ、「興味あるわ。でも、難しいわね」

露野は日本の鎌倉時代に活躍した曹洞宗の開祖、道元について少し解説した。
「禅のことね。素晴らしい話ね。」と細面の女が言った。
そのあとの仏教や禅の説明についても彼女達は熱心に聞いていた。
 
細面の女が言った。「あたしはアメリカの日系人なのよ。それもあって、日本語を勉強しているの。源氏物語だけでなく、日本の文芸にはとても興味を持っているのよ」と日本語で言った。
ヨーロッパに来て、初めて聞く日本語に、露野は新鮮な美しさを感じた。
男は「俺たちはれっきとしたアメリカ人だ」と英語で言って、すらりとした女の肩を抱いた。すらりとした女は笑った。露野は言われなくても見れば分かると思って、微笑した。

「ええ、ところで、日本語の文学、勉強しているなら、日本語の詩を読みますか、たとえば
松尾芭蕉とか萩原朔太郎とか」
「松尾芭蕉は読むわよ。萩原は名前ぐらいしか知らないわ」
「ところで、僕は詩を書くのですよ。見てくれますか」
露野は書き留めたノートを広げて、最近 書いた詩を見せた。



人をおとしめる快楽を感じる悪人のメフィストよ
オセロウを見たかそなたのいきつく先はどこか
機械が発達しても、花一輪の美しさに勝てると
思っている連中よ。愚かな。
キリストの言われた野の百合はソロモンの栄華よりも美しいという意味が本当に分かっているか
大自然の美しさは機械のおよぶ所ではない
一見 便利になった世の中
魂が堕落する人が増えてはいまいか
キリストのいう美は 宇宙の神秘だ
人の心にもある神秘で
花からも人の表情からも突然飛び出してくる神秘の美
おそらくは真如を感づいた人でないと見れない美がこの世にある
泥沼の中にハスの花が咲く
足を泥沼につけていても、真如を見る人は
このキリストのいう花の美を見る
この花の美しさは奥が深く
おそらくは無の深淵に行き着くのだろうか
そこで、法を説く仏を見る
そこで、真実の自己を知る
大自然を愛する人よ あなたこそ仏性に目覚める人だろう
おお、今は つつじの色が美しい時期だ


露野は花を見て、悟った禅僧がいることを思い出していた。
「キリスト教と仏教の教えが詩に入っている。」と日系人の細面の女が驚いたような顔をして、日本語で言った。その表情は美しいというよりは神秘な感じがした。この神秘な表情は死んだ昔の恋人京子にも見たものだ。


 彼女はギリシャの彫刻の様に彼の目の前に微笑している。人は何故 衣服を着るのか?この当り前とも言うべき疑問が彼女の豊かな髪、なめらかな小麦色の肌に流れる曲線美を感じた時 湧いてきた。寒さを防ぐためとか身を飾るためとかいう紋切型の答えでは何かつまらない気がした。彼女は健康な美しさに満ちていると思った。
 露野はこの女の野性のままの姿を写真におさめたいという誘惑にかられた。だが、それは無理だろうと、思った。

「写真を撮らして下さい」
「いいわよ」と日系人の女は日本語で言った。


 身体の中にめらめらと燃えてくる情欲の炎。しかし一方で岩村夫人の像が鮮明に彼に蘇ってきた。それはほとんどプラトニックな愛の憧憬を含んだ悲しみというようなものを伴っていた。
「ここで撮ってもモデル料はいりますか」と露野は冗談半分に言った。
「いらないわよ」 ナーラと名乗った細面の日系人の女は目を輝かした。
「源氏物語の国の男にしては随分とナイーブなのね」 すらりとした女は微笑してそう言った。
露野は彼女達への快楽を失ったことに対する哀惜の念と同時に岩村夫人の精神的な美しさが心に鮮やかに蘇ってくるのだった。一体、何がこんなに彼をひきつけるのか?海外へ出掛けてきたのはしばらくでも彼女を忘れるためにという意味もあったのではないか?
 
モーツアルトの演奏が終わって少したつと、彼等は別れた。白人の男はおおげさな身振りで露野の手を握って、握手した。女達は手を振った。


露野はそのあと、ヴェニスに向かった。
しかし、それもヴェニスの運河を見た時、薄らいでいた。。彼はそこでは全く 孤独だった。周りは殆ど東洋人はいなかったし、ゴンドラに乗ったり、車のない町並を隅々まで歩いた。確かにフローレンスもヴェニスも美しかった。しかし美しいだけでなく明珠市と同じように謎がある。外国人の彼にはそれが何であるか指摘することは出来ない。サンマルコ寺院を見てもゴンドラに乗って古い建物の間を潜っていっても一向にその謎は分からない。歴史の重みの中でその謎は一層 進化しているに違いない。
 露野は日本を思い出し、明珠市は露野を恋愛や事件に引き込むブラックホールをうちに持っていたのだろうか?

 
露野は「夢のゴンドラ」という詩を書いて、ノートに書き留めた。

春の日差しのふりかかる舟の上。
大男の船長は悠然とオールを漕いでいる
ナーラはパレットに絵具をなすりつけている
ゴンドラはゆったりと動く
ここはヴェニスか蘇州か、それとも夢の中

ふと美しい蝶がゴンドラの上にとまる
金色の素晴らしい羽をゆっくり動かす
いのちは花も小鳥も昆虫もそれぞれの形を変えて現れる
ゴンドラはゆっくりと周囲の風景を変えながら、進んでいる
いつの間にか、月の光が照っている

川の向こうに明珠の街角が見える
ビルの窓には、可憐なバラの花が咲いている
夢見ごこちで見る、ナーラの微笑そして町の静けさ

ああ、その時、青空の街角で
パパ、ママと言う兄弟の泣き声がする
上の子の表情は悲しみと苦しみに満ちている
何がかくも悲惨な表情を作り出すのか
ああ、救え、この悲しみをこの地上からなくせないのか
戦争がある、地震があると耳元で、ささやく声がある

川の向こうに古典的な古い美しい廃墟の城が見える
遠くで稲光がした。
しばらくすると、空に黒雲が続き
稲光と雷の来襲と共に、夜のように、暗くなった

やがて、一瞬の暗闇に光が射すと、
天から聞こえるように
先ほどの緑に満ちた美しい街角で
再び、パパ ママと泣き叫ぶ声がする
雷が天から地に落ち、空間を引き裂くように
その表情に痛ましいものはなかったか
天と地にひそむ神々の心をゆるがすものはなかったのか
ああ この平凡なゴンドラの上で
いのちの神秘を知り
ああ、パパ、ママと叫ぶ子供たちにほほ笑みと食料を渡し
どうしたのと優しい言葉をかけようではないか

大男の船長はゴンドラをとめ、
「坊や、どうした」と声をかける
その満面の笑み
それが子供達を救った
ああ、子供たちの美しい笑い声
誰もが慈しみあっている町になった。
そこは、永遠の今が見える広場になっている。
おそらく、そこで、コーヒーを飲む時、永遠が舞い降りてくる
そのような時、どこからともなく祭りの太鼓 祭りの笛が聞こえてくるものだ

そうした夢のような幻想からはっとして、ナーラに呼びかけられているのに気付く
ナーラの絵には、青色の川と河岸のビルや広場や森が描かれている


      
その後、露野はスイスに向かった。
   彼はスイスの国境近くまで来た時、些細な事件に遭遇した。かなり酔っ払った車掌が彼のいる列車の部屋に入ってきて切符を見せる事を要求した。その時はすでに夜の十時を過ぎていた。酔っているため早口でだらしないイタリア語は露野を面食らわせた。しかし自分が遠い異国の旅人であることを思って彼は愛想笑いを浮かべた。
 車掌はぺらぺら喋りまくる。露野は相手が何を言っているのか分からなかった。
 切符は国境までの分しかなかったのでジュネーブまで買わねばならなかった。小銭のない彼はおつりを貰おうと思って大枚を出した。車掌はちょっと卑しい笑いを浮べながら、酔いに任せてイタリア語をしゃべりまくる。そしておつりを渡して出て行ってしまった。露野は狐に包まれた様な気持ちでその釣銭の硬貨をしばらく見詰めていた。そのうちに釣りが著しく足りないことに気がついた。彼は急に怒りが込み上げてきて部屋を飛び出ると廊下の向こうの端にいる先程の車掌の所に掛け合う為に急いだ。車掌はうさんくさそうに彼を見る。露野が英語を使って釣銭の大幅な間違いを指摘する。車掌は意地悪そうな顔つきをしてやはり早口に喋りまくった。その時 車掌の顔が死んだはずの青林の顔に見えた。露野は驚愕し、金を取り返すことは忘れて呆然と彼は車掌を眺める。背が低くこぶとりで丸顔の車掌をスクリーンにして精悍な青林の青白い顔が映っている。
 英語とイタリア語ではまるで会話にならず、露野は諦めてコンパートメントに戻った。そして先程の青林の幻を思い浮べた。錯覚であることは分かっていたが彼は多大な不安を感じた。異国の深夜の列車の中でのトラブルという異常な雰囲気の中で青林の亡霊が隙を狙って忍び込んだ感じがした。そうしたことに対するある種の恐怖と大量の釣銭をごまかされた悔しさが入り交じって彼は一人 物思いに耽った。窓の外にイタリアとスイスの国境の山々が暗黒の夜の中にうっすらと流れていくのをぼんやり感じていた。
 いつの間に列車はスイスに入り、小さな駅に到着した。そこに警察官が入って来て、露野にパスポートを見せることを要求した。
 露野は絶好のチャンスと思い、先程の車掌とのトラブルを英語で説明した。そのスイス人と思われる男はカーキ色のきちんとした制服を着ていて、穏やかなまなざしで話を聞いた。酔っ払った車掌が地獄の使いとすればこのスイス人は実に見事な紳士で天国の使者のようであった。
 警察官は自信を持って客の苦難を取り除く職務を遂行するという堅い決心を微笑に含ませてオッケーと言い、出て行った。
しばらくするとさっきのイタリア人の車掌が酔いを覚まし、申し訳なさそうな顔付きをしてお釣りを返しにやってきた。
 露野はこの出来事を思い出すたびにフローレンスやヴェニスの様なユートピアを持つ伝統ある国の緩みを感じた。ゴンドラを思い出し、ゴンドラの船長のおおらかな目と美しい
笑い声が水路の行きかうビルの間に響くのを、ふと思い出した。
 
天国と地獄の交錯する所で人間世界の謎や面白さが味わえるのであろうか。楽園に住むイブに蛇が誘惑をかけた様に楽園に罠があるのは案外、神の配慮かもしれぬ。地獄にしてもそこに至る道程には甘く美味しいデザートを備えて客人を歓迎するものだ。退屈は人を大変 苦しませるというパスカルの指摘を彼は思いだしていた。
なつかしの明珠も美しく優雅であったが故に様々の罠があったのであろうか?絢爛たる薔薇には鋭い針があるとは言い古されたことではないか?



【久里山不識】
詩「夢のゴンドラ」は 前に書いた詩を少し直して、ショートショートの中に入れました。







明珠の町

2022-05-12 20:09:17 | 文化


今日は。今回は三十数年前に書いた私の長編小説から拾った散文詩になりそこねた文章の紹介です。脱原発をテーマにしたこの長編は本にして、一流の芸術家 武満徹氏から礼状をもらったもので、私にとって、記念碑的作品です。ご紹介する文に至る簡単なあらすじは、主人公が親友のいる明珠の町に来て、その家でしばらく滞在している時の様子を書いたものです。



明珠の町

彼はお茶の専門店で買った新茶の封を切って急須に入れた。中に絹のような緑茶の若葉がさらさらと音をたてて落ちた。入れ過ぎたかなと思ったが、まあ大丈夫だろうと考え、ちょっと首をかしげた。
 彼女は、陽気だった。軽い歌が彼女の喉の奥の方で歌われ、それは静かな部屋の中に十九世紀のレコードの様にやさしい音の流れとなって、澄んだ小川を流れる笹舟のような神秘な乗り物となって空気の中をさまよっていた。彼はその楽しげな彼女のピンク色の頬を見、急須の中にポットから流れ出る湯の上空に立ちのぼる湯気の白さを何ということもなしに見詰めた。湯気は魔法の国の雲のように感じられ、壊れた目覚まし時計のようなじいーっという湯の音が心地良かった。
「壁にかかっている油絵は、あなたが描かれたの?」
 彼女の視線が室内の調度品を描いたやや黄色味を帯びた油絵とカーネーションを描いた水彩画にそそがれた。
「ええ、こちらへ来てから描いたものです。うまくいきませんでした。なにしろ、絵は始めてからまだ日が浅いので、満足なものが描けませんよ。ハハハ」

 彼は改めて自分の絵を見、自分でも上手下手の評価をくだせないでいる、やや粗雑な感じのする描き方に不安を感じていた。カーネーションは今は部屋の隅の花瓶に挿してある。それを見た時はその美しさにはっと心をうたれたものだ。キリストの言われた「野の百合は宮殿より美しい」というにふさわしい美しさだった。生き物の美しさは人工の美しさがいくら頑張っても到達できない自然の神秘ないのちの深さを感じる。それで、思わずカンバスに向かい、絵にしたのだ。
油絵は窓から見た庭とその向こうに見える夕日の落ちる丘のような山という風景である。
彼女の視線が絵から彼の瞳に向けられ、その慈愛に満ちた深い瞳は彼に安堵の気持を与えて、今度は湯飲みの花模様に眼差しが移っていった。彼女は、そうして視線を徐々に移動させながら、さりげない調子で言った。
「日が浅いにしては、大変おじょうずな絵だと思いますわ。でも、正直言いますとすごくうまいというよりは、何か心の底を洗われるようなポエムを感じさせる面白い絵だと思います」
 彼女はその時、彼の方にきらりと光る知的な瞳を向け、やさしく微笑した。
「そんな風に言われると、大変うれしく感じるのですけど、絵にはそんなに期待していないんです。ただ、心の中にストレスがたまって来た時、そのもやもやした気持ちを吐き出すのにいいんです。カンバスの中に、様々の色をぬりたくっていくと、不思議に自分の心が洗われていくのです。小説を書いてもそういう効果はありますが、小説の場合の方は少々プロ意識を持っていますから、うまく書けないとむしろいらいらしてしまうことがあります。その点、油絵の方は本当に趣味ですから、へたに描けてもそれなりに憂さ晴らしになるものです。どうです。貴方も描かれてはいかがです」
「私はだめなんです。子供の時代から、文章を書いたり絵を描いたりするのは苦手なんです。小説を読んだり、展覧会に行って絵を鑑賞するというのは、随分経験を積んだつもりなのですけど、でも、自分自ら創作してみようなんていう野心を持ったことは、ついぞありませんのよ。最初から自分にはそんな才能はないのだとあきらめているのでしょうね。」 

 窓の外には、五月のさわやかな青磁色の空が広がり、綿のような白雲が棚引いていた。彼はポットから再び急須に湯を注ぎ込み、花模様のついた二人の白い湯飲みにお茶を入れた。その温かい湯気のぬくもりが顎のあたりをゆらゆらなめていくのを感じて、五月の空を眺めた。
「本当に素晴らしい天気ですわね」
彼女はうれしそうな視線を湯飲みのお茶にそそいだ。
「僕はなぜか唐の都長安を思い浮かべます」
彼は唐突な調子でそう言った。
「長安ですって?」
彼女は驚いたように目を大きく見開いて、彼を見詰めた。
「そうです。唐の都長安です。僕はこの明珠の町に来た時から、長安のことを時々考えるのです。確かに、ここは長安に比べればはるかに小規模な町です。
しかし、千五百年前の国際都市長安が大規模であったことを除けば、ひどくエキゾチックで、しかも文化と魅力に富んでいるという点では、明珠の町は長安によく似ているのです。小さくともある種の謎を秘め、魅力があるのです。この部屋で、あなたのような方とお茶を飲み青空を眺めていると、なぜか長安の都がありありと目に浮かんで来るような気がするのです。
 花のような美しい季節。長安の都は、様々の人々にあふれ、活気を呈している。若者も乙女も純な瞳に輝き、音楽か舞踏に身をまかせている。最高の宗教の深みと平凡な生活の彩りが、さながら絵巻物のように長安の空と大地をカンバスにして描かれるのです。
 とまあね。こんな風に想像するのです。古代ギリシャのアテネでもなくローマ帝国のローマでもなく、まさしく唐の都長安でなくてはならないのです」
彼はちょっとした詩的気分を味わっていた。彼女はちょっと笑った。屈託のない健康な笑いだった。
「あなたはやはり詩人ですわね。最近は実務的に物事を考える生活に慣れしまっているので、そんな話を聞いていると、やはりとてもうらやましくなったりうれしくなったりしますわ。
 私はすっかり現実的な人間になってしまったみたい。今は、憧れの都などというものはなくなってしまいましたし、明珠の町も見慣れているせいか、そんな深い詩情を味わうなんていう、高級な精神状態になることは最近滅多にありませんわ 」
「随分謙遜されるのですね。あなたの魅力は、そうやって謙遜される純な雰囲気にあるのですよ。ご主人の木村君は、そうしたあなたの心の気高さに惚れ込んだのでしょう。あなたは相当芸術にも造詣が深いそうじゃありませんか。作詞作曲もいいものを書くというし、ピアノの腕もかなりのものだという話じゃありませんか」
 彼女は手を口にあてて笑った。それはさもおかしくてしかたないという風に部屋の中に響いた。
「昔、十代の頃はあたしも少しは詩人だったかもしれません。でも、芸術ってそんな甘いものでないことが最近、ようやく分かってまいりましたわ。あれはやはり才能がないと駄目ですよ。確かに、作詩・作曲は一時熱中して量の上では相当つくりましたが、人に見せられるのはそのうちいくつ、あるかしら」
彼女は一瞬 顔を曇らした。
「芸術がはてしなく、奥が深いということ僕にも理解出来ます。なにしろ、ゴッホは気が狂ってしまいましたからね。ゴッホだけではありません。ドイツ詩の最高峰であるヘルダーリンも後半生は精神を病みました。それに近い芸術家は沢山います。僕はそれでも芸術は素晴らしいし、人類の生み出した最高の文化だと思うし、芸術家を尊敬します」
「それはあたしも同じですわ。優れた芸術は生きる希望を与えてくれますもの」
「ある哲学者が言ってましたけれどね。芸術というのは神仏を直感的に表現することだと言っているのを考えてみても生易しいものではありませんね。僕も途中で挫折するかもしれません」
「本が売れてるそうじゃありませんか」
「ええ」と彼は生返事をした。そしてちょっと黙りこくった。彼は創作の展開の上で人物描写に行き詰まっている所があったので、その点の彼女の意見を聞いてみたいと思った。
「所で、お聞きしたいのですけど、僕は小説を書く時、人物の書き方が下手だといわれるのです。あなたなら人間というものをどういう風に描きますかね」
彼は自分が東京から送った小説についての彼女の詳しい批評はまだ聞いていなかった。明珠の駅で最初に会った時、そのことが話題に出て面白い小説だとほめてくれた時は嬉しかったが、それ以後 聞いたことはない。自分の小説の人物描写についての感想をふまえて、人間についてどう彼女が考えているのか喋って欲しいと彼は期待した。
彼女はちょっと真剣な表情になった。そして言った。
「難しいわね。今 あたしの頭の中にひっかかっているのはパスカルの言う繊細の精神ですわ」
彼は彼女が何を言い出すのか少なからず興味を持った。
「繊細の精神?」
彼はそうまるで独り言の様に言った。
「人間には繊細の精神と幾何学の精神を持つ二種類の人間がいるということですわ。御存知?」
「ええ、昔 読んだことがあります」
「この繊細の精神でとらえられる宇宙に興味がありますの」

 彼はその時、突然小説の構想が浮かんだ。彼は頭の中に浮かんだアイデアが気に入ったので空想の翼を広げたかった。彼女との会話を打ち切るのも悪い気がしたので、彼女の湯飲みにお茶を入れたり、自分も飲んで、適当に彼女の言葉に相槌を打っていた。
 彼のアイデアは、今まで歴史小説を書きたいと思っていた延長線上にあった。それは唐の都長安を描いてみようというものだった。そして今、彼女が喋っている繊細の精神と幾何学の精神の対立を描いてみれば面白いと思った。確かに彼女の言う様に彼の人生経験から言ってもこの繊細の精神を持つ人間と幾何学の精神を持つ人間の対立は深いと思った。物事を全て論理と理性で割り切って人生を渡っていく幾何学の精神の持主には今までも少なからず反発を覚えたものだった。そして今の日本が繊細の精神を持つ人間を非能率的な人間と断定してそのナイーブな魂の素晴らしさに気がつこうとしないし、気がついても軽蔑していることに腹を立てたことが何ども今までにある。だからこそ、彼の好きな長安の都を舞台にしてこの二つの精神の対立を書くことに興味があった。なにも唐の都、長安でなくても良いはずなのに、その時の彼の空想は昔の長安に空想の翼を広げたのだった。
 一体なぜ彼が唐の都長安にひかれるのか、彼自身よく分からない所があった。彼は、今まで自分が身につけてきた教養の多くは西欧的なものであるということを認めていた。そして、中国については、大した知識もないし、勉強もしていなかった。それでも、長安に惹かれるのは漢詩を読んだせいかもしれない。
唐の都長安は彼の心の奥底で長い間生きていた。この都で生きていた人々の喜びや悲しみは、どんなものであったのだろう。彼と同じような境遇で生きた男もいたに違いない。もちろん、時代や生きた場所に大変な違いはあるが、必ず彼にとって魅力的な人物がいたに違いない。その人は大変魅力がありながら、人生の苦悩を味わっていたに違いない。そうした埋もれた人生を発掘したいと彼は思った。
「きっと、あなたのように繊細の精神に富む女の方が、唐の都長安にはたくさんいたのですよ。ですから、長安は魅力なんだ。あなたのように純で清楚な人が、今の時代には大変少なくなってしまった。それに比べ、昔の長安にはたくさんいたのですよ。恋愛というと、ロミオとジュリエットなどのように西欧的なものしか思い出さない傾向にありますが、
それはおそらく片寄った見方でしょう」
 話題が又長安にもどったことに多少の物珍しさを感じたような瞳をちらりと見せた夫人は、再び静かな微笑に立ち返っていた。
「それは買いかぶりというものですよ。私が今誇りに思っているのは、二人の子供達だけですわ。自分の子供は、誰にとっても宝でしょう。その点では私の場合も同じです。ですが、今の私にとって、理絵と正武は私の生き甲斐であると同時に、私に様々のことを教えてくれる先生でもあるのです。二人とも、まだ幼く何も知らない子供達ですが、私の目から見ますと実に神秘的なんです。何もない所から一個の生命を形づくり、数年の歳月の間に人間としての歩みを始めました」

 


【久里山不識】
1 三十年以上前に書いて、本にした長編小説の長い文章の中から、推敲すれば散文詩になりそうな場面を拾ってみました。 【推敲すれば】ですけど、今、体調が悪いので、推敲する時間がとれず、少し手を入れる程度で、掲載します。長編ですから、散文詩の候補はいくつもあります。いくつも紹介して、面白そうだとなれば 長編小説全体を推敲しながら、長編を中編ぐらいにまとめることも考えねばなりませんけど、それをやるのはやはり、体調が回復してからということになるかと思います。
今回の文で、パスカルの幾何学的精神と繊細の精神の対立というのは文芸のテーマとしては面白いテーマと思います。
今の日本では、幾何学的精神の持ち主の方が優遇される傾向にあるのかもしれません。繊細の精神が軽く見られるというのは、今の日本に広がっていると思います。だから、ネット中傷なんかがはやるのかもしれません。
世の中全体が、長い時間の実務を要求するからでしょう。長時間労働と激しい競争が原因と思います。その点、ブログに花や鳥や大自然を撮る人、絵を描く人、優れた音楽を聞く人、詩を書く人それに、自然の中を歩く人は繊細の精神を無意識に磨いている方だと思います。
この本を作った当時はインターネットもブログもありませんでしたので、三十年以上前の私の場合、いきなり本にするのがベターだったのです。昔は宮沢賢治のように、出版社に原稿をいきなり持ち込む例もあったように聴いています。賢治の場合は断られ、無名のまま死んだようです。自費出版もしたようですが売れなかったようです。
あの有名な「銀河鉄道の夜」も死後、認められたと聞いています・

2  年相応の故障のため、三月下旬までお休みします。よろしくお願いします。