空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

大自然

2023-05-16 21:05:49 | 文化





蘇軾【そしょく】という詩人と白楽天という詩人をふと思い出した。
蘇軾は大詩人であり、山に入り、滝の音を聞いて悟ったという。白楽天も大詩人と評価され、当時のエリートでもあった。その白楽天が仏教の奥義を優れた禅僧にたずねた所、その禅僧は「悪いことをしないで、良いことをすることだと」答えたそうだ。それで、白楽天は「そんなことなら、三才の子供でも言える」と言ったという。この白楽天の話を道元はとりあげ、「白楽天は仏法」について何もわかっていないとこき下ろした。
そんな話を聞き、詩を書くのに優れていることと、
禅で悟りの世界を直感することは別次元のことだと言えることが分かるではないか。この話は現代にも応用が利く。
どんな優秀な専門家でも、その道に詳しくても、禅の悟りの世界には無知ということはありうる。悟りの世界。つまり、科学とは違った霊的世界というのは特別の修行を積んだ人しか分からない。

その修行を最高度に積んだ禅僧に道元がいる。その道元の「正法眼蔵」は欧米でも高く評価されているという。
私は三十年以上前から、道元の本を沢山買い、読んできた。そこで、理解したことを私の想像力で補い、それがどんな世界かイメージしてみようと思う。それを肯定するか、否定するかは、読者の自由である。

大自然そのものは仏の説法なのではあるまいかと思う。全てがそうだと思われる。街を行きかう空の雲も春の風の訪れも、満開の桜の花も、チューリップもすみれの花も、薔薇の花も小鳥のさえずりも、全てが仏の説法。
仏が我々に顔を見せているのである。しかし、残念ながら、我々はそれに気がつかない。この場合、仏とは何か。本来、言葉で指し示すことが出来ない。
形もない。色もない。目に見えない。しかし、我々を生かしている究極の不生不滅の大きないのちの力とでも形容したらよいだろうか。宇宙生命とよんでも良いかもしれない。純粋生命とよんでも良い。神とよんでもいい。ただ、「一なる生命」と呼ぶ人もいるかもしれない。
西洋医学は、その仏が生命エネルギーとなり、物質化した人間の形の部分を扱い、生命がどのようにして、形となり、六十兆の細胞がどのような連携をして、独りの人間をつくりあげているかを探求している。
しかし、科学は人体を動かしている目に見えない「一なる生命」そのものを扱うことは出来ない。何故なら、それは神仏で、目に見えない、つまり、計器にひっかからない、科学の網にひっかからない、「一なる生命」そのものであるからであろうかと思われる。
こういう実験からも明らかでないだろうか。 最近の科学の報道によると、何千ものES細胞を、培養液の中で培養させていき、それなりの器官になるように誘導すると、自然に細胞どおしが連絡しあって、その器官になっていく、つまり、細胞は自然に自己組織化するというのである。

色を見る、音を聴く、つまり、風景を見る、音楽を聴く、これは「一なる生命」そのものなのではないだろうか。つまり、空即是色。空とは「一なる生命」。つまり、全世界は一個の生命。全世界は一個の明珠。
それが色(しき)となる。森羅万象の世界が現象するのである。

そもそも、主観と客観が分かれた時に、物質世界が現われ、我々人間は科学をすることができる。
主観と客観が一致した所、つまり、主客未分の世界、つまり「一なる生命」の世界は分析を得意とする科学では分からない。何故なら、科学は主観と客観が分離して、物質世界となった現象を探求する学問であるから。

「一なるこの生命」の世界つまり、不生不滅の生命は自我の忘却を目指す瞑想か、座禅による主客未分の世界に入らなければ直観できないのであろうかと思われる。
「一なるこの生命」とは「空」とも言われる。 「空」は座禅という「行」が行われなければ、直感されないのではないかと思われる、人間にこの宇宙の神秘は開示されないのではないか。
「行」は座禅だけとは限らない。宮沢賢治のように法華経を読むことを「行」とした人もいるし、良寛のように道元の本を読み、それなりの悟りの境地を開き、そこに漢詩を創作することを「行」とした人もいるのです。「空」を直感するにはこの様に「行」が必要なのです。長い人生と、善と慈悲に至る道程が「行」になることもあるでしょう。
「空」は永遠に創造する生命そのものなのです。だから、「空」そのものは物質的に存在するものではないのですから、あるとかないとか言えるものではありません。「空」は華の中に自らの命を表現するのです。華が「空」なのです。「空」は生命そのものですから、華として咲くのです。これが東洋の到達した真理ではないでしょうか。この様に、森羅万象の華を咲かせます。これを空華というのだと思います。さらに言えば、「空」そのものは 人間そのもの{身体と心の両方を含めて}にあらわれているのだと思います。だからこそ、キリストは「私は復活であり、命である」と言ったのではないでしょうか。復活とは永遠のいのちを約束したことです。クリスマスがきたら、キリストとは釈迦のように真理に目覚めた人と思うのも、それなりに正しいように思われます。

盧(ろ)を結んで人境(じんきょう)に在り、而(しか)も車馬の喧(かまびす)しき無し
君に問う何ぞ 能くしかると、心遠ければ地も自(おの)ずから編なり
菊を採る東りの下、悠然として南山を見る
山気 日夕(にっせき)に佳し 飛鳥 相いともに還(かえ)る
この中に真意(しんい)あり 弁ぜん欲してすでに言を忘る
【東側の垣根に咲く菊の花を手折り、ゆったりと見上げると遥かに廬山の姿が目に入る。山に漂う気は夕方がすばらしい、鳥が連れだってねぐらに帰っていく。ここに天地万物の真実があるのだ、だが、それを説明しようとした時もう言葉を忘れてしまっていた。】【陶淵明      ―半ば以降の訳は下定雅弘氏の訳を少しお借りしました】


* 久里山不識の現代詩
 琥珀色の麦茶の湖面に
 突然 幻の様に 町が現れる
そして、祭りの太鼓や笛の音、それに賑やかな人々の声がしばらく続く
そして、再び静寂が訪れ、
いつの間に 町が消えている
そして又、幻のごとくに赤と黄色い薔薇の花が咲く
 花瓶の小さな口から、かすみの様な霧が現れ、
深い霧は薔薇を包む

霧が晴れると、薔薇は南国の街角に変化する
そこには人々の笑い、泣き ざわめく音が
森の梢のささやきの様に聞こえる
 私は故郷に帰ってきた人のように
この町の部屋で呆然と時計の音を聞く
音は波のごとく、カチッといって消え、又 カチッという 
そういう風に音が聞こえる時は静寂そのものだ。
 その時の世界は 何かをほしがっている時の自分とは
違う静かな不思議な世界だ。
テーブルの上のあらゆる物は様々な色をなして、
まるで沈黙している生物のようだ。
 窓の外で、カラスが鳴く

全てが変化し、色彩に富み、音に満ちて、森羅万象をなしているのに、
私の感じるのは一つの音、一つの色、一つの大きな無だ。
それは一つの生き物に違いない。
 その生き物が星となり、惑星となり、山となり、川となり、私となる。
テーブルには猫がいる。
 猫がにゃあっという
「色即是空、空即是色」と私の耳に聞こえる
 幻聴だろうか
夢なのか、この世界は。
私は生きている。
だから、星も山も川も町も何もかも生きている
               
                          
              坐禅と虚空
    今ここで座禅をしている時というのは今の科学時代に生きる人にとって無味乾燥なものにうつるということは充分 考えられる。しかし はたしてそうであろうか。
我々人間が外界を見て行動する時、外界というのは様々な物質が存在している三次元の空間という認識がある様な感じがある。それがニュートンのいう絶対空間という風に整理されてしまつたあとでは、人の感覚はそうした絶対空間という様な観念にしぱられて身動きできなくなってしまったようである。二十一世紀になっても人はニュートン的な感覚を手放そうとしないというのが真相ではなかろうか。
そうした感覚で座禅を見ると、まさに座禅はせいぜい健康法として良いという程度のものに思われてしまう。しかし、もしそうであるならば禅宗の歴史の中で優れた僧が座禅によって悟ったというのは何かの錯覚だったと言われてもしかたあるまい。
しかし、真相は我々の日常の感覚の方が自然を正しく把握していないのである。その卑近な例は大地は動くことはないという日常の感覚に反して、地球は太陽のまわりを一年かけてめぐり、一日の中では自転しているというのは今では小学生でも知っている事実である。 【原子も素粒子も絶えず動いているようですから、止まっているものなどないということになります 】
とすると、昔の優れた禅僧は座禅によって、我々現代人の感覚以上の何かを感じ取っていたということは充分 考えられる。最近、私が思うには人間が座っているその空間に対する洞察が禅僧の場合はことのほか深いのではないかということだ。

私のイメージが真実に近いということがもしあるとすれば、人は座禅をすることにより、あのニュートン的な空間感覚から脱出して、深い深い空間それも自己の心身と一体になった神秘の空間の中に足を踏み入れているのではないか。 それがいのちに満ちた虚空ではないか。
単純化して言えば我々の生きる世界は物質の世界と永遠のいのちの霊的世界があつて、その二つの世界はコインの裏表の様に一つになっているとも思えるし、二つの世界は浸透しあって見分けがつかないようになっているとも言える。それなのに現代人の傾向として、物質の世界しか、認めず、常に物を対象化し、分析し、数学的なモデルをつくり、それが実験と符号した時に世界の真相を科学的に理解したとして、それ以外の世界は幻想とみる。
しかし、人が座禅をして、もう一つの永遠の生命の世界【虚空といういのちの世界 】に触れた時に、禅をやる人なら、不死の仏性を悟ったというのかもしれない。
欧米人なら、もしかしたら井戸のそばで女と話しているキリストの様に「この井戸の水を飲む者は又 すぐに渇くが、されどわが水を飲む者はとこしえに渇くことなし」とつぶやくのかもしれない。
深く考えると、キリストの言うことと、仏教の教えは似通っている所が沢山ある。 
西洋の人が東洋の思想に興味を持つのもそのためがあるかもしれない。
量子力学の天才ボーアが易経に興味を持ち、電子の振る舞いを現わした方程式を書いた天才シュレーディンガーがインド哲学に興味を持ったことは有名な話である。
私のささやかな経験でも、真言宗の高野山に行って、僧房に泊まった翌日、金剛峰寺 のすぐ近くに座っていたら、白人の若い男女が来て、「金剛峰寺」はどこにあるのか」と聞かれた。
私が指さすと、彼らは狂喜したように、足早にそこの玄関に入っていたのは印象的でした。                               


【久里山不識】
1 上の文章は以前に書いた文章の中でも、今も強調したいものを拾って、少し直し、まとめたものです。
2 後期高齢者になると、健康法として、よく散歩が良いということが言われます。
それで、散歩はよくします。昔、柔道で鍛えた足が、今の私を助けてくれます。
二時間ぐらいの散歩の途中にはたいてい、ベンチがあります。そこで、休みます。
その日の体調によって、長く休むこともあり、短く休むこともあり、という具合です。花に出会うと、嬉しいものです。
ブログでも、今までも、何回か休んでおりますが、こうやって散歩のように休み休みやるのが長続きするような気がします。
しばらく休みますので、今後ともよろしくお願いします。





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