空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

銀河アンドロメダの感想 2 (魔界と経典)

2018-08-08 08:46:30 | 文化

 

魔界とか悪魔かいう言葉はどちらかというと、西欧の言葉と思っていた。特にメフィストは若い頃、ゲーテのファウストに熱中したから、悪魔メフィストフェレスはなじみがあった。

ところが、最近、仏教の経典が集まっている分厚い本をみていたら、魔界とか、悪魔とかいう言葉を偶然見つけたのだ。日本人に馴染み深い法華経や浄土系の仏典、あるいは有名な僧の著書の中でそういう言葉を見た記憶がないから、あれは西欧のものという思い込みでいた。確かにアニメに登場する。それも西欧から来たアイデアと思っていた。【悪とか罪とか悪業とか、悪道、無間地獄、悪煩悩は仏典に見る 】

ところが、風呂から出で、ふと読書に耽っていた時、東洋の古典の中に見つけたのだ。

「首楞厳三昧経」というあまり聞いたことのないお経だ。

興味深い言葉を見つけた。

「仏は言われた。『堅意よ、そなたのいう通りである。この菩薩は首楞厳三昧に安住し、意のままになる神力をもって、一切の魔界の行為を示現し、しかも悪魔の行為に染まって汚されるということがない。天女たちと楽しみ遊ぶすがたを示現しながら、しかも実際には淫欲の悪法を受けない。この善男子は首楞厳三昧に安住して、悪魔の宮殿に入ることを示現しているが、しかも身は仏のもとの集まりを離れない。悪魔の境界に遊び楽しむことを示現しつつも、仏法をもって衆生を教化しているのである671 』

これを見た時に、今NHKでやっている西郷隆盛のある場面を思い出した。遊郭で、徳川慶喜 と西郷の出会いである。そう言えば、遊郭というのは、江戸時代の物語にはよく出てくる。

 

子供の頃から、地獄というもの言葉は聞くが、迷信と思っているし、そういうアニメは殆ど見たことがない。私の興味は常に美しいもの、真理にあったのだ。だから、今も仏性が一番の関心事である。

しかし、ニュースを見ていて、人の犯す犯罪のなかに、悪を見ることになれていて、現代小説を書くのには困らなくても、ファンタジイとなると、魔界が必要だなあと痛切に思った。当たり前ではあるけれど、魔界はニュースに出てこない。

それで、アイデアを若い頃、何度も読んだゲーテのファウストから、借りた。しかし魔界の様子なんて、聞いたことも、見たこともないのだから、そういうものを書くには妄想にたよるしかない。

私は若い頃、詩を書いたので、空想にはなれている。しかし、詩の場合は美しいものを空想する場合が多い。さて、困ったとなる。で、どういう風に魔界を出して、魔界がこの物語でどいう役割をするのか、読者の感想を聞きたい所です。

ファンタジイにするなら、最近の官僚の不祥事も魔界の仕業とすることが出来る。

 

さて、最初は「ひまわり惑星」である。       

そこに、どんな住人を住まわせるかが問題になる。生き物がいなければ、物語にならないからである。ロボットの進化したのが住む惑星も考えた。しかし、ロボットの頭脳はどんなに進化しても、プログラムされたもの。やはり、地球のように、自然に進化した人でなくては人間らしい生物が出てこない。、物語にもならない。ただ、どんな、知的な生物が住んでいるのかとなると、これは難題になるだりう。何しろ、つい五十年以上前には、火星には「たこ」みたいな火星人がいると思われていた時があって、それがアメリカに攻めてきたという騒動があったそうだ。嘘のような話であるが、今は水があるということが分かって、火星の生物さがしに一生懸命であるが、おそらく微生物がいることは確かということだろう。しかし、この程度の生物では物語にならない。

タコが進化した火星人を考えるなら、どんな生物だって、人に進化する可能性があると考えるのが自然だろう。それで行こうということになった。猫も犬も虎も鹿もネズミかも進化したらと妄想してみたら、面白い、そうすると物語が出来る。

仏典に、ほとけの眉間から、光がでて、全宇宙に光がいきわたると、仏国土が殆ど無限にあるよな描写がある。ようするに、地球に似た惑星が無数にあって、いろいろな人が生きていると考えるのが自然なところと、考えたわけである。

【 そのときに仏白毫の一光を放ちたもうに、すなわち東方五百万億那由他恒河沙等の国土の諸仏を見たてまつる。彼のもろもろの国土はみな頗黎をもって荘厳として、無数千万億の菩薩その中に充満せり。あまねく宝幔を張って宝網上に羅けたり。 彼の国の諸仏、大妙音をもって諸法を説きたもう。および、無量千万億の菩薩の、諸国に遍満して法を説くを見る】(法華三部経―三木随法 編著)

(その時、世尊は眉間にある白毫から一筋の光を放たれ、東方の五百万奥那由他のガンジス河の砂の数にも等しい国土に暮らしているすべての仏を照らしたのです。それらの仏国土は宝樹や宝衣で飾られ、無量千万憶の菩薩であふれ、天の幔幕が張られ、七宝の付いた黄金の網でおおわれていました。それらの国では如来が妙なる声で菩薩に教えを説いておられるのでございます。 )(立松和平訳 )

 

 

 

  1 ひまわり惑星

 

  あたりは金色の優しい日差しがあふれ、ぽかぽかと温かで陽気がよく、桜が満開である。ふと気がつくと、吸う空気もおいしい。そう言えば何か夢を見ていた。教会の鐘の音が美しく、吾輩は猫であるのに、生意気にも黒い蝶ネクタイをして上から下まで立派な服装である。横にはオフィリアがいる。目がねをかけて、白い長い口髭をつけたウサギ族の牧師が結婚の誓いの言葉を読んでいる。吾輩はひどく満足していた。

「愛こそ、宇宙をささえ、夫婦をささえている。汝らもこの神の愛の前に、猫としての愛を誓え」

吾輩はオフィリアを見た。ういういしい洋風の白い結婚衣装の上に猫族のオフィリアの顔が喜びに輝いている。

何故、オフィリアなのか。そういえば、一昨日の夜、銀行員の主人と一緒にハムレットの映画を見たせいかもしれぬ。

 

  それは吾輩の結婚式の夢だったが、吾輩はこんな楽しい夢をよく見る。この前は長いマゼラン銀河を旅した夢を見た。確か、あの時の最後はアンドロメダ銀河への旅ということで終わったと思う。本当にそんな夢を見たのだろうか。吾輩の性格が生来、呑気で、いつも朦朧とした気分でいるのが好きで、敏捷になるのはカワセミを見た時や他の猫を見たかネズミを見た時ぐらいなもので、楽しい夢ばかり見る。それだけが生きがいである。

 

  この日も、京都の銀閣寺のそばの川の所で、目覚め、少し散策し良い陽射しの中でカワセミを見た。カワセミは好きな友達であるが、向こうでは、そう思っていないのかもしれないけれど、吾輩は好きだ。全体にブルーで、腹の方はみかん色がいい。

カワセミを見たあと、何故か、吾輩は吟遊詩人の面影を追っていた。

どこかに、内の銀行員の主人と似ているような気もするが、やはり、詩人は違う。もっと、ハンサムである。それに、声がいい。主人のは、動作から、がさつだが、詩人は優雅である。主人の顔は四角く、白いが、詩人は細面で、浅黒い。

主人の目は、大きく怒ったりするが、詩人はいつも微笑している。

その時、カワセミがないた。うっとりするような声で、吾輩は吟遊詩人の声に匹敵すると思って、詩人の名前を思い出そうとしたが、思い出せず、美しい陽射しの中で、眠くなった。

 

 気がつくと、アンドロメダ銀河鉄道の中にいて、「ぼくだよ。詩人のカワギリ【川霧】だよ」という声が聞こえた。青磁色のジャケットを着た背の高い詩人が立って、後ろにいる和服姿の侍を「ハルリラ」と紹介した。

吾輩の座っている席は空いていたので、詩人は吾輩の前に座り、ハルリラは横に座った。アーモンド型の詩人の優しい目は、きらきら輝き、唇にはほのかな微笑が浮かんでいた。腰に日本刀をさしているハルリラは若々しいが、童顔を隠すかのように、いかめしい顔つきをしていた。

「ここは」と吾輩が聞いた。

「向日葵惑星が近づいてきたよ」と詩人のカワギリはうれしそうに笑った。

 

 虚空のいのちにさざ波をたてるかのように鐘の音が鳴り響き、東の空から、太陽より少し大きい緑がかった赤い恒星が昇り、その横に銀色に光る星はダイヤのような宝石に見える。青みがかった空には、遠くを白い蒸気を吐き出してゆっくりと、逞しく走るSLが小さく見える。

 

我らがアンドロメダの惑星の駅から、その不思議な惑星の地上に降りていく動く雲のような長い坂を下りると、いつのまにアンドロメダの宮殿のような駅は金色の雲のなかに隠れた。

その惑星の町の朝が旅人を迎えるかのように、緑と花の多い街角が現われ、銀杏のような形の赤い花がひらりと落ちてきて、柔らかな陽射しが平地を光の絨毯のようにする。

東の赤い恒星の下を走るSLは玩具のような郷愁をかなで、あちこちに小鳥の声が響き、生命への賛歌が聞こえるようだ。

  

 広場にある巨大な噴水が赤や緑や黄色の光を放ち、白い澄んだ水の美しさを浮かびあがらせる。ここは何という惑星なのか、吾輩は大空のある所から向日葵のように見えた惑星の姿を思い出した。

噴水のそばで、姿勢をきちんとして、ペンギン族の老人が何やら喋っている。

吟遊詩人の半分ぐらいの背丈なのに、灰色の顎ひげは大地にまで、届きそう。

頭の上はつるつると光っている。目は丸く小さく、足が気の毒なくらいひどく短いが、杖を持っている。民族衣装風の赤や黄色や緑そしてブルーが格子じまにまざりあったジャケットをはおっていた。

声はやわらかな歌うような響きのある小声で、なにやら重要なことを喋っているようだ。

「最近、わが惑星に異星人がきて、権力を手に入れようとしているようだ。特に、清流の坂瀬川の上流にある銅山に異星人の本拠地がおかれているときく。

新政府には、大砲をつくることを勧め、銅を買うように交渉している。

銅が我が国の発展に重要なことは、わしもみとめる。最近、馬車と一緒に走っている自動車というのに、この国では採掘の難しい鉄ではなく、豊富な銅を使っている。正確に言うと、銅とすずの合金である青銅が使われている。

  

 エネルギーはガソリンだが、排気ガスがひどい。車の後ろから吐き出されるガスを吸うだけで、たいていの者は気分が悪くなる。それに、銅は下流に鉱毒を流しているというではないか。あゆが死ぬ、水をひいている田の稲が枯れるというではないか。

わしは予言する。この芸術を愛する麗しの我らの惑星も、このままいけば、空気と川は汚れ、道は騒音であふれ、景色は美観を失い、人と人の親しみは失われ、人々は神を見失う。いたる所にいる神々の方でも、そうした惑星には愛想をつかし、姿を隠す」

  

彼の肩には、九官鳥がいて、「異星人に気をつけろ、」と言い、老人は馬車に乗った。

「もし、異星人とは」と吾輩は思わず、かけより聞いた。

ペンギン族の老人は、吾輩をじろりと見て、「今だに鋭いつのを頭にはやしているサイ族だよ。普通は余計なものは退化するのだが、サイ族だけは違う。わしは、民族平等主義者だが、サイ族だけは、油断がならんと思っている。もっとも、魔界から来た連中だという情報もある。もしも魔界から来た連中とすれば、ことは厄介だ。何故なら、魔界の連中が何を考えているか、わしとても見当がつかないからな」

「魔法界とはそんな恐ろしい所ではないぞ。魔法界の多くは善なる意志が貫かれている」とハルリラが言った。

「魔法界ではない。魔界だ。魔界には悪魔メフィストが支配する悪の異界だ。魔法界と区別するために、毒界という場合もある」

「毒界。うん。それなら、知っている。あそこは悪いことばかり考えている連中が多い、良いことをしょうとする人を邪魔しようとすると親父から聞いた」

「そうだろう。しかし、あの異星人はやはりサイ族じゃよ」

「何で」

「わしの直観だ。それでも、気をつけた方がいい。確かな情報があるわけではないのでね」

老人が立ち去ると、ハルリラはいきなり、大刀をぬいて青空に向けた。

「わしの正義の剣が悪をほろぼす」と言って、しばらく日差しが長い銀色の刃に輝いているのを眺め、それからさやに納めた。

「向日葵の惑星も問題がありそうだな。ともかく、わしにとっても、初めての所だ。ここがわしの志と合う惑星だといいのだが、やはりペンギン族の長老が言ったことは気になる」とハルリラが言った。

「今の所は町は綺麗ですし、あの変な車も滅多に通らない。それでも、鉱毒というのは心配ですね。」と吟遊詩人が言った。

「坂瀬川といったな。そこへ行けば分かるだろう。その内、分かるさ」とハルリラは答えた。

  

 しばらく行くと、両側に柳の巨木が立っている砂利道を三人で歩いていくと、城をつくり、この町の基礎をつくった人の銅像の立っている小さな広場に出た。そこに鹿族の若者が座っている。

鹿族のつのは退化しているし、サイ族のようなごつい顔立ちでなく、卵型のやさしい顔つきである。彼はよれよれのズボンに、着古した茶色のジャンバーをはおっていた。、

その広場から、二つの道が分かれていた。

右手には花壇の横に、石畳の道がずっと続いている。

左手は普通の砂利道である。

「どちらが城に行くのかい」とハルリラが聞いた。

鹿族の男は「もちろん。花壇の方さ」と指さした。

「もう一つは邪の道だよ」

「変わった名前だな」

「それはそうだ。行きつく先はサタンのいると言われている洞窟があるからな」

「サタンなんかいるわけないだろう」

「いるんだよ。邪の道を説くんだよ。愚かさを知る正道を忘れ、悪を好み、愛語のないレベルの極度に低い邪の道を説くサタンがその洞窟を出入りしているらしいが、その姿を見たものはないと言われる。ともかく、その洞窟から魔界に通じているという噂がある。いのちの深さを知ろうとしない産軍共同体の悪への誘惑と同じ道だ、その邪の道を説くサタンはいるのだよ」

「俺たちは城を目指しているのでね。そんなサタンに興味はないよ」

「それなら、その薔薇の花の咲く花壇のある道を行くことだよ。そちらには面白い人たちがたくさんいるからね」

「面白い」

「誠実な人。愛に満ちた人、少し意地悪な人もまじっているから気をつけな。しかし、多くは良い人たちで、心底から平和を願う人達が住んでいる」とその鹿族の若者は微笑した。

 

 

 どこからともなく、吾輩の耳に聞こえた。

「旅が始まる 不思議な旅が

アンドロメダの街角は善があるのか悪があるのか

春のような日差しがわが心を天にのぼらす

鳥の声、青空にたなびく白い雲

地球とどこが違うというのか

けれども、どこからか魔法の笛が聞こえてくる

目の前に、巨大な美しい花が蜃気楼のようにたちのぼり、

何と、赤い唇がほほえんでいるではないか」

吾輩は砂利の道がちょっと気になって、双眼鏡を出し、サタンの道の向こうを見ると、女が立ってこちらを見ている。眼鼻だちの整った美人であるが。眼が緑でどこの民族か分からない。年は三十には届かない感じで、肌は白く、髪は金色に輝いていた。ハルリラが吾輩の様子を不審に思ったのか、双眼鏡を奪うように取り、自分で見て、「興味ない」と言った。ハルリラは吟遊詩人に双眼鏡を渡そうとすると、詩人は受け散らず「出発」だと言った。

                    

  

        【つづく】 

 

        久里山不識    

 

 

 


銀河アンドロメダの感想

2018-08-05 09:38:03 | 文化

 これは「銀河アンドロメダの猫の夢」の私の感想と作者の読者への解説である。書きながら、気が付いたら、文章を直すこともある。文章の名人には、ふた通りあると聞く。ナポレオンがモスクワから、引き揚げた時、あの五十万のナポレオン軍に従軍したと言われるスタンダールは帰ってきてから、「赤と黒」という有名な小説を一気に書いたと言われる。こういうタイプの小説家と、フローベルのように、わずかの文章に推敲に推敲を重ね、書く作家があるといわれる。


私は良い文章を書きたいと思っている一人であるが、どちらかというと、後者のタイプで、磨いていくタイプだと、思う。だいたい、こんな風に、直接ネットに書くと言うのは、初めての経験であるから、文章が荒くなる、余計に推敲が必要ということである。


今から、二十五年前には「いのちの花園」という長編小説を書き、本にして、本屋に置いたり、知人に配った。公害問題に関心があつたので、水問題を扱いながら、原子力発電所の問題も扱った。大きな原発事故が起きる場面も書いた。当時は、原発推進派の力が巨大だったのか、私の力不足からか、反響は周囲の評価だけだった。


それから、十年ぐらいして、実際に福島で不幸にも事故が起きた時には、驚いた。悲しいいことであり、そんな恐ろしい事故は起きてほしくなかったが、作家としては、書いていることに間違いがなかったということで、さらに書くようにといわれた思いだった。


 


ブログを書き始めたのは、三年前ぐらい前からである。その前、十三年【?】ぐらいは、ネットは殆どやっていなかった。古い電話回線を使って、アメリカで仕事をしている知人と電子メールのやり取りをしていたぐらいで、息子は光回線をやっていた.


しかし、インターネットを始めたということに関してはかなり早くから、始めたのだ。なにしろ、出たばかりの四十万円もする高価なパソコンを買い、ホームページを作つたからだ。【それまでは、ワープロで仕事をしていた】


最初は夢と希望の船に乗った思いだった。北海道から九州までの未知の人と長いメールのやり取りをして、ネットの素晴らしさを味わっていたが、しだいに夢みたいなわけにはいかないことに気が付き始めた。ことに、ウイルスというのが出回るようになった頃、冬眠しようということになった。


そうして、十三年、電子書籍を作ってみると、ネットの重要性がわかる。


こうして、書き始めたのが、この「銀河アンドロメダの猫の夢」という小説である。銀河アンドロメダの発想は宮沢賢治の「銀河鉄道の夢」である。こんなに長い物語になるとは思わなかった。


我々の銀河、つまり天の川を見ていても崇高な気分になる。アンドロメダ銀河は写真で見るわけだが、何と美しく何と神聖さに満ちた銀河ではないか。二千億の恒星。その中に何があるか、空想に任せて書いて良い未知の異世界が広がっているに違いない。


テーマとして、今、地球は危機にある。ついこの間まで、テレビでは、毎日のように、いのちにかかわる気温を繰り返した。私の子供の頃、そんなことを言ったら、夏なんだから、暑いのは当たり前と言われたろう。最近の気象災害といい、文明の進化がプラス面だけでなく、マイナス面を引き起こしているのだ。戦争の道具も核兵器まで生み出してしまった。


 


 武器をもって戦うというのが、人類の歴史に最初から、それは人の道でないと言った偉人がいた、


老子である。引用しておこうと思う。


「さて、立派な武器は不吉な道具で、人(物)はみなこれを嫌います。そこで、まともな道を身につけた人はそのようなものを手にする立場にはおらないのです。


道理を知る人(君子)は普段の生活では左を上位にしますが、武器を使うときには右を上位として貴びます。


武器は手にするだけでも、災いがやってくる道具で、道理をわきまえた人の手にする道具ではありません。


(敵の攻撃をうけて )やむを得ず武器を使うことがあっても、最小限(身を守るため)あっさりと使う(恬淡)のが最上です。もし戦って勝ってもよいこととすれば、人を殺すことを楽しむことになりましょう。そもそも人を殺すことを楽しむような人には、天下を支配する願いなどかなえられません。


【野村茂夫氏訳 】


 


 戦争は恐ろしいもので、やってはならないもので、どうしたら戦争を防げるか、平和を守れるかが、私のファンタジーのテーマの一つでもあるが、戦争による悲惨、別離は数々の物語を生み出したのも事実である。例えば、小説では、トルストイの「戦争と平和」それから、ヘミングェイの「武器よさらば」など、今日はたまたま見つけた、杜甫の詩、を紹介しよう。


杜甫は有名な安禄山の乱に会い、玄宗皇帝の妃、楊貴妃が殺される悲しみを書いている。その華やかな宮殿で出会った歌手、しかし乱のあと、地方の宴会で、その素晴らしい歌をうたうその人に出会った喜びと、驚きが詩聖と言われる杜甫によってうたわれている。


 


岐王(きおう)の邸内で、いつも見かけた。


崔九(さいきゅう)の正堂の前で、何度も歌を聞いた。


今ここにあるのは、ほかならぬ江南の美しい自然


なんと落花の季節に、またきみに逢おうとは。


岐王の宅裏  尋常に見し


崔九の堂前 幾度か聞きし


正に是れ 江南の好風景


落花の時節 又た君に逢う 【井波律子氏訳 】



 


下記より、「銀河アンドロメダの猫の夢」を始めるわけですが、既に読んだ方は二度読む忍耐力があるだけにされた方が良いと思います。直しがある場合は文字を赤くする予定です。


  


 


  プロローグ


 


   吾輩は部屋の中で目をさました。なんだか、長い夢を見た。窓の外にチューリップが咲いている。黄色と赤がそよ風に揺れている。目のまえの畳の上に「銀河アンドロメダの夢」という本が置いてある。そして、ハルリラよりというメモが置かれていた。ハルリラ。ぼんやり記憶をたどると、あの魔法の異界からやってきて、アンドロメダの銀河の中で、大きな経済的格差がなく、カント九条のある国のある惑星を探して旅している一刀流の達人ではなかったか。確かに、夢の中でそんな奴と長い旅をした。ヴァイオリンが得意で、時々詩も書く吟遊詩人のことも頭に浮かび、急になつかしくなり、その本を手にした。


なにしろ、メモには寅坊さん、あなたの夢を編集して、本にしておいたから、読んでくれと書いてある。


読み終わって、何か自分が見た夢の記憶と少しずれている。ハルリラの魔法もそのくらいのものだろうと思った。


一つ、肝心のことがぬけている。魔界のことが書かれていない。これは猫である吾輩の記憶にしっかり刻まれている。ハルリラは正義という言葉の好きな剣士だから、魔界を嫌っていた。だから、この夢の世界を描いた本には魔界のことをカットしてあるのだ、そう吾輩は納得した。しかし、吾輩の見たあの長大なアンドロメダの夢を忘れないうちに正確に書き加えておかないと、魔界のことは忘れ去られ、あの「銀河アンドロメダの夢」という本は未完成のものとなってしまう。


それは寂しい。


 


そこで、吾輩は日課としている銀閣寺の散歩から帰ってくると、主人の銀行員の書斎に閉じこもり、本を完成させることに決意した。


まずおさえておかねばならないことはハルリラの故郷である魔法の異界と魔界はまるで違うということだ。魔法の世界は吾輩の銀閣寺周辺に住んでいる人間と同じで、違うのは魔法を使うということだけだ。それに比べ、魔界は悪を好む人が住む所で、この娑婆世界に来ると、彼らは透明人間にもなれるし、生身の人間にもなれる。鳥になることもある。相手の普通の人間に悪をささやくことも出来る。ささやくだけでなく、相手の人間の心に入り、心の中で悪をつぶやくから、人は自分がそういう悪を自分が考えていると思うが、実際は魔界の連中のいたずらなのである。


 


猫である吾輩は自分の記憶をたどり、ハルリラがくれた本の中に、色々と自分の記憶を入れて、本物の自分の夢を残しておきたいという欲望にとりつかれ、書き込んで、完成したのがこの本「銀河アンドロメダの猫の夢」である。


 


  


 


                    【つづく】


 


      久里山不識


    


【アマゾンより、「霊魂のような星の街角」と「迷宮の光」を電子出版】



 


 


いのち

2018-08-02 09:35:06 | いのち

 


 野の百合を見ると、私は 道元とキリストの有名なことばを思い出してしまう。


二人の聖人のことばは、俗世間を超越している。つまり、二人とも世間の常識とはまるでかけ離れたことを言う。価値観がまるで違うという風にも言える。


道元の言葉は中々難しいので、分かりやすい所で、キリストの言葉をあげてみよう。


一番面白いのでは、金持ちは天国に入ることは難しいと、今の金銭至上主義を完璧に否定している。【あながたは神と富とに兼ね使えることは出来ない】と。


新約聖書の中で最も有名な文句では、こう書いてある。【 野のユリがどうして育っているか、考えて見るが良い。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモン王でさえ、この花の一つほどには着飾ってはいなかった。】


そして「狭き門より入れ」というキリストの教えがある。そこで、フランスの小説家アンドレ・ジィド【狭き門】というような有名な小説が生まれることになるのだろう。


道元の禅もかなり狭き門(厳しいという意味で)という感じがする。彼の書いた「正法眼蔵」は、星の王子さまがフランスの宝であると言われているように、日本人が書いたもので源氏物語と並んで誇るべき世界的遺産なのである。


何が書いてあるのか。お釈迦さまのお悟りになった不死の仏性とは何かということがあらゆる角度から詩のような美しい文体でつづられている。西欧の哲学のように論理の積み重ねで分厚い書物になり、それを全部読まないと彼の哲学が分からないというようにはなっていない。


現代風に言えば、道元は「仏性とは何か」という宗教哲学的なエッセーを短編小説風に書いているとも言える。それが沢山、集まっているのが「正法眼蔵」だから、西欧の哲学みたいに全部読まないと分からないという風にはなっていない。極端な言い方をすれば、重要なエッセーを数か所、分かれば【いや、一か所でも分かれば】、不死の仏性が分かる仕組みになっていると思われる。


もっとも道元の場合、只管打座【座禅】が修行に入って来るから、「正法眼蔵」だけ読んで、仏性が分かるか、疑問が残る。


 


そんなに世俗と違うことを言う二人の言葉など、聞かなくてもいいじゃないかという声も出て来るかもしれない。


しかし、我々人間の中に不死なるものがあると言われて、驚かない人がいるだろうか。


常識は「人は死ぬ」だからである。それでは スピリチュアリズムで言われている魂と同じなのかというと、それとも違う。もっともっと深いものである。その深い仏性が人間に備わっているというのである。私の意見では、聖書のことばにある「神は霊である」というその霊に近いと思う。あるいは聖霊と。


「人はパンのみにて生きるにあらず」とはキリストの言葉であるが、最近のキリスト教は大雑把な見方で恐縮だが、世俗と相当妥協していると思う。【もっともキリスト教といっても、色々あり、魅力的なものも多々あると思うが】 


最初の「金持は天国に入れない」という厳しさは消えて、最近では、金持ちになることは神の恵みであるという風に変わっているようだ。どうもそういう現世の欲望を満足させるような宗教にはうさんくさい処があり、道元から見れば厳しく批判されることは間違いない。


異端のキリスト教の中に、仏教に近いものがある。例えばエックハルト


 


道元は当時最高の権力、鎌倉幕府から招待されたが、全く関心がないどころか、そうした権力を嫌悪しているような所がある。


 


道元は一般的に仏教の曹洞宗と言われているようであるが、もう一方の見方では、宗教ではないという方もおられる。道元は曹洞宗という言葉はあまり使わなかったと聞いている。


私に言わせれば、宇宙の真実のエキスである。それが仏性である。その意味で、ニーチェを超えている。だからこそ、ヨーロッパのカトリックもプロテスタントも道元の只管打座【座禅】を取り入れているのだと思う。


 


道元は空のいのちが鳥となり、海のいのちが魚となると言っている。つまり、空と鳥は切り離せない。海と魚は切り離せない。人間のいのちも同じだろう。周囲の大自然と切り離した自分などというものはない。


そこの所を、キリストは野の百合の美しさは神が装うたものだと言っているのだろう。


表現は随分違うが、言っていることのいのちの本質は同じことを言っている。


お釈迦さまの言葉を借りれば、縁起の法によって全ての現象があり、そこに不生不滅のいのち【仏性】が現われているということであろう。


 


それなのに、人間は「自我」に執着し、他者と対立する。文明とは、この対立を深め、またこの対立を取り去り、融和をはかっていくというたえまない努力の積み重ねであろう。


対立が行き過ぎれば、戦争となる。


平和がどれほど有りがたいか、これはいうまでもないことである。


 


宗教の本質があらわれている人物に、「良寛」がいる。今、彼のファンは日本中に沢山おり、「良寛教」と呼ぶほど、人気がある。しかし、当時は寺のない、ただの乞食坊主とみられ、生前は周囲の友人にその才能を認められていたに過ぎない。大衆的には子供と隠れ遊ぶ良寛さんとよばれてはいたが、その優れた和歌、優れた漢詩、優れた書、そして、彼の悟りの境地、世俗的な仏教界への批判、そういうものが正しく理解されてきて、今の金銭至上主義の世の中に疑問を持つ人に、良寛の真価が理解されはじめたのは最近のことなのである。


 


        春を惜しむ


芳草せいせいとして春将に暮れんとし 【Housou Seiseitosite Haru Masani Kurentosi


桃花乱点して水悠々たり【 Touka Ranten site Mizu Yuuyuutari


我も亦従来 忘機の者なるに【Ware mo Mata Juurai  Bouki no Mono naruni


風光に悩乱せられて殊に未だ休せず【Fuukouni Nouranserarete  Kotoni Imadakyusezu


【かぐわしい草花があたりに繁茂し 春はまさに過ぎ去ろうとしている。桃の花びらがひらひらと川面に散って 川の水はゆったりと流れる


私はもともと僧として俗念を忘れた人であるが  この春の景色にはすっかり夢中になり  休むひまもないほどあちこち花を見に歩いていることだ 】


(良寛の漢詩 )( 松本市壽氏による )


 


道元や良寛は宗教という衣服を着ることをしなかったようにも思える。それが禅である。


宗教のエキスを飲んでいたとも思える。


宗教の衣服を着ると、世界的なレベルで見ると、宗教戦争がたえない。


これは本当に悲しむべきことである。幸い、仏教は大慈悲心のもとに、論争はあっても、争いを避ける努力をしてきたのではないか。


仏教の立場から、言えば、エキスは同じである。お釈迦さまの発見された不死の仏性である。


 


   


 


 


 


 【参考】


 新約聖書 マタイ伝   


第五章


 1  イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。


「こころの貧しい人たちは、さいわいである。


天国は彼らのものである。


悲しんでいる人たちはさいわいである。


彼らは慰められであろう。


柔和な人たちさいわいであろう。


彼らは地を受けつぐであろう。


義に飢えかわいている人たちはさいわいである


彼らは飽き足りるようになるであろう。


あわれみ深い人たちはさいわいである。


彼らはあわれみを受けるであろう。


心の清い人たちはさいわいである。


彼らは神を見るであろう。


平和をつくりだす人たちはさいわいである。


彼らは神の子と呼ばれるであろう。


 


第七章    狭き門からはいれ、滅びにいたる門は大きく、その道は広い


 


 


第十九章 二十三節


それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」