空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

休憩 【映画を見てのエッセイ 】

2021-06-19 20:11:57 | 文化
平和憲法に基本的人権があるからこそ、我々は安心して暮らしていけるということが、この映画「The pianist」を見るとよく分かる。

この映画を見ると、何故ユダヤ人があれほど差別されたのか。日本人から見れば不可解な感じがするのではないだろうか。ユダヤ人には偉大な人が出ている。
アインシュタイン・マルクス・ハイネ・スピノザ・フロイト

俗説を聞いたことがある。ユダヤ人は商才があり、富豪がおおかったので、ジェラシイから、憎まれたのではないかと。
しかし、殺された六百万人のユダヤ人の多くは普通の庶民だと思われる。
そうすると、二千年前のキリストの生きていた時代にまで、さかのぼって
考察したくなる、二千年前に、ベツレヘムの馬小屋にキリストは生まれ、成長して十二人の弟子に真実の神について教えたと私の記憶にある。
私の高校から大学初期にあたる文学仲間はどういうわけか、キリスト教会が好きだった。西欧文学の優れた作品はキリスト教の知識がないと、理解できないからかもしれない。ドストエフスキーやトルストイがその例になるかもしれない。
キリストは言われた。
「空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」
「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどに着飾ってはいなかった。」
「私は道であり、真理であり、命である」
「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ優しい」

周囲のユダヤ人はキリストの教えを認めず、ローマの総督にキリストを引き渡し、十字架の刑に処せられた。
最初はキリスト教は迫害され、ローマ帝国のネロ皇帝はローマに放火にし、それをキリスト教徒のせいして、迫害した悪の皇帝として歴史に名を残している。
このように、キリスト教は初期に迫害されたが、徐々に帝国に広まり、ついに国教となった。そして、ヨーロッパ中世においては、ローマ法王は絶大な権力を持ち、ドイツ皇帝まで、謝罪のために、雪の中で土下座したと伝えられるようになった。
ユダヤ人はその間、ヨーロッパ各地に散らばったのでないかと思われる。

シェイクスピアの「ベニスの商人」ではシャイロックが商才のある金貸しのユダヤ人である。バッサニオが婚約の金がないので、アントニオに金を借りる。そのアントニオも自分の財産の多くは海の上の自分の商船の上にある、そこで、アントニオはシャイロックから、金をかりる。返せなかったら、肉一ポンドをシャイロックがもらうというような卑劣な約束をアントニオにさせる。
商船は嵐で沈没。シャイロックがアントニオの肉一ポンドをせまる。
そこへ、バッサニオの恋人が法官の変装して、「肉一ポンドとるのは、いいが血一滴取ってはならぬ」ということで、シャイロックは負ける、当時のイギリス人は喜んだという話が伝わっている。

ドレフュス事件も有名ですね。フランスのユダヤ系高級軍人がドイツへのスパイ行為という嫌疑をかけられ、南米の小島に流されたのである。ところが、これには真犯人がいた。それが分かると、文豪ゾラが彼を支持する人達と一緒に、フランス陸軍と対決したという話だったかと思う

これほど差別の目で見られたユダヤ人だが、スピノザは大自然の中に神を認める、偉大な汎神論の哲学を打ち立て、マルクスは現代人が科学に見る唯物論に労働者の経済学を打ち立て、アインシュタインは現代人の科学観の基礎をつくりあげたことは書く必要がないほど、有名である。
どちらにしても、キリストを神の子と認めないユダヤ人をあれほど憎んだナチスの事実は日本人には理解しにくいと思われるが、あれを見れば今の日本の平和憲法の基本的人権という考えがどれほど、大切なものかが分かるのではないだろうか。



【The pianist 戦場のピアニスト】の最初の場面はドイツ軍に占領される前のポーランドの首都ワルシャワである。
どこか函館に似ていると思った。勿論、今の函館は当時のワルシャワのような馬車もない。車もあのような旧式のものとは違う、現代日本の縮図のような綺麗な道路があり、車が走っている。
それでも、どこかあののどかなワルシャワの映像、ゆっくり走る路面電車を見ていると、今の函館を思い出してしまうのだ。ヨーロッパの古きよき時代のなごりがある。
ラジオ局でピアノを弾くシュピルマン。シュピルマンはユダヤ人である。

ドイツ軍のポーランド・ワルシャワ占領。第二次大戦の始まりである。


映画では、ユダヤ人に対する差別の命令が出る。例えば、腕にユダヤ人であることを証明する腕章をつける。所持金はいくらまで。公園に入ってはいけない。
今の自由な日本に慣れている我々には想像もつかない差別がドイツ軍からおりてくる。
今の日本は平和憲法によって、基本的人権として色々な自由が守られている。我々にその有難さを思い出させる場面だ。この自由はフランス革命によって勝ち取られたもられたものであることはご存知の通りである。
シュピルマンは訪ねてきた友人の妹に好意をよせる。しかし、ユダヤ人はゲットーに転居せよと言う命令が下される。
大きな通りを沢山のユダヤ人が行列をつくるようにして、ゲットーに移動している。この場面の写真は色々な関係の本で、実写として撮られて掲載されているので、見た方も多い筈である。この映画は実際にあった話であることが、ここからもうなづけられる。

小ゲットーはある程度裕福な家庭のユダヤ人。大ゲットーは貧しいユダヤ人、そしてユダヤ人警察。こういう差別的支配は、支配者がとる常套作戦。シュピルマンの一家は小ゲットーに行く。そして一家をささえるために、レストランでピアノをひいて金を稼ぐ。
やがて、そこでしばらくして見たものは恐ろしい。ドイツ軍が別のアパートに入って来るのが窓から見える。軍人はユダヤ人一家を脅し、一家に「立て」と命令する。テーブルの前に立つ一家。立てない車いすの老人。その老人に向っても、「立て」と言い、窓から放り出す。軍は多くのユダヤ人をアパートメントの外に出し、逃げるために走り出す人々を狩猟の的のように次々と射殺していく。その様子を窓からシュピルマンは呆然と見る。
これがあの素晴らしい高度の文化を生み出したドイツの軍隊のすることかと、私は絶句した。


ファウストを書いたゲーテを生み、カント・ヘーゲルのような偉大な哲学者がいて、芸術家ではバッハや、シラーの「百万の友よ、手をたずさえよう」という詩を音楽にした偉大なベートーベンを生み出した国ドイツから出てきたことなのか、何故だ。と問わざるを得なかった。

やがて、ゲットーから、ユダヤ人が列車で移送される。未来にどんなことが待ち受けているのかも知らずに、男も女も子供も老人も、家畜のように、つめこまれるのだ。シュピルマンだけ、不本意な形で、引きずり出され、結果としてユダヤ人警察に助けられる。
列車の中につめこまれる人々。それを推し進めるユダヤ人警察。それを監視するドイツ軍人。
シュピルマンは泣きながら、ゲットーの中、死体や家具などが散乱している道を歩いていく。
これはどういうことなのだろうか。シュピルマンだけが助けられる。彼は労働力としてドイツ軍人の前で、引きずり出されたのだろう。
あるいは、彼がポーランド第一のピアニストということを知っているユダヤ人警察の衝動的な行動だったのかもしれない。この映画全体に言えることだが、シュピルマンが一流の芸術家であったことが、彼の延命につながる場面がいくつかある。これもこの反戦と人間の悪を追求したこの映画の底に流れるものではなかろうか。

シュピルマンはかって自分が生計のためにピアノの演奏をしたレストランの滅茶苦茶になった椅子などが散らばっている中に入る。狭い地下の中から、隠れていたレストランの支配人に呼び止められる。
早く死ぬ方が楽かもしれないと思う二人。

しばらくして、周囲が落ち着いてくると、ユダヤ人労働者として働くために、何十人も一緒にゲットーの外に出ることが出来るようになる。そこで煉瓦壁をつくる仕事をさせられる。ポーランド人の市場が見える。ポーランド人もユダヤ人を助けると死刑だそうだ。そして、労働を終えて、整列させられる。
ドイツの将校が出てきて、六人ほど前に出させ、伏せをさせる。ドイツの将校が立ち、ピストルを出し、後頭部をねらって、殺していく。他の労働者に対するみせしめなのだろうか。ここでも、シュピルマンは助かるが、支配人は殺される。ここでは、運としかいいようがない。シュピルマンの音楽の才能とは全く、無関係。
それにしても、みせしめとしてこんな残虐なことをする軍人。これはユダヤ人は殺しても良いという命令が上からあるのだろう。人間の精神がここまで落ちることが出来るものかと絶句せざるをえない。人間の持つ悪の問題だ。地獄の問題である。

煉瓦づくりの仕事場で、シュピルマンは地下活動家マヨレクに出会う。マヨレクは言う。
「奴らは俺たちを絶滅させる気だ。俺たちは戦う」
シュピルマンは「僕も戦う」と言う。
それからはいのちをかけた地下活動に参加するシュピルマン。そして、ついにシュピルマンはマヨレクにここを抜け出して、親しいポーランド人に助けを求めに行くことを頼む。
「逃げるのはたやすいが、生き抜く方が難しい」とつぶやくマヨレク。



そういうことで、シュピルマンはある夕闇がたれる美しいワルシャワのビルの横道に立つ。
前の方に、清楚な女がビルの狭い入口から、抜け出て、歩いていく。シュピルマンは後ろからついていき、二人ともとあるビルの中に入る。そして抱き合う。
中の部屋では、男が全ての手筈を整えて、ここでは危険なので、点々と隠れ場所を変えて、安全な所に移動することを告げる。シュピルマンは風呂に入り、食事をすますと、即座に次の所に移動する。今の日本の町では考えられないような、詩にでもなりそうな、夜の静かで美しい闇の中の馬車。
次の場所では、そこで、部屋の壁の秘密の場所に一昼夜、閉じこもり、隠れ、そこを脱出していく。

路面電車。ドイツ兵の近くに立った方が良いと忠告を受け、シュピルマンは運転手のすぐ後ろの一角にドイツ人専用と囲いをされた場所に立つ。ドイツ兵二人と普通のドイツ人が一人、座っている。
つまり、ユダヤ人というのは、ドイツ人から見ると、外見からは少なくとも、ポーランド人かユダヤ人か簡単には見分けられないのだ。
いったい、それほど区別のつかない人間を何のゆえに差別して、ユダヤ人の場合は、射殺さえも許されているというのはどういうことか。
ヒットラーがユダヤ人絶滅の計画を持っていたことが下位の軍人にもあの時点で、浸透していたのであろう。何故、それほどまでに、ユダヤ人が差別されるのか、これは宗教的なもの、また、その長い歴史の中で、つちかわれてきたもので、日本人には中々、分かりにくい。キリストは十字架に貼り付けにされたが、それをローマ人に告発したのはユダヤ人である。そのあたりのことが、長い歴史に引き継がれたのだろうか。


次の場所では、緊急の時には、この住所を訪ねてくれと言われ、メモを渡される。シュピルマンは久しぶりにゆったりとした寝台の上で休むことが出来る。それから、ユダヤ人のゲットー蜂起。シュピルマンは部屋の窓から、ユダヤ人とドイツ軍の銃撃戦を見る。ユダヤ人の潜んでいたビルが火の海となる。火だるまになったユダヤ人が飛び降りる。そして、出てきたユダヤ人は皆、銃殺される。
シュピルマンの所にポーランドの女が訪ねてくる。

「彼らは勇敢だった。粘り強く戦った。ドイツ軍にとって、ショックだったと思うわ。ユダヤ人が反撃するなんて、誰も考えなかった。彼らは誇り高く死んだの。だからこそ、次は私達ポーランド人が立ち上がる。私達もドイツ軍と戦うの」とシュピルマンに言う女。


彼女が帰った後、しばらく経ち、食べ物を探そうと、台所の戸棚を開けていると、皿が落ち、大きな音をたててしまう。隣の家の女に気づかれ、「ドアを開けなさい」と言われる。
「開けないと、警察に言うわよ」
そしてシュピルマンは、身分証明書の提示を求められる。
同じポーランド人でも、シュピルマンのようなユダヤ人を助ける心優しく勇気のある女性と、ここの隣人の女のように、シュピルマンをユダヤ人であると見抜くと、権力に通報しようとする人がいる。
シュピルマンは逃げる。

こういう風にして、シュピルマンは最終的には、ドイツ軍の本部のある所のポーランド人にかくまわれる。ここが一番安全だと言われる。
しかし、ここでは、やがてポーランド人のワルシャ蜂起。アパートもドイツ軍に焼き払われる。ワルシャワの町は廃墟のようになり、そこを逃げ惑うシュピルマン。

そこで、この映画の重要な場面の一つ。ドイツ軍将校との出会いがある。
この映画で、この最後の場面がないとドイツに対するイメージがかなり悪くなる。
ところが、ドイツ軍の中にも、ユダヤ人のシュピルマンを理解して助ける人がいたのである。逃げ惑い、腹もへり、衣服もぼろぼろというみじめな姿で、ある廃墟の群れの中の一角にあり、焼け残ったビルの中の裏屋根の所で、食糧をあさっていると、かなり、階級の高そうなドイツ軍人が「そこで何をしている」と静かに問う。このドイツ人はこのあたりの最高指揮官であったようである。ピアノがこのビルの中にあったので、それを弾いていたのかもしれない。シュピルマンがピアニストであることを告げると、将校は弾いて欲しいと言う。シュピルマンの演奏に将校は感動して、食糧を与え、寒さにたえるためのオーバーを与え、もう少し、我慢すれば、ソ連軍が来て、君を解放してくれるという意味の情報まで知らせてくれるのである。やはり、この場面に、映像を見る者は、胸にぐっとくる感動があるのではないだうか。
「何と感謝して良いやら、言葉が見つからない」と言うと、将校は「神に感謝しなさい。生きるも死ぬも神のみ心だから」と。
事実、ドイツ軍は撤退して、ソ連軍が来て、シュピルマンは助かるのである。地獄からの脱出が出来たのである。

この映画の流れを見ていくと、ナチスや特高の人間性を無視した怖ろしい「悪」という固定したものがあるような気持ちになる。

しかし、それは間違いであると私は思う。仏教の考えから言えば、そういう固定したものはないのである。
「人間は信用できる。何故なら、仏性があるのだから」と思って、行動する人もいるのである。仏教から、言えば、人間の底は「空」である。色即是空の「空」である。


つまり、人間は自由である。ナチスのユダヤ人迫害はひどすぎる。ああいう悪の大きな流れが出来てしまうと、普通の個人は中々抵抗できない。それでも、抵抗するユダヤ人。抵抗するポーランド人。そして、ナチスの中にもユダヤ人を助けるドイツ人将校がいたのである。人間は自由である。

であるからこそ、ああいう悪の大きな流れができる前に食い止めることが大切なのではなかろうか。それが歴史の教訓である。
今の憲法で、我々は基本的人権を守られている。
憲法九条で、太平戦争後、七十年、日本は戦争で血を流すことを避けることが出来た。
こうした人類の宝が沢山書かれている日本国憲法のありがたさを我々は忘れてはなるまい。
人類の歴史を見て、ああいう素晴らしい日本国憲法をつくることは容易ではなかったのだ。
八十年ぐらい前に、ドイツのワイマール憲法がこわされて、ナチスが台頭してきたように、日本国憲法が改憲されたら、どういう方向に行くのだろうという不安が今の日本にはある。だからこそ、今の平和憲法は守らねばならぬのだと私は思う。


監督  ロマン・ポランスキー

コメント    この記事についてブログを書く
« 青春の挑戦  10 | トップ | 青春の挑戦 11 »

コメントを投稿

文化」カテゴリの最新記事