空華 ー 日はまた昇る

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南京のキリスト【小説と映画 】

2020-06-05 19:48:31 | 南京のキリスト【小説と映画】

トッカータとフーガ 二短調 BWV565(バッハ)

「南京のキリスト」という芥川龍之介の短編はやはり不思議な感動をともなう物語である。これほど、どん底の貧しい生活を巧みに描きながら、これほど清潔に文章を運び、人間の魂の高貴さを浮き彫りにする物語はドストエフスキーの「罪と罰」ぐらいしか思い浮かばない。芥川龍之介はやはり天才だと思われる。

 

主人公は宋金花という少女。「罪と罰」では、ソーニャという少女。いずれも今なら、相手になる男は逮捕され、国によっては、終身刑になるかもしれない年頃の娘なのだ。
そして、二人ともキリスト教徒。宋金花はカトリック。ソーニャはギリシャ正教。
二つともキリスト教の最も良質の宗教心を浮き彫りにしている。
こういう純粋な宗教心の場面はイギリス文学で有名なジェンエアの孤児院での幼い友人が死ぬ時の場面にも出て来ることを記憶している。
純粋の宗教心。キリストも言われた「この幼子のごとくならずんば、天国に入ることあたわじ」


仏教でも法然も親鸞も万巻の経典を読み、真理を求めたが、結局「南無阿弥陀仏」だけで極楽往生できると言い切った。他の知識は一切、無用と言ったのである。道元の禅は「只管打座」である。
ここに人間の不可思議がある。

 

最近の物質文明は知識社会を生んでそれはそれで素晴らしいことではあるが、マイナス面も指摘されている。
魂というレベルで考えると、物語に出て来るような昔のあの純粋の宗教心が懐かしくなる。
ハイネが歌った「Du bist wie eine Blume.  汝花の如く」という魂の気高さを,
歪められた知識競争社会と悪の情報が絶滅に近い状態に追いやってしまったと思うのは考え過ぎか。

ちょつと、芥川の文章を見てみよう。
【そう言えば今年の春 上海の競馬を見物かたがた 南部支那の風光を探りに来た、若い日本の旅行家が、金花の部屋に物好きな一夜を明かしたことがあった。その時彼は葉巻をくわえて、洋服の膝に軽々と小さな金花を抱いていたが、ふと壁の上の十字架を見ると、不審らしい顔をしながら、
「お前は耶蘇教徒かい」とおぼつかない支那語で話しかけた。
「ええ、五つの時に洗礼を受けました」
「そうしてこんな商売をしているのかい」
彼の声にはこの瞬間、皮肉な調子が交じったようであった。が、金花は彼の腕に、鴉髻の頭をもたせながら、いつもの通り晴れ晴れと、糸切り歯の見える笑いを洩らした。
「この商売をしなければ お父様も私も飢え死をしてしまいますから」
「お前の父親は老人なのかい」
「ええ――もう腰も立たないのです」
「しかしだね、――しかしこんな稼業をしていたのでは、天国に行かれないと思やしないか」
「いいえ」
金花はちょいと十字架を眺めながら、考え深そうな眼つきなった。
「天国にいらっしやる基督様は、きっと私の心もちを汲みとって下さると思いますから。
――それでなければ基督様は姚家巷の警察署のお役人も同じことですもの」 】

この金花が後に梅毒にかかって、キリストへの信仰から奇跡的に治るのがこの小説の一つの大きな流れ。なにしろ、梅毒という病気はあの天才哲学者ニーチェの晩年を発狂に追いやった恐ろしい病気だ、事実 金花が基督と信じた男はのちに梅毒にかかって発狂したと物語にはある。

「南京のキリスト」の映画の方はどうだろう。これは香港と日本の合作である。
1995年で作品であるから、香港が中華人民共和国の特別行政区になる少し前の映画ということになる。

小説の印象とかなり違う。当時の中国の風物は情緒があって、旅情を誘う。しかし、映画は日本の男と中国の女の恋物語が中心になっている。男は岡川という名前で、中国語が堪能な芥川龍之介風の文筆家で、日本に妻子がいる。
小説では単に旅行家と書いてあるだけだ。

映画では、中国の秦淮に新聞社の視察員として、岡川という男は来る。最も、俳優は中国人のレオン・カーフェイがやっているから、遊び人の男達が集まる所で、中国語ぺらぺらで中国の物悲しい音楽が流れる中で食事をし、男も女も子供のような遊びにふける、そういう中で岡川はそこへ来たばかりの新鮮な金花と出会う。
そこで働く若い女は、そこにたまたま父親から頼まれ金を借りにやってきた金花に「あの日本人は、あなたを好きみたいよ。結婚すれば、マダムからお金を借りなくて済む」と言う。
一方、創作に行き詰っていた岡川はこの出会いで生き返ったような気持ちになった。
十字架を壁に飾り、真剣に祈る金花を見る岡川。「すべての人は貴いものだ。それは、何ものにも代えがたい一瞬の感動である。彼女について知っていることはこれだけだった」と岡川は独り言を言う。

金花にとって、実質的な結婚のあと、「どうしてここに来ていたの」という岡川の問いに「家族が飢え死にしてしまうからよ。あなたのお金を届けたら、喜んでたそうよ」と金花は言う。
秦淮で楽しく暮らしていた二人に、岡川の親友がやってきて、「日本の奥さんに子供が生まれた」ことを不用意に言ってしまい、金花は重婚だと激しく怒る。
長男の誕生の喜びと金花の苦しみを見た岡川が悩んでいる所に、父の死の知らせが届き、どうしても、日本に帰らなければならなくなる。帝大出の親友に金花を頼むと言って、南京から列車に乗り、一路日本に帰る岡川。

桜のもとで岡川は日本の家族と過ごしている。
金花は故郷の農家に帰るが、その悲惨な食糧事情に、食糧がわずか配給されるというような中で、彼女は行く所がなく、岡川の出会いの場所に戻ってきたと親友が手紙で日本に知らせて来る。

金花については、―― 芥川はこの話を書く時に、ドストエフスキーの「罪と罰」を意識したかどうかは分からんが、映画監督は「罪と罰」のソーニャをイメージしているような気もする。殺人を犯した大学生ラスコー二コフが貧しいソーニャに出会い、ソーニャが新約聖書の「ラザロの復活」を朗読する場面を思い出す。迫力では、ドストエフキーの方がこの物語より上だが、
 

女は不本意な客と接し、途中であの天才ニーチェがかかったという梅毒になり、肌が汚くなるということでは、小説と同じ。
病気を移すと、治ると言われているという風に周囲の者は勧めるが、病気を人に移してはいけないとこばむ。公開処刑があり、その血を飲むと治るというのをためしてみようと思った金花はその血をパンにつけて食べる。その場所にいて、彼女のことを密かに心配している小僧が、僕にうつしてくれと言うが断られる。
一時は狂乱状態になったので、医者が来て、診察するが梅毒も心配だが、肺も相当やられていると言う。
そして金花の夢みごこちの耳に聞えて来る聖歌。

「主は命を捨てて
私の罪を清めくださり
天国の門を開いて
私を招いて下さる
主キリストは私を愛して下さる
聖書は主の愛で満ちています」

そして必死になって祈る彼女。死ぬしかない、人に病気を移すくらいなら、死んだ方がましだと思っている金花の所に、西欧人風の客がやってくる。金花はどこかで見た顔だと思う。
「私は病気なの。移ってしまうわ」
言葉が通じない彼はお金でしぶっていると勘違いして、四ドルから九ドルという風につりあげていく。
そこで金花が見た部屋の中のキリスト像。
「見覚えがあると思ったら、キリストさまなのね」
「直してくれるのね」
「これで、岡川さんとも治って、会える」
その西欧人風の男を基督と間違えた金花は小説では、梅毒が綺麗になおってしまうという奇跡が起きるが、映画では、一度信仰とそれによる軽い奇跡によって、彼女の病気が少しよくなるのだが。
映画でも、ここに不思議な感動がある。金花は西欧人風の男を錯覚して、キリストさまと信じてしまって、そこに歓喜が走る。しかし、見る者にもこれは間違いと分かるのに、感動がある。何故だろう。
芸術は「虚実皮膜の間にあり」は近松門左衛門の言葉だ。金花の信じたことは間違いと分かっても、金花の信仰が我々の心に感動という奇跡を起こす。それが芸術だろう。
ドンキホーテを読んで涙したというハイネという大詩人。似ていないだろうか。

日本にいる岡川は愛を貫き、「金花にしてあげることは、彼女を日本に連れてきて、治すことだ」と決心する。

岡川が中国に来て、「ひげ面の外人をマダムが通したの」「それを金花はキリストさまと思っているわ」と金花のいとこの女の話を聞く。
親友の男は「どこかの特派員で、君も上海で会った筈」と言う。
その混血の西欧人風の男の記者がそばにいるということを聞き、岡川は彼と取っ組み合いの喧嘩をすることなり、そのことが金花の知るところとなる。そして、彼女の肌は元の梅毒の汚い斑点が出てきて悪化すると同時に、肺も進行する。
岡川は「僕が中国に来なければ、金花はキリストの夢を見続けられたんだ。その方が彼女は幸せだったかもしれない」と嘆く。
親友は「自分をせめるな」と忠告する。そして、家族のためにも日本に帰った方がいいと説得するが。
岡川は苦悩しながらも、金花を日本に連れて帰り、病気を治そうと決心し、彼女を説得しようとする。
「明日の船で、一緒に帰ろう。信じてくれ」
しかし、彼女は中々、それに応じてくれない。
「私はキリストさまを待つわ。この先もずっと」
それでも、やっとその気になった時の彼女は病気がかなり進んでいたのだろう。
帰り道、鉄道線路の所で、息絶えた彼女を抱く。
映画ではあの天才ニーチェがかかったという梅毒という病気と戦う彼女の心が描かれ、金花はどこかに基督にたよっているところがある。
しかし、岡川はそれよりも日本の医学で直そうとする。
その二人の葛藤が強く描かれている。

 

金花が死んだことにより、絶望した岡川は日本で自殺してしまう。このあたりは芥川龍之介の自殺と重ね合わせているのがセリフで分かる

映画を見ていると、あの中国の風景に何故かキリストが合う。私はメルヴィルの「白鯨」に出て来るアメリカ初期の教会や西洋の教会を見慣れていたが、秦淮の風景と何故かキリストと合うのは発見だった。今、キリスト教徒が中国に何億人とふくれあがっていると聞く。映画を見ると何故かうなづける感じがした。

 

再び、小説に戻ってみると、相当印象が違う。映画の主人公の岡川は単なる語り手の旅行者で初めと終わりに出て来るだけ。
それよりも、金花が基督と間違えた西欧人風の男との出会いを克明に描いている。実は語り手によると、この混血の男は実は悪い奴で、金花に金を払わないで、逃げてきたことを他の仲間に得意そうに喋っていたが、彼は梅毒にかかって失明してしまう。

金花の方では、たまたま自分の首から落ちた十字架のキリスト像とその悪い奴が似ているということでキリストと錯覚し、キリストと信じてしまう。その初めて知る恋愛の歓喜とそのあとの夢の中での天国の様子が丁寧に描かれている。天国でもその悪い奴は基督で、素晴らしいご馳走と基督の優しさに彼女は包まれる。
目をさました彼女は不思議な気持ちのまま、考え事をしていると、ふと自分の身体に奇跡が起きたことを知る。病気が治ったのだ。
彼女はやはり、あの方は基督さまだったのだと思う

芥川龍之介の自殺の枕元には、聖書が置いてあったという。彼は基督を信じたいという気持ちはあっても、彼の理性があまりに強く、基督のなした様々な奇跡を信じることはできなかったのではなかろうか。それが作品に反映されているような気がする。

 


ここで私の結論の感想を言うと、小説では、若い日本の旅行家はほんの少ししか出てこない。この人に妻や子供がいるのかどうかが書かれていない。
ところが映画では、日本に立派な家族があるのである。奥さんと子供二人。この場面も映画では、長くはないが撮影されている。特に問題のある家庭ではなく、少なくとも外見的には幸福そうな家族である。

芥川龍之介の作品は信仰の問題に焦点があてられているのに、映画では不倫になってしまっている。これははたして純粋といえるのか、疑問が残る。芥川が自殺したのは精神の病気という疑いがあると思うのに、この映画では、不倫で自殺というのを美化しているような結論になっていると受け取られる恐れがある。

どちらにしても、この物語では、金花という貧しい少女の信仰が重要な役割をしている。これはドストエフスキーの「罪と罰」のソーニャも極貧の家の娘であるということと不思議な符合がある。
ソーニャが新約聖書「ラザロ」の復活を読む場面を思い出す。
このように宗教というのは人の心を救うものである。深い思いやりの心であり、慈悲心であり、愛であり、人を感動させるものである。人を傷つけようとしたり、悪口を言ったりするのは宗教の道ではない。
ローマ帝国の中で、キリストは貧しい人を救おうとした。日本の法然も同じように貧しい人を救おうとした。
今では、こういう貧しさは国家が救える筈である。
ワーキングプアをなくし、格差社会をなくし、平和な世界をつくることこそ、こうした物語が指し示す方向ではないのだろうか。

 


【参考】
映画【南京のキリスト】

キャスト
岡川  レオン・カーフェイ
金花  富田靖子
スタッフ
  製作 大里洋吉  レナード・ホー
  プロデューサー   チャイ・ラン  森重 晃
  監督       トニー・オウ
  脚本       ジョイス・チャン
  撮影       ビル・ウイン
  原作        芥川龍之介

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