空華 ー 日はまた昇る

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エッセイ【世相と映画】

2019-03-29 14:42:16 | 文化

エッセイ【世相と映画】

 「銀河アンドロメダの夢想」を書き終えて、つくづく世界を見渡し、平和が欲しいものだと思いました。エネルギー問題の解決も重要です。しかし、最近のニュースを見ていると、そういうものを解決していく力が人類にあるのかという危機感すら感じます。

そこで、今日はちょっと日本の世相を見てみたいと思いました。

親の子供の虐待は深刻であり、シヨックです。親が子供を守るというのは生物の世界では、当たり前のことが、ほんの一部だと思いたいのですが、子供の虐待が連日のように、報道される。子供の中のいじめの問題。

私の若い頃に比べれば、ものが豊かになって、人間には快適な生活が保障されているように見えるのだけれど、一部に生きづらいという声もあちこちで聞かれ、自殺者も二万人という。

私は憲法九条を守り、無駄な膨大な軍備を使わなければ、それを社会保障の方にまわせるし、消費税増税なんて、必要なくなると思っていますが、そんなことを言うと夢みたいなことを言うな、中国や北朝鮮を見ろ、なんて言われますよね。

とくに、中国の軍備増強は脅威である。それに、そなえるのは大人の論理だという人達がかなりいるのですね、そういう理屈もよく分かります。

しかし、それは二つの国に相互理解と文化の交流がまだ不足していて、相互不信が、根底にあるからだと思いますね。【アメリカとの関係も重要ですが、今は話を分かりやすくするために、単純化して話しています】

千年以上も前のことを言うと、笑われるかもしれませんが、空海が命がけで、長安に行って、中国人の恵果という仏教【密教】の先生に出会った時、既に重い病気にかかっていた恵果は「よく来てくれた。待っていたのだ。わしの持っているものを全て教えるから、それを日本に伝えてくれ」と言ったそうです。道元が中国に行った時も、如浄という先生は恵果と同じように歓迎してくれ、周囲の中国人の弟子よりも日本人によくしてくれたのです。

日本人は学校で、漢詩を学び、その素晴らしさを知っている筈です。

確かに、マルクス主義は今の日本人にとって異質なもので、ソ連や東欧の失敗、それらの国の暗部を知った時、理想の表看板とあまりに違うことに、驚いたものです。

しかし、ソ連崩壊になる、数十年前までは、日本の国公立大学の経済学者の半数がマルクス主義者だった時もあったのです。要するに、理論としては、理想をめざしたよく出来た経済学だったのです。ただ、人間洞察が甘かった。仏教を勉強すると、それがよく分かります。今後の中国がその点を日本との話し合いで深めていけば、あんな軍備増強なんて愚かなことをやめると期待したいです。

 

少なくとも看板だけは弱い者を守ろうという今の自民党政府の声も長いマルキストと自由主義者の激論の中でつくられてきたものなのです。

であるから、話し合えば、文化の交流が今より進み、お互いの国民の相互理解が深まれば、平和を築く希望が見えてくるのです。

それには、まず自分達が礼節の国にならなければならいと思います。

最近はやっているいじめに見られる嫌がらせや卑怯、言論弾圧とかが日本国内で起きていては、これは隣りの国を説得など、出来るはずがありません。

日本が君子の国になってこそ、隣の国を説得できる。私はそう思います。

 

 優れた文化を持ち、余裕のある人は良い言葉を使います。汚い言葉を使う人がいたら、私の言う言葉の正義のボランティア精神を持つ人はその人を暖かい気持ちで見てあげ、時には注意し、時にはそのストレスを和らげることを皆と話し合うことが必要かと思いますね。

こうした事は社会の病気、つまり維摩菩薩の言う「衆生病む、故に我、病む」という風にとらえた方が良い。ま、中にはシェイクスピアのオセロの中のイアゴウみたいな人も稀にはいるかもしれません。困ったものです。

ネットの中も、道元の言う愛語の精神で行きましょうよ。それが世界平和にもつながると思いますよ。

 

外国人労働者に対する人権侵害もあったようです。

何か弱い立場にある者に対して、権力を持っている立場の者がひどいことをするというのが見られる。障碍者を何人も殺した事件なんか、典型的ですね。

 

 こんな嫌なニュースを見た後は、寅さんの映画なんて見るとほっとしますね。

映画「寅次郎心の旅路」と「終着駅」を続けて見たことがあります。全く共通点なんかないような映画ではありますが。しかし異質のように見えるものを付き合わせると新しいイメージが見えてくるというのは、詩の発見した面白い世界観です。この二つに共通点があるとしたら、寅さんがウイーン、終着駅がローマとヨーロッパの町を舞台にしていることでしょう。それから、失恋の話という所も。

 

 「寅次郎心の旅路 」では、寅さんの話では珍しく外国が舞台になる。何でそんなことになったのか、いつものように、寅さんが日本を旅していると、彼の乗っている電車が急停車する。電車で自殺しようとした男性が間一髪で助かり、それを見た寅さんは車掌と一緒に目撃者ということで、自殺未遂の中年男性を警察に連れて行く。口頭注意ということで、終わったが、寅さんはその男の話を聞いてやる。一緒に旅館まで付き合うと、その男性はある大手の課長だが、忙しさと仕事のことで頭が一杯だと分かる。そこで、休暇を取って好きな事でもすればと寅さんがアドバイスしたのは良かったが、その男は寅さんとウイーンに行きたいと言い出した。そこで、ウイーンで知り合った日本人の娘に寅さんが失恋するという話になる。

 

映画「終着駅」は、ローマでアメリカから旅行に来ていた中年の女がローマで恋愛関係になった若い男と別れて故郷に帰ろうとする。故郷のアメリカには、夫と子供が待っているのだ。ローマの若い独身の男は女を引き留めようとする。しかし女の帰るという決心は変わらない。トラブルになって、駅の構内で、若い男は女をなぐる。

 

ここの所は寅さんと違う。ウイーンの空港で、日本に戻ろうとする寅さんと娘。ドイツの若い男が飛んで来て、娘を引き留める。娘は心変わりして、寅さんに日本に帰れないと言う。

寅さんがドイツの男に娘を「幸せにしてくれよ。幸せにしなかったら、俺が承知しないからな」と言う。寅さんの失恋である。

  

寅さんは学問はなくとも、この辺の所を身体で理解している。これが本物の教養ですよ。映画のイタリアの男みたいに女を殴ったりしない。あの場合はアメリカの女も悪いのだが。

それはともかく、寅さんは心で泣いても、微笑して、相手への慈悲の心を忘れない。やはり、日本には仏教の慈悲の伝統が生きているのでしょうかね。

 

 映画の最初の方に、ウイーンという都市名を知らない寅さんの滑稽さに好意ある笑いを誘われる。これも、禅には、人間無一物という考えがある。ソクラテスには無知の知というのもある。そういう風に前向きに受け止めるべきであると思う。

 

現代のように複雑な社会では 優れた教養は必要である。悪い情報は沢山入ってくる。それを防ぐためにも教養は必要である。それはドストエフスキーの小説{貧しき人々}を読んでも感ずる。

愛するワルワーラさんがお金をかせぐために、マカールも住んでいる長屋を出て行こうとして、手紙で意見を求められると、マカールは反対する。

「あなたは愛されているし、あなたも私たちを愛していらしゃる。皆がなんの不満もなくて幸せじゃありませんか。――――― 実際あなたは他人とはどういうものか、まだご存じないでしょう。――― 私はね、ワーレンカ、他人というものをよく知っているんですよ。他人に食わせてもらったことがあるんです。

 他人というのはそりゃ意地の悪いもんです。とてもこちらの心臓がもたないくらいです。

非難したり叱責したり 嫌な目つきで睨みつけたりで、苛めぬくんですから。

私たちのところにいれば、暖かいし快適で、まるで巣の中でぬくぬくとしているみたいじゃないですか。

あなたがいなくなったら、私たちは頭をもがれたようなもんですよ。あなたなしでどうすればいいのです」

 

今の日本も自殺者二万人を超えるという数字を見れば、無教養な人がマカールの言う意地悪になる可能性を感じる。教養とは知識ではない。優れた価値観であると思う。大慈悲心であると思う。愛であると思う。思いやりであると思う。

ともかく、二万人という数字に、何か尋常でないものを感じます。仏教の大慈悲心をもっと広める必要を感じますね。

それにしても、「貧しき人々」の恋物語は 舞台はロシアであっても、仏教の言う慈悲心の精神に溢れていますね。

 

良寛と貞心尼の和歌のやり取りの中での、良寛の和歌を思い出します。

 天が下にみつる玉より黄金より

     春のはじめの君が訪れ

 

 君や忘る道やかくるる このごろは

     待てど暮らせど訪れのなき

 

 「貧しき人々」のマカールも「私たちのところにいれば、暖かいし快適で、まるで巣の中でぬくぬくとしているみたいじゃないですか。」と言っているのです。暖かい愛に満ちた場所と、そうでない所がある。この格差は子供の虐待にも感じます。可哀そうでかわいそうで仕方がありませんですよ。ディケンズの「オリバー・ツイスト」が孤児院で周囲にいじめらたりしている様子を思い出します。

こうした格差のない社会、こういう可哀そうな子供がないような社会にするにはどうしたらいいのか、映画を見ても考えていきたいものですね。

そのためには、最初に書いた働く人々の長時間労働をやめさせる社会をつくるという大きな声が必要だと思いますね。

 

 杜甫の詩

(ふと考える)どうにかして千間も万間もある広い広い家を手に入れて、

おおいに世界じゅうの貧乏人を収容してやり、みんなでよろこばしげな顔を

見合わせるようにしたいものだ。

しかも、それは風にも雨にもびくともせず、山のようにどっしりとした家である。

            〔黒川洋一訳 〕

 

久里山不識

    

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