もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

野村監督の名言から~

2020年02月12日 | カープ・スポーツ

 元南海ホークスの名捕手「野村克也」氏の急死が報じられた。

 野村氏は後年、ヤクルト・阪神・楽天球団で監督を務めたので、訃報の多くが野村監督としているが野球のオールドファンにとって野村氏は南海ホークスのキャッチャーである。訃報の多くで、楽天監督時代、先発の田中将大投手が5失点しながら勝利した際に語った「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議の負けなし」の言が野村氏の名言とされるが、改めて出典等について勉強した。出典は徳川幕府第10代将軍「家治」治世下の平戸藩主「松浦静山」が記した剣術書「剣談」である。松浦静山は藩主として殖産振興や学制改革等に功績を挙げるとともに隠居後には著述に励み大著を完成させている。また武道にも熱心で心形刀流免許を許されるとともに自ら、前述した心形刀流解説書「剣談」を著わす等、開明的な文武両道の名君とされている。心形刀流は、新陰流・本心刀流を学んだ伊庭秀明が5代将軍綱吉治世の天和2(1682)年に創始した流派で、世襲ではなく技量優れた者が宗家を継承したこともあって、江戸時代末期には江戸屈指の門弟数を誇る流派であったとされている。更に調べていくと門弟に新選組隊士の島田魁、永倉新八の名を見出した。両名ともに京都守護・鳥羽伏見・戊辰戦争を生き抜き、永倉新八が新選組脱退後も島田魁は函館の五稜郭戦争まで土方歳三と行を共にした剣客である。明治(33年島田没)・大正(4年永倉没)時代まで生き抜いた数少ない新選組隊士であり、その背景には彼等の学んだ心形刀流が関係しているのかも知れない。更に、心形刀流の系譜を辿ると、伊庭家は第10代宗主伊庭想太郎が明治34(1901)年に星亨を刺殺・投獄されたことで、心形刀流宗主としての座を退いている。刺殺された星亨について多くを知らなかったので、ウィキペディアで足跡・事績を辿ってみた。星亨は左官の子から衆議院議長・伊藤内閣逓信大臣まで昇りつめた立志伝中の人物であったが、唯我独尊的剛腕から「おし とおる」と綽名される人物とされている。また、存命中に数々の汚職・賄賂の疑いを持たれたことから、金権・利益誘導型政治の元祖とする評価が一般的であるが、彼の遺産が1万円余りの借財だけだったということから、自身の栄辱と蓄財には無頓着な政治家であったのかも知れない。

 悪妻の代表格ともされる沙知代夫人との2人3脚で球界に類い稀な足跡を残した野村氏であるが、沙知代夫人に先立たれた後は世の「男やもめ」と同様な境遇のあったと思われる。氏にとって84歳という年齢に不足はなかったであろうが、家政婦に発見されるという結末は想定外であったと思う。「女やもめに花が咲き、男寡に蛆が湧く」は云い得て妙の格言で、男にとって「妻より先に逝く」ことは希求やまない命題である。自身が犯した昔年の不行跡は棚に上げ、これだけはと思っているのは、自分だけではないだろうと考える。野村氏の訃報に端を発した脈略乏しい三題噺にご容赦を。名捕手「野村克也氏」に合掌。


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