goo blog サービス終了のお知らせ 

もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

日本学術会議改正案の上程見送り

2023年04月22日 | 科学

 岸田総理が、日本学術会議改正案の今国会上程を見送ったことが報じられた。

 日本各術会議については、菅前総理が委員候補6名の任命を拒否して以来耳目を集め、「学問」とは全く縁のない自分も「そうだったんだ!!」と興味を持ったものである。
 学術会議法の改正案は、委員候補の選定に外部の有識者を参加させることが目玉とされているが、政府から独立した法人にすべきとした自民党PTの改革案とは大きく隔たっているために自民党内でも不満な内容であったらしく、さらには、その改正案すら上程を見送ったことに対して党内からは、「野党の圧力に屈した」との反発が伝えられている。
 委員選定の過程に外部の有識者が関与する改正案について学術会議側は、「学問の自由が奪われる」と紋切り型の反対意見を主張しているが、学術会議が実際の研究・学問の場であるならばその主張は認めるべきであろうが、研究機関・教場を持たずに半ば親睦団体化しているように思えることや、「デュアル・ユースを含む軍事研究忌避」が一部学問の自由を奪って日本の基礎研究を後退させている現実を思えば、素直には頷けない。
 特に、離任者の推薦で後任候補を半ば自動的に選任することは、学問・研究者の派閥化に繋がって異論の新規参入を拒むという、学問の自由を自らが否定しているように思える。
 この辺の実情は、自民党幹部の「この法案以上には譲れない」、「これでだめなら民営化だ。学術会議は自滅の引き金を引いている」とのコメントに示されているように思える。
 法案上程の見送りに対して、立民・共産は勝利宣言に近いコメントを出しているが、そのいずれもが学術会議の必要性や功績を擁護するものではなく、単に政局・政争の勝利としていることを観れば、法案上程見送りを歓迎する側にとっても、学術会議は無くてはならない存在ではないように思える。

 日本学術会議会長の梶田隆章氏は、ニュートリノ物理学の第一人者としてノーベル賞・文化勲章の栄典を得ているが、「名選手必ずしも名監督たり得ない」を地で行っているように思えてならない。
 今後は、自分の様な無学納税者にも、「異論にも開かれた」、「行動・提言・業績が目に見える」新しい学術会議に再建・再生して欲しいと思うと同時に、もし現行体制の変更が本当に学問の自由を侵すものであるならば、学者として・最後の学術会議会長として薛を全うして欲しいものである。


TV[ヒューマニエンス」に学ぶ

2022年07月22日 | 科学

 この頃、NHKBSの「ヒューマニエンス」という番組を視聴している。

 同番組に馴染んだ方には蛇足であるが、番組は人体に関する新しい知識や取り組みについて専門家がMCや別分野の知識人に対してレクチャーする構成であるが、先日は「言語の果たす役割」についてであった。
 興味を持ったのは、例として示された「大きな帽子をかぶった猫」という曖昧表現が、実は人類を進化させたという一場面である。読んで頂いたら分かるように、例文は「大きな猫」とも「大きな帽子」ともとれる表現で、話者の意図は受け手によって全く別の意味を持つ。このことが、文化・文明の深化と多様性をもたらしたとするもので、「なるほど」・「さもありなん」と納得させられた。
 現代社会にあっては自分の意思を正確に伝えるための文章や会話が求められるが、通信手段が限られた軍事組織にあっては一般社会以上に指揮官の意図を徹底させる正確な・別の解釈のしようがない命令が求められる。
 それまで現場の中間管理者で文章・文書は単なる受け手・読み手でしか無かった自分が、40歳を過ぎて突然に司令部の幕僚を命じられた。最初に起案した文書は、合議過程や文書審査での訂正印や書き込みに埋め尽くされ、最後には決裁者の朱筆も加わって見事なまでに真っ赤になった。直属の上司は「まァ、丸と点が残っただけでも良しとしよう」と慰めてくれたが、文章の難しさを痛感させられるとともに、我が不出来文章を海自では「鯉のエサ10円」と評価されることを知った。
 ある提督は幕僚に「中級幹部以下は堅確な・上級幹部以上は格調ある文章を」と教育されていた。幕僚勤務が長くなると指揮官の訓示下書きを命じられる機会も経験したが、指揮官の個性・指導方針に気を配って書いた原稿が、実際の場面では絶妙の表現に置き替えられており、「成程!!これが格調か」と納得させられた。
 今、ネット上には多くの文章で溢れており、筆者は自分の主張や考えを伝えるために最大限の努力をされているのだろうと読んでいるが、残念ながら符牒じみたネット用語を駆使したものは、良く真意を理解できないことも多いのは、言葉の深化に取り残された結果であろうと思っている。
 ボケ防止にこと寄せて駄文を弄する自分も、格調高い文章は無理としても堅確な文章でなければならないと自戒を新たにしている。

 最後に、文中に出てきた海上自衛隊における一般的ではあるが不文の幹部区分呼称を付記すると、初級幹部:3尉・2尉、中級幹部:1尉・3佐、上級幹部:2佐・1佐、高級幹部:将補・将、とされている。
 もし、報道等で階級を付して紹介された者に対しては、幹部としてどれほどの処遇を受けランク付けされているのかを考える参考にして頂きたい。


日本学術会議問題に思う

2022年01月16日 | 科学

 岸田総理が、学術会議会員の任命拒否問題は、既に菅政権で解決・決定済とした。

 これで学術会議のさらなる左傾化は一応食い止められた形であるが、同会議に巣食う魑魅魍魎が排除できたとは思えないので、会員の選考方法の見直しはもとより、会議存続の是非まで踏み込んでの検討を得たいものである。
 北朝鮮の極超音速ミサイル開発に関して日本のMDシステムを抜本的に見直す動きが加速しているが、このことに関しても学術会議の「軍事技術研究拒否」にの姿勢が少なからず影響すると思われる。
 兵器開発の常であるが、先ず新機能を持った攻撃兵器が開発・装備され、遅れて対処・防御兵器や対処要領が開発されて攻撃兵器の脅威を局限もしくは無力化が図られると云う連鎖の繰り返しである。すなわち防御兵器を開発するためには、攻撃兵器を知る必要があるが、学術会議の姿勢では国民を守るための専守防衛のための兵器や対処要領すら産み出せないだろう。このことは、今回の中国由来のコロナ禍に対しても日本の頭脳集団であるべき学術会議が何らの提言すらできなかったことに示されているように思える。想像であるが、おそらく学術会議内部にはウイルスの起源を問うことの忌避や細菌研究・パンデミック対策研究が生物兵器もしくは細菌戦研究に繋がるとした思考があったのではないだろうか。
 学術会議が国内の軍事技術研究を拒否する一方で、中国の「中国製造2025」と「千人計画」には前のめりであることは良く知られている。学術会議の主張では、協力・参加は会員としてではなく個人的で、軍事分野ではなく民需品の基礎研究に限られるとしているが、中国製造2025には「軍民融合(デュアル・ユース)」と明確に銘打たれている。
 さらに、香港や新疆自治区で起きている人権抑圧についても学術会議(人文・社会科学部門)から抗議の声すら上がることもない。

 自分には縁遠い雲上人の動向であるので的外れであることは承知しているが、「学術会議とは距離を置く研究者」が「学問のために群れる必要はない」と述べているのが印象的である。
 真剣に学問にいそしんでいる学術会員には申し訳ないが日本学術会議は解散し、既に功成り名を遂げた老研究者の集いである日本学士院の権能を拡充して、学術会議の職能を吸収することが良いのではと考えている。
 解脱の学士院会員諸氏に、最後の公平な気働き奉公をお願いするものである。


縄文の精神性と土偶を考える

2021年12月13日 | 科学

 「おじいちゃん」の絵が送られてきたことに触発された、素人の文化論である。

 似顔絵?は、2・3年前のそれに比べて確実なヒト型に変化し添え物さえも描かれており、世の常として、格段の進歩と喜んでいるが、果してどうだろうかと考えさせられる面がある。
 現在世界最古の絵画は、スペインのカスティージョ洞窟に描かれた手形と赤い丸模様であるが、絶滅したネアンデルタール人が遺したものとされる。ホモ・サピエンスでは、インドネシアのリアン・テドング洞窟で発見された4万5500年前のイボ猪とされているが、写実的で大きさも実物大であるらしい。有名なアルタミラ洞窟壁画は、旧石器時代(約18,000年~10,000年前)末期に描かれたとされており、野牛、イノシシ、馬、トナカイなどの動物が高い写実で描かれている。
 絵画や彫刻の世界を眺めると、ピカソが1907年秋に描いた「アビニヨンの娘たち」以前はその多く(全て?)が写実であり、呪術祭具に僅かな誇張や省略が見られる程度である。これから考えられるのは、人類(ホモ・サピエンス)は、長い写実の時代を経て抽象表現に辿り着いたように思える。
 一方、土偶は世界的に見ても稀有な存在であるらしく、特に極端なまでにデフォルメされている日本の土偶は特別なものであるらしい。
 中学校社会科で4000年~2000前を縄文時代と教えられた記憶があるが、現在では一般的に1万6000~2000年前の時期を指すとされている。写実⇒抽象を辿るという世界の例や考古学的出土品を眺める限り、縄文人は写実を経ることなく一挙に抽象表現の世界に飛び込んだように思える。更には、土偶が樺太から沖縄に出土していることや情報(文化)の伝播速度を考えれば、デフォルメが局地の技能集団やピカソに依る物でなく、全国の縄文人が抽象表現を共有できる感性を持っていたようにも思える。
 そんな土偶が姿を消したのは弥生期とされるが、稲作の伝来(海外文化の移入)とは無縁ではないだろう。高い稲作文明による富を保証する渡来人(弥生人)との交流・混血が進み、後進的であっても情念豊かな縄文文化を否定することが進歩的とされて、何時しか抽象表現を理解・共有できる縄文人の精神・文明が失われた結果ではないだろうか。

 「おじいちゃん」の絵に戻ると、目で見る形よりも理解した「粗野なおじいちゃん」を描いていた孫が、いつしか形を描き、そうしなければ周りの理解が得られないことを知ったことが果たして進歩であろうかと考えざるを得ない。既に縄文人のミトコンドリアは残り少ないとされているので、演歌・浪花節価値観が消えゆくのは仕方のないことかもしれない。


AIと文明

2021年11月18日 | 科学

 ネットで識学総研なるコラム記事を読んだ。

 内容は、インド出身の16歳の天才少年タンメイ・バクシ氏が「AIとは人間の創造力・独創力を再現するものではなく、あくまで人間の知能を拡張する「拡張知能」と呼ぶべき」と指摘したというものである。
 現在、様々な現場でAIが導入され将来的には人間にとって代わるかも知れないとまで期待されているが、バクシ氏は「AIは人間の頭には入りきれない記憶力や、人間の頭では追いつかない速さの計算力を製品にしただけのもので、人間の知能を拡張した機械」に過ぎないとしているそうである。
 この機械が人間の機能を拡張するツールであるとする考えは、既に1964年にマーシャル・マクルーハン氏が「メディア論」で主張しているもので、「文明は人間機能を拡張するために進化するもので」
 ・自動車は足の拡張=人間の足では不可能な距離を移動できるようになった。
 ・ナイフは歯の拡張=人間の歯では噛みきれないような硬いものを切れるようになった。
 ・ラジオは耳の拡張=人間の耳では聞こえないはずの距離にある音を聞くことができるようになった、
としているそうである。
 バクシ少年は、さらに「AIでは地動説は生まれない」と述べ、「コンピューター(AI)で天動説は間違いだと指摘することは可能であるが、そこから地動説というアイデアを出すことは不可能」とし、もしガリレオの時代に今のようなAIが存在したとしても
 ・ガリレオが、地動説を証明するためのデータをAIに吹き込む。
 ・宗教者も聖書全文・解釈まで含めてAIに吹き込む。
 ・そのため「どちらから教えられたことにも従順」であるAIは、どちらが正しいのか解決できない。と例示しているそうである。
 現在の将棋界では、大多数の棋士はAIに勝てないとされているが、今回の竜王戦で勝者の藤井九段が放った勝負手はAIが予想もしなかった一手であったとされている。このことは、藤井九段にはAIが持ち得ない「対局者や周囲の状況までも含んだ大局観」があり「直観力・独創力」が有り、何よりも「負けてもいいからこの手を指したい」という人間性があったということではないだろうか。
 別々のAIソフトで対局すれば、ソフト開発者の優劣に従って勝敗はつくだろうが、同じソフトで戦わせれば、必ず先手番が勝つか千日手になるように思える。

 これまで「AIって何?」と思っていたが、何やら得心のいく主張であるように思えた。
 疲れを知らない、文句を言わない、単純ミスをしない、仕事が早い、・・・。AIの強点は数多く挙げられ、更には学習機能で自ら学ぶとされているが、やはりAIはプログラマーが最初に与えてルールの延長でしか機能しないのではないだろうか。