U氏を先頭に、いまは水戸第一高校の玄関口ともなっている、水戸城本丸の大手口を通りました。上図のように大堀切をまたぐ橋を渡ったところで正面に土塁が相対し、それによって右にクランクする通路空間が形成されています。城の大手口には一般的に見られる防御の構えですが、その右クランクを何度も行き来したU氏自身も、水戸第一高校に通っていた頃からずっと、その防御空間の意味を知らなかったそうです。
それで、「君の在学時に、ここ水戸城のことはあんまり教えなかったのかね?」と訊いてみました。答えは「うん、そうだな・・・、確たる記憶はてんでないな・・・」でした。城跡に位置する公立高校で、しかも茨城県では3位か4位ぐらいの偏差値を示す難関校ですから、日本史とかの授業で郷土史の教育ぐらいしっかりやってくれそうなものですが、それよりも幕末維新期での水戸藩に関する話の方をよく聞かされた、ということでした。
「すると、この門についても通りいっぺんの話しか聞いてないわけかね?」
「いや、話そのものが授業では無かったよ・・・。放課後に教頭先生にたまたま教わったぐらいで、佐竹氏の頃の門らしい、とか何とか聞いただけ」
「・・・あんまり興味無いのかねえ、ここの高校の先生方は。水戸城の本丸に高校があるんやから、城跡の歴史ぐらいは通じておくべきやろうのに・・・」
「常に見る門だし、建ってて当たり前、って感じで学校の風景の一部になっちゃってるからさ、珍しくも何ともないからさ、興味の持ちようがないじゃんか。生徒の俺らだって、なんだあの汚い建物は、って最初は思ったもんな・・・」
その「汚い建物」の戸口を並んでくぐって、建物の後方に回りました。正式名称は水戸城薬医門といいます。前回の訪問時の記事にて詳しく触れています。
U氏がこの城跡の唯一の現存建築に興味を持ったのは、私とともに京都造形芸術大学にて歴史や美術や文化財を学んでからの事でした。昔から奈良や京都や鎌倉といった「古都」に憧れ、ここの学校に通っていた高校生の頃から「古都」への一人旅を趣味とし、社会人になってからもそれが高じて、一度は「古都」の大学で学びたいと熱望するに至り、結果として京都造形芸術大学の社会人通信教育部に通いました。
大学では芸術学部に属して芸術史学と歴史文化財学とを専攻し、同じコースを選んで奈良から通っていた私とは、席が隣であったのが縁となりました。その夏のレポート課題で「水戸城の現存城門」と題してこの薬医門を取り上げ、提出前に原稿を私に示して、「ちょっと誤字が無いかチェックしてくれよ」と言ったりしていたのが、今でも鮮明に思い出されます。
その原稿チェックの際に、上図のように「屋根下の垂木の幅が広い」とあるのを私が「ここは疎垂木(まばらだるき)と書くべきやな」と助言したことを覚えています。その際にU氏がみせた怪訝な表情も、鮮やかに思い出せます。
「・・・マバラダルキって言うのか・・・?」
「そう、建築史の基本用語にあるよ」
「珍しい形式の垂木なんだろ・・・?」
「いや、そんなことはない。こっち(奈良や京都)では普通によくある垂木の一型式や」
「普通にって、どこでも見られるものなのか?」
「ああ、何なら放課後に見に行こうかね?」
「えっ、見られるのか、それは、是非頼む。案内してくれ」
そこで大学の近くの慈照寺へ行き、国宝の東求堂の優雅な疎垂木の様子を見物したのでした。
その頃の事をU氏も思い出したのか、「この門の疎垂木はさあ、何度見ても素朴で武骨だよなあ、慈照寺東求堂の雅なつしらえの弓なりの垂木とは全然違うな」としみじみと言いました。
私が「武骨を言うなら、この大きな雄大な蟇股のほうが相応しいんやないか」と言うと、大きく頷いていました。奈良や京都にも大型の蟇股は多くみられますが、大体は彫刻による装飾化が施されて本来の建築構造材としての味わいが薄れています。だから、私のほうは奈良や京都以外の地域でこうした素朴な蟇股を見て感動してしまう傾向があります。
薬医門の大きな門扉です。当初からのものではなく、付け替えられた可能性が高いとされていますが、確証はありません。U氏は「当初の門の軸部は現在のように金属製の蝶番ではめ込まず、柱に添えて打ちつけてあっただろう」とレポートに書いていましたが、これに対しても私は「それも確証が無いのと違うか」と指摘したことを覚えています。
門の形式を色々言う方は多いですが、門の軸部の形状にまできちんと言及するケースは建築の専門家でもなかなか見られないので、視点としてはかなり有効で研究上の伸びしろ、可能性は今でもけっこう大きいのではないか、と思います。
なので、一般的な城門の袖に配される上図の「潜り戸(くぐりど)」に関しても、系統だった専門的な概論および論考を未だに見たことがありません。「潜り戸」そのものは門と言う建物が存在した古代の飛鳥時代からあったはずなのですが、現存建築での遺構は早くても鎌倉期からなので、古代からの「潜り戸」の歴史そのものがまだ明らかになっていません。
「潜り戸」とは、門の扉が定刻に閉められている間に、緊急および有事の際の臨時の通用に供されるもので、一般的には夜間の通用口とされていますが、時代劇などでは隠密や極秘の使者の通行場面などで間違って描写されていることが多く、実態が明らかになっていません。
なので、ここの薬医門の潜り戸がなぜ内側に開く型式なのか、と問われても、明確な答えを見いだせません。内側に開く戸というのは、防御戦の際には力にまかせて押し破られる確率が高いので、城郭の門には不向きであるのですが、戦国期の絵巻図資料などを見ても内側に開く型式が一般的であったようです。
それで、ここ水戸城本丸薬医門のそれも、防御上の理由からか上図のように門扉よりも頑丈堅牢に造られてカンヌキも太くこしらえてありますが、そのあたりが戦国末期の佐竹氏時代の遺構とされる所以のひとつでしょうか。
潜り戸は、一般的には門口の両袖に配置されますが、ここ水戸城本丸薬医門においては片方(南側)は撤去されて板壁に代えられています。不要になったから廃止したのか、建物の保存維持上の処置で撤去したのか、いずれかは分かりません。
廃止された潜り戸を表から見ると、普通の板壁です。かつては潜り戸であったという雰囲気もまるで感じられませんから、建築遺構の改変部分の見分けというのはとても難しいです。多くの古建築を見て学んでおくという、習熟と知識の蓄積が必要になってきます。
屋根は非常に分厚いもので、これを城郭の門だから防御上の理由で屋根も厚く堅牢にしているのだ、という説をどこかで聞いたことがあります。しかしU氏が断固として否定するように、もとは茅葺きの厚みのある屋根であったのを、そのままカバーするように銅板葺きに替えたためでしょう。
茅葺の門は、武家の城館においては平時の政庁および公務空間の正式な門として取り扱われることが一般的であったようです。したがって防御上の設えはさほどに必要ではなく、むしろ役所の門に準じた格式を持たせて、杮葺きの門に次ぐものと認識されていた流れがあるとされています。
したがって、佐竹氏時代の成立であったのならば、外郭や大手の防御城門というよりは奥向きの本丸の門であった可能性が高い訳です。一説には本丸の橋詰門ではなかったかとされていますが、妥当な線かと思われます。
ただ、何度も移築を重ねた末に現在地におさまっているので、当初の位置よりズレているようなのは仕方のないところです。上図の本丸大手口を固める土塁と有機的に連関して護りを固める位置に建っていた筈ですが、このエリアの発掘調査がまだ未実施であるそうなので、門の正確な位置は不明なままです。
U氏は「この土塁の端に建っていたんじゃないか」と言いましたが、私もそんな気がしています。有事の際に敵が橋を渡って攻めてきた場合、まず上図の土塁でせきとめて塁線上から弓鉄砲で応戦して撃退をはかることになります。その場合、敵の大部分は橋まで退きますが、一部は土塁の横へ流れてしまう場合があります。
その横方向の流れを食い止めるべき位置に土塁があれば良いのですが、現在はその痕跡すら残らず、段差面だけが残ります。その段差面を土塁の痕跡とみなすと、ちょうど現在の上図の土塁の南端に切れ目が出てきます。この切れ目に門が建っていないと、敵の流れを食い止めて退けることが出来なくなるからです。 (続く)